「1300年前の古文書からこの国の1800年前を知る」(2020)

@nakatomi-yuka

第1話 《 はじめに 》

◆ ◆ ◆



《 はじめに 》



 今回私は「この国の古代の年表」を記してみたいとそう思う。

 具体的に言うと【西暦127年~西暦400年】までの間である。


 しかし後に示し遣るこの「年表」には困った事に〝遡る形での誤差〟がある。

 この〝遡る形での誤差〟の値は〝半年から一年の間〟である事までは分かっている。

 けれども〝正確な誤差の値〟までは分からない。

 そこで私は〝誤差を誤差と分かったその上〟で「古代の年表」を示してみたいとそう思う。


 例えばの話、「私の年表」によると【西暦241年の上半期〈壬牛19〉】に第12代天皇である「景行天皇」が九州の熊襲を退治する為に九州へと向けて出陣しているのであるのであるが、本当の発生タイミングは〝半年から一年前〟になるのであって、つまりは【西暦240年の上半期〈庚辰17〉~下半期〈辛巳18〉】の間の出来事だと言う事になる。

 しかしそこを敢えて【西暦241年の上半期〈壬牛19〉】のイベント事として記述をしている。


 けれどもそうするとこの「誤差を含んだ年表」は「大陸国(中国)」の「年表」を参考にする際に支障をきたしてしまう。

 年表にズレが生じてしまうのだ。


 そこで私は「邪馬台国がらみの年表(イベント)」に関してのみ「発生タイミングをプラス1年」させ遣る事でその支障(年表のズレ)を取り除いてみせてくれている。

 例えば「【明帝景初三年(239年)】六月、倭女王(卑弥呼)が大陸国と通ずる」というイベントは「私の年表」では「プラス1年」をされ遣った【西暦240年】の出来事として書いてあるという具合である。


 また〝誤差と分かったまま〟に記載をする事で「十干十二支での検証がし易い」という利点があるという事も伝えておいておこうと思う。


 ◆ ◆ ◆



《 古代日本の暦・パクシャ 》



 我が国「日本」では【西暦1873年】にそれまで使っていた「太陰暦」を廃しては「太陽暦」へと改めた。

 その理由は〝西洋諸国との繋がりが強まったから〟である。


 これと同じ理屈で古代日本は〝「呉国(中国?)」と交流を持つようになった事〟を切っ掛けとして「元々使っていた暦」を廃しては「太陰暦」へと改めたものだと考えている。


 ちなみに日本が「呉国(中国?)」と交流を持つようになったのは第15代天皇である「応神天皇」の時であり、「呉国(中国?)」が日本へと初めて朝貢(国交)を行ったのは第16代天皇である「仁徳天皇」の時であり、そしてその次の天皇である第17代天皇「履中天皇」の〝即位のタイミング〟をもってして「元々使っていた暦」を廃しては「太陰暦」へと改めたものだと考えている。


 そしてこの〝「履中天皇」が即位をしたタイミング〟というのは【西暦400年〈庚子37〉】の事である。


 では、かつての古代日本は「どのような暦」を使っていたのか?

 それはサンスクリット語で「太陰暦の半分」という意味を持つ「パクシャ」と呼ばれる暦である。


 この「パクシャ」という暦は「太陰暦」では「満月→満月」までを「1ヶ月」とするのに対して「満月→新月」までを「1ヶ月」、「新月→満月」までを「1ヶ月」とする暦である。

 つまり〝「太陰暦」での「1ヶ月」〟は〝「パクシャ」では「2ヶ月」〟という計算になる。


 けれども「日本書紀」の編纂者達は「編纂元となった資料」に対して〝【西暦400年】以前は「パクシャ」を暦としていた〟事に気付けなかった。

 なので実際には〝1年間の出来事〟を〝2年間の出来事〟として「日本書紀」に纏めてしまい、その結果、古代天皇(16代以前)の存命期間が〝とんでもなく長くなってしまっている〟のである。


 私が〝この事〟に気付けたのは当時の編纂者達が「注釈」という形にて「各々の天皇の年齢」を付け加えていたからによっている。

 彼らは「編纂元となった資料」に書かれてあった「立太子齢」と「即位齢」の判読すらも完全なものでは無いでいた。

 故に彼らは〝分からないけれど私はこう思う〟という事を「注釈」という形にて示してみせてくれていた。


 仮にもし、彼らが〝自分の考えた予想〟を「注釈」という形ではなくて「本文」へと書き加えては〝歴史の捏造〟をしていた場合、私は「正解」へと辿り着く事が出来なかったのかも知れやしない。

 私は彼らが「歴史捏造主義者」などではなく「注釈」という形にて自分の考えを本文に添えてみせ遣った事に感謝をしたいとそう思う。


 ありがとう。


 ◆ ◆ ◆



《 記紀前文書 》



 「古事記」と「日本書紀」が編纂されるその前に既に「編纂された書物」が存在していた。

 私はこれを便宜上「記紀前文書(ききまえもんじょ)」と呼んでいる。

 ちなみにこの「記紀前文書」、実際には「紙」であったのか「竹簡」であったのか「木簡」であったのかまでは分からない。


 そしてこの「記紀前文書」であるのだが、「日本書紀」の編纂者達はこれの翻訳(解読)を完全に成し得る事は叶わなかった。

 先に挙げた〝「立太子齢」と「即位齢」の判読が出来なかった〟事もそうではあるが、他にも「垂仁天皇(11)」が【西暦235年〈辛未8〉】に〝生前退位を行った〟のであるのだが、これを単純に〝元号を改めた〟とだけ記してあったりしているのである。


 そしてこの「記紀前文書」であるのだが、この「記紀前文書」もまた〝前の時代の考古資料を編纂したものである可能性がとても高い〟という事も付け加えておいておこうと思う。


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