うたかた
海野ぴゅう
前編 かみさま、もういちどだけ
「…おかあさん、どこいくの?」
帰って来てすぐにおかあさんはボクの顔も見ないでどこかに行こうとしているので、ドキドキしてからだがはれつしそうだ。
「すぐ帰ってくるから、しずかに待っててね」と、おかあさんはやっぱりボクを見ずに言った。
ボクはお腹が空いてたし、まっくらのなかでずっとひとりぼっちだったしで不安でぺちゃんこになりそうだったが、おかあさんのいい子でいたかった。嫌われたくなかった。
「うん……まってる」
もううごけなくて床にはいつくばったボクがそう言うと、ふりかえりもせず出て行ったおかあさんのふわふわしたうしろすがた。
それがボクの最後のきおくだ。
きれいな人だった。部屋はいつもゴミで散らかっていたが、おかあさんはいつもきれいにしていた。
つやつやの長い茶色のかみ、キラキラのゆび先。化粧もながい時間をかけていつもきちんとしていた。服もきれいで、僕が触るととても嫌がった。
そう、ボクは汚れていて穴があいたボロボロの小さな服を身に着ていたし、いつもお腹をすかせていた。もうずいぶんお風呂に入ってない。もうトイレまでいくこともできない。
おかあさんはボクがこんなに汚いからもう帰って来ないかもしれない、と真っ暗でさむい部屋でお腹を空かせながら思った。流す涙はもう枯れ果てていた。なんのための涙かわからなくなっていた。
ボクはおかあさんに捨てられたのだ。
「かわいそうに、おまえは死んでしまったんだよ。でも清らかな魂をもつおまえは、天国へいけるのだ。なにもまた…」と目の前に座るかみさまがあわれむようにちっぽけなボクに言った。
「でもボクはもう一度おかあさんに会いたいです。天国なんていきたくない」とボクは何度も言った。あのフワフワでいい匂いのするおかあさんにもう一度会いたかった。
だいすきだったのだ。
ぼくの後ろにはいつのまにか順番待ちの人がずらりと並んでいる。どうしても折れないボクにかみさまが負け、大きなため息をついた。
「仕方ないな、もう一度だけだぞ」
ボクは今度はネコに生まれ変わり、家族と一緒にいた。
でもある日、
「あのコは足が曲がっていて歩くのが遅いし、細くてフラフラだから置いていくよ」と母ネコが他の兄弟ネコに言っているのを聞いてしまった。
「あいつは頭がトロいからじゃまになるからな」「汚いし」「あしでまといだ」とおにいちゃんたちも言っているのが聞こえる。
僕はむねがドキドキしてはじけそうになりながらも、涙を出さずに寝たふりをした。
それからあれは夢だったんだ、気のせいだ、と思いながら皆と今まで通り一緒にいた。
でもある晴れた朝、さむくて眼をさますとボク一人だけ残されていた。
置いてけぼりだった。
あれはやはり夢じゃなかったのだ。
ネコになってもボクは不細工でいらない子どもだった。
おかあさんはおにいちゃんばかりにエサをやり、身体をなめてきれいにした。
ボクは目の周りにヤニがたまって固まっているので前が見えにくいし、お腹が空いていたからいつもひょろひょろふらふら歩いていた。
今度こそおかあさんとおにいちゃんもいて、皆で固まって寝る時は温かくて幸せだったのに…。
ボクは小屋から出ずにおかあさんたちの帰りを待った。
でも誰もボクの事なんか思い出しもしなかったようだ。ボクはまた独りぼっちでどんどんやせこけて、にんげんの時とおなじようにとうとう動けなくなった。
ああ、またまちがえて生まれてしまった…
ボクはなんでこんなにダメなんだろう
そう思いながらどんどんボクの世界は小さくなっていった…
「うわぁ!…なんだい、まだいたのか。死にかけてるね…置いてかれたのかい、可哀そうに」と小屋に住み着いている年寄りネズミが僕を気の毒そうに見て言った。
彼女は良く太っている。ボクの半分以下の大きさだが、重さは倍はありそうだった。目には優しい光がやどっている。
久しぶりに声をかけてもらえたボクは嬉しくて声を出そうとしたが、声の出し方も忘れてしまっていた。
「ぬ…ぬぁ…ん…のぁ……」
ボクがうまく何も言えないので、ネズミはぷいと小屋から出て行った。
でも少ししたら戻ってきて、
「さあ、これをお食べ」と言って、パンの塊をボクの口の前に置いて去っていった。
せっかく声をかけてくれたうえにパンを持ってきてくれたけど…やっぱり僕はダメなやつだ。食べ物を口に入れることも出来なくなっていた。
しばらくして急に辛さがなくなり、ふわふわと眠くなってきた。そんな身に覚えのある感覚にボクはきゅうにこわくなって目が覚めた。
このままではボクはまたあわぶくみたいに消えてなくなる。そしたらおかあさんにもう会えなくなってしまう。
ボクは突然はじけたように大きな声を出した。
前はにんげんのおかあさんに「しずかに待っててね」と言われたのでじっとだまっていたが、今回はネコのおかあさんに聞こえるように声を出した。できるだけ大きな声を。
「ぬ、ヌァー…ノァー」
何度ないただろう、ボクがもう力尽きそうなとき、ドアが少し開いて小屋にやわらかい光がふあーっと部屋にふってきた。ホコリがキラキラして綺麗だ。
「お…かあさん?」
その小屋に入ってきたのはにんげんのおかあさんでもネコのおかあさんでもなかった。にんげんの女の子だ。
二人は同じ黒い服を着ていた。そしておかあさんのようなスカートをはいている。
「きゃー、ネコだ、ちっさーい」「ガリガリじゃん」「何か食べないと、これじゃあ死んじゃうよ」
一人がボクの身体に自分の付けていたマフラーを巻き、優しく抱っこして小屋を出た。
ふわふわであたたかいし、とてもいいにおい…
マフラーを巻いてくれた女の子の家でふわふわの布の上に乗せられ、細い管から温かい飲み物をもらった。
身体に少しづつ染み渡る白い飲み物は、おかあさんの味がした。
ボクは箱に入れられて彼女の部屋に移された。
彼女は優しいにんげんだった。
ボクが起きて弱い声を上げるたびに彼女も目を覚まし、飲み物をくれた。目に付いたゴミもやさしく白いふわふわでとりのぞいてくれた。真っ暗な夜で彼女がぐっすり寝ていてもだ。
こんなに優しくしてもらったのは初めてだった。声を出せば答えてもらえる安心感をボクは初めて知ったので、夜は必要な時にだけ声を出すようになった。だって彼女を起こしたくはない。
きっと立派なにんげんになって、君をまもるよ。
ボクはなんどもそう彼女に言ったが、
「まだミルクが欲しいの?いっぺんに飲むと身体に良くないから、少し寝ようね」とボクに優しく言い含めるように答えた。
何日かたってから、彼女は少し元気になった僕を洗って、
「おまえの名前を付けなきゃね」と首をかしげて言った。
そして、むむむ、と細いうでを組みながら少し考え、
「身体も声も小さいからピッケ!決まり、あなたはピッケよ。私はミク、宜しくね」とボクに言った。
それからボクはピッケと呼ばれるようになった。
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