空白の夜
凪-なぎ-
空白の夜
「なんか、今日のはちょっとしょっぱいな」
連日の残業で、少し疲れているだけだろうと思った。
朝の通勤ラッシュに揉まれ、終わりの見えない仕事を淡々とこなす日々。自分は一体誰のために、何のために働き続けているのか分からなくなっていた。
気がつくと既に陽は沈んでいて、オフィスには自分一人しかいない。
今日一日の疲労が混じった大きな溜め息を吐き、スマホに目をやる。画面に映る四つの白い数字は、日を跨ぐ一時間と十三分前である事を示していた。
「もうこんな時間か、、、帰ろう」
やりかけのデータを保存してパソコンの電源を落とし、帰り支度を済ませてオフィスを後にする。
駅まで六分ほど歩いて電車を乗り継ぎ、西葛西駅で降りた。
駅前の居酒屋で、二次会の場所を決めるのに賑わう人々を横目に、自宅への道を歩く。
奴隷が足枷を引きずるようにして五分ほど歩くと、青白く光る建物が目に入り、僕は吸い込まれるようにそこへ向かった。
入り口の自動扉をくぐると、気が抜けるような入店音と同時に、今世間を賑わせているバンドやアイドルの曲が流れている。どれもうんざりするくらい聞いた曲だった。
冷えた飲料を閉じ込めた重いガラス扉を開き、缶ビールと缶チューハイ二つ、おつまみコーナーでは枝豆、生ハムを一つずつカゴに放り込んだ。
会計を済ませるためにレジへ向かおうとすると、いつもなら空いているはずが、今日は長蛇の列を作っている。
どうやら新人のアルバイトがレジを打ち間違えてしまったらしく、慌てて手元のお金とレジの画面を交互に覗く姿が見えた。
ゆっくり肩を落として息を吐きながら、最近は些細な事で苛立つ自分に気づく。
二分程して自分の番が回って来た。僕はお金を払って商品を受け取り、足早にその場を後にした。
自動扉をくぐり、再び夜の中を歩き出す。
街灯と木々に挟まれた道を十分程歩き、自宅に到着した。
十一階建てマンションの三階、奥から三番目の扉に鍵を差し込んで右に回し、玄関に入る。
「ただいまー」
返事などあるはずもないのに、習慣でつい口にしてしまった。
脱いだ靴を整え、自室のクローゼットへ向かう。取手を引いて扉を開け、ハンガーを取り出しコートをかける。
以前なら服も靴もコートも、全て脱ぎ散らかしたままにしていたが、そうもいかなくなってしまった。
買ったものを冷蔵庫に放った後、ソファで落ちてしまう前にシャワーを済ませて、上下グレー、無地のスウェットに着替える。
壁掛け時計に目を向けると、既に十二時を回っていた。リモコンでテレビの電源を入れ、先程放り込んだ酒とつまみを取り出して机に並べ、ソファに腰をかける。
プルタブを開け、冷えたビールを渇いた体に注ぎ込んだ。
液晶の向こうでは今月の音楽チャートを順に発表していて、一位はさっき店内で流れていた五人組バンドの曲だった。
「そういえば、あいつもこの曲好きだったなあ」
前に二人でお酒を飲みながら、僕はそのバンドの歌詞が直接的過ぎて好きになれないという話をした。
「直球だからこそ胸に刺さるんじゃーん、この良さがわからないなんて、君はひねくれ者だね」
今思えばもう少し、普段からストレートに伝えるようにすれば良かったと思う。
所詮は他人なのに、何の努力をせずともそばに居てくれると、当時の僕は思い上がっていた。その結果、今の僕はこうして独りでアルコールに縋っている。
込み上げてくる後悔で満たされてしまう前に、再び酒を流し込む。
今座っているこの場所も、机に酒とつまみが広げられていることも、画面の向こうで歌っているバンドでさえ、あの頃とは変わらない。
彼女はもう僕の傍にいないという事以外は何も変わっていないのに、どうしてここまでこの部屋が殺風景に感じるのだろう。
納得いく答えなど出るはずもないことを考えながら、つまみに買った生ハムを口に運び、噛み締め、そして飲み込んだ。
「なんか、今日のはちょっとしょっぱいな」
連日の残業で、少し疲れているだけだろうと思った。
いつの間にか机に広げた酒は空になり、潰した空き缶と食べかけのつまみが散乱している。だんだんと酔いが回り、体を起こしているのもままならなくなってきた。
「またか、、、」
空腹に加え、風呂上がりで渇いた体のまま飲み始めたせいで、悪酔いをしたようだ。テレビを消してソファで横になり、頭の中のフィルムを一コマずつ辿ってみる。
彼女の様子にこれといった変化は見えず、馴染みある二人の日常だけが浮かんできた。
いつから綻び始めていたのかを何度考えてみても、やはり見当がつかない。
けれども、予兆はきっと節々に存在していて、自尊心を守る為に見ないふりをしていたのだろう。
寝ぼけ眼で見た時計は短針が北東、長針は南東を指しており、だんだんと意識が遠のいてきた。
自己嫌悪と浮遊感の渦に引き摺り込まれ、僕は徐々に瞼を閉じた。
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空白の夜 凪-なぎ- @Nagi_nouta
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