4

 オレンジ色の空が、半分くらい淡い紫色が混ざった夕暮れ、カトリーナはクリストファーとともに庭先にいた。


 初夏の夕暮れの、少し涼しい風が、ふわりふわりと吹いている。


 空を見上げれば、紫色の空に影を落とす雲が、奥へ奥へと流れて行くのが見えた。上空では、今日は風が強いらしい。


 芝生を踏みしめる微かな足音を消し去るような勢いで虫の鳴き声が響いている。


 広い庭を散策するように、クリストファーと歩いていた。


 のんびりした足取りで並んで歩くが、二人の間に会話はない。


 お互いがお互い、口を開けば何かが終わることを知っていた。


 それは、淡く優しい恋。憧憬。


 カトリーナはクリストファーが好きだった。今でもきっと、好きなのだろう。こうして歩いていると胸の奥が締め付けられるようになる。けれど、その好きは――、きっと「違う」。好きだけど、ときめいたけれど、気づいてしまったから。


(でも、ドキドキしたの……)


 ドキドキして、そばにいると嬉しくて、緊張して――、幸せだった。


 でも、自分の気持ちに気づいてしまったから、彼の手は取れない。


 二人の間に流れる、優しくて苦しい沈黙を破ったのはクリストファーだった。


「……ブランコから落ちた君を助けたのは、僕じゃないよ」


 クリストファーの双眸は、庭の奥でひっそりと風に揺れているブランコを見つめている。


 カトリーナはすでに気がついていたから、驚かなかった。


「君が幸せそうに初恋を語るから……、レオンがそうだって言えなかった。君とレオンが、すでに婚約を解消していたこともあったけど―――、なんだか、ちょっと悔しくて」


 クリストファーの視線がゆっくりとカトリーナに移る。


「十二年前、僕もここにいたんだよ。レオンと違って庭には降りなかったけど、君のことは知っていた。レオンが天使みたいな子だと楽しそうに語っていたのもあるけど……、居間の窓から、君がブランコを漕いでいた姿を見ていたよ」


 大人たちは、子供が生まれそうな侯爵夫人の様子に慌てていたけれど、当時十二歳だったクリストファーは、侯爵に挨拶をすませたあと、一人居間で時間をつぶしていたらしい。


「きっとあのとき、僕もレオンと一緒に庭に降りていたら、君の中の思い出の一つに加えてもらえていたのかなと思ったら、少し悔しかったんだ」


 ごめんね、と謝るクリストファーに、カトリーナは首を横に振った。


 クリストファーは優しく目を細めて、空を見上げる。


「僕は……、またこの国から出て行こうと思う」


「どうしてですの……? 問題は解決したと、レオンの廃太子を望む人たちはまとめて捕えられたって、聞いたのに」


 レオンハルトを陥れて、クリストファーを王太子につけようと今回の騒ぎを起こした者たちは、ミルドワース伯爵を筆頭にすべて捕えられたとエドガーが言っていた。十年前の残りのため、それほど数が多いわけではなく、クリストファーが見つけた証拠によって、捕えるのは簡単だったとエドガーから聞いた。


 クリストファーは十年前の騒動をとても悔やんでいて、自分がいなければ騒動が起こらないからと国から出て行ったのだと教えてくれたのはレオンハルト。


 もちろん、今後同じようなことが絶対にないとは言い切れないが、ひとまず騒動は終結したのではないだろうか?


「クリス様が出て行く理由なんてもう……」


「十年いなかった王子が今更戻って来ても来なくても、何も変わらない。それなら、小さな火種すら消しておいた方がいいだろう? 僕がいれば、またいずれ、同じようなことが起きるかもしれない」


 カトリーナはきゅっと唇をかんだ。


「そんな自己犠牲……、レオンは喜びませんわ」


「そうだろうね」


「それなら……!」


 クリストファーは微苦笑を浮かべる。


「もう決めたんだ。僕は―――」


「逃げるのか」


 突如耳を打った鋭い声に、カトリーナは驚いた。


 振り向けば、レオンハルトがこちらの向けて歩いてくるところだった。その顔は氷のように冷たい。カトリーナはいまだかつて――婚約関係にあったときですら――見たことのないレオンハルトの鋭い表情にびくりとする。怒っているのだと一目でわかった。その怒りの矛先はカトリーナではないけれど、それでもビリビリするような怒りが伝わってきて足がすくむ。


「また逃げるんだな。十年前と同じように」


「……逃げるんじゃない。僕は君を守りたいだけだ」


 クリストファーがついとレオンハルトから視線を外す。


 レオンハルトはゆっくりと歩いてくると、クリストファーの目の前でぴたりと足を止めた。そして――


「きゃあぁ!」


 カトリーナは悲鳴を上げた。


 レオンハルトが、クリストファーを殴り飛ばしたからだ。


 受け身も取らずに殴られたクリストファーがたたらを踏み、その場に尻餅をつく。


 頬を殴られたクリストファーは、口の端が切れたようで、つーっと一筋血が滴って、顎からポタリと落ちた。


「誰が守ってくれと言った!?」


 仁王立ちでクリストファーを見下ろして、レオンハルトが大声で怒鳴った。


「勝手なことをしやがって! 俺は一言も身を引いてくれなんて言ってない。出て行けなんて言ってないだろう!? それなのにお前は、知ったような顔をして、あとに残された俺たちのことも考えずに、さっさといなくなりやがって! そして、ようやく戻ってきたらまた出て行く? 逃げるのも大概にしろ、弱虫が!」


「レオン!」


 もう一発殴りつけそうな勢いのレオンハルトに、カトリーナは真っ青になって止めに入る。


 殴るのを阻止するように腕にしがみつけば、レオンハルトはカトリーナに視線を移して、細く息を吐きだした。


「……大声を出してすまない」


 泣きそうなカトリーナの頬を軽くなでて、レオンハルトはクリストファーを見下ろす。


 クリストファーは口元の血を手の甲でぬぐうと、よろよろと立ち上がった。その頬が真っ赤に腫れあがっている。


「……僕がいたら、火種になる」


「だからなんだ。火種が起これば消せばいい。だいたい、この国にいなければ大丈夫だと思っているなんて甘いんだ。今回のことだって、お前がこの国にいなかったのに、ミルドワースたちが水面下で動いていたじゃないか。いてもいなくても同じなら、出て行く必要がどこにある」


 カトリーナはレオンハルトの腕にしがみついたまま、クリストファーを見上げた。


 唇をかんで、視線を落とすクリストファーは、どこか苦しそうで、カトリーナは自分が部外者だと知りつつも口を開いてしまう。


「クリス様……、わたしは、もしも弟のアーヴィンがどこか遠くに行ってしまったら、とても悲しいですわ」


「……カトリーナ?」


 突然何を言うのかと、レオンハルトが不思議そうな顔をした。


 カトリーナはレオンハルトを見上げたあと、クリストファーに向かって微笑む。


「レオンも、クリス様がいなくなって、きっととても悲しかったんですわ」


「カトリーナ!?」


 レオンハルトがギョッとしたような声を出した。


 しかし、カトリーナは気にせずに続ける。


「きっとクリス様も悲しかったのでしょう? もう十年もお互いに淋しい思いをしたんですもの、これ以上離れて暮らすなんてつらすぎますわ」


 カトリーナは片手をレオンハルトの腕に添えたまま、手を伸ばしてクリストファーの手を握る。そして、その腕を引っ張ると、無理やりレオンハルトの手とつながせた。


「もし、今後も今回のようなことが起こるなら、今度はこうして、手を取り合って一緒に頑張ればいいのではありません?」


 そう言って、カトリーナがにこにこと微笑むと、レオンハルトとクリストファーは顔を見合わせて、ややあって同時に吹き出した。


「カトリーナ君は本当に……」


 くすくすと笑う二人を見て、カトリーナは少し考える。


(本当に……?)


 本当に、なんだろう。アーヴィンはよくカトリーナの性格を「お花畑」と揶揄やゆするけれど、まさか彼らも同じことが言いたいのだろうか?


 お花畑なんて言われるほど奇妙なことを言ったのかしら――とカトリーナが真剣に悩みはじめたころ、レオンハルトがカトリーナを背後から抱きしめてこう言った。


「君は、本当に天使みたいな人だ」

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