手掛かり

 食事を済ませた二人は、無意味な長居はせずにレストランを後にした。エレベーターに乗り、再び三階に戻ってくる。

「待った」

 ソフィアがエレベーターを降りた所で、シルビアが彼女を呼び止めた。それから、ソフィアに部屋の鍵を投げ渡す。

 ソフィアは反射的にそれをキャッチし、きょとんとした顔でシルビアを見る。

「先に休んでなさい。ちょっと用事があってね、済み次第戻るわ」

「用事って?」

「なに、野暮用よ。大した事じゃないわ。それじゃあね」

 シルビアは一方的に話を打ち切り、エレベーターのボタンを操作して扉を閉めてしまった。

「――行っちゃった」

 一人通路に残されたソフィアはぼそりと呟いてから、通路を歩き始めた。


 部屋に戻ってきたソフィアは、上着をソファーの上に脱ぎ捨てて、ベッドに仰向けで倒れ込んだ。ふうっと大きく息をつき、そのまま急激に襲ってきた眠気に身を委ねてしまいそうになる。

 しかし、眠る前にシャワーを浴びたいと考え、ソフィアは睡魔を振り払って身体を起こした。

 脱衣場に行き、部屋には自分以外誰も居ないにもかかわらず鍵を閉めてから、服を脱いで備え付けの洗濯機の中に放り込み、シャワールームへと入る。

 温水を出し、それを頭から浴びる。伝い落ちた温水が膝の擦り傷の上を通過し、沁みるような痛みを与え、忘れかけていたその怪我の事をソフィアに思い出させた。

「ッ……!」

 ソフィアは慌ててシャワーを止める。しかし既に遅く、傷口からは鮮血が滲み始めていた。

「(参ったな……すっかり忘れてた……)」

 とはいえ、中途半端に身体を濡らすだけ濡らして出るというのは気持ちが悪く、ソフィアは苦渋の思いで再びシャワーのハンドルを捻った。

 顔をしかめて痛みに耐えながら、身体の汗や土埃を洗い流す。その内に、どうしてこんな傷を負ってしまったのだろう、などと考え始める。――すぐに、転んだからだ、と答えを出す。

 そして追想は更に前の時間へと遡っていき、ソフィアの頭にシャルロットの姿が浮かんできた。

「(どうなったの……かな……)」

 別れ際に彼女が見せた苦しそうな姿。それを見て逃げ出し、ここまで来た今となっては、突然そうなってしまった原因を知る術などは無い。ただただ、彼女が無事である事を祈るのみ。

 いつしか足の痛みを忘れる程に、ソフィアは思い詰めていた。あの時、シャルロットの指示に従わずに、彼女の元に居続けたとしたら、今頃どうなっていたのだろうか――

 後悔の念が、ソフィアの胸を締め付ける。

「シャルロット……」

 ソフィアのか弱い声は発せられたと同時にシャワーの音にかき消され、渦を巻いて排水溝へと吸い込まれていく水と共に消えていった。


 程無くしてシャワーを浴び終え、ソフィアは洗濯機の中の洗い物を乾かす為に適当な場所に吊るしてから、服の代わりにバスローブを纏って脱衣場を出る。

 ベッドの側に置いてある小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一口で半分程を飲む。それから、フロントを見下ろせる窓の元へと歩いていった。

 時刻は九時になろうとしている所で、フロントにはカウンターの元に一人、誰も見てはいるまいと大きなあくびをしている従業員が居るだけであった。

 ソフィアは心の中で“お疲れ様です”と呟いてその従業員を労ってから、出入り口の回転扉に視線を移す。

「(用事ってなんなんだろう……)」

 しばらく見つめていたが、シルビアがそこから現れる事は無かった。



 一方――

 ソフィアと別れたシルビアはホテルを出て、再びヴェロニクのバーへと足を運んでいた。

 テーブル席を占めていた男達が居なくなり、店内は彼等が居た時とは打って変わって閑散としている。

 店主であるヴェロニクも、今日はもう誰も来ないだろうと少し前から店じまいを始めていた。

 しかしそこに、シルビアが扉を押し開けて現れる。ヴェロニクは彼女の顔を見て口元を微かに歪めると、磨いていたグラスを静かに置いて、シルビアが愛飲しているウィスキーのボトルを棚から取り出した。

 シルビアは適当に選んだ席に座り、煙草を取り出し一本を咥える。

「あの子は?」

 ボトルとグラス、灰皿をシルビアの前に並べながら、ヴェロニクが訊いた。

 シルビアは煙草に火を点けてから答える。

「ホテルで休ませてるわ。もう寝てるんじゃないかしら」

「そう……。彼女、かなり疲れてたみたいだから、心配してたのよ」

「そりゃ疲れて当然よ。ロコン村からメルキュール地方の村まで歩いて移動して、そこでヴァンパイアと交戦し、それから更にここまで走ってきたってんだから、誰でもクタクタになるわ」

「あら、私が現役の頃はもっと厳しい訓練を先代から強いられてたわよ?」

 軽妙な語り口でそう言ったヴェロニクを、シルビアはきりっと睨み付ける。

「――ストップ。悪いけど、あんたの武勇伝を聞きにきたワケじゃないの」

「それは残念。じゃあまた今度ね」

「今度も無いわよ。そもそも、あんたとお袋の代の時は一度もヴァンパイアなんて現れなかったんでしょう? 実戦経験も無い人間の話なんて聞く気にもならないわね」

「もう……相変わらず、あなたは刺々しい子ね」

「ニコニコ笑って話を聞いてほしいなら、シャルを相手にしてなさい」

 鼻で笑い、煙草を口元に持っていくシルビア。

「そのシャルロットなんだけど――」

 ヴェロニクはそう話を切り出し、カウンターの端に畳んで置いてあった一枚の地図を持ち出した。

「早速目撃情報が入ったわ。つい先程の事よ」

「――なんですって?」

 驚愕が貼り付いた表情でヴェロニクを見上げた後、シルビアはカウンターの上のものを端に寄せて地図を広げるスペースを作る。その無言の指示の通りに、ヴェロニクはそこに地図を広げる。

 それはソレイユ島の全域を記したものであった。ヴェロニクはある箇所を指差す。

「グランシャリオ……」

 シルビアがその場所の名前を呟いた。

 ――グランシャリオとは、ここユーティアスからおよそ三キロ離れた場所にある山の名称である。七つ存在している洞穴ほらあな北斗七星グランシャリオという名前の由来となっており、島の中で最も大きな体積を誇る山でもあった。

「そう。北のふもとにて、シャルロットと思わしき人物を見掛けたらしいわ」

「誰が?」

「ウチの団員よ」

「……」

 シルビアは訝しげにヴェロニクを見上げる。その視線に、ヴェロニクは苦笑を返した。

「何よ、その目は」

「寄せ集めの傭兵連中なんて、本当に役に立つのかと思ってね……」

「現に役立ってるわよ。だからこそ、この目撃情報が入ったんだから」

「確かなものなの?」

「恐らくね」

「恐らく? それじゃあ確かなものとは言えないわね」

「手掛かりゼロよりはマシでしょう? 明日、行ってみなさい」

「……」

 シルビアは嘆息を漏らし、数時間前までこの店に集まっていた男達の事を思い浮かべた。

 ――彼等はただの客ではなかった。一月前に起きたヴァンパイア騒動をキッカケに結成されたユーティアスの自警団であり、ヴェロニクの指示の元に動く彼女の部下であった。

 従軍経験のある者や傭兵崩れなど荒事を得意とする人間が多くを占めていたが、全員がそういったワケではなく、中には銃に触れた事すら無い一般人も混じっている。

 そんな疎らな彼等に唯一共通していたのは、一月前の騒動で家族や友人を失った悲しみを背負っているという境遇であった。

「――まぁ、仕方ないわね。明日調べるとするわ」

 シルビアがグラスの中にウィスキーを注ぎながら言う。

 ヴェロニクは空いているグラスを持ち出してそれをシルビアの前に置き、“私も飲むから注ぎなさい”と目で訴える。シルビアは渋々、その要求に応えた。

 二人は無言でグラスを軽くぶつけ合ってから、会話を再開させる。

「彼女も連れていくの?」

 ヴェロニクが訊く。

「ソフィアの事?」

「えぇ。あなたと一緒なら大丈夫だとは思うけど、場所が場所だからね……。できる事なら、町に居て貰った方が良いんじゃないかしら?」

「そりゃ、留守番してなさいって言って素直に聞いてくれるなら、私だってそうするわよ」

 ヴェロニクはウィスキーを一口飲んでから、シルビアの返答に苦笑を返した。

「確かに、大人しく待っていられるタイプじゃなさそうね……」

「そういう事よ。それに、一応戦えるみたいだし、ただの足手纏いにはならないでしょう」

「でも、フォローはしてあげなさいよ? 彼女の魔法は言わば武器を生成するだけのもの、身体能力の強化と言った事はできないハズだから」

 シルビアは怪訝そうにヴェロニクを見上げた。

「――詳しいじゃない」

「私も私で調べたのよ。彼女の事、ちょっと気になってね」

「あの魔法に関する情報があったの? あんな魔法、今まで見た事も聞いた事も無いわよ」

「それはそうでしょう。使う人物が一人しか居なかったからね」

「誰よ」

「ケヴィン・メルセンヌ。彼女の父親よ。既存の魔法を独自に改良して造り上げたらしいわ。そして、彼の力の集大成と呼べるものが、ソフィアの左手に嵌めてある指輪よ」

「――大した父親だったのね」

「えぇ。殺されたって話が信じられない程、優れた魔法の力を持つ人物だったわ」

「実の娘が相手じゃ、あり得なくは無い話よ。実戦では一瞬の気の緩みが生死を分けるって事、覚えておきなさい」

 シルビアの嫌味に、ヴェロニクは肩を竦めて見せた。

 シルビアは短くなった煙草を灰皿で揉み消し、グラスの残りを飲み干して立ち上がる。

「引き続き情報を集めておいて頂戴。それと一応、自警団の連中に町を見させておくと良いわ。この町が狙われる可能性も充分に考えられるから」

 それだけ言って、返答を待つ事なく出口へと向かう。

「待って。一つ良いかしら?」

 呼び止められたシルビアは背を向けたまま、ヴェロニクの言葉を待つ。

「――明日ソフィアがここに来たら、何て言えば良いの?」

 シルビアは振り返り、いたずらっぽく笑みを浮かべているヴェロニクを見て眉をひそめた。ヴェロニクはくすくすと笑ってから続ける。

「あなたの考えてる事ぐらいお見通しよ。今からグランシャリオに行くつもりなんでしょ?」

「――顔に書いてあったかしら?」

「妹の目撃情報が入って寝てる暇なんかあるか――って書いてあったわよ。ほら、これ持っていきなさい」

 ヴェロニクは棚の扉を開けてハンドライトを取り出し、シルビアに投げ渡す。

 図星を指されたシルビアはそれを受け取り、ふっと小さく笑みを零した。それから、ハンドライトをポケットにしまいながら先程のヴェロニクの質問に答える。

「――ソフィアには先に出発したと伝えておいて頂戴。あんたの言う通り、明日の朝一番に来るでしょうから」

「わかったわ。それとくれぐれも、ミイラ取りがミイラにならないよう気を付けるようにね」

「……わかってるわよ」

 シルビアは最後に軽く手を挙げて見せ、別れの挨拶を済ませてから、店を出ていった。

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