アダルトチルドレン
服を着せられた犬を連れた女の横を追い越したりしながら、俺は実家のある住宅街で車を進めていた。ニュータウン計画で区画整理された辺り一帯には、ガレージ付きの二階建ての一軒家が立ち並んでいる。太陽光パネルが屋根に設置されており、周りを厚いガラスのブロックを組み上げて作った塀が囲っている。そして大抵の場合、そのガラスの向こうから花の植えられた鉢や、ディズニーキャラクターの置物が覗いている。所々にある公園には安全性を第一に考えられた遊具があり、下校して来たと思われる制服姿の私立の小学生達がはしゃいでいる。
生まれ育った土地の昔と変わらぬ穏やかな光景が車窓の外を流れてゆくが、俺の心はささくれ立っていた。何故ならお袋から、「兄貴が帰って来た」という一報が入ったからである。
最後の角を曲がると、遠くにお袋の姿があった。実家の前でこちらに手を振っているのを見て、俺は居た堪れない気分になった。何故ならお袋の体が以前にも増して小さくなっていたからだ。それはまるで存在さえ危ぶまれるような痩せ方だった。ふとした拍子に手の動きが空気と同化してなだらかに風になってしまいそうだった。
近付くと、お袋が笑っているのが分かった。俺はそれが老人特有の穏やかな微笑みに変わっているのを見止めて、益々やり切れない気持ちになりながら、次いで兄貴に対する怒りを沸々と覚えた。聞いた話によると、兄貴は数十年ぶりに帰って来てからというもの、ずっと実家に居座っているらしい。兄貴の身勝手さは今に始まったことではないが、俺は心のどこかで真人間になって戻ってくれていることを望んでいた。
気持ちが急いていたせいもあり、俺は家の前に車を止めて窓を開けると、お袋の長旅を労わる言葉に生返事をしてから、今の兄貴の所在を訪ねた。
「まあ中に入ってからでいいじゃない」
お袋は笑顔を絶やさずに悠長に言った。その何の問題も生じていないかのような口ぶりに、兄貴に向かっていた怒りは、今度は兄貴の横暴を寛容に受け入れてしまうお袋に向かった。その調子だから兄貴は付け上がるんじゃないか。と叱責してしまいそうだった。俺は余計な言葉が出て来ないように口を噤んだまま窓を閉じると、またアクセルを踏んだ。
お袋から聞いた通り、実家のガレージから「我が家のプリウス」がなくなっていた。お袋が一人で役所に免許を返納しに行ったことを想像すると、お袋への怒りはなくなり、寧ろ怒りの分自責の念へと変わった。その後悔は俺自身を奮い立たせ、今度こそお袋を兄貴から解放することを決意させた。
力強くドアを閉じて玄関に戻って来ると、お袋は「お腹空いてない?」と腰を屈めながら言った。俺は昼飯を取るのも忘れてここまで来たことを思い出して、「貰おうかな」と言いながらドアを開けた。
「ただいま」というと、後ろから付いて来たお袋が「おかえり」と言った。それが余程可笑しかったのか、それとも近頃全く面白いことが起きなかったからなのか、お袋は涙を流して笑った。顔を赤くして咽るお袋の背を撫でながらも、俺の視線は実家のあちらこちらに向いた。懐かしむ間もなく、俺は兄貴の姿を見止めようとしたが、兄貴は視界に入る限りの範囲ーーー廊下、その奥にあるリビング、廊下の手前を曲がったところにある洗面台、廊下の横手から伸びる二階に続く階段にはなかった。
しかし確信めいた予想が俺にはあった。俺は、階段に新たに手摺と滑り止めマットが設置されているのを見ながら、階段を上り切った先にある、かつては兄貴のものだった部屋に奴はいるのだと思った。そして兄貴がそこで今正に我が物顔で居眠りでもしていることを想像して、今にでも階段を駆け上がって行きたい気持ちになった。しかし目元を拭いながらお礼を言うお袋を見て思い止まった。
手を洗うと、俺は先ずリビングの隅に置かれた仏壇の前に行った。親父は遺影でも笑っておらず、縁の太い眼鏡の内側から切れ長の目を覗かせている。親父は世間からは真面目な男として高い評価を受けていたが、俺達からすれば恐怖の代名詞のような存在だった。自身のへの厳しさをそれ以上に俺達に強要して来る親父だった。我が家の歪を作った張本人だが、今はその死が偲ばれるばかりだった。親父が生きていれば、きっとお袋が兄貴を必要以上に甘やかすのを止めただろう。
親父による被害を最も受けたのは、兄貴だった。今でも青い顔をして叱責が終わるのをただ待つ子供の頃の兄貴の姿が目の裏に浮かぶ。兄貴が高校生2年生、俺が中学1年生の時に親父は死んだ。すると兄貴はそれまでの仮を返す為に我儘を言った。そしてお袋も親父の手前できなかった分、存分に兄貴を甘やかした。
兄貴が怒られているのを見て親父からの叱責を回避する術を身に着けていた俺は、自分がどこかずっと蚊帳の外にいるような気持ちで暮らしていた。俺には我が家を他人事として眺めている節があった。だからこそ今起きている問題を解決するのは唯一問題を客観視できている自分の役割だと俺は思っていた。
お袋はもう中年に差し掛かる俺に対して、まるで育ち盛りの子供に食わせるくらいの大量の、それもどれもカロリーの高い飯を出した。「こんなに食えるかなあ」とぼやきながら箸を進めながら、俺は視界の隅にお袋の温かな視線を感じていた。
お袋を喜ばせるような話題が見つからなかったのでただ黙って食べていると、お袋は最近見たバラエティ番組やこの街の変化について楽しそうに話した。俺は頷きながらも、いつ兄貴のことを切り出そうかとタイミングを計っていた。
何とか全て平らげると、お袋は心底嬉しそうな顔をしたが、俺の目に特に留まったのは、その顔を支えるお袋の骨と血管の浮いた手だった。更にお袋の薬指から結婚指輪が取られているのを見て、俺は益々問題の深刻さを感じた。
次いでお袋が茶を出したので、それを飲んでいると、お袋はまた嬉しそうに俺を見ていたが、俺は苦悶を押し殺すので精一杯だった。というのも、茶の味が明らかに普通のそれとは違っていたからだ。妙な酸味が滑りと共に舌に纏わり付いていた。余りに酷いので、俺は遂にお袋にそのことを言及した。するとお袋の顔色が変貌した。お袋は自らの口元を指で押さえながら、「ごめんね」と繰り返しながら、取り上げるように俺から湯飲みを預かり、急須と共に台所に持っていった。お袋は「ちょっと疲れてるのかな」と無理に笑いながら、それらを洗った。「飯は旨かったよ」と労わっても、お袋は手を動かしながら謝罪の言葉を繰り返していた。
口に嫌な感覚が残っていたのでお袋に見られないように気を張りながらティッシュでそれを取り、ゴミ箱に向かって投げた。外してしまったので、ちゃんと入れようと席を立ってゴミ箱のところへ行くと、そこには高齢女性が一人暮らしする家には似つかわしくない、英字が細かく書かれたけばけばしい色の袋が捨ててあった。切り口には粉が付いており、俺はきっと兄貴がお袋の金で購入したダイエットサプリか何かだろうと思うと、その発見が怒りのきっかけになって、俺は耐え切れず再びお袋に兄貴の所在を尋ねた。
お袋は沈黙した。「二階だろ?」と尋ねても、お袋は答えなかった。業を煮やした俺は立ち上がり、お袋の背後に立った。その瞬間お袋の体が震えたので、俺はお袋の肩を撫でた。そして優しい口調を心掛けながら言った。
「お袋は、いい加減親父の呪縛から解放されるべきなんじゃないかな」
「何言ってるの」
お袋は俺が冗談を発したかのような反応をして見せたが、はぐらかそうとする意図が透けて見えていた。
「兄貴ももう45だ。甘やかされるような年じゃない。あいつが家にいない間も、生活費送ってたんでしょ?もう十分だよ」
「私が好きでやってるから」
「お袋の罪はとっくに償われてると思うよ。もう自分を許してあげなよ」
「ちょっと実家に帰って来るのがそんなにいけないの?」
「兄貴の為にもならないよ」
「そうね、ごめんね」
押し問答に嫌気が差して、お袋の体をこちらに向けさせた。俺は目線を合わせてお袋の肩を揺すった。
「もうお袋の子育ては終わったんだよ」
自分が思っているよりも、ずっと大きい声が部屋に響いた。きっと二階の兄貴にも聞こえているのだろうが、寧ろ聞こえた方がいいと思った。
「終わってないよ」
そう言うお袋の表情を見て、俺は全身が粟立つのを感じた。お袋の窪んだ目は赤く、瞳には何も映っていないように見えた。それは人間が最晩年に見せる生への執着心のようでもあった。俺は強烈な嫌悪感によって言葉を失った。
俺はお袋の体をほとんど突き飛ばすようにして離すと、玄関に向かって歩き出した。兄貴を直接説得しに行く。というのは言い訳で、本心では一刻もお袋の中に巣食う歪から目を背けようとしたのだった。
「待って」とお袋が止めるのを無視して階段を上り、俺は兄貴の部屋の前に立った。昔と同じように、ドアには兄貴の名前がローマ字で書かれた小さな看板が画鋲で留められており、それが僅かに揺れてドアと当たって音を小刻みに立てていた。俺は中に兄貴がいることを確信した。太った髭面の中年の男がベッドでゴロゴロと寝そべっているのを想像すると、体は熱くなる一方だった。
ドアノブに手を掛けて、呼吸を整えながらタイミングを見計らった。入るのは、俺から完全に迷いが消えた瞬間でなければならなかった。でなければ兄貴への説得が失敗することを俺は経験によって理解していた。
頭の中で、部屋に上がり込んで兄貴を説得しようとした三回の体験が思い出されていた。「私立の高校を中退して定時制に通う」と言い出した時、「役者になる」と宣言した時、「芸能事務所を作る」と息巻いた時・・・。
兄貴は親父が死んでから、急に活動的になっていった。俺は、兄貴が親父から奪われた兄貴自身の人生を取り戻そうとしているのだ。と思った。兄貴が口にする夢は、全て親父の最も嫌がる類のものだった。兄貴が自覚していたかは知らないが、俺は兄貴が親父に復讐しようとしていることを知っていた。
結局兄貴は何も手にすることはなかった。兄貴にとっては親父の嫌がる行動することが目的であり、成功することは目的ではなかったからだ。寧ろ成功することは親父を喜ばせることになるので、きっと兄貴は無意識に成功を避けていたのだろう。
身を滅ぼすことを予想していたからこそ、俺は何度も兄貴を止めた。しかし説得は毎回失敗した。兄貴は俺から批判されると、いつだって虚無的な目をした。俺はそこに兄貴の心が抱える埋められない空洞を見た。自分が回避した分の親父からの叱責を全て受け入れたからこそ、兄貴はこうして呪縛に苦しんでいるのだと思うと、兄貴を追い詰めたのは俺なのではないかという気持ちに囚われた。だから俺はこれまで自分の意見を最後まで押し通せなかったのだ。
「あの子に余計なことはしないで」
声がしたので振り返ると、お袋が直ぐそこまで上って来ていた。同じ言葉を繰り返しながら、手繰るように手摺を使って上って来るお袋を見ながら、俺は今まで気付かないフリをしていたことをはっきりと思った。それはお袋にも親父に開けられた空洞があるということだった。お袋は自身が兄貴を甘やかす訳を、兄貴の穴を埋める為だと思っているだろうが、本当はお袋が親父に奪われた「よい母親」としての自分を取り戻す為に行っているのだ。今やお袋はその執着心を便に生きている。だから兄貴を呪縛から救うことは、お袋から生き甲斐を奪うことになり兼ねない。しかし俺はもうこれ以上兄貴に対する罪悪感から目を背けることはできなかった。
全ての歪が解消され、三人が穏やかに日々を過ごすことを願いながら、俺はドアを開けた。
しかし眼前に現れた光景のせいで、俺は発するべき言葉を失った。
ベッドには兄貴が座っていた。年相応に、いやそれ以上に老けた面には、汚らしい髭が生えており、体は不健康な太り方をしていた。至るところに赤っぽい出来物がある一方、肌全体はどこか青白く、血の巡りの悪さを語っていた。そしてそのような中年らしい肉体には似つかわしくない格好ーーーおしめを履かされ、涎掛けを巻かれ、おしゃぶりを咥えさせられ、フリルの付いたベビー帽子を被らされている格好をしていた。
「兄貴?」と声を掛けたが、反応はなかった。兄貴の目は灰色に虚ろだった。おしゃぶりを吸う口元は動物的な無意識さで機能しているだけだった。
「全部やり直そうと思ってね」
振り返ると、お袋は俺が帰って来た時と同じ顔で笑っていた。俺は全てが手遅れだったことをその時察した。
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