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「おそらくカトリーナをさらったのは、ミルドワース伯爵だ」


 ソファにどかりと腰を下ろし、イライラした表情を浮かべるレオンハルトは、アリッサをひとまず落ち着けて口を開いた。パニックになっていたアリッサだが「危害は加えられないはずだ」というレオンハルトの言葉に安心し、エドガーが差し出した蜂蜜入りの紅茶を飲むころには、冷静な侍女の顔を取り戻していた。


「ミルドワース伯爵ですか?」


 アリッサが不思議そうな顔をする。


 ミルドワース伯爵は、アッシュレイン領に隣接する領地を任されている。アッシュレイン領の三分の二ほどの面積の領地の大半が牧草地で、羊毛業が盛んなところだ。そのほかの名産品と言ったらリンゴくらいで、アッシュレイン領と同じく、のどかな風景が広がる、まあ、何もないと言えば何もないところだった。


 エドガーは、カトリーナが心配すぎて苛立っているレオンハルトの代わりに、その後を引きついだ。


「今はもう忘れられかけていますが、十年前、レオンハルト殿下と、そして殿下の兄気味であるクリストファー殿下、この二人をそれぞれ擁立しようとして、対立が起こったことを覚えていますか?」


「ええ……」


 アリッサは神妙な顔つきで頷いた。


「そのとき、クリストファー殿下を推していた貴族の筆頭が、このミルドワース伯爵です。その時はすでに、殿下の母方の公爵家はレオン様の暗殺未遂の件で取り潰されていて、伯爵が残っていた公爵家寄りの貴族たちを取りまとめていたと言えばいいでしょうか。結局、クリストファー様が自ら身を引き、国外に行かれたことで騒ぎは沈静化しましたが……」


「そのクリストファーが戻って来たんだ。ミルドワースが騒ぎ出してもおかしくない。というか、いくら兄がいなかったとは言え、この十年黙っていた方が不思議だった」


 レオンハルトがチッと舌打ちする。


「ちょっと待ってください、クリストファー様がお戻りになられているんですか?」


 王太子の兄が十年ぶりに戻って来たとなれば、噂になっていてもおかしくない。それなのに、アリッサの――貴族の邸に仕えている侍女の耳にも入っていないのは妙だ。


 レオンハルトはぬるくなった紅茶をのどに流し込む。


「俺もつい最近まで知らなかった。こっそり戻って来たらしい。ああ、アリッサ、お前も会っているぞ。カトリーナの周りをちょろちょろしていたクリスという男がいただろう。あれが兄だ」


「なんですって!?」


 言われてみれば確かに、クリスとレオンハルトの顔立ちは似ている。アリッサはクリスのことをどこの馬の骨ともわからない男として警戒していたので、かなり失礼な態度を取っていたのではないかと青くなった。


「クリストファーがどういうつもりで戻って来たのかは知らない。だが、あいつが戻って来たことでミルドワースがもう一度クリストファーを王太子にと騒ぎ出すのは目に見えている。あいつには今年十七歳になる娘もいるしな。あわよくば、というのもあるだろう」


「それで、お嬢様が邪魔に……?」


「それは―――、少し違うかもな」


 レオンハルトはそこで言葉を区切ると、ソファから立ち上がって居間の窓際まで歩いていく。


 エドガーがからになったレオンハルトのカップに紅茶を注ぎながら、主の背中に視線を投げ、あとを引き取った。


「ミルドワース伯爵は情報に聡い方です。殿下がカトリーナ嬢を追ってこちらに来ていることも、彼女の邸を頻繁に訪ねていることもご存知でしょう。殿下にとって大切な方―――そう認識したからこそ、カトリーナ嬢に目をつけたのでしょうね。ましてやアッシュレイン侯爵は殿下寄りで、ミルドワース伯爵とはたびたび対立していますし。侯爵への個人的な恨みもあるのかと」


「カトリーナを攫って脅せば、俺が言うことを聞くと思っているのだろう」


「まあ実際、王太子とカトリーナ嬢を天秤にかけたとき、カトリーナ嬢を選ぶくらいしそうですからね、殿下は」


「当り前だ。別に王太子はなりたくてなっているんじゃないからな。クリストファーがほしいならくれてやる」


「またそんなことを……」


 エドガーがやれやれと息をつく。


 レオンハルトはもうじき日が暮れそうな外の様子を睨みつけるように見つめた。


「だが、クリストファーがこの件に絡んでいるのなら話は別だ。俺は俺の大切なものを傷つける奴は許さない」


 レオンハルトは振り返ると、エドガーに向かって低く命じた。


「クリストファーを探して連れてこい。抵抗するようなら構わん、俺の名を使って拘束しろ」

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