婚約破棄されました

1

 幼いころはブランコが大好きなおてんばだったカトリーナも、年齢を重ねるとそれなりに落ち着きが出てくる。


 カトリーナ・アッシュレインは今年、十七歳。


 ヴァレリアン国の王太子であるレオンハルト・ヴァレリアンとの婚約が三年前に決まり、あと一年もすれば王太子妃として嫁ぐことが決まっている。


 婚約が決まった直後からはじまったお妃教育のおかげか、彼女の洗練された所作や、花が咲くような笑顔はもっぱら社交界でも有名で、いつ王妃になっても恥ずかしくないと言わしめるほどであった。


 さて、そんなカトリーナである。


「うふ、うふふふふふふふ……」


 朝日が昇り、そろそろカトリーナを起こそうかと彼女の部屋にやってきた侍女アリッサは、部屋の中から聞こえてきたくぐもった笑い声にぎょっとした。


 部屋をのぞいてみると、カーテンが大きく開けられ、白いシルクの天蓋がぶら下がっているベッドの上のシーツが、こんもりと山のように膨れている。


「う、うふふふ、ふふっ。いいわぁ、す・て・き」


 声はシーツの中から聞こえてくる。


 今年二十歳になるアリッサは急いで部屋の扉を後ろ手で閉めると、額に手を当ててため息をついた。


「騎士の略奪愛も素敵ね。燃えるわ……!」


 うっとり、と。


 シーツの中から聞こえてくるそのつぶやきを聞いたアリッサは、大股でベッドまでの距離を詰めると、勢いよくシーツをはぎ取った。


「お嬢様!」


「うきゃあっ」


 およそ令嬢らしくない悲鳴を上げて、シーツの中から現れたのは、カトリーナ・アッシュレインその人である。


 普段美しいウェーブを描く銀髪も、寝起きのせいか、シーツを頭からかぶっていたせいか、鳥の巣のようにボサボサだ。


 青に近い紫色の瞳だけが美しい宝石のようにキラキラと輝いている。


 アリッサは腰に手を当てると、アリッサが十五歳の時から仕えてきた、半分妹のようにも思っている主をキッと睨んだ。


「また恋愛小説なんて読んでいましたね!」


「う……」


 カトリーナは慌てて読んでいた本を背後に隠したが、ばっちり見つかったあとではもう遅い。


 アリッサは盛大にため息をつくと、


「何度も言いますけど、どうか恋愛小説はお控えください。それでなくても妄想癖があるのに、そんなものを読んでは癖も治らないじゃないですか。しかも、変な笑い声は上げるし……。とてもじゃないけれど、今のままではお嫁には出せませんよ」


「うう……」


「いいですか、お嬢様。もう一年もすれば王太子殿下に嫁ぎ、王太子妃となられるんですよ。王太子妃が恋愛小説を読んで妄想しては、ぐふぐふ笑っているところを見られてごらんなさい! この国も終わりです!」


「そんな……、ぐふぐふなんて笑ってないわ」


「笑い方なんてどうでもよろしい! 似たようなものです!」


 そんなはずはない。もっと可愛らしい笑い方をしていたはずだとカトリーナは思うが、ここでそんな反論をしてはアリッサを怒らせるだけだ。


「まったく……、黙っていればどこに出しても恥ずかしくないお嬢様ですのに、どうしてそうなんですか……」


 カトリーナはベッドの上でシュンとした。


 幼いころ庭でブランコに乗ったり走り回って遊んでいたカトリーナも、十をすぎるころにはさすがに母親が口うるさくなってきて、外に出て遊ぶ機会もめっきり減った。


 最初は不貞腐れていたカトリーナだったが、昔から絵本を読むのが好きだった彼女が恋愛小説にのめりこむまで、そう時間はかからなかった。


 もともと妄想気質な彼女は、気がついたときには恋愛小説を片手に妄想して笑うようになり、カトリーナの母親が娘のその妙な癖に気づいたときはすでに手遅れだった。


(お母様ってば、悲鳴を上げて気を失うんだもの、失礼しちゃうわ)


 おかげでカトリーナが十六歳になるころには恋愛小説禁止令が出されてしまって、こうして隠れて入手した恋愛小説を、こそこそと読むしかなくなったのである。


 カトリーナにとって幸運だったのは、五歳年下の弟がカトリーナの妄想癖に寛容だったことだ。彼はおおっぴらに買いに行けないカトリーナにかわって恋愛小説を買ってきてくれては、こっそり手渡してくれるのである。よくできた弟だ。


 ――そうやって能天気な顔をして含み笑いをしている姉さんが好きだよ。


 果たして褒められているのかどうかはわからないが、弟アーヴィンはそう言って笑う。


(だいたい、別に王子様と結婚したいわけじゃないのよね)


 カトリーナの「王子様」は十二年前からたった一人なのだ。それは婚約者である王太子ではなく、十二年前の夏、ブランコから落ちたカトリーナを優しく助けてくれた、金髪の綺麗な少年なのである。


(ああ……、もう一度会いたいなぁ)


 あの金髪の少年に会ったのは、あの日がはじめてで、そして最後だった。


 もし、もう一度あのときの彼に出会えるならば――


(手と手を取って、愛の逃避行……。す・て・き)


 うっとり、とカトリーナは想像の中の彼を思い、物憂げなため息をつく。


「お・嬢・様ぁ!」


「ひぃ!」


 耳元で叫ばれて、カトリーナは悲鳴を上げて枕の下に頭を突っ込んだ。


 アリッサは羽毛でできたふわふわの枕を取り上げると、カトリーナの襟首をつかんで無理やり起き上がらせる。


「お嬢様、今日は王太子殿下がいらっしゃる予定でしょう? いつまでも妄想していないで、早く着替えて、朝食をすませてくださいませ!」


 アリッサの剣幕に気おされて、カトリーナは小さく頷く。


 口ではがみがみ言っても、カトリーナの母親と違い、読んでいた恋愛小説までは奪わないアリッサに感謝しつつ、カトリーナは彼女の手を借りて、最近流行りの淡いピンク色のシフォンのドレスに袖を通した。

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