4

 レオンハルトは、生まれてから一度も感謝したことのない神に、はじめて感謝していた。


 半月と少し前、仮面舞踏会で出会った淡いブラウンの髪の可憐な少女。


 従者に淡いブラウンの髪に紫色の瞳をした女性を探させていたが、誰一人として見つからず落ち込んでいたときの幸運だ。


(とにかく、名前を……、いや、まず恋人の有無か?)


 こんなに可憐で素敵な女性なのだ、恋人や婚約者がいてもおかしくない。レオンハルトは彼女の隣にほかの男性が立つところを想像してどんよりしかけたが、すぐに首を振った。


(いや、こんなところに一人で来ているくらいだ。きっとまだ恋人や婚約者はいないはずだ!)


 エドガーが聞けば「能天気でいいですね」と厭味の一つでも言いそうだが、幸いなこととに、エドガーに内緒で城を抜け出してきたので、小言を言う乳兄弟はいない。


 レオンハルトはワルツを踊り終えたあと、彼女を中庭に誘った。


 夜空には細い三日月がかかっており、この前の満月のように明るくはなかったが、今日の空には雲が少ないのか、星がきれいに見える。


 レオンハルトは彼女のためにベンチの上にハンカチを広げた。


「ありがとうございます」


 はにかみながら腰を下ろす彼女の、なんと可憐なことか!


 レオンハルトはドキドキしながら彼女の隣に座ると、何から話そうかと、恋を覚えたばかりの少年のように緊張した。


 エドガーがここにいたら「二十歳を過ぎての初恋って気持ち悪いですね」くらい言いそうである。


「仮面舞踏会にはよく来られるんですか?」


「いいえ、実は今日が二回目なんです」


「そうなんですか。通りで初々しい反応をなさっていたはずだ」


「初々しい……、そんな反応していました?」


「きょろきょろと物珍しそうで、とても可愛らしかったですよ」


「まあ、恥ずかしいわ」


 彼女はそう言って照れたように頬に手を当てるとうつむく。


(ああ、可愛い……!)


 レオンハルトは身悶えそうになった。 


 できることなら今すぐ彼女の仮面をはぎ取ってその下の素顔を拝みたい気分だが、その衝動をぐっとこらえ、レオンハルトはコホンと咳ばらいをする。


「と、ところで、レディには恋人はいらっしゃいますか?」


 さりげなく訊くはずだったのに、全然さりげなくならなかったが、まあいい。


 レオンハルトはドキドキしながら彼女の回答を待った。


 彼女は考え込むように視線を落とし、それから薄ピンク色の唇を軽く舐めて、口を開いた。


「恋人はいませんわ。婚約者はいたのだけれど……」


「婚約者!?」


 声を裏返したレオンハルトは、深呼吸を一つした。落ち着け。彼女は「いたのだけれど」と言ったのだ。


 彼女はくすりと小さな笑みを浮かべる。


「婚約は、解消したんです。いえ、された、というのが正しいけれど」


「と言うと?」


「婚約破棄されてしまったのですわ」


「なんですって!? それはひどい!」


 レオンハルトは自分のことをすっかり棚に上げて憤った。


「あなたのような素敵なレディにそんな仕打ち……! 許せませんね、その男!」


「ありがとうございます。でも、わたし、全然落ち込んでいなくて」


「あまりお好きではなかったのですか?」


「どう……かしら? 実はあんまりお会いしたことがなくて。会ってもほとんど会話にならないし、せいぜい世間話くらいかしら? よくわからない方で、わたしといても楽しそうではなかったので、これでよかったんだと思います。わたしも―――」


 彼女はそこでいったん口を閉ざすと、ドレスのスカートをもじもじといじりはじめる。その仕草も可愛くてレオンハルトがキュンとしていると、その直後、彼女の口から爆弾発言が落とされた。


「わたしも、これで初恋の方を探せるので、実は嬉しいんです……」


 きゃ、言っちゃった! 内緒にしていてくださいね――、顔を赤く染めている彼女の言葉は、残念ながらレオンハルトの耳には入らなかった。


「……初恋?」


「ええ。十二年前なんです。子供のころ、庭のブランコから落ちたところを助けていただいて」


「そんなことが……」


「はい。金髪の、五歳くらい年上の方かしら? 彼とはそれっきりお会いできていないんですけれど、きっと巡り合える運命だと信じています」


「う、運命……」


「ああ、どちらにいらっしゃるのかしら」


 彼女は、うっとりと夜空を見上げてつぶやく。


(初恋……、運命? そんな……)


 レオンハルトは脳を誰かに揺さぶられているような気分になった。吐きそうだ。


 レオンハルトはよろよろと立ち上がると、「気分がすぐれないので」と言って彼女に背を向けてふらふらと歩き出した。


「まあ、大丈夫ですの?」


 彼女の心配そうな声が背後から聞こえてくるが、レオンハルトは小さく頷いて、そのまま玄関前に回り、馬車に乗り込む。


 パタン、と馬車の扉が閉まると。


「初恋―――、そんなぁ―――!」


 馬車の中にほかに誰もいないこといいことに、頭をかきむしって叫んだのだった。

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