月の光のように射し込む君を見ている私と彼女

名南奈美

月の光のように射し込む君を見ている私と彼女



 君って見飽きないよね。私はずっとずっと君を見てる。君が十歳で私が十二歳の頃から、家の向かいに君が引っ越してきてからずっと。部屋に仕掛けた監視カメラにそれだけ長い期間気づかれていないのすごいと思う。バッテリー換えに行ったりしてるのに。

 男の子ってどんどん変わっていくようであんまり変わらないけど、変わらなさのなかに変化がちらつくことがあって、そういうのが楽しいんだな。

 たとえば君は音楽をかけながら勉強をするのが好きで、というかそうじゃないと勉強ができないみたいで、それは中学生の頃からずっと同じだ。でも、中学生の頃はもう大音量がジャスティスって具合に音漏れ全開で聴いていたけれど、大学生くらいになったいまは聴力の低下が怖くなったのか控えめ音量だ。

 おかげで何を聴いているのかよく解らないことが多い。たまにパソコンをつけて動画サイトのミュージックビデオをBGMに勉強していることがあるから、その選曲からある程度の目星はつくけれど。

 そのパソコンは中学一年生くらいから少しずつエッチなものを映す機会が多くなって、中学二年生の頃にはもはやエッチなものを映す機械みたいな扱いになって、高校一年生くらいの私はほほう……とにやにやしてたけど、いまはあらあら……って感じ。無断転載じゃなくてちゃんと正式にお金を払ってダウンロードするようになったのはいいと思う。あと頻度も減って純粋に調べものの機械に回帰できたパソコンを祝福してあげたい。

 君には性欲がある。性欲だけじゃなくて恋心もある。小学六年生のときにラブレターを書いていたよね。お母さんとかに秘密でコピー用紙を借りて、書いて折り畳んで。ああでもないこうでもないって悩んでいる君は可愛かったな。でも結局、それは渡されなかった。渡す勇気が出なかったのか、受け取ってもらえなかったのかどっちなんだろう? 後者っぽいなと思うのは、その日の夕方に帰ってきた君が手紙をゴミ箱に棄てるとき、気迫すら感じる勢いで破りまくってたから。

 私がその相手は宮原亜美ちゃんだってことを知るのは君が高校一年生、私が高校三年生のとき。君が男友達数人と部屋で遊んでいると、雑談の流れで恋バナになったんだ。男の子も恋バナってするんだなってそのときびっくりした。

 で、そのとき君はみんなに告白するのね。小学生のときに好きな子がいて、宮原亜美という子で、結局叶わなかったって。あーまあ小学生のうちそんなもんだよな、初恋は叶わないって言うだろ、と慰めているのか無神経にあるあるに消化しているのか、あるあるを紹介しているのか? 解らない。でもそこまでからかいの空気はなさそう。カメラ越しだからたしかなことは言えない。

 それから他の男の子の恋バナが開陳されていく。みんな思い思いに失恋したり一瞬だけ成就したりしている。そのなかのひとりがこんな話をする。



 中学生の頃に違法行為にハマっていて、というかまあ着替えの覗きなんだけど、頭がいいほうのその子は中学の老朽化を利用したテクニックで完全犯罪を成し遂げていた。それだけで私は流石に最低……と思う。男の子達の数割もそう思ってそうだ(思っててくれ)。君はどう思っただろう? さておき、そうしてウヘウヘしてたその子はある日ひとりの女の子に見つかる。絶対に見つからない場所で絶対にバレない方法だったのに、まさかの覗かれている側の女の子から指摘される。同じクラスの女の子。

「あのさ、覗きやってる?」

 当然否定する。証拠なんてないはずだ。証拠が出ていたらもっと前からバレている。でも女の子は、覗き方法から出てくる証拠ではなくて、そもそも覗く時間帯から突いてくる。

「ときどき姿を消しているけれど、全て女子更衣室が使われている時間帯だったよね?」

「位置的に女子更衣室に隣接してる部屋はずっと空き部屋だけど、着替えるの遅らせて見てたら着替え終わる辺りで一瞬開いたんだよ。すぐに閉まったけど。人目を警戒したの?」

 と詰め寄られて、咄嗟に他クラスの男の子と会っていることにしようとしたけれど、知らない間に人間関係は洗われていて、そんな男の子いないでしょ? と言われる。

 嘘の釈明をしたという最低で最深な墓穴。絶望した男の子はしかし、女の子にこんなことを言われる。

「あたしも覗きやってみたい」

 それから男の子と女の子は他クラスの着替えのたびに覗きをした。というところまできて話を聞いていた男の子達から、それありえないだろ、女子がそんなことしてどうなるんだよ、と批判される。君もなんだか少し呆れてるみたいに見える。でも私は、別に疑う気にはなれなかった。

 女の子にも性欲であったり、同性の身体を愛でたい気持ちであったり、悪いことへの好奇心みたいなものであったり、そういうのってたくさんあるのだ。色んな形で在る。色んな結果を生む。だから中学生の男の子と女の子が他クラスの女の子の着替えを覗くってことも、可能性としてはなくはないよな? と思った。でもきっと男の子にとって女の子のそういう気持ちって未知なのだろう。性欲なんて特に。宝の地図みたいなもので、簡単には実在を確認できない。

 さて一緒に覗きを始めた男女、お互い考えて誰にもバレないようにやっていったのだけれど、夏にその奇妙な関係も終わる。女の子が薄着になったのと、過ごした時間が彼女にパーソナルスペースを気にさせなくしたせいだ。あとは中学生女子達がじわじわ発育していってエロさを増していって、それも男の子の興奮を増幅させたのかもしれない。

 一個一個はごく普通のことだけど、そんな普通な事象が男の子に女の子を押し倒させた。女の子は、

「やめて、あたしそんなつもりないよ」

 の一点張りで、結局押し倒す以上のことはできないまま、とても気まずくなる。そして最終的に男の子は覗きをやめる。覗きの部屋に行って女の子と目を合わせてしまったら嫌だし、いなくても思い出して後悔ばかりして、覗きを楽しむこともできなくなったからだ。女の子は覗きを続けたのかどうかすら判らないが、その後関わることもなく別々の高校に進学した。



 その出来事くらいしか異性と関われた思い出がないんだよ、と男の子は言った。ちょっと引いている雰囲気もあったが、それでも周りの男の子は、あーまあ性欲のせいで台無しにしちゃうことあるよな、と必死にあるあるを持ち出していた。

 それからも君と男の子達で集まることは多く、というか高校時代はほぼそればっかりで、恋バナとかする割には女の子を呼んだりは全然してなかった。女の子がいないほうがリラックスできるのか、それとも呼ぶ女の子がいないのかは知らない。君や君の周りの男の子はみんな、モテそうともモテなさそうとも言えない、どっちでもありえちゃいそうな子ばかりだ。

 大学生とかになってより垢抜けたらモテるかもね、と思いながら眺めているうちに君は現役合格で大学生になって、彼女を作る。そして高校を卒業してからずっとニートをやっていた私はその彼女、宮原亜美に振り回されることになる。私が二十歳のときの話だ。



「ねえ、見てますよね?」

 君がお手洗いに行って、君の部屋にひとりきりになったとき、宮原亜美はそう言った。思い切りカメラを見つめて。バレやしないだろうと油断していたら、急にそう言われてびっくりした。

「うわ、こんなとこにもある。机のうえなんて監視してどうするんですか」

 ひょこひょこと、的確に、何周もしたチェックポイントを通るみたいに――カメラの隠し場所を覗き込んでいく。なんだ、この子は。さっきまで君に宮原って呼ばれていたし、亜美って呼んでよ、とか言っていたから宮原亜美なんだろうけど。十八歳とは思えない手際のよさだ。

「だいぶ年季が入ってる。へえ。ただのストーカーじゃない感じしますね。彼が子供の頃から見てたりして。妬くなあ」

 私は震える。だって、物的証拠だ。これを警察に渡されたら私が仕掛けたことが発覚してしまう。盗撮や盗聴ってどういう刑だっけ? でもそれよりも、君を眺め続けた八年間が、こんな形で途切れてしまう。怖い。それはもはや私の一部分だった。私の人生だった。抗えない正当な理由で人生を終わらせる恐怖感。でもいくら怯えたって、もう、その末路しか――。

「安心してください、通報なんてしませんよ」

 と。

 見透かしたように――彼女は言った。

「ただ、今日は彼と、初めて、する予定なので……電源だけ落とさせてくださいね」

 どんどんと、パチパチと、スムーズに、カメラの映像が真っ暗になった。音声も聞こえなくなった。

 通報なんてしませんよ。それってどれくらい信じていい言葉なんだ? そう言って安心させて、逃げ遅れさせようという魂胆かもしれないじゃないか。私はどうするべきだ? 逃亡?

 監視用のモニターを抱えて逃げるなんてできない。重いし目立つ。かと言って、モニターを放って逃げたなら、結局私は君を見る生活を手離すことになる。

 賭けだ。宮原亜美が正直者でありますように、あるいは気分屋でありませんようにという賭け。

 監視カメラの電源は翌日の夕方に突然点く。

「ごめんなさい。お待たせしました」

 昨日は点けなおす隙がなかったという。

 その後も、監視カメラは君と彼女がベッドに入る前に電源を切られて、ベッドから出たときかその翌日に点く。君がカメラを気にしている様子はないので本当に気づかれないようにやってくれているのだろう。

 私の知らない君が増えてしまったけれど、知れなくなるよりいい。

 そう考えていたある日、また監視カメラの電源が落とされたのだが、今度はずっと点かない。一週間経っても。私は気が狂いそうになる。宮原亜美はどうして点けてくれないんだ? 意地悪か、忘れたのか、気が変わって警察に提出したのか? まさか破壊? それとも、バッテリー切れ?

 どちらにせよ、これじゃあ私の精神が持たない。点けにいかないと。

 夜中の三時に、バレないように家を出て、バレないように君の家のドアをピッキングする。これは昔からバッテリーを換えるときにやっているから、慣れたものだ。抜き足、差し足、忍び足で君の部屋まで行って、起こさないように気をつけながらカメラのバッテリーを換え、電源を押す。これでいい。家に帰ってモニターの前に行くと、無事に寝静まる君が映っている。

 一ヶ月後にまた監視カメラが見えなくなったので、また同じように午前三時、君の家の前に来る。

「お姉さんなんですね。監視カメラ」

 と。

 音もなく近づいてきていた宮原亜美に声をかけられて、悲鳴を上げそうになる。必死で呑み込む。

 なんで、いま、ここに。

「いやあ、本当に馴れって怖いですね。暗い夜と同じくらい怖いです――近くの植え込みに監視カメラが仕掛けられてるかもしれない、なんてことにも思い至れない。そして、時間をずらそうって気にもなれない」

 宮原亜美は不敵、ではなく、無邪気にニコニコとしている。どっちも同じだ。この状況でニコニコされているのが怖い。

 私はいくら払えばいいの?

「やだな、あたしは別に罰金や口止め料なんて要りませんよ。お金は要りますけど、脅しじゃなくて人を笑顔にして稼ぎたいんで。あたしはただ、話がしたかったんです」

 話?

「正確に言えば、交渉がしたかった。お姉さん、この件を警察に言われたら困っちゃいますか?」

 それは――そうだけど。

 脚を震わせながら私は頷く。交渉。お金以外のものを求められるのか? どんなことを? 二歳年下の同性からどんな交換条件を差し出されるのか、皆目見当もつかない。

 宮原亜美は言う。

「困りたくなければ……あたしにも彼を監視させてくださいよ」

 はい?



 日曜、宮原亜美を家に入れる。私の親のいない時間帯。彼女はちょうど二時間後にコンビニでバイトがあるらしく、どうせ君とは大して遊べないみたい。録画データを譲ろうかと思ったがそれはいらないらしい。

「あたしが好きなのはいまの彼ですから」

 その言葉に偽りはなく、彼女は自宅で寛ぐ君を見るのに夢中みたいだ。爛々と輝いた目をしている。

「モニター、ふたつあるんですね。てっきりひとつのモニターに色んな角度のが映ってるのかと」

 それだと一画面が小さくなるから、見ていてもやもやするのだ。俯瞰と机の手元を見るための画面がひとつ、同じく俯瞰とベッドからの視点を映す二画面用がひとつ。俯瞰がふたつあるのは、モニターがひとつダメになっても全体を見られるように。

「ねえお姉さん、どちらか借りていいですか? あたしの家で見ていたいんです」

 私としてはそう易々と明け渡したいものではない、のだけれど、しかしその代わりに通報を避けられるのならば安いものだろう。なんだったら自分用にもうひとつモニターを買えばいいのだ。

 私はたくさんお小遣いを貰っている、臑齧りの二十歳なのだから。

「たしかに、広いお宅ですよね。将来住んでみたい」

 言われてみればそうかもしれない――いつも一階の自室に引きこもっているから自覚は薄いが。

 そういえば、と私は思う。宮原亜美は監視カメラを植え込みに仕掛けていたけれど、あれはまだ仕掛けられているのだろうか?

「いいえ、誰の監視カメラなのか突き止めるためのものでしたから。録画こそできてもリアルタイム監視は無理ですし。あ、そうだ」

 そうだ?

「お姉さん、使っていないカメラってありますか? 植え込みに入れておきたいんですけど。防犯と趣味で」

 趣味込みで異性の家の前の植え込みにカメラを仕込むというのはどうなんだろう。って他人のことは言えないけれど。カメラはきちんと余っていたのでそれも宮原亜美に貸す。飽きたら返してね。

「そうですね。飽きるか判りませんけど」

 そりゃそうだ。飽きるかどうかが判るのは、既に手遅れなほど飽きたときだ。

 宮原亜美のモニターとカメラを接続し、植え込みカメラも映るようにしたところで時間が来て、彼女は帰っていく。帰り際にラインを交換する。

 いまいち掴みどころのない性格をしている子だ。君は彼女の何が好きなんだろう? ああいうのも男の子からしたら愛らしく思えるの? それとも単に見かけが可愛いから? そっちのほうがありえるか。

 そもそも、私に見せる面を君にも見せているかどうか定かではないのだし。小学生の頃からずっと好きなんだったら、顔もとても好きなんだろう。外見が好きだと、会っていないうちに記憶のなかでもどんどん美化されていくから、なかなか忘れられないものだ。

 さてモニターの足りない生活が始まる訳だけれど、正直なんだかストレスだった。宮原亜美モニターには俯瞰とベッドと玄関が映っているが、私モニターには俯瞰と机だけだ。全然足りない。し、どうしても晴れやかな気持ちにはなれない。モニターを買い足すがそれでも晴れない。

 何故?

 少し考えれば解る。私はこの監視行為にオンリーワンさを感じていたのだ。私だけが君の部屋を見ている。家族も半ば遮断された自室。男の子の部屋。君の部屋。

 それを見ているのは私だけだったのに、私だけがよかったのに、現在は宮原亜美も見ているのだ。

 八年間、自分だけの宝物だったのに、ぽっと出の女の子によって共有財産にされてしまった。

 それが寂しいし、すっきりしないのだろう。ストレスになっているのだろう。でもどうしようもない。そうするほかなかったのだ。

 だからこそ、だからこその寂しさだ。『そうするほかなかった』は諦めの理由にはなるけれど、悔しさや寂しさを紛らわすドラッグにはならない。少なくとも私にとっては。

 そんなこんなでなんだか惰性みたいな気持ちで監視を続けている私は、ある日の深夜一時に電話で起こされる。誰? 宮原亜美。

 はいもしもし。


「いますぐ起きて通報してください! 彼の家の前に日本刀を持った男がいる! 鍵を開けようとしている!」


 飛び起きて家を出て、向かいの家を見るとたしかに不審な男が玄関に立っている。長身だ。剥き出しの日本刀を階段に無造作に置いていて月光を反射してあら綺麗。きらきら。じゃねえ。

 いま通報したとして間に合うのか? 警察が来る前に開けて誰か殺すくらいできちゃうんじゃないか?

 君のことを殺すくらい。

 ごめん。代わりに通報しといて。宮原亜美にメッセージを送った私は、停まりそうなほど動いている心臓を抱えて、こっそりと男の背後に近寄る。抜き足、差し足、忍び足。十八番だ。残り三メートルくらいのところでドアが開いた。私はさっと死角に隠れる。男は階段の日本刀を持ち上げ、ただただナチュラルに足を踏み入れる。

 音を警戒したのだろう、開けっ放しになったドアに私は飛び込んだ。見知らぬ男の大きな背中にタックルをして、そのまま押し倒す。運よく上がり框に足を引っかけてもらえたようで、首尾よく廊下に俯せにできる。男の手首に体重をかけて抑え込む。よし、これで――。

 ウオオオオオオ、と。

 男は吼え、私は舌を噛んだ。顎に頭突きを喰らわせられた……のだろうか。判らない。判っているのは、顎は人体の急所で、そこを打たれたことで形勢逆転をされてしまったらしいことだ。というか私の舌、ある? 千切れてない? 血の味がする。何か湧き出てる? やっぱり血? 大丈夫? 舌が終わっても人とコミュニケーションをとって生きていく予定はないからいいけど……。

 でも、生きていく予定なんだけど。

 だから、その日本刀を下げてほしいんだけど。

 いや、

 私に向けて降ろしてほしいとは、

 言ってないんだけど――。



 久しぶりに会った君はヒーローみたいだった。階段から跳んで重力を乗せたキックをして、自分より大きな男の人に不意打ちをするなんて、レッドって感じじゃない? ヒーロー・キック。着地には失敗していたけど、そこからすぐに男の手首を背中で固める手際は流石だった。なるほど、首を尻で抑えれば私みたいな無様にはならないのか……。

 ごめんなさい、誰か知りませんけど、脚も抑えててください。

 と君が言う。ああそういえば、君が十歳で私が十二歳の頃に一度会ったきりだっけ。私はずっと一方的に見ていたけど、君は私とは関わりのない生活をしていたのだ。君は君の人生を送っていたのだ。

 部屋が暗いので私の口から血が出ていることには気がつかないのだろう。私が無事に脚を抑えたのを確認して、君は二階に向けて叫ぶ。父さん、やべえやついる、警察。

 救急車って要りますか?

 要ります、と私は答えておく。要るほどの傷かは判らないけど、判らないから来てほしい。

 どっちも来る。私は救急車で処置をしてもらう。それから警察署で事情聴取をする。流石に監視カメラや宮原亜美の話はしないほうがよさそうだったから、向かいの家のベランダから綺麗な月を見ていたら怪しい男がいた、という経緯にしておく。満月の夜でよかった。



 さて後日、宮原亜美を家に呼んで私は言う。モニターだけど全部持っていっていいよ。

「え? え、どうしてですか?」

 あなたの通報のおかげで私は彼を失わずに済んだ。そのお礼と、単純にもう監視する気がないから。

「あ、飽きちゃったんですか? 満足?」

 宮原亜美はそう言ったが、どちらも違った。満ちたのでも飽和したのでもなかった。ただ、あの夜から、私が彼を監視するという行為の尊さのようなものが損なわれてしまったからなのだ。

 尊さじゃないか、純粋さ?

 私は彼を見ているのが好きだった。見るのが好きだった。見るために見ていた。隠し撮りをして脅そうとか、秘密を暴こうとか、そんな気持ちは全くなかった。純粋に見たくて見ていた。

 しかし、あの夜を経てから、どうしても脳裏にもうひとつの動機がちらついてしまったのだ……防犯という動機が。見たいという気持ちに、守りたいという気持ちが入り雑じってしまった。

 それを自覚すると、急激に冷めていった。

 目が覚めていった。

 言ってしまえばただの趣味としての生産性のない行為だったのに、だから自由でよかったのに、義務感や仕事っぽさが加えられてしまった。そして窮屈さや台無し感が生じてしまったのである。

 だから、もういい。

 もう充分とか、もう結構とかじゃなくて、もういいのだ。あるいは、もう駄目なのだ。

「そうですか……じゃあ、お言葉に甘えますけど、うぅん」宮原亜美は小首をかしげる。「やっぱり申し訳ないような……お高いんでしょう?」

 安いとは言えない。でも、安かろうが高かろうが無用の長物だ。だったら彼を見ていたいあなたに贈るべき――そう言おうとして、いや、と私は思い直す。

 私のこれからについて思いを馳せる。彼を見ているという生活が終わってしまった以上、代わりの生活を見つけないとやってられない。ここ数日だって暇で死にそうなのだ。

 それに、親の臑を齧っていられるのもいつまでだろう? 私の両親がある日突然、日本刀を持った男にでも殺されないとは限らない。

 だったら。

「……だったら?」

 だったら、お礼として私をバイト先の店長さんに紹介してくれないかな。人手が足りないときでいいから。

「え……たぶん大丈夫ですけど、どうして」

 きょとんとしている宮原亜美に、私は言う。

 そろそろ少しずつ、社会に目を向けて生きていこうと思うんだ――子供部屋で世界も視界も、終わらせる訳にはいかないから。




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