第二章 Hello,World あるいは少年が少女に救われる物語
第一話 授業 ~遅れてやってきた学生生活、その始まり~
「キョウカ殿が用意してくれた服は、どれも着心地が良かったけど。これも中々いいな」
新しく手に入れた装いに袖を通したイセルは、感心したように呟く。そうして部屋の中で、軽く体を動かす。
拳。蹴り。そして鞘に納められた愛剣を手にして、数度素振りする。
手足の延長となるほどに使い慣れた得物だ。部屋の壁や家具、照明を傷つけるようなヘマなど、イセルが起こすはずもなかった。
「うん。悪くない。この恰好でも十分戦えそうだ」
イセルが満足げにそう呟くのと、部屋のブザーが鳴ったのは同時だった。
「っと。もう時間か」
愛剣を丁重に置き、代わりに手提げのバッグを持つ。やや足早に玄関へと向かい靴を履き、扉を開けると――
「おはようございます、イセルさん」
制服姿に着替えた麗菜が、穏やかに微笑んでいた。
「ん、おはようレイナ。すまない、少し遅れた」
「いえ、全然大丈夫ですよ。どうですか? サイズは合ってますか?」
「そこは心配ない。むしろ着心地の良さに驚いているくらいだ」
イセルが思ったままの感想を素直に呟くと、麗菜がクスクスと笑い始める。
「……レイナ? もしかして、似合ってないか?」
「ああすいません。そんなことないです。ただイセルさんがあんまりにも楽しそうに言うから、それが少し可笑しかっただけです」
それは笑うほどのことなのか、イセルには判断がつかなかった。けれどそんな疑問は些細なもので、イセルも釣られるように頬を緩ませる。
――浮かれてる、ってことなんだろうなこれは。
自身に生じている、興奮に似た心地。新しく始まろうとしている未知なる生活に、さしもの救世の英雄も、年齢相応の幼い高揚を抑えられずにいた。
「まさか俺が学生になるなんてな。元居た世界じゃ考えられない」
「緊張してますか?」
「いや、緊張ではないな。ただこう、気が急いているような感じがする。楽しみすぎて落ち着かない。そのおかげで昨日の夕食もレイナがせっかく作ってくれたのに、あまり喉を通らなかったからな」
「ごはん三杯も食べといて、なに言ってるんですか……」
瞳を輝かせるイセルに、麗菜は呆れたようにツッコミを入れる。だが再び麗菜は、穏やかな笑みを浮かべる。
「それじゃ、行きましょうか」
「ああ。これからよろしく頼む」
好機嫌な様子を見せる麗菜に、イセルもまた同じような響きの声で答える。そしてイセルと麗菜は、二人揃って校舎を目指した。
土曜日に行われた麗菜と有栖野との決闘のあと、イセルの身の振り方について、鏡花と話し合いになった。麗菜やひよりを交えて行った結果、イセルは日本国立魔導士学校に籍を置くことになった。
異世界からの来訪者であるイセルは、魔導士のみならずあらゆる分野へ多大な影響を与えることになる。現段階では日本の魔導士にしか、情報は公になっていない。だがことの大きさゆえに、どれだけ情報を規制しようとも、一般社会に漏れるのは時間の問題だろうというのが鏡花の見立てであった。そして一般社会にリークすれば、他国の魔導士協会にもイセルの存在は知られることになる。
情報統制をした上で露呈すれば、規制したこと自体が日本の魔導士を叩く口実となりかねない。
いずれ漏洩するのであれば、逆にこちらから情報を公開するというのが鏡花の狙いだった。ただし日本魔導士協会や政府機関に協力を要請し、イセルの身を固めた上で行えば、国内はともかく国外からの干渉や追及を跳ね除けやすくなる。
イセルに日本国立魔導士学校の生徒という身分を与えるのも、その一環だった。
「そして全て準備が整ったころに発表、って算段ッスか。いやー、やっぱ楸尾先生すごいッスね。さっすが歴代最年少で魔導士学校の理事長になった人。魔導士としての実力だけじゃなくて、あそこまで見据えて物を考えてるなんて。自分にゃ到底無理ッス」
やれやれと、芝居がかった仕草で手を振りながらひよりが言う。今イセルたちが居るのは高等部校舎内の教室。前の方の長机を右からイセル、麗菜、ひよりの順に座って占有し、一限目の授業を待っている状態だ。
「一国の魔導士育成機関の長なら、頭も回らなければ勤まらないだろう。しかもあの年でそこまで上り詰めるとなれば、先見の明も並大抵のものじゃない。
それに仕事も早いな。まさかこんなすぐに手筈を整えてくれるとは思わなかった」
「土曜日にお話しして、次の日にはもう必要な書類や学生証端末、戸籍やらが準備出来てましたからね。その分、目の下のクマもすごいことになってましたけど……」
苦笑を零す麗菜の言葉に、イセルとひよりは黙って首肯した。
中等部では一般の学校と同じようにクラス分けが行われ、クラス単位で授業を受けていくことになる。だが高等部からはクラス分けは無く、一般大学と同じように生徒一人一人が受ける授業を選択し、単位を取得していくことになる。高等部に上がるころには自身の得意魔法、最適属性が定まっており、クラス単位で画一的に授業を行うことが難しくなっていくからだ。
得意属性が火属性である者が、水属性魔法の授業を受ける意味は皆無に等しい。そして研究職を志す者であれば、実技主体の講義よりも理論・実験主体の授業を受講すべきである。
本来ならイセルも個人で授業を選択しなくてはならないが、そもそも魔力を持たない今のイセルに、魔法の授業は意味がない。
だが学生として在籍しているという証拠、その実績を残すためには手持ち無沙汰にさせるわけにもいかず、苦肉の策として麗菜のカリキュラムと同じ授業を受けることになった。ひよりが居るのは、次に行われる『精神干渉魔法 概論』をたまたま彼女も選択していたためだ。
――何もしてこないのはいいと思うが、遠巻きに観察されるっていうのも鬱陶しいもんだな。
麗菜とひよりとの会話に参加しつつ、教室内に意識を巡らせるイセルはそんなことを思う。
イセルが日本国立魔導士学校の生徒なるにあたり、鏡花は全生徒に向けて、イセルの略歴、召喚魔法によって召喚された存在であること、日本魔導士学校の生徒として迎えることなどの情報を、緘口令を敷いた上で発表した。そのためイセルの存在は全生徒に認知されている(もっとも、有栖野との模擬戦で十分に存在は知られることになったのだが)。
そんな他の生徒が一様に自分たちへ向ける視線や意識を、イセルは感じ取っていた。遠巻きに投げかけられるそれらは、主に二つに分けられる。
一つは興味。戸惑いや好奇心に満ちたものは、否血派や血の浅い家系の魔導士だろうと、イセルはあたりをつける。
もう一つは敵意。刺々しく排他的な意思を孕む視線は、間違いなく尊血派の生徒たちのものだった。
――さて、どうしたもんかな。二人が気にしていない以上、俺だけ気を揉んでいても仕方ないし。
そんな向けられる注意に、麗菜やひよりは戸惑ったり委縮する様子を見せない。恐らく似たような視線に晒されることが多かったのだろうと、イセルは察した。
麗菜やひよりには気付かれぬように表に出してはいないが、僅かばかり感じる居心地の悪さをイセルが持て余していたところだった。
「やや、遅れてしまって申し訳ありませんね」
教室へ入ってきた教師の言葉に、イセルたち三人を含めた生徒たちの意識がそこに向けられる。
小柄な肉体は背が曲がっており、いかにも老爺といった風体の男だ。表情は好々爺らしく朗らかで、しかし瞳に宿す光は理知的な気品を伴っている。
「あー、あー。マイクは入っていますね。後ろの人、聞こえますかな」
老いてしゃがれた声が教室内に響く。自由席であるため、皆思い思いの席に座っており、イセルたちよりも後ろの席に座る生徒の一人が返事をした。
男はその反応に満足したように頷き、今度は視線を教室の奥から前方へと視線を走らせる。なぞるようにゆっくりと流れる視線が、イセルの所で止まる。
「そこの、君」
名前を呼ばれてはいないが、明らかにイセルへと投げかけられた言葉。お蔭で教室中から向けられていた意識が、より一層明瞭なものとなってイセルに向けられた。隣からは麗菜とひよりの視線も加わる。
「学校長から話は聞いております。なので自己紹介をば、と」
そんな周囲の反応を気にする様子もなく、男はのんびりとした、マイペースな口調でイセルに言う。
「『精神干渉魔法 概論』を担当致します、
穏やかな声で紡がれる言葉に、イセルは世辞や嘘のような虚ろさを見いだせなかった。梅岡の演技力がイセルの観察眼を逃れるほど卓越したものであれば話は別だが、そうでなければ梅岡は本心で――悪意なく言っていることになる。
だが言葉の内容と、梅岡独特の間延びした口調のアンバランスさは滑稽で、周囲から小さく笑い声が漏れる。
――こいつら……って、レイナたちも!?
梅岡のことを可笑しく思っているのは分かっているものの、彼の言葉に含まれているのはイセル自身であり、当人からすれば笑われていい気のするものではなかった。そして麗菜とひよりも笑いを噛み殺そうと俯いて震えているのを見て、イセルは横目で恨みがましげに見る。
「どうかしましたかね?」
「あ……いえ……」
周囲の反応に気付いた様子もなく、訝しげにイセルに問う梅岡。やや面食らったように言葉を詰まらせたイセルだったが、
「イセル=ボーデルト=ミハイル=ファルザーです。よろしくお願いします」
気持ちを切り替え、自身の動揺や苛立ちを微塵も示すことなく、イセルは梅岡に告げる。
「ふむ、結構。この授業自体は四月の初めからすでに始まっており、初の参加で申し訳ないですが、前回の続きから始めます。分からないことは授業のあとに私の下に聞きに来るか、
それ以上追及することなく、梅岡は授業の開始を告げる。
「プクク……イ、イセルさんが敬語使ってんの、不自然ッス……!」
「ちょ、ひより……!?」
ますます大きく笑い始めるひよりと、それを諌める麗菜。とりあえずあとで一発叩いてやると心に決めながら、イセルはこの世界に来て初めてとなる授業を受け始めた。
「――えー、皆さんもすでに知るところではありましょうが、魔力はそれ自体で世界に干渉し、現象を引き起こすことはできません。魔法陣に魔力を循環させて消費し、
精神干渉魔法も概ねその原則の通りなのですが、実は魔力を直接対象にぶつけてやることで、対象の精神にある程度影響を与えられるということが知られており――」
授業開始から20分。梅岡の授業とても分かりやすくまとまっており、教師が自身の趣味に走ったような、自分勝手の、生徒を置き去りにするような難解な内容ではない。プロジェクターに映し出されるパワーポイントも非常に見やすいデザインで、見る者への心配りが窺える。
声も非常に聞き心地が良く、のんびりとした口調に乗せられて紡がれる言葉は、聞く者全ての耳にすんなりと入ってくる。生徒からすれば何の不満も抱かせることはない。
ない、のだが……
――これは、新手の精神干渉魔法か何かか……!?
重さを増していく瞼を懸命に持ち上げながら、イセルは必死に睡魔と戦っていた。
梅岡の声は四月下旬の麗らかな気候と相まって、暴力的なまでに眠気を催させるものだった。チラリと後ろを振り向いたイセルは、生徒の九割ほどがすでに堕ちているのを確認した。比較的前の席で受けている生徒であっても例外でなく、残りの生徒も必死に抗う者や、眠りに至るまで秒読みの者まで、ある意味酷い光景となっている。
授業内容は生徒を置き去りにするものではなかったが、梅岡本人はそうではなかった。眠っている生徒を注意して起こすでもなく、好々爺然とした様子を崩さぬまま、淡々と授業を続けている。
「……なあ、レイナ」
堪らずイセルは、隣に座る麗菜に小声で話しかける。麗菜はこの教室における数少ない例外、つまり授業を聞いてきちんとノートをとっている生徒だった。
それでも時折、眠そうに目を擦っていたが。
「は、はい? どうかしました? 何か分からないことでも?」
一瞬だけピクンと体を震わせた麗菜は、小首を傾げてイセルに答える。
「いやそういうわけじゃないんだが、その……あの教師は、いつもこんな感じなのか?」
イセルの問いに、麗菜は困ったようにはにかむ。
「本当はすごい先生なんですよ? 梅岡 憲道。梅岡家九代目の魔導士で、『心』を最適属性とする、精神干渉魔法のスペシャリスト。もう現役は引退されてますけど、当時は同期だった
「心属性……無傷での無力化……そしてこの眠い授業を見る限り、誘眠魔法の使い手だった?」
冗談めかした声でイセルが言えば、麗菜も小さく笑って頷いた。
「現役時代の通り名は『
梅岡先生の授業はとても人気で、毎年抽選が行われるくらい応募が殺到するんです。ただそれは、授業中に寝てても怒られないからとか、テストもそんなに難しくないから単位が取りやすいとか、大体の人がそんな理由だと思います」
笑みは湛えたまま、麗菜の表情が曇る。麗菜の生真面目さが現れる反応を見て、イセルは穏やかな笑みを浮かべる。
「レイナはもちろん、違うんだろ?」
麗菜は一瞬だけ目を丸くする。そして再び浮かべた笑みは、どこか嬉しげであるようにイセルには見えた。
「魔導士っていう職業はいつも死と隣り合わせの職業だからって、お父さんはいつ自分が死んでも私が困らないように、私のために色々なものを残してくれました。
「その中の『選択するべき授業の一覧』ってところに、梅岡先生の授業があったんです。お父さんが学生だった頃、大変お世話になった方だったそうです。
お父さんが受けて役に立つって思った授業なら、絶対に素晴らしい授業で、そして素晴らしい先生なんだろうなって。そしてそれは正解でした。私が中等部の頃に一度だけ授業を行ってくださることがあって、その時には他の先生と違って、あの先生は私のことを他の生徒と同じように、平等に接してくれた。
授業が終わって質問しに行って、そのときに『私の授業のあとに質問しにくるほど熱心な生徒は、君のお父さん以来だ』っておっしゃったんです。ちっぽけなことかもしれないけど、それが私は、嬉しくて。
だから高等部に入って、絶対にこの先生の授業を取るんだって心に決めていたんです。……眠たくなる授業なのは、否定しませんが」
最後は誤魔化すように、バツの悪そうな笑みを浮かべる麗菜。そしてイセルは軽く身を伸ばし、大きく深呼吸をして姿勢を正した。
「イセルさん……?」
「君のお父さんがそう言うのなら。そして君自身が素晴らしい教師だと思うのなら、ノリミチ殿の授業を聞き逃すわけにはいかなくなった。レイナの父と、レイナの直向きさを見抜ける教師の授業なら、無駄にするわけにはいかない。この眠気にも抗ってみせる」
そう言ってイセルは、気合いの入った表情を浮かべた。
「あ、ありがとう、ございます……」
「ん? 何か礼を言われるようなこと……レイナ?」
「は、はい?」
「体調が悪いのか? 少し顔が赤いが……」
「い、いえ! なんでもないです! 本当に、なんでも!」
「そうか? ならいいが……」
急に慌てふためく様子を見せる麗菜に、怪訝そうに眉を寄せるイセル。だが本人が否定している以上、更に追及するのは野暮かとイセルは思いとどまった。
「ところで、レイナ」
その代わりに、先ほどからあえて無視していることについて質すことにしたようだ。
「な、なんですか……?」
イセルの問いに、息を呑むように慎重な姿勢を麗菜が見せる。
「こんなこと考えたくないが……君の親友も、まさか他の輩と同じような理由で選択したわけではないな?」
「へ……? あ、あー……アハハ……」
毒気を抜かれた声をあげ、呆れたようなイセルの視線の先を辿り、麗菜は渇いた笑い声を漏らす。
麗菜の隣に座るひよりは、腕を枕にして突っ伏すように寝ていた。
そして生徒の状況に構う様子を見せず、梅岡は変わらず授業を進めているのだった。
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