19. 三日目・決戦前(2):呪いの原稿と無償リーダーデバッグ
16:38。文学部部室。
「うわ、こんな時間か……」
パソコンと顔を突き合わせていた紺野隼志は、ふと壁にある時計を見て我に返った。まだ三時半くらいのつもりでいたので、一時間ほど感覚がずれていたことになる。執筆作業中にはよくあることだったが、まだマシなほうではある。深夜二時で作業を止めるつもりでいた筈が、スズメの鳴き声で夜明けに気づくのも珍しくはない。
普段なら六時半までは活動するのでまだ帰るには少し早い時間だが、今日は午後の部活は禁止だった。流石に帰らないとまずいだろうが、少しキリが悪かった。
作業を再開したかったが、手を止めてしまったことで一気に目に疲れがきた。上を向いて目薬を差し、そのまま額を抑えて少し休むことにした。
隼志も今日は真っ直ぐに帰るつもりだった。しかし昨日の朔夜の様子が気になって、登校直後に部室に立ち寄ってしまった。
朔夜の小説の書き直しなり続きなりが読めるのではないかと思ったからだった。
朔夜はパソコンを持っていない。それだけなら今どき珍しくもないが、スマホを買って貰ったのさえ夏休み直前らしい。今もまだ文字入力が苦手で短文を打つのがやっとという始末で原稿数千字を推敲しながら書くのは難しい。執筆の際は家や学校でノートや原稿用紙などの紙に下書きしてから、文芸部でパソコンを借りて清書をしている。活動日の夕方以外でもまとまった時間が取れれば部室で作業をすることが多い。
だが隼志が来た八時の時点で朔夜は既にいなかった。後で教師に確認したが、六時前には登校していたらしく、隼志が鍵を借りに職員室に向かったときにはとっくに鍵を戻していたようだった。
代わりに朔夜のパソコンの前に彼女の原稿が置かれていた。特に隠すでもなく堂々と表面を上に向けていた。
隼志は勝手に読んで良いものか迷ったものの、見えている一番上ならば良いだろうと判断して顔を近付け……危うく悲鳴を上げかけた。恐怖すら感じてしまった。
原稿は昨日読んだ『銀雪よりも白い月』の最終章そのものだったが、そこに赤ボールペンで直しが入れられていた。
決して先輩がつけたものではない。彼女は原稿を汚さないように小さな点で誤字などにチェックを入れただけだったが、その後で朔夜が大幅に赤を追加していた。
それも数百箇所も。
大量の二重線の横に書かれた修正文に、さらに二重線が引かれて再修正されていたかと思えば、文の前後関係を変更する矢印などがあちらこちらにある。文字と記号と線が用紙を枠外に至るまで埋め尽くすほど溢れていて非常に読みにくかった。
普段の朔夜ならこんな書きかけは残さない。思わず最後まで目を通してしまってから、原稿の下に二通の封筒が添えられているのに気付いた。灰園明日香と文芸部宛だった。前者を読むわけにもいかないので、後者だけ開封してみると昨日と同じく理由も告げずに別れだけを告げるものだった。ただし退部届は無く、雑で申し訳ないがこれを良ければ次の部紙に乗せてくれ、と書かれていた。
退部は思い直した筈ではなかったのかと慌てて電話をしてみると、『朔夜』は何故か面食らったような反応をしたあと、やがて冗談だなどと言い出した。何かを誤魔化しているような妙な態度だった。どうも『朔夜らしく』なかった。
……まさか部室を出た二分後に身柄を抑えられて風夜来音と入れ替わっていようなどとは思いもよらぬ隼志にしてみれば面食らうしか無い。
問い詰めたり引き止めるべく接触を試みたが、なんと通話もSNSも拒否され、休み時間に直接向かっても姿を見かけることすら出来なかった。恭哉にも相談したが、今日に限って何故か取り付く島もなく断られた。
昼にようやく朔夜を見つけたのは良いが、教室に入るタイミングを伺っているうちに
彼女の住所は知らず、友人である明日香とのパイプもない。改めて恭哉に連絡をとったが自分に任せてくれ、の一点張りだった。普段なら信用できるのだが、今日に限ってはどうも信用ならなかった。嘘を吐いているようにも聞こえないが、どうにも真面目に取り合ってくれているようにも聞こえなかった。まるで別人のようだった。
そこで隼志は恭哉が秘密の場所に隠してある部室の合鍵を勝手に借りて、部室へと入った。本来なら職員室で借りるべきなのだが、今日に限ってはそうすると帰されてしまう。
入り口から一番奥のパソコンを起動し、部屋の明かりを点けずに隼志は朔夜の原稿の清書を始めた。恭哉が改めて説得をしてくれるにしても、この原稿がその鍵となるのではないか、と感じたからだった。授業をサボって部室に籠もることも考えたが、朔夜との直接接触も試みていたのでそうもいかなかった。休み時間だけ外に出て教師に見咎められるのもまずい。
そうして清書を始めた隼志だったが、朔夜の原稿は一言でいうと酷いものだった。
まず、どう整理しても前後関係の辻褄が合わない。二重線の無い文だけを抽出して並び替えると矛盾が起きる。世界が二度滅んだり死んだキャラクターがまた死んだりする。パズルで例えるのなら、一揃いのピースへ他所から余分を足して、代わりに必要なものを抜いたような状態だった。
他の紙に書き直す暇がなかった上に、修正を繰り返すうちに本人にもよく分からなくなったとしか思えない。隼志の場合、スマホで雑書きしてパソコンで清書する執筆スタイルなのでここまで酷くなることはまずないが、数学のテスト中に計算が煮詰まって似た状態になった経験はあるので事情は分からなくはなかった。
やむを得ず、時系列を推測してどうしても足りない部分は勝手に文を継ぎ足して補った。失礼極まりない行為ではあるが、こんな粗雑な原稿を放置していく朔夜も悪いのだと自分を納得させて作業を終わらせた。
そしてそれ以上に酷かったのが内容だった。
文章力が稚拙だとかいう話ではない。単に、より悲劇的になっていた。
世界を滅ぼす力を持つ少女、夕子を天使の生まれ変わりにして夕子抹殺の使命を帯びた少女、翼が守ろうとするものの、世界の破滅が近づき翼の前世の姉が自ら夕子抹殺に乗り出す……というところまでは同じだったが、そこからが全く違っていた。
翼と前世の姉が争う中、夕子がなんと翼の姉を攻撃して瀕死にし、更には魔力を解き放って自らの意思で世界を滅ぼそうとする展開に変わっていた。
『どうして私が死ななきゃならないの!?おかしいでしょ!!?私が生きていちゃいけないの!?ふざけないでよ!みんなのほうが死ねばいいじゃない!!』
「ごめんなさい!!」
人が変わったような夕子のセリフに隼志は思わず声を上げて謝ってしまった。フィクションの人物の死を悲劇として消費していた自分自身を叱責されたように感じたのであった。教室で断片的に読んだ時は何も感じなかったが、文面を整理しつつ雑音のない部屋で場面をイメージしつつ読むことで言葉が重みを持って突き刺さってきた。
そこまでは何とか読めたが、その先は特に手こずった。
二重線が原稿用紙の枠内の全文に入っていた。しかも枠外の修正文すら過半数が再修正されている始末だった。酷い場所では再々修正まであった。後半に行くほど修正の量が酷くなり、枠外を含めた紙面がその分赤く塗り物されていく始末だった。
そこまでしてもパズルのピースは明らかに不足していた。誤削除があったと確信した隼志は、二重線に消された文まで全て読む羽目になった。
整理してみると朔夜は大筋で二つの展開を考えていたようだった。それぞれA・Bルートと置くと、
Aは一つは夕子が翼の姉に止めをさし、翼が怒りのまま夕子を討つ展開で、
Bは夕子が世界を滅ぼそうとする展開だった。
朔夜はAのほうは途中で完全に見切りをつけたようで、全て二重線で打ち消されていた。書いた自分への殺意すら感じられるほどで、何箇所かは元の文字が読めないほどに赤ボールペンをぐちゃぐちゃに走らせてあった。あの引っ込み思案に見える少女がこれを行った場面を想像した隼志は恐怖で少し泣いた。
Bに決めた後も朔夜はかなり悩んだらしく、展開がさらに何通りにも分岐していた。これも大きく分けると、
Cの夕子が彼女を討てずにいる翼を残して世界を滅ぼそうとする展開と、
Dの夕子と翼が一緒に世界を滅ぼそうとする展開、の二つに分けられた。
ここからの解読が最も難しかった。世界が滅ぶかどうかだけでも、全くの未遂から半壊、全壊までのパターンがあったし、主要登場人物の誰が死んで誰が生きるかに至っては十パターン以上の組み合わせがあった。死因の他殺・自殺・寿命・事故死などと組み合わせるとパターンが一気に膨れ上がる。
原稿の清書の筈が、マルチエンディングのノベルゲームをプレイしているかのような感覚に陥った。しかも明らかにバグフィックスがされていない。ユーザーとしてプレイしながらバグを取り除かされている気分だった。一昔前のエロゲーではよくあったと先輩に聞いたことがあったが、まさか文芸部の活動でそれを体感しようとは想像だにしていなかった。
あまつさえ部屋が暗いので余計に読みづらかったが、隼志はなんと一時間ほどで五千字分の清書を終えた。朝の時点で原稿を勝手に持ち出して授業の合間に『解読』し、休み時間にスマホで書き進めていたおかげでもある。授業中もずっと原稿のことを考えていたせいで、教師二人にに合計三回も怒られたほどだった。
そうして書き上げた結末は……隼志にとって考えうる限り最悪であった。昨日の展開のままのほうが良かったと思える。
清書を共有フォルダに保存して印刷ボタンを押したところで、隼志は動けなくなっていた。様々な感情が脳内を嵐のように駆け巡っていた。
その後どれほど固まっていたかは覚えていない。
だが気が付けば手が勝手に『銀雪よりも白い月』の二次創作を書き始めていた。
脳に浮かんだあやふやなプロットに突き動かされ、勢いのままに書いていた。そして終盤も終盤、あと二百字ほどで完成という段になってふと我に返って今に至る。パソコンの時計で確認してみると、原作の清書を保存したのが14:25だったので、二時間ほどで即興で一万字近くを書いた計算になる。
(………俺、これ書いてどうする気だ?)
『銀雪~』が朔夜や明日香をモチーフなりモデルにしていることは、隼志にもなんとなく分かっている。詳しい事情を知らずとも明らかだった。要するに知り合いをモデルにした作品の二次創作を書いていることになる。
(俺、気持ち悪!!)
そして、だ。自分は、書いたものをまさか本人たちに読ませるつもりなのだろうか。それは芸能人を題材にした同人誌を本人に送りつけるような行為ではないだろうか?
(俺、厄介か!!!)
隼志が比喩でなく頭を抱えていたその時、
「おい、何してやがる」
「うわぁ!?」
ドンドンというノックが聞こえるやいなや、中から鍵を掛けていた筈の扉が開いた。生徒会の
「い、いきなり入ってこないで下さいよ」
「ほう、第一声がそれか」
「女子が着替えてたらどうすんですか!」
「!?……そうだな。そりゃ確かに……いや文芸部でなんで着替えるんだよ」
「お茶を盛大に零したりとかあり得るでしょう!?」
「……それもそうか。悪いな。次から気をつける」
「分かってもらえれば良いんですよ。それじゃあ」
「ああ」
勇灯は後退しつつ扉を閉めた。
「……通ると思ったか?」
当然、すぐに扉が開いた。
「ちょっとだけ……」
「はっ倒すぞ」
「すんません……」
隼志は頭を大きく下げて床を見つめる。流石に本気で通るとは思っていなかった。少しでも時間を稼いで脳内で終盤の展開を考えようという腹だったが、勇灯の威圧感の前に思考が中断して失敗に終わった。
勇灯が悠然と部屋に入ってきた。
「良いから、とっとと帰れ。お前みたいなのがいないか見て回ってんだこっちは」
「はい。すぐ帰りますんで……」
「すぐ、じゃねぇ。今だ。戸締まりするまで見てるからパソコン消してすぐ帰れ。時間がねぇんだよ」
隼志は立ち上がって頭を下げた。
「……あと十分、いや五分だけ待って下さい!」
「ダメだ。だいたい文化祭も終わったし、次の部誌までの締め切りはまだあった筈だろ。何をそんなに」
「お願いします!今日中じゃなきゃダメなんです!!」
「うぉっ」
勇灯は後ろに仰け反った。気圧された、というよりは猛烈な勢いで再び頭を下げた隼志に頭突きを食らいかけたからというのが大きい。
「……俺は忙しいんだ。あと二箇所見てこなやきゃならねぇからな」
「え?」
勇灯は出入り口へと戻ると、扉に手を掛けて振り返った。
「十分後にはブレーカー落として、引きずり出すからな」
「あ、ありがとうござ」
「あと九分五十九秒!」
「はい!」
礼を言うべく扉に近付こうとしていた隼志は、一喝を受けて机へと駆け戻った。
折角貰った猶予だ。書いた後のことは書いた後考えれば良い。ディテールや誤字も気にしている場合ではない。隼志はアラームを六分後に設定すると再び画面に向き直った。
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