第3話
――重苦しい空気、息詰まる緊張感、滲む冷や汗、速まる鼓動……
『サブロ探偵事務所』の本拠地であるこの地下事務所は、窓が一つもない代わりにかなり性能良質な空調設備が入っている。夏でも冬でも昼でも夜でも、気温湿度ともに快適を保ってくれる上、佐武朗や柾紀がひっきりなしに喫煙していても澄んだ空気に換えてくれる空気清浄機能付きだ。
しかし時として、それが効かなくなる場合があるらしい。
ボス佐武朗のムシの居所いかんによって、人は時に重苦しく息詰まるような圧迫感を覚え、畏怖と威圧から嫌な汗を滲ませ、心臓は早鐘のごとく打つことになるのだそうだ。
ちなみに幸夜は、一度もそんな経験をしたことがない。
あれから数時間後、ぐったり疲労困憊で戻ってきた鴨志田とリリコは、その腰を下ろすこともできなかった。運悪く、その少し前に佐武朗が帰館、事務所入りしていたのである。
地下口から入ってきた鴨志田とリリコに続いて陽乃子が姿を見せた瞬間、
陽乃子は、いち早く空気を読んだ亮が
怒気に満ちた佐武朗に鴨志田が戦々恐々と報告した経緯は、次のとおりである。
リリコの運転で出発した三人が向かったのは、陽乃子が利用していたというインターネット・カフェであった。
『悠遊ネット』なる安直な名の小さなネットカフェは、繁華街中心部から離れた伍番街の末端あたりに位置しているらしい。平日の夕方となれば、人通りが少なく閑散としている界隈である。
実のところ鴨志田は、陽乃子の証言を心のどこかで軽んじていたという。彼は陽乃子の瞬間記憶能力について、リリコの口から説明されただけであったし、陽乃子が描いた似顔絵も見たことがなかった。たまたま見かけた似ている人物と重ね合わせただけかもしれない……そう考えたのも無理はないだろう。
陽乃子を従えて入店すると、フロントの受付カウンターには一人の従業員がいた。よれた長袖Tシャツに安っぽいエプロンをつけた、痩せ型で冴えない風体の男性だ。
そこで陽乃子は「あの方です」と小さな声で二人に告げた。だが、鴨志田とリリコは顔を見合わせて困惑してしまう。どう見ても、かつて二世俳優として芸能界で活躍していた “HIROKI” とは似ても似つかない別人だったからだ。
とはいえ、その場で陽乃子を問いただすわけにもいかない。フロントにいる彼は、店に入ってきた三人に怪訝な視線を向けている。怪しまれて騒ぎ立てられても困る。
よって鴨志田は、その場を取り繕うためにも、まずは事情を聞こうとその従業員に声をかけた。
「――私はとある探偵事務所のものですが、実は人捜しをしておりまして。こちらに小松原
すると、男性従業員は一瞬ポカンとした様子になったが、すぐに「お待ちください」と言って、受付フロントの背後にあるドア奥に消えた。
その時、鴨志田の脳裏に、おや?という疑念が過った。ドアの向こう側から鍵のかかる音がしたのだ。長年の経験からピンときた鴨志田はとっさに表入り口から外へ出た。案の定、隣の店との隙間から走り出てくる先ほどの男性従業員――裏口から出てきたのであろう。
しかし、いかんせん鴨志田の体格は小柄で貧相、走り出てきた男性を取り押さえることなどできるはずもなく、真正面から体当たりを喰らってあえなく道路上に転倒。事態を悟ったリリコがすぐに男を追いかけたが、残念ながら見失ってしまう。
そして未だに男の行方はわからないまま――
「……鴨さんらしくない失態だな」
報告を聞き終えた佐武朗が、腹の底に響くような重低音を放つ。鴨志田は小柄な身体をより一層縮こませて項垂れた。
「申し訳ありません。すべて僕の責任です」
一方、その隣で腰に手を当て、ツンと顎を上げるリリコは、まったく萎縮する気配がない。
「しょーがないわよぉ。似てる似てないの問題じゃなくて、まったくの別人だったんだもの。でも、ヒノちゃんの証言も完全無視することはできないし? とりあえずその店員に聞き込みしてみよう、ってなるじゃない。そりゃ、逃げられちゃったのは残念だったけど、でもいきなり逃げ出したってことは、あの男が小松原大毅のことを何か知ってるってことでしょ? それがわかっただけでも一歩前進よ。ムダ足になったわけじゃないわ」
あっけらかんと言いのけるリリコを、鴨志田はあたふたと
「リリコさん……それでもやっぱり、僕が慎重さに欠けていたことがマズかったわけですから」
「それで」と佐武朗は、デスク上の煙草の箱を取り上げ一本口に咥える。
「事後調査はしたんだろうな? そのネットカフェの経営者は」
「あ、はい、もちろん致しました」
鴨志田は慌ててジャケットの胸内ポケットから革製の手帳を取り出した。
「あのネットカフェのオーナーを調べて問い合わせたところ、あの店に “小松原大毅” という人物は勤務していません。……が、あの逃げた従業員の名は “
「小松、大樹?」
柾紀が咥えた煙草の隙間から怪訝な声を上げた。
「そうです、小松、大樹です。勤務シフトは主に、夕方から夜中までか、夜半から翌朝まで。勤続年数は一年半ほどだそうで、その間、特に大きな問題を起こしたことはないとのことです」
鴨志田はパラリと手帳のページをめくる。
「ただ、大手の全国チェーンではなく個人経営ということもあって、雇用契約などはぞんざいだったようですね。身分証明書の提示も求めていないばかりか、提出された履歴書はすでに廃棄してしまったとのことです。給与も週払いの現金手渡しだったようで、結局、小松大樹なる男性の身元証明になるものは確認できませんでした」
「その男の住いは」
佐武朗が紫煙交じりに問うて、鴨志田は心得たように頷く。
「幸いなことに、そのネットカフェで働くもう一人の従業員が知っておりました。西町六丁目にある古いアパートで、さっそく行ってみましたが留守でした。さすがに家の中までは調査できませんでしたが……」
そこで少し間ができた。シンと静まる中、メインPCに向かう信孝のキータッチ音だけが断続的に鳴り続けている。
「……小松大樹、ねぇ……偶然の相似か?」
中央のデスクに座る柾紀が難しい顔で唸れば、鴨志田は振り返って「わかりません」と眉尻を下げる。
「少なくとも、あの男が小松原大毅と何らかの関わりがあると見て間違いはないと思うのですが……」
幸夜は寝転がっていた長椅子からゆっくりと身を起こした。テーブルの上にある小箱を手に取って舌打ちする。そういえばすでに空だった。新しいチョコ菓子は
「――ねぇ、アタシ今、すごいコト思いついちゃった」
突然真面目な顔で言い出すリリコに、皆の視線が集まる。
「小松原大毅……元二世俳優は、あの逃げた男に殺されちゃった、ってことはないかしら」
「はぁ?」
皆が目を剥き、リリコは「だって」と鼻の穴を膨らませる。
「カモさんが小松原大毅の名前を出したら逃げ出したのよ? 怪しいわよ。
「だからっていきなり “殺人” か? 想像力豊かすぎるぜ」
「ええと……動機は何でしょう」
呆れる柾紀と困り果てる鴨志田。リリコは鼻の穴を膨らませたまま「あるわよ動機」と人差し指を立てた。
「小松原大毅は、あの逃げた男に関する何らかの弱みを握っていて、それをネタに何度も
「グサ……」
「ナニよマサキったらその眼は。小松原大毅ってイヤーなヤツだったんでしょ? 弱み握って恐喝くらいしそうじゃない」
「名前が似ているのは?」
「んー、偶然?」
ぽってりとした唇に指を当てて首を傾げるリリコ。柾紀と鴨志田は同時に大きく肩を落とした。
「殺人というのは行きすぎにしても、小松原大毅さんの安否は気になるところですね。小松大樹なる男があんなに必死な形相で逃げたということは、何かしら重大な秘密を隠し持っていると思うんです」
悩まし気に溜息を吐く鴨志田。その時、別方向からもこれ見よがしの溜息が聞こえた。メインPCで作業をしている信孝である。
柾紀が煙草の吸いさしを空き缶に突っ込んで立ち上がった。
「――ノブ、どうだ? それらしい男は見つかったか?」
信孝の背後からデスクトップ画面を覗き込めば、信孝はうんざりした声を返す。
「鴨志田さんたちが見失ったプリシラ通りからベロニカ通りへ抜けたところまでは追えたよ。でもそのあと、どこを通ったか全然わかんない。たぶん、伍番街からは出てないと思うんだけど……」
「見逃してねぇか? そいつ、黄色いエプロンをつけてたっていうぞ? 最後に映ってた箇所からシラミ潰しに一個ずつチェックして――、」
「もう! 伍番街にどれだけの監カメが設置されてると思ってるの? ボク一人で全部調べるなんて無理だよ!」
キッと目を吊り上げた信孝に突っかかれた柾紀は、くるりと向きを変えて、
「……幸夜ぁ、そういうわけなんだが」
と情けなさそうな
テーブル周辺に落ちているいくつかの小箱を拾って中身確認に勤しんでいた幸夜は、やっぱり空だった小箱を放り投げた。長椅子の真下を覗き込めば、もう一つ小箱が。
「……リリコ。その逃げたヤツ、メイクで顔を変えていた形跡はあったか?」
手を伸ばし小箱を拾い上げつつ訊けば、リリコは「メイクで?」と、まつ毛をパチパチさせる。
「んー、……ない、と思うわ。あの男、肌が荒れてたの。特に頬から顎にかけて。特殊メイクでニキビとか吹き出物とか作ることもできるけど、あれは本物の皮膚炎症に見えた。少なくとも、メイクで作り上げた肌質じゃなかったと思うわ。……そんなに近くで見たわけじゃないから断定はできないけど」
これも空か、と小箱を放り投げ、幸夜は諦めて長椅子に座り直した。
「フーン……なら、その小松大樹ってヤツが、小松原大毅本人だ」
「――えぇぇっ?」
困惑と不審と驚きに満ちた視線が幸夜に集まる。
リリコが理解できないといった顔で幸夜に喰ってかかった。
「ちょっと待って、どぉしてそーなるのよ? ぜんぜん別人だったって言ったじゃない。顔だけじゃないのよ? 体格だって違うし年齢的にも差があり過ぎるわ。どう見ても三十代後半……四十代って言ってもおかしくないオジサンだったの。あれが小松原大毅だなんて――、」
「見た目の年齢なんて当てになるかよ。人間、太った痩せたってだけでいくらでも印象は変わるもんだぜ。メイクで
「――それまでだ」
言いかけた言葉は、鋭い
佐武朗が短くなった煙草を灰皿の上ですり潰し、ぎろりとした目を上げる。
「くだらん推論は時間の無駄だ。とにかく今は一刻も早く逃げた男を捜し出せ」
有無を言わせない口調。やはり醸し出すオーラが禍々しい。
「幸夜は信孝と一緒に伍番街の監視カメラを隈なく調べろ。リリコは見失った現場付近の捜索。柾紀、フォローしてやれ。鴨さんはもう一度ネットカフェのオーナーと従業員、アパートの所有者にも聞き込みだ。その “小松大樹” を名乗る人物の情報を集められるだけ集めろ」
はい、と声が上がり、その場の皆が動き出す。
リリコがまだ腑に落ちない顔のまま、ふと呟いた。
「念のため、もう一回ヒノちゃんを連れて行った方がいいかしら……」
「――あの小娘は調査に関わらせない、と言ったはずだ」
言い放った言葉には相当な苛立ちが見える。思わず皆が動きを止めたほどの。
デスクに両肘をつき、顔の前で指を組んだ佐武朗は、一同を睨みつけるように見渡した。
「どんな手を使っても構わん。早急に捜し出せ。いいな」
* * *
「――あれ、陽乃子ちゃん、まだ観てたの」
かけられた声は陽乃子の耳を素通りした。また新しい顔が登場したのだ。白い紙に顔を描きつける作業はこれで何度目か。
陽乃子ちゃん、と指で肩をトントンとされてようやく陽乃子は振り返る。
ソファの背後で亮が、縁なし眼鏡の奥の瞳を細めてニコニコしていた。
「このドラマ、よっぽど気に入ったみたいだね。面白い? ……ってこれ……」
ソファの周辺に散らばった何枚もの紙を見て、亮は驚いたように目を見開く。白い紙面にはいくつもの顔が描かれている。ドラマに登場した人物すべての顔だ。
テレビ番組――特に人間が多く出演する番組を観ることは、陽乃子にとって相当な労力を要する。こうして手元に紙と鉛筆を用意し、新しい顔を目にするたび描きつけていかなければ、いつかのようにまた、とんでもない圧迫感を伴う頭痛に襲われてしまう。
一人掛けのソファに座って足を組んでいるタマコが、むっつりとした様子で溜息を吐いた。
「――変わった子だよ。真剣な顔で見入ってるわりに笑いも泣きもしないでさ、ドラマに出てる子たちの顔を片っ端から描いていくんだよ。試しに、気に入った子はいたかい?って聞いてみてもキョトンとしてるしさ。もしかしたらストーリーなんてまるで頭に入ってないんじゃないかい?」
口紅が剥げかけた唇を突き出して、タマコは言う。
陽乃子は自分の周りにある、たくさんの描き散らかした “顔” を眺めつつ、そういえば……と思う。テレビドラマをきちんと観たのは、初めてかもしれない。
もっともタマコの言う通り、話の筋や登場人物の名などはまったく記憶されていないが。
あれから陽乃子の脳内ではずっと、リリコと鴨志田の途方にくれたような顔がグルグルと回っていた。
利用していたネットカフェへ赴き、記憶の示す通りを告げたはずなのに、鴨志田とリリコは顔を見合わせて首を傾げた。そのうえ指し示した人がどういうわけか突然逃げ出し、慌てて追いかけたものの結局逃げられてしまい、鴨志田とリリコはさらに眉尻を下げた。
リリコは「ボスに叱られる」と何度も言っていた。鴨志田は「僕の責任です」と力なく項垂れていた。
二人はとても困っているように見えた。そして二人は陽乃子を責めなかったが、困った事態になったのは陽乃子のせいなのかもしれない。
あちこち回ってから『サブロ館』に戻り、亮に促されて地下から階上へ上がった時、ちょうどタマコがダイニングテーブルの上に段ボールの箱をヨイショと置いているところであった。箱の中にはたくさんのディスクが入っており、真っ白いディスク上面にあまり上手でないマジックの字で《水も滴るイイ悪党》と書いてある。タマコによると、それらは九年ほど前に “HIROKI” が出演したテレビドラマを録画したものなのだそうだ。
気づけば「このドラマを観てもいいですか」とタマコに尋ねていた。目をパチクリと瞬いて了承してくれたタマコに、紙と鉛筆を借りたいとつけ加えることも忘れなかった。
「はぅあわぁ~、さすがに何本も立て続けて観るのは疲れるねぇ……」
悩まし気な声とともに立ち上がって伸びをしたタマコは、裾の長い部屋着のポケットから小さな手鏡を出して自身の大きな顔を覗き込んだ。
「リョウちゃん、あたしゃこれからお店回りに行かなきゃならないんだ。あとでこの子に夕飯を食べさせてやってくれないかい? 冷蔵庫に入ってるもの、テキトーに使っていいからさ」
「りょーかい。陽乃子ちゃんだけ?
「いらないってさ。例の逃げた男を捜すのに忙しいみたいだよ。リリちゃんたちもずいぶん前に出掛けたっきり帰ってないようだし、今夜は夜通しかもしれないね。サブちゃんはヤケに機嫌が悪いし……あんなに怖い顔、久しぶりに見たよ」
ブツブツと呟きつつ、顎の青い剃り跡を撫でまわしながら、タマコはリビングから出て行く。
苦笑とともに見送った亮は、陽乃子の方へ向き直って「あらら」と笑った。
すでに陽乃子の意識はドラマに向いていた。 “HIROKI” こと小松原大毅の演じるナントカという男が、女性に向かってしきりに喋っているシーンだ。
彼はわりと頻繁に出番がある役のようで、その顔は幾度となく画面に現れた。実物でない人間の顔を目に映し続けるのは、実物を見ること以上に骨の折れる作業である。だからこそ、陽乃子は持てる全意識を集中させて見入った。けれどやはり、結果は変わらない。
――どうしても重なる。記憶に誤りはない。となると考えられるのは――
「……ねぇ、陽乃子ちゃん」
再び肩をトントンされて陽乃子は我に返った。いつの間にか、亮が隣に座っている。
「陽乃子ちゃんが利用していたネットカフェの店員さん、この人だったんだよね」
テレビ画面にクローズアップされた小松原大毅を眺めながら、穏やかな口調で亮が訊く。陽乃子は、また困った顔をされるかな、と思いながらも正直に「はい」と答えた。
すると大きく頷いた亮は、床上に落ちていた一枚の紙を拾い上げて言った。
「ということは、この人……整形したんだね」
その紙にも小松原大毅の顔。今テレビ画面に映っているのと同じ顔だ。
「……そうだと、思います」
そういうことなのだろう。陽乃子にとってその事実は、ただの後付けでしかないのだけれど。
「ビフォア・アフター、ってことか……綺麗な顔立ちしてるのに、よっぽどの事情があったんだろうね」
亮は紙に描かれた “整形前” の小松原大毅をしばらく眺めていたが、ふと興味深そうな目を陽乃子に向けた。
「これって、陽乃子ちゃんの中でどんな感じに見えるのかな。整形する前と後の顔、まったく同じに見えてたりする?」
「いえ……同じではないです」
陽乃子は内心驚きつつ首を振った。そんなことを質問されたのは初めてで、そんなことを深く考えたことがなかったからだ。
「幸夜とリリちゃんの時もそうだったんでしょう? 素人目には判別できないレベルで変装していたのに、陽乃子ちゃんはそれを見透かした……あの子たちの素の顔と
問いかける亮の声音は優しい。そして、漠然とした感覚を言葉にするのは難しい。
「うまく、言えないのですけれど……」
例えば、メイクで変えられていたり整形されていたりする顔を見た時、陽乃子にその人間の元の顔が透けて見えるわけではない。そこに覚えるのは大なり小なりの違和感のみであり、その原因が何であるかなどは、特に考えることもなかった。
ただ、幸夜とリリコの場合や、今回の小松原大毅の場合のように、あとからもう一つの別の顔情報が陽乃子の記憶領域に入った時、保存されていた記憶とどうしてか重なる時がある。異なる点、線、面で形成された顔であるはずなのに、陽乃子の頭の中でカチリと重なるケースがあるのだ。
それは、ぼやけた像が急にクリアになるような、あるいは、何本も引かれた細い線が突然一本に結合するような……そんな感覚だとしか、例えようがないのだが。
そうなれば、たとえそれぞれが違う形状を為す顔と顔でも、陽乃子の脳は同一人物だと認識する。反射的にそう認識するようになっているのだから仕方ない。少なくとも、それが間違いだったと判明した経験は今まで一度もなかった。
……今回のように、誰かを困らせてしまった経験も、なかった。
「複数の線が一本に……、ふーん……聞けば聞くほどすごい能力だね。幸夜が連れてきちゃったのも頷けるな」
陽乃子のたどたどしくも
「つまるところ、メイクで顔を変えていた、整形していた……なんていう個々の要因は、陽乃子ちゃんにとってあまり重要なことじゃないんだね。あとから聞いてそうだったのか、と納得するくらいのものでしょ? 幸夜もそういうところあるんだ。結論だけわかれば経過なんてどうでもいい……みたいなね。非凡な脳の持ち主は、常人の思考順序を飛ばしがちなんだろうな」
苦笑する亮を、陽乃子は見上げる。
「あの……幸夜さんも、人の顔をたくさん覚えられるのですか?」
すると亮はちょっと驚いた顔をして、すぐに「人の顔じゃないんだ」と笑った。
「幸夜の瞬間記憶能力を発揮できる対象物は、陽乃子ちゃんと違ってもっと無機質なんだ。最も能力を発揮できるのは “数字” と “記号” かな。文字もかなり記憶できるようだけど、どちらかというと、意味を成さない数字や記号の羅列みたいなものの方が、より強く残るらしいよ。そういうところも常人とは逆だよね」
亮の穏やかな口調を聞きながら、陽乃子は手元にある紙面に目を落とした。亮の言う “常人” とは、普通の人という意味だろう。ならば、自分は普通ではないということになる。
「……陽乃子ちゃん?」
「……リリコさんと鴨志田さんは、佐武朗さんに叱られましたか?」
すると亮は、アハハと声を上げて笑った。
「いいんだよ、陽乃子ちゃんがそんなこと気にしなくても。彼らにとっては叱られることも仕事のうち。上手くいかなかったり失敗したりするのは、あって然るべきことなんだから。……ねぇ、それより」
改まった風に、亮はもたれていた背を起こして陽乃子へ向く。
「陽乃子ちゃんは、リリちゃんがもとは “男だった” ってこと、知ってるんだよね? それって、顔を見てすぐにわかったの?」
どうしてそんなことを訊かれるのかと首を傾げつつ、陽乃子は曖昧に頷いた。
「……はい……なんとなく、そうではないか、と……リリコさんの顔を最初に見た時、とても不思議な感じがしました。……なんというか……輪郭の線が薄っすらと……こう……ゆらゆらと……」
「ゆらゆら……? うーん、それはきっと陽乃子ちゃんにしかわからない感覚なんだろうね。――じゃあ、僕はどんな風に見える? ゆらゆらな感じ、する?」
興味深げに覗き込んでくる亮に、陽乃子はますます首を傾げる。
彫が深く肌色は白く、日本人以外の血が混じっているのだろうと思わせる顔立ちであるが、特に違和を感じたことはない。
「いいえ」
陽乃子の答えに、亮は白い歯を見せて大きく笑った。
「そっか。ならいいんだ」
――と、テレビから発する音の調子が変わり、二人の意識はそちらに向いた。
どうやらDVD再生が終わり、テレビ番組に切り替わったようだ。画面に映るのはニュース番組だろうか、数人の男女が大きなパネルに示された項目をもとに論じ合っている。
その時、亮が目を見張った。
「――あ、これ、
『――本日発売の週刊誌に掲載されたこちらの記事……、なんと、先日亡くなられた邨川道臣監督の遺産相続をめぐり、事態はドロ沼化する様相を見せている、ということなんですね……まず気になるところは、邨川道臣監督の遺産なんですけれども、いったいどれくらいの額になるのでしょうか』
『――はい、邨川道臣監督といえばご存じの通り、いくつもの国際的映画祭において数々の受賞経験がある名監督であります。それに加えて、ご自身が設立された映画製作会社『DMC』の取締役社長という立場でもありました。そこでこちらをご覧ください……筆頭株主である彼のDMC株にその他諸々の資産、都内の本宅とDMCスタジオの近隣に構えた別邸をも合わせますと、資産総額は相当な額にのぼるのではないか、と予想されているんですね』
『では、その莫大な遺産を相続する権利を持つ者は誰か……ということなんですが――、』
『――その辺をご説明いたしますと、遺言書での指定がない場合、法律で相続人の第一順位とされているのは故人の子供となります。今のところ、邨川監督の正式な遺言書は見つかっていない、とのことなので、法的相続人は邨川監督の実子ということになりますね』
『はい。そこで問題になってくるのが、邨川監督の婚歴なんですが――』
画面に一人の女性の写真が映し出された。卵型の輪郭を持ち、少し目尻の上がった大きな目と肉厚の唇が特徴的な女性だ。
陽乃子は半ば無意識に、手元の白い紙へ “顔” を記す。
『こちらです。女優の白鷺絢子さん、そしてこちらが……今から五年前、かなり大騒ぎになりましたね……白鷺絢子さんの一人息子―― “HIROKI” 』
『――そうなんです。 “HIROKI” こと小松原
『そうなんですね。――このような場合、法的に見て遺産相続ができなくなるのでしょうか?』
『いえ、そんなことはありません。例えば仮に、小松原大毅氏が邨川監督を殺害してしまう……そういった場合は相続権を失いますが、遺産相続にまったく関与しない事件での判決ですので、法的には小松原大毅氏が第一相続人であることに変わりはないんですよ』
『なるほど……しかし、邨川監督のご遺族側は納得できかねる状態にあると。……どうでしょう、これはもっと別の事情があるんじゃないですか?』
『――はい、実は小松原大毅氏が、現在行方不明で音信不通になっているという情報があるんです。邨川監督のご遺族側は、白鷺絢子さんの所属事務所を通じて何度も彼との面会を求めているそうなのですが、一向に対面の場を設ける様子がないらしく、所属事務所の関係者の中では密かに、小松原大毅氏の生存を危ぶんでいる噂もあるようなんです。白鷺さんサイドは、それは事実無根であり、息子とは絶えず連絡を取り合っている、とコメントしているようなのですが――、』
テレビ画面に見入っていた亮が、呆れたように溜息を吐いた。
「遺産相続で揉め事とはね……だから白鷺絢子は、いなくなって二年も経った息子を今更ながら捜し出す必要に迫られたのか。このこと、幸夜たちは知ってるのかな……、……ん? 陽乃子ちゃん?」
陽乃子は無意識に身を乗り出していた。画面の端の四角い枠内に映る、黒い顎髭をたくわえた男性の胸像写真。すでに顔は描き記してある。
「……この方が、邨川監督……ですよね?」
「うん、そう。有名な映画監督なんだけど、陽乃子ちゃんの年代は知らないかな。大河とか戦争ものが多かったみたいだから」
――何だろう……この違和感は。
『――どうやらまもなく、所属事務所『シータバック』から白鷺絢子さんが出てくる模様です。そちらの様子がライブ中継でつながったようですね――』
画面が切り替わり、マイクを持った女性がカメラの前で興奮したように現状を報告している。にわかにその後方が騒がしくなり、カメラは大きく揺れながら人々の群れの中へ突っ込んだ。
間断なく閃くフラッシュの光、飛び交う怒号、もみくちゃになる人だかり――そんな中、大きなレンズのサングラスをした女性が、何人かの男性に
陽乃子は思わず「あ」と声を上げて、ついには立ち上がった。
「――さっき映っていた人は、誰ですか?」
「え? さっきって……白鷺絢子のこと?」
面食らった顔で、亮はテレビ画面と陽乃子を交互に見比べる。
「いいえ、白鷺絢子さんのうしろにいた……、」
陽乃子はもどかしい思いで、下敷き代わりの雑誌に新しい白い紙を置いて鉛筆を走らせた。
ほんの数秒映っただけ、しかも実物でない顔は輪郭線が不安定で掴みづらい。それでも、陽乃子は荒々しい線で描き切ると亮に見せた。
「この男の方です。これは、誰ですか」
しかし亮は、榛色の髪をかき回しながらウーンと考え込む。
「えーと……白鷺絢子の所属事務所関係の人かな……ごめん、そこまでちゃんと見てなかったよ……その人が、どうかしたの?」
亮が心配そうな目で陽乃子を見つめている。周囲に散らばったたくさんの “顔” を見渡し、陽乃子は途方に暮れた。
――重なる仮面と、重ならない仮面……
これはいったい、どういうことなのだろう。
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