ルサンチマンの矛先
六畳一間のアパートの一室には、折り畳み式の小さなテーブルを囲んでひしめき合いながら食事をしている僧侶達の姿があった。過激派除霊団体のメンバーである彼等は、食事中も、いつ来るか分からない有事の為の戦闘態勢を解かなかった。動きやすいように繋ぎになっている紫の着物、その上に着用された黄土色の袈裟プロテクター、更に球に一文字ずつ般若心経が書かれた数珠が装填されたマシンガンを身に着けたまま、冷蔵庫から動物性たんぱく質の含まれていない食い物を選び出し、口に運んでいる。
僧侶達の視線は常に部屋の隅の老婆に向けられていた。また老婆も、急に自宅に上がり込んで来て、勝手に部屋の隅に縄で五芒星を描き、その上に自分を乗せ、今に至るまで数日間滞在しているこの物騒な連中を怯えながら見ていた。
老婆は、自分を襲うことの利点が一つもないことを何度も僧侶達に訴えていた。自分は生活保護で食いつないでいる貧乏人だから金はないし、人質にしようにも身寄りはいない。と伝えていた。しかし僧侶達は、分かっている。と言うだけだった。だから老婆はこの僧侶達が何者で、何の為にこのようなことをしているのかのヒントを得ようと僧侶達の一挙手一投足に注意を払っていた。
僧侶達が老婆を監禁し、またその訳を老婆に伝えていない理由を説明する為に、ここ数週間の内に多発している高齢者の怪死事件についておかねばならない。この事件に「怪死」の二文字が冠せられたのは、高齢者達の死因は病死でもなければ自殺や他殺でもなく、また被害に遭った高齢者達は共通して一点を見つめた苦悶の表情のまま死亡しているという特徴があったからだった。
過激派除霊団体の僧侶達は怪死事件に関するニュースを彼等の本山のテレビで見た時、高齢者達の死因が悪霊の仕業であることを即座に察し、自分達の出番だと立ち上がったのである。
まず僧侶達は、被害に遭った高齢者達に共通性が見受けられることから、一連の怪死事件は全て一体の怨霊による仕業であると結論付けた。そして今回の事件は、菅原道真による阿部一族への報復と同じように、あるコミュニティー内で起きた大人数による一人への加虐を原因としているとも結論付けた。
しかし僧侶達の犯人捜しはそこで停滞しなければならなかった。何故なら調査の結果、被害者達には接点がないことが明らかになったからである。「高齢者」であることと、「貧乏」であること以外には共通項は見られなかったのである。
僧侶達が頭を悩ませている間にも、被害者は増え続けていた。痺れを切らした僧侶達は、直接怨霊の正体を拝むことにした。即ち、被害に遭う条件が揃っている高齢者を餌に怨霊を呼び出し、一気呵成に畳みかけることにしたのだ。
餌にするということは、危険に晒すことを意味している。僧侶達が老婆に計画の内容を伝えていない訳がここにある。当然僧侶達の良心が痛まない訳ではなかったが、それよりも世直しへの使命感が勝った。
餌となる高齢者を選出する際、過激派除霊団体の中でも最も若い、雀雲という僧侶が手を上げた。彼は自分の生き別れた母親を選ぶように言った。雀雲がそれを提案したのは、貧しさを理由に幼い自分を捨てた母親を今も恨んでいた為である。他の僧侶が雀雲にその酷な提案を本心からしたのかを何度も確認したが、雀雲はその度に自分の意志の固さを口にするだけだった。
現在、雀雲は母親を悲しげに眺めていた。というのも、もしも母親が自分を息子だと気が付いたなら、仲間達に計画を取り止めるように頭を下げることを心のどこかで考えていたからだ。しかし母親は一向に雀雲の正体が分からず、雀雲の眼差しは自分を監視する他の物騒な連中の視線の一つでしかなかった。
丑三つ時に近付くに従って、僧侶達の気は張っていった。その部屋で何度か経験した時間帯だったが、僧侶達の緊張は寧ろ日を追うごとに高まっていった。
そしてその日、老婆が不意に苦しみだしたことをきっかけに、僧侶達の心音は大きく高鳴った。彼等は瞬時に立ち上がり、事前に打ち合わせしていた各々の配置に付くと、老婆に取り付いたものの正体を確かめる為に霊感を最大限に研ぎ澄ませた。その一連の動作の間にも、雀雲の気持ちは揺らぎ、他の僧侶達もそれを察したが、彼等の意識は眼前の敵を観察することに集中された。
僧侶達の感覚器官には、黒い塊が畳を這いながら無数の腕で老婆の首を絞めているのが捉えられていた。そしてそれはよく観察すると、膨大な数の悪霊達の集合体だった。悪霊の塊は僧侶達に見向きもせず、幾つもの歯を剥き出しながら、殺意の籠った数多の眼差しで老婆を見ていた。
機会を逃すまいと、僧侶の一人がスイッチを押した。すると老婆の下に敷かれていた五芒星状の縄が天井に向かって閉じ、老婆ごと悪霊の塊を捕らえて吊し上げた。悪霊達が暴れながら怪鳥の発するような鳴き声をけたたましく上げた。僧侶達は鼓膜をつんざくその音に怯みながらも、陣形を崩さず、マシンガンの照準を悪霊の塊から外さなかった。雀雲は白目を剥き、口から泡を吹く母親の姿に心を乱すまいと、必死に唇を噛み締めながら敵に銃口を向けていた。
僧侶達が改めて相手を観察すると、悪霊の塊には何本もの筋がスイカの模様のように入っていることが分かった。更によく観察すると、その筋はワイシャツの襟元と爽やかな色のネクタイだった。悪霊達は、一様にスーツ姿だったのだ。
「老害は死ね」
悪霊は数多の眼から血涙を流しながら、口を揃えてそう言った。僧侶達の中の数人には悪霊の正体が分かっていた。僧侶の一人が悪霊に言った。
「お前は高齢者に不満を持つ若者達の生霊の集合体か」
「老害は死ね」
悪霊達は問いかけにそう繰り返すだけだった。そして次に口ごとに声を出した。
「我々の将来に暗雲が立ち込めているのは、老害共が富を搾取しているからだ」
「奴等は『最近の若者は』と説教ばかり垂れる」
「自分が我々に養われているという自覚がない」
「恵まれた世代の人間の価値観で我々を糾弾する」
「数の論理で自分達を正当化する」
「いつまでも退かない殻のせいで我々はいつまでも羽化できないままだ」
「生にしがみつく愚かしい連中だ」
声を発するごとに、悪霊達の腕の力は益々強くなってゆき、遂に空中に浮く老婆の太ももに尿が垂れ始めた。
僧侶達の視線は自然に雀雲に集まった。それはこの中で最も反論する権利があるように彼等には思えたからだ。しかし雀雲には悪霊達に返す言葉がなかった。それは雀雲自身も悪霊達を生み出した若者の一人である可能性を拭い切れなかったからだ。雀雲には悪霊達の言い分が痛い程よく分かっていた。
雀雲の迷いを断ち切ろうと、僧侶の一人が、「殲滅」と声を荒げた。それを合図に、僧侶達は一斉に悪霊の塊に攻撃を加えた。マシンガンで般若心経の数珠を打ち出し、身動きの取れない悪霊達に当て続けた。雀雲もそれに続いた。
呻き声を上げながら、悪霊達が身悶えた。弾痕を中心に退魔効果が波紋を広げ、数匹の悪霊達が光の湯気となりながら成仏していった。
しかし効果は微々たるものだった。内側から新たな悪霊達が表皮に這い出て来て傷を塞ぎ、寧ろ除霊攻撃を続ける程悪霊の塊は巨大化していった。そして僧侶達の弾幕が途切れた瞬間、悪霊の塊はまた怪鳥のような声を発しながら、五芒星状の網を引き千切り、二つの塊に分裂すると、一つはドアに向かって、もう一つは老婆を連れたまま窓に向かって壁を這い始めた。
僧侶達にとって五芒星の縄を千切られた経験は初めてであり、僧侶達はひるんで陣形を崩したところだったので、悪霊達が退散することに安堵していた。しかしそれは杞憂だった。悪霊達は二つの入り口を背にして、僧侶達に向き直って数多の目を見開いた。
「老害を庇う裏切り者も死ね」
僧侶達は逃げ道を塞がれたことで恐怖に苛まれ、その瞬間完全に戦意を失った。ドア側の悪霊はその隙を見逃さずに、僧侶の一人に向かって風を切るような速度で手を伸ばした。そして首を掴んだ後も腕を伸ばし続け、台所の壁面にある排気口に僧侶の顔面を突っ込ませた。排気口のプロペラに顔面を切り裂かれた僧侶がその場に血を流しながら吊るされているのを見て、他の僧侶達は背筋が凍るのを感じて、窮鼠猫を噛むような克己心を覚えて再び悪霊達に攻撃を始めた。
攻撃による憎悪を活力として更に肥大化してゆくことで、やがてドア側と窓側に分かれていた悪霊は接して一つに戻った。そして部屋中に広がると同時に、悪霊はまた血涙を流しつつ不満を咆哮しながら、高波となって僧侶達に押し寄せた。
「『人に優しく』という道徳教育は我々から牙を抜く為に老害共の講じた計画だ」
「老害共は我々を殺しても被害者面をしている」
「弱者を装っている強者共め」
「街を歩く姿は彷徨えるゾンビと同じだ」
「我々は奴等に奪われた自由を取り戻さなくてはならない」
「老害を抹殺しなければこの国に未来はない」
雀雲は災害のように巨大な攻撃を目の当たりにして、隠し持っていた最後の武器の使用を決断した。雀雲は着物の胸元に手を入れると、中から小仏を取り出し、胴体で割れて開閉する仕様のその小仏に手を掛けた。
事前の仕込みによって、その小仏は老婆と繋がっていた。雀雲が小仏を開くと、それを合図に老婆の体が封魔用の器として機能し、半径500メートルに及ぶ封印結界を展開した後、その結界内の全ての悪霊をその身に封印する仕組みになっている。
これだけの悪霊達を閉じ込めるのだから、勿論老婆の体はただでは済まず、十中八九死に至る。それでも雀雲は「悪霊退散」と声を発しながら、小仏を開いた。途端に老婆の体を中心に、光の球体が広がってゆき、当たりを包んだ。悪霊達は自分を包むものが有害であることを肌で感じ、窓を割り、縁に手を掛けた。しかし外に出る前に、その数多の目には街全体を包む封印結界の曼陀羅模様が映った。悪霊達は僧侶達の方を向き、「老害は死ね」と叫びながら再び僧侶達に再び手を伸ばした。しかし時すでに遅く、悪霊達は圧縮されながら老婆の体に吸い込まれていった。
僧侶達は勝利を祝うことはなく、ただ索漠とした気持ちに駆られていた。犠牲になった僧侶の亡骸は、まだ台所の排気口にぶら下がったままで、その血が滴る音だけが部屋に響いていた。
僧侶達は部屋を片付け、荷物を持ってその場を後にした。雀雲は錆びた階段を足腰に痛みを感じながら一段ずつ下りた後、改めて母親が生活していた場所を眺めた。
蚊の鳴くような光量の明かりに照らされたアパートは、目を薄めると空間に溶けてしまいそうだった。母親にはこのようなところで寂しく暮らしていくしか選択肢がなかったことを考えると、雀雲には悪霊達を封印したことが正当化されるような気持ちがするのだった。
雨が降り始めた。しぶきを生やす屋根の下で、折れた排水管が鳴っていた。
他の僧侶達はしばらく雀雲を見ていたがいつまでもその場に留まっているので、声をかけた。
「行こう」
「違うんです」
雀雲は声を震わせながら、屋根を指差した。僧侶達はその方に視線を向けて、息を呑んだ。
アパートの屋根の向こうから、新たな、そして更に大きな悪霊の塊が、こちらを覗いていた。
「老害は死ね」
その日の午後、極秘に結成された悪霊対策諮問委員会の面々は、また悪霊の犠牲者が出たという報告を受けて、「貧困層の高齢者が税金を介して若者から富を搾取している」という、保身の為の情報操作が上手く機能していることに安心していた。
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