散文集

アオシマノイズ

虚言癖

 珍しく用意されたような、そこにあることが不思議でならないような、理から外れたような、そんな感じがしたのをまだ覚えている。私は当時、二十歳にも満たぬ若造で、世界の何たるかを知った風に人に話すことを生きがいとする生な小僧であった。私は知ったような顔をしてネオン街を闊歩し、毎夜酒を飲んではどこの誰とも知らぬ女と交わった。女のほとんどは私よりも年下で、若さにおぼれていた。脂ぎった額をゆがませて女と事を構えようとする連中から小遣いをせしめ、自らの若さに若さ以上の何かを求めている。そういう女どもは私の妄想にいとも簡単に呑まれた。私はそのころ常に五、六人の女を連れていたように思う。今でも忘れられないのが一人いる。私はマリと呼んでいた。本名は知らない。


 ある夜、急な雨が降ったので、私は近くのビルの勝手口の前に駆け込んだ。勝手口は通り近くの路地に面していた。ちょうど人一人が通れるほどの幅で、隣のビルに挟まれており、二つのビルの屋根で雨に濡れることはなかった。通りの街頭から入る白い光に照らされながら、施錠された勝手口に寄り掛かる。雨の勢いは次第に増し、通りを走る自動車の音が聞こえなくなるほどになった。背中に当たる扉の冷たさを感じながら、路地に落ちて跳ねる水の音に耳を澄ます。次第に雨の音に耳が慣れ、静寂を感じる。水が勢いよく流れる、薄汚れた壁面を眺めた。

 数分ほど経っただろうか。私が雨宿りをしているところに何者かが飛び込んできた。真っ黒のロングコートに不自然な赤いビニールの帽子を目深にかぶっていた。走っていたからなのか、息を切らしていた。数回、肩を上下させて、おもむろに私の隣のドアに寄りかかる。そこに至ってビニールの帽子をとった。若い女だった。雨に濡れ、艶やかな光を放つショートカットに妙に青白い痩せた顔が収まっていた。唇にはこれまた不自然に真っ赤なルージュが塗りたくられていた。細長い目で宙を眺めながら、その真っ赤な唇で白い息を吐きながら、話しかけてくる。

「こんなに降るなら雨傘を持って来ればよかった。せっかくのコートが台無し。ほんとについてないわ。ねえ、そう思わない?」

不思議な距離感の女だ。馴れ馴れしい言葉遣いではあるが、うっとうしいとは思わなかった。絵の中に描かれた女と話しているようだった。なんというか実感がない。

「そうかもしれない。」

普段なら気の利いた一言が言える私であったが、その時の妙な感覚のせいで落ち着きのない返事になった。

私はその時、女というものに興味のない状態であった。女の肢体を見ると唾が出てくる。なんとなく気分が悪かった。女が妙に見えるのはそのせいなのかもしれなかった。雨は降り続いている。私の声は湿った暗闇に吸い込まれていった。女はドアにもたれたままじっとしている。まるで私の存在が見えていないかのように。先ほどの言葉も私に向けて発されたものではないのかもしれない。

 通りの車が過ぎていく。三台目の車が行ってしばらくして、雨が弱まってきた。しだいに通りの喧騒が戻ってくる。空間を隔てていた膜が溶けていく。雨が完全にやむまで、そこにいた。

 マリは天性の魔性の女だった。当人は気づいてないらしいが、そのしぐさ、表情には男を魅了してやまない何かがあった。薄い白桃色の唇から覗く小さな歯が見える度に、私は私の陰茎にそれが触れる様を妄想した。薄赤に染まったほおを膨らませて咥え込む様を妄想した。確かに美麗な顔ではあるのだが、特別美しいわけではなかった。体つきも豊満とは言いがたく見ようによっては12、3歳ほどに見えることもあった。完璧ではない美しさに私は引かれたのかもしれない。そうではないかもしれない。

 初めて会った雨の夜以来、私とマリは度々食事をするような間柄になった。というのも私があの夜マリと食べたディナーがマリの気に召したようで、また連れて行って来れとせがまれたのだ。食事の回数を重ねるうちに、マリとの食事がすっかり私の生活に根付いてしまった。

 マリを魔性の女だと言ったがそれは淫魔のそれとは違っていた。私のする妄想で私の陰茎が生理的に反応したことは一度もなかった。妄想というより天啓に近かった。(天啓などというものを見たこともなければ、神をも信じぬ私だが、語り得ぬものが見える感覚はわかる。)マリの一挙手一投足が否応無く私の心のうちに入り込んだ。彼女の細かい仕草全てに神が宿っていた。例えば彼女がグラスを持てば、グラスの中の水が高級なワインに変わった。唇に残ったワインの艶は黄金になった。嚥下する喉は、金持ちに飼われている真っ白な蛇のように艶めかしくうねった。


 ある日、私とマリはいつものようにディナーをともにしながら、「恋愛」についての話をした。品格が高すぎず、庶民風を気取るわけでもない簡素なその店が当時の私たちの食事場だった。マリは見事な手さばきで美しい白身魚の身をはぎ取りながら私に問いかける。

「愛なんていらない。言葉にしたら見えなくなる。あなたは愛がほしい?」

私はくだらない質問だと思った。愛など言葉に過ぎずその実体はない。一体私の人生のどこに愛を見出せばよいのか。一体どのようにして他人の愛を語りうるのか。私は白身魚の骨をつまんで取りながら答える。

「愛がなにかわからない。ほしいかどうかもわからない。」

マリははぎ取った純白の身を均等に三等分しその一切れを背筋を伸ばしたまま口に運ぶ。まったく私の答えには興味がない素振りで、端正な顔を壁に掛けられた古めかしいタッチの世界地図に向けて、嚥下し、言う。

「キューバに行く。ここは寒すぎるの。」

マリは言葉が好きだ。マリは実体が嫌いだ。私はどうか。私は実体が好きなのか。少なくともマリの実体を無視した言葉が私は好きだった。この矮小な世界に縛られない彼女の揺らいだ姿が私の残滓を溶かした。私はマリの言葉に答えず、ただ実体的な質問をした。彼女は私に横顔を向けながら聞いていたが、私が話し終えると少し前を向き、真っ白な歯を剥き出して笑い、また横を向いた。

 マリの肢体は今にも折れそうなほどか細かった。彼女の四肢は天使の羽のように軽く、蚯蚓のようになまめかしくうねった。その体は私を獣のように奮い立たせ、またそれは赤子を包むように私を抱擁した。自他の境界が溶解するひとときであった。私はオートマティスムに入る。今宵柔いカタカナが深い森の大事な声は遠くに去ってオオカミに懐を蚊帳の外。



 他人のこととなると筆が進むが、存外自分には関心を寄せにくいものだ。声の届かぬ他人にモノを言うのは三流。他人に声の届くところでモノを言うのは二流。一流は他人になどモノ言わずすべてのベクトルが自分を向いている。では私小説なるものは一流だろうか。いや違う。多くの下賤な私小説は自分の小さな物語を語ろうとしているだけだ。四流。そもそも語ることができていない。では私はどうだ。私はそれ以下である。語るつもりもなく、思いつくままに筆を執る。馬鹿である。言葉の赴くままに荒野行くライオンである。おしゃれな高速道路上のアオウミガメ。マリは私を馬鹿に引き戻したのだ。赤子のように言葉がわからなくなったのだ。すべての言葉が喃語であるかのように、振動にしか聞こえない。

 そもそも荒野行く獅子の脳裏にサバンナの外が浮かぶことはない。だからこそ獅子であり、気高い。私は獅子ですらない。他人を思ってしまっている。他人について語るのはよそう。所詮は暫定解を定めることしかできない。とにかくマリは問題だった。


 また別の日。彼女と私はボートの上にいた。あたたかい木漏れ日が舳先にかかっている。反射した池の水が黄色い。影の下は淀んだ深緑色。マリは鮮明に真っ赤なワンピースを着ていた。帽子はクリーム色。池にはほかに数台のボートがあったが、我々の周りはいたって静かであった。

 彼女は薄ピンクの唇をやや開け、池の反対側の岸を眺めている。岸では子供が何人か走り回っている。一番大きいのが転んだ。するとその子供たちの輪の外から、いかにも病弱そうな少女がそっと近づく。ほかの子供たちはどこかへ行ってしまった。岸には二人しかいない。少女は転んだ子供のそばでしゃがんで何か話しかける。転んだのはしばらく動かない。再び少女が話しかける。今度は動いた。左手で地面を衝いて立ち上がる。そして立ち上がりざまに右手で少女を殴った。右手は強く握られていた。少女の頭部が不自然な方向に曲がり、仰け反って倒れた。


 暖かな日差しと水面を行く緩やかな風の中で私たち二人のボートはいたって穏やかであった。マリはさっきと変わらぬ表情で眺めている。岸には少女一人が残された。岸のさらに奥の丘に家族らしい数人の影があるが、寄ってはこない。

「あつい。」

マリは甘えるように私に声をかけた。マリが眉にしわ寄せて私を見ている。

「そうだな。」

私はオールをこぐ。しばらくほったらかしていたのでボートが風に流され、マリの体は日差しの下におかれてしまったのだった。この季節にしては不自然な暑さであった。


 私たちは貸しボート小屋に戻り、船を降りた。マリは無言で歩いてゆく。私は後から従った。特にかわすべき言葉はない。私たちの間にふさわしい言葉はそう多くなかった。

 マリと私は先ほど池の上で眺めていた広場に入った。少女の姿はもうなかった。赤い点が広場に敷かれた石の上に数点散っていた。

 私は少し苦しくなる。マリと出会いしばらく忘れていたあの違和感が再来した。唾が出る。私は石から目を離し、マリを探した。彼女に触れたかった。

 マリは縁石の中に敷かれた土を靴のとがった先でいじっていた。土が彼女の足に抵抗するように凝縮して固まり、彼女の靴の形になる。

 「帰ろうか。」私はマリに呼び掛けた。マリは私の言葉を無視して、土いじりを続けている。私はマリに歩み寄り、土を踏みつけるために力を込めて不自然に曲がっている細い左手首を強引につかんで引いた。マリは私の力に抵抗して踏ん張ったが、私の力に負けて体勢を崩し倒れこんでくる。マリは倒れこみながら、全身の力を失ったように私の体にもたれかかってきた。私も勢い余って地面に倒れこむ。

 雨の降らない雨雲が空にいた。私はそのまま空を眺めた。マリは死んだように動かなかった。しばらくしてマリがゆっくりと私の右頬に顔を近づけてきた。右耳のそばで息を吹きかけるようにそっと何かつぶやいた後、ゆっくりと私の耳を舐める。

 始終不快な日差しが照り付けていた。

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