読切怪奇談話集(仮)

やなぎ怜

「ゴソゴソ」あるいは「ガサゴソ」

 耳の穴の中で「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だかと音を立てていることに気づいたのは、残暑厳しい夜のことだった。


 湿りけのある夏のにおいが安アパートの畳から漂ってきそうな深夜に、そろそろ寝るかとタオルケットを腹にかけたあとのことだ。


 いつものようにスマートフォンと充電ケーブルを繋げて枕元に置き、ペットボトルに入れておいた水道水を喉に流し込む。そして蒸し暑い夜だが腹が冷えないようにとタオルケットを体にかける。そうしたらあとは、寝るだけだ。


 なのに俺はふと気づいてしまった。耳の穴の中で、「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だかと音を立てていることに。


 最初に俺がしたことと言えば小指を耳の穴の中に突っ込むことだった。そうすると音はいったん止まったのだが、指を離すとまた「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だか音を立てる。


 今度は薄いマットレスから上半身だけ起き上がって、頭を右に傾けて左側頭部を軽くはたいてみる。音はいっときだけやんだが、頭の傾きを元に戻すとまた「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だかと音を立てる。


 なんじゃこりゃ。


 俺は心の中でそうつぶやくと、寝ぼけ眼のまま耳かきを捜しに立ち上がった。耳かきは洗面所の一角で、ヒゲそりや毛抜きといっしょにまとめて置いてあった。


 端に水垢がある小汚い鏡の前で耳かきを耳の穴へ突っ込む。いつものように耳かきのサジの部分を動かしてみたが、別に耳垢なんかは取れなかった。


 あの「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だかいうのは、寝入りばなに聞いた幻聴なのかもしれない。高校時代に一度、そういうことがあった。


 ふと夢の中から意識が浮き上がったあと、俺のベッドの脇を何度も歩く何者かの幻聴を聞いたことがあったのだ。部屋にはカーペットが敷いてあって、足音など立てるのが難しいというのに、俺はフローリングの床を踏みしめるギッギッという音を聞いていたのだ。


 冷静に考えると色々とおかしいのだが、そのときの当事者たる俺は恐ろしくて恐ろしくて身じろぎひとつできなかったものだ。朝になってあとから思い返し、「ああ、あれは幻聴だったのだな」と理解した次第である。


 まあそういうわけで、また幻聴かと思ったのだ。入眠時にはそういうことが起こりやすいと、どこかで見たような記憶があった。だから今回のこれも、疲れ切った俺の脳がちょっとバグって起きたことなのだと思った。


 しかし、耳かきを元の場所へとしまいこんで、薄いマットレスに寝転がると、また「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だとかいう音が聞こえ始める。


 なんじゃこりゃ。


 俺は心の中でもう一度つぶやいた。けれども今度は眠気が勝った。昼間は友人に連れられてハイキングに出かけたのだ。慣れない山行に俺の体は疲れ果てていた。だから気がつけば、すこんと眠りに落ちていたのだった。


 だが例の「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」は忘れたころにまたやってきた。


 なんじゃこりゃ。


 俺はまた心の中で呟いて、また耳かきを手に取った。けれどもその「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だかいう音は、耳かきを耳の穴に入れると止まり、耳かきを抜くと再び音を立てる。


 ネットで耳の穴の中にクモが巣を作ったという、ウソか本当かわからないニュースを思い出した俺は、素直に耳鼻科にかかることにした。


 まあどうせクモやらなんやらの小虫ではなく、デカイ耳垢が引っかかっていたとかそういうオチなんだろう――。


 そう思っていたのに中年の耳鼻科医はなにもないと言う。思わず「えっ本当ですか?」という言葉が突いて出たが、なにもないという医者の言は変わらなかった。


 そうなると俺は言葉を重ねるのをためらった。「でも、『ゴソゴソ』だか『ガサゴソ』だか音がするんですよ」。そんなことを言ったら頭を疑われるのではないかという恐れがあった。幻聴を幻聴と理解できないのは、あまりにもメンヘラっぽいという偏見が俺の中にあった。


 腑に落ちないものを感じながらも、余裕のない金銭事情からひねり出した医者代をドブに捨てたも同然の俺は、今度は友人に話してみることにした。もちろん、このことを打ち明ける相手は選んだ。下手に吹聴して回る輩はダメだ。


 そうして俺が選んだのは高校時代からの友人で、同じ大学に通うYだった。こいつは口が堅いと俺が信用できる相手だ。


「ためしにメンタルヘルスにかかったら?」


 Yは俺の話を最後まで聞いたあと、言いにくそうにそう言った。騒々しい居酒屋の店内にあるボックス席で、俺たちだけが沈痛な面持ちをしている。俺はYの言葉に一瞬だけひるんだ。


「いやー……俺って病んでるように見える?」

「見えないけどさ……ウツって心の風邪みたいなもんってテレビでやってたぜ。……つまり、だれでもなる可能性があるってこと」


 Yの言葉は俺を慰めるためのものなんだろう。俺はYに深刻に受け止めて欲しかったわけではないが、それはYも同じだろう。だからカラアゲを食べながらジョッキに入ったビールで油を流す。いったん、気持ちをリセットしたかった。


「……やっぱそう思う?」

「まあな。ほら、ストレスとか知らないうちに溜めてたのかもしんないし」

「幻聴なのかなあ」

「統合失調症だとよくあるらしいぞ」

「統合失調症、ねえ……」


 いわゆる精神疾患に対して俺は知識なんてなかった。対して偏見はそれなりにあった。街中で変な恰好をしていたり、挙動がおかしい人間を見れば「心を病んだ人なのかな」とか思ったり。


 だから、Yから精神疾患を疑われた俺は動揺した。俺は普通に生活を送れている。大学にもそれなりにマジメに通っているし、友人だって多い方ではないが少なくもない。Yのように話相手を選べるていどに友人はいる。


 そんな俺が、精神病?


 まさか、そんな。


 けれどもそんな俺のドギマギとした気持ちへ追い打ちをかけるように、耳の穴の中でまた「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だか音が立つ。


「今、音してる」

「マジで? 見せてくれよ」

「ああ。ヤブ医者だったかもしれねえ」


 そうは言ったがYは俺の耳の穴の中には「なにも見えない」と言う。最終的にはスマートフォンのライトで俺の耳の穴の中を照らしてまでしたYであったが、やはり「なにも見えない」と言った。


 俺たちは気まずい思いをして居酒屋を出た。俺は恥を忍んでYには「このことはだれにも言ってくれるな」とお願いした。Yはそれを了承したあと「早めに医者にいったら?」と付け加える。そこには俺を心底心配している様子がうかがえた。しかし同時に気の毒なものを見るような目もされた。それが妙につらかった。


 そうしてYと居酒屋で話して一週間と少し。俺は精神科を探すこともせずに日々を過ごしていた。相変わらず、「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だかいう音はする。しかし頻度は落ちているように感じた。なぜだかはさっぱりわからないが。


 このまま音が消えてなくなることはないだろうか? そういう甘い希望を抱きつつ、ごく普通に大学の講義に出て、友人と遊ぶ日々を送っている。Yは仲間内には吹聴しないでいてくれたので、友人たちはだれひとりとして――Yを除いて――俺の悩みを知らない。


 正直に言って、精神科にはかかりたくなかった。なにをそんな強情なと思われるかもしれないが、自分がおかしいかもしれないと認めるのは俺にはちょっと怖かった。


 精神科で統合失調症とか病名がつけば薬が出るのか? それを飲み続けるのか? そのまま就職できるのか? 様々な不安が俺につきまとい、結局俺は精神科探しを棚に上げたまま、その日もスマートフォンで時間を潰す。


 いつも出入りしている大型掲示板のスレッドで、他愛ない雑談に興じる人々を見る。書き込みはほぼしない。見るのは大学に関するスレッド、ソーシャルゲームに関するスレッド、それから怖い話に関するスレッドの三つ。


 ちょうど、その日は幻聴に関する怖い話が投稿されていた。「幽霊だと思い込んでいたら単なる幻聴だった」――ネット上でいくつもの怖い話を読んできた俺からすると、既視感のある他愛のない話だ。そのせいか、スレッド内でも反応は微妙だった。


『俺も「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だかがここんとこずっと聞こえるけど、これって幻聴なんかな?』


 だから賑やかしに……というわけでもなかったが、なんとなくでどうでもいいレスをつける。


『早く病院に行けw』


 スレッドの中で埋没するかに思えた俺のレスに、更にレスがつく。けれども一〇分ほど経ってもそれ以上のレスはつかず、「ああ、こうやって流れて行くんだな」と思いながらページを更新する。すると新しいレスが俺のレスについていた。


『最近、山に行きませんでした?』


 山? 意味がわからない――。と思ったが、次の瞬間には友人に半ば無理やりに連れて行かれたハイキングのことがパッと頭によぎった。山頂にある展望台がある公園まで友人とハイキングコースを歩いた日……。そうだ、その日の疲れ切った夜に音に気づいたんだ。


 バラバラだったピースがカチリと嵌ったような感覚に、俺は恐れを抱いた。気がつけば腕にはさぶいぼが立っている。


 俺は平静を装って――といってもテキストからはあせりなど感じられないだろう――その指摘をしたレスに返信する。


『行きました。なんでわかったんですか?』


 聞きたいことはたくさんあったが、ひとまずこれだけを返す。妙な成り行きをたどり始めたスレッド内では『え? マジ?』『釣り?w』『霊視したんですか?』といった書き込みが相次ぎ、にわかにさわがしくなる。


『なんとなくですが、山へ行かれたのかなという感覚がして。その音が鳴るやつはもう一度山へ行けば収まると思いますよ』


 フリック入力をしようとして、親指がじっとりと汗をかいていることに気づいた。親指だけじゃない。手のひら全体が残暑のせいではない理由でじっとりと汗をかいていた。


『本当ですか?』


 それだけを投稿するが、しかしそれから一〇分経っても一時間経っても、俺が山へ行ったことを当てたIDを持つレスはつかなかった。


 そのうち一瞬だけ騒々しくなったスレッド内も、また徐々に落ち着いて行く。「釣りがどうの」と議論する中へ俺はそれ以上スレッドを読む気も、書き込む気もなくなって、万年床の薄いマットレスに寝転んだ。また、「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だかいう音が耳の穴の中で響く。


 精神科にかかりたくないという理由だけで、俺は例の山頂に展望台がある山へもう一度行くことにした。



 例の書き込みの翌日、俺は大学の講義を休んだ。今度はハイキングコースを使わずに、ケーブルカーで山頂まで向かう。体力がないので、ハイキングコースを辿るという苦しい思いをするのはもうごめんだったからだ。


 山頂にある整備された公園の展望台から、眼下に広がる街の景色を見下ろす。相変わらず、「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だかいう音は聞こえてくる。気のせいか、普段よりも音のする回数が多いような気がした。


 しかし音が消える気配はなく、俺は「騙された」「やっぱりウソか」という気持ちになり、腹立たしいやら落胆するやらで、澄んだ空気を楽しむ気にはなれなかった。


「すいません」


 展望台の柵に手をかけていた俺は、その声に振り返る。どうせ「写真を撮って欲しい」と言われるのだろうな、という俺の予想に反し、うしろに立っていたのはカッチリとしたダークスーツを身にまとった青年だった。


 こんな真昼間になんで山頂公園にサラリーマンが? 俺の頭の中を瞬時にクエスチョンマークが埋め尽くす。


 呆気にとられる俺に対し、大した特徴のないスーツ姿の青年は、しかしあまり取り繕うような様子は見せなかった。


「あのう。昨日『ゴソゴソ』の件について書き込まれていた方ですよね?」

「――は?」


 俺は、わけがわからなかった。頭の中がフラッシュでも焚かれたかのように真っ白になる。もう一度、品のない間抜けな声で「は?」と言う。しかしスーツ姿の青年はひるんだ様子はなかった。


「心配で来てみたんですが……どうやらなかなか意固地な方のようで」

「え? あ、あの……?」

「え? 昨日書き込みをされてた方ですよね?」


 さも当然といったような顔でそう問われては、「はい、まあ、そうなんですけど……」などと煮え切らない返事をしてしまう。俺の返事を聞くとスーツ姿の青年はホッとした顔で「ですよね。よかった、合っていて」と言うや、森の方を指し示した。


「さあ行きましょう」

「え? ど、どこへ? ですか?」

「その『ゴソゴソ』でしたっけ? その音を戻しに行くんですよ」

「は? え? え?」

「さあ行きましょう。私が先導しますので。大丈夫ですよ。ちゃんと治りますから」


 俺はやはりわけがわからず、呆気にとられる。しかし青年は頓着した様子もなく長い脚を森の中へと向けて進めて行く。俺はそのダークスーツの背が遠ざかり始めていることに気づく。青年を信用したわけではなかったが、「ままよ」とばかりに彼を追いかけることにした。


 万が一に青年が襲いかかってきても負ける気はしなかった。俺もヒョロいが、青年も相当にヒョロい。なにかしら道具を使われたら勝てる気はしないが、山頂公園のある近くでコトに及ぶとも思えなかった。


 俺は青年の背中を追いかけながら、彼が何者なのかについて考える。ストーカー? 超能力者? いや……昨日の書き込みをしたのが彼ならば、彼は霊能力者……?


 うっそうと生い茂る木々の下、草いきれの中を獣道ですらない、道なき道を青年はずんずんと進んで行く。ときおり「ここはちょっと」「もうちょっと」などといっては青々とした葉を生い茂らせた木々たちを見ては、なにかを見定めるような目を向けている。


 俺はと言えば青年を追いかけるのに必死だった。そうやって俺の息が上がり始めたころ、青年はとある細い木の前で立ち止まる。


「ここでいいでしょう」


 俺は息を整えながら、青年と樹木に近づいた。


「ここ……ですか?」


 俺がそう問う声が言い終わるか終らないかというくらいに、青年は唐突に大声を出した。「あっ」だか「わっ」だかいう声だ。そして同時に俺の目の前で猫だましを打つ。俺は青年の思う壺のまま、盛大に驚いた。俺の頭上では小鳥が一斉に羽ばたく音が響き渡る。


「あっ、これで大丈夫ですね」


 目を丸くする俺に対し、青年はこともさなげにそう言う。


「――え?」

「もう音はしないでしょう」

「は? え? ……え?」


 俺は――やはり、わけがわからなかった。


「あのですねー……わかりにくいとは思うのですが、あなたの耳の穴の中に、そうですね、しいて言うならば『精霊』みたいなものが住んでいたんですよ」


 呆然とする俺に対し、スーツ姿の青年はなにやら説明をしてくれる。説明をしてくれるのはありがたいのだが、俺にはさっぱり意味がわからない、受け入れ難い内容だった。「精霊」? なんだそれ。それが俺の耳の穴の中に住んでいた? ――すべてがわけがわからない。


 青年は俺が戸惑っているのがわかったのだろう。なお言葉を重ねて説明をしてくれる。


「普段その『精霊』は木のうろの中に住んでいるんですが、恐らく引っ越しのときにあなたと行きあったのでしょう。あなたの耳の穴を木のうろと勘違いしたか、あるいは木のうろよりもいい場所だと思ったんですね。――それがあなたの『ゴソゴソ』の正体だったわけなんですよ。……まあそういうわけで、あんまり恨まないでやってくれませんか? 彼か彼女かも、悪意があってやったわけではないので」


 俺は青年の意味不明な言葉に脱力し、テキトーに「はい……」とだけ答えることしかできなかった。



 結論から言ってしまえばあれ以来、「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だかいう音は俺の耳の穴の中からはしなくなった。青年の言う通りであれば、あれは俺の耳の穴を住居に選んだハタ迷惑な「精霊」とやらのせいなのだが……。いまだに信じがたい思いでいっぱいなのが現実だ。


 しかしもしあの青年が現れていなければ? 俺はいつかあの「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」のせいで発狂していたかもしれない。


 そう考えると「ゴソゴソ」だか「ガサゴソ」だかに悪意はないのだとしても、今でも思い返すにゾッとしてしまうのであった。

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