52話 迎撃

「……どうやら多重結界は無事に働いている、か」


 境壁が最も重厚に作られている接敵予定範囲、十メートルを超える高さを持つその中央。


 慌ただしく駆けまわる兵士たちの中を胸壁ぎりぎりの最前列まで一気に駆け抜けたサシャに、ぴったりと追随してきたシルヴィエがそう呟いた。


 息を弾ませた彼らが一心に見つめているのは、早くも一匹一匹が肉眼で判別できるところまで押し寄せてきている蟲の大群だ。


 飛行蟲、死蟲、新種の巨岩蟲――奈落の先兵は怒り狂ったような羽音と地響きを伴い、念入りに展開された多重結界に沿って怒涛の勢いでこの境壁に迫ってきている。


「……うん、あの大きいのも結界を破壊したりはしてなさそうだね」

「そのようだな」


 それは、新種の蟲の詳細を聞くなり彼らの頭に浮かんでいた懸念のひとつ。こうして息せき切って確認したくなるほどの重要事項だ。


 今日のザヴジェル軍は、多重結界による蟲の誘導に比重を置いた、局地決戦的な防衛戦略を採用している。


 なにしろ敵はそのままだと剣も魔法も効かない特殊な相手なのだ。その瘴気による防御を打ち払えるのは、サシャを始めとした数名のみ。貴重品である高級ポーションを浴びせれば同様の効果が得られるものの、やはりその数名の手の届く範囲で戦いたいという事情があった。


 そして、多重結界はその方針の礎となるもの。


 昨日の実戦投入で確かな誘導効果が確認され、そこにファルタから<幻灯弧>を始めとした優秀な魔法使いが大挙して合流してきたこと、加えて同時に大量の大型魔鉱石が持ち込まれたことにより、騎士団首脳部は賭けに出たのだ。


「ねえ、でもなんか揺れてない? ほら、あそことか」

「く……かなりの魔鉱石を投入したと聞いているぞ?」


 今日展開されている多重結界には、司令官ヘルベルトの鶴のひと声により、思い切った量の魔鉱石が使用されている。それは単純な魔力量に換算すると、ファルタのような大都市ですら優に数週間はその動力を賄えるほどの量らしい。


「わわ、また揺れた! やっぱりあの大きいのはちょっとマズいかも!」


 死蟲と巨岩蟲はもうそこまで迫ってきている。

 こちらに接近するにつれてみるみるうちに戦列の幅を狭めて中央に密集してきているのは、漏斗のように展開された結界の働きだ。


 奈落の先兵の正面をハの字に区切るように展開保持されたそれは、小山のような巨岩蟲の体躯にガリガリと削られながらも、かろうじて敵戦力を予定どおりの場所に集中させることに成功している。



 このまま結界が保ってくれさえすれば――



 サシャは祈るような気持ちで周囲を見回した。


 奈落の先兵たちが殺到するであろう結界の出口、即ちここ・・は。


 多重結界による漏斗の出口――この場で獲物を待ち構えるようにそびえるのは、ひと晩でそこだけは高さ十メートル近くまでに増築された魔法使いたちの努力の結晶、半ば要塞と化した境壁だ。


「大盾隊、刺又隊は配置につけ!」

「その他は範囲外で待機! 急げ、もう来るぞ!」


 多重結界で敵の戦闘正面を狭め、接敵が予定される範囲は横幅約百メートル。


 緩やかな丘の狭間に設定されたそこは、場所によっては十メートルを軽く超える高さになるまで境壁が集中的に嵩上げされている。もちろんそのための原料となる土砂は前方の地面を抉るように採取され、実質的な空堀をも配置してあるような形だ。


 そして官民の魔法使いの総力を結集したともいえるその箇所は、高さを嵩上げしただけには留まっていない。昨日までの戦いで境壁の狭さが問題として挙げられていた結果、その百メートルに限っては、領壁の厚みを約八メートルにまで膨らませてあるのだ。


 つまり接敵予定範囲の領壁上に広がる戦闘空間は、幅が百メートルで前後が八メートル。まだまだ厚みが足りないものの、昨日までとは比べれば格段に身動きも取りやすくなっている。


 朝一番でその変化を目にしたサシャは大いに驚きもしたし、感心もした。


 ザヴジェルの領土防衛にかける本気度というか、真剣さを思い知ったのだ。せめて少しでも皆の努力が報われるようにと、思わず未だ使い道の分からない自身の土魔法もどきで胸壁の片隅に幸運のしるしを描き――失敗したので誰にも秘密にしているのはさておき。


 ともかくも、ザヴジェルが総力をつぎ込んだ昨夜からの準備は、まさに天は自ら助くる者を助く、そう表現されるべきなのかもしれなかった。


 多重結界はかろうじてだが役目を果たし、守備側の望む形で戦端が開かれようとしている。そして、こうして敵に巨岩蟲のような突進する大型種が現れたことを考えれば、直前に境壁に厚みを持たせていたのは僥倖以外の何物でもないのだから。



「――先行して飛行蟲が来るぞ! 大盾隊、構えッ!」


「襲来まであと五秒! 四、三、二――」


 ザヴジェルの懸命な努力と早速実戦で表れつつあるその成果、サシャが思わずそんなことに気を回した僅か数秒の間に、身軽な飛行蟲が早くも強襲体勢に入ってきていた。


 ……慌ててサシャが見上げた空を埋め尽くすその総数、約二百。


「うひゃあ! でもっ!」


 そのうち先陣らしき五十が上空に舞い上がり、そこから禍々しい羽音を唸らせて次々に突撃してきている。即座に反応したサシャは背中の双剣を一挙動で抜き放ち、青い聖光をまとわせながら叫んだ。


「よしいくよっ! 任せて!」


 胸壁の上にひらりと飛び乗って、上空から強襲してくる飛行蟲を青く輝く双剣で迎撃し、片端から斬り飛ばしていくサシャ。


「ぐああ! ちくしょうこの化け物めッ!」

「よし押さえたぞ! 神父殿、早くこちらへっ!」


 周囲のあちこちから喊声と怒号が上がっており、誰もがサシャとシルヴィエの一撃を待って飛行蟲の猛攻を耐え凌いでいる。サシャは新たに拡張された境壁上の戦闘空間に飛び降り、目まぐるしく駆けまわってその類稀な反射神経が命じるがまま、右へ左へ後ろへ前へと流れるように双剣を振るっていく。


「ヴィオラ危ないっ!」

「――煌めく翠の女王よ、平等なる死をその糧とせよ! デスサイズTulzscha!」


 サシャがヴィオラに襲いかかる飛行蟲を間一髪で斬り落とした瞬間、ひとり静かに集中を高めていたヴィオラがやおら魔剣レデンヴィートルを振りかざし、緑白にきらめく斬撃を放った。


 墜落して暴れ回る飛行蟲、彗星のように尾を曳いて一直線に飛んでいく光の鎌。……もう地上の巨岩蟲と死蟲が、ヴィオラの射程距離にまで迫っていたのだ。


 そして轟く地鳴りのような咆哮。


 ヴィオラの斬撃が過密状態で押し寄せるうちの一匹、巨岩蟲の小山のような体躯を見事斜めに四分の一ほど分断した。周囲の死蟲を巻き込み、転がり斃れていく巨大なワーム型の怪物。


「続けていきますっ! ――デスサイズTulzscha! デスサイズTulzscha!」


 矢継ぎ早にヴィオラが斬撃を飛ばし、的確に迫りくる巨岩蟲を削っていく。が、傷つき暴れる個体はあっという間に後続の波に飲み込まれ、その他の奈落の大軍勢の勢いはとどまるところを知らない。


「なっ……! デスサイズTulzscha! デスサイズTulzscha!」


 ヴィオラが更に斬撃を連発するが、押し寄せてくる数が数だ。


 かなり無理をしているのか、緑白に輝く魔剣を振るうたびに加速度的にヴィオラの顔色が悪くなっていく。


 それもそのはず、連発している斬撃は大技も大技だ。いくら魔剣の力を借りたものとはいえ、本来はこうも乱発するものではないのだ。


「ヴィオラ! 助けになるか分からないけど!」


 見かねたサシャが双剣を左手に束ね、右手の青い聖光を急速に強化してヴィオラの背中に癒しを注ぎ込んだ。


「あ、ありがとうございます!」

「ヴィオラが頼りだけど無理しちゃダメだよ! 一人じゃないから、ほら!」


 僅かに血色が戻ったヴィオラがサシャと一緒に隣を見上げると、そこには胸壁から身を乗り出すように、神剣を天に掲げるイグナーツの姿があった。



「剣に宿りし大いなる者の忘れ形見よッ、姿を転じて汝の子らを護れ――クリエイトシールドUbboSathlaッ!」



 高らかに叫ばれた詠唱が戦場の叫喚を貫き、イグナーツの神剣が灰白色に輝く不定形の塊に変化した。そして瞬時に境壁の下へと広がる巨大な一枚の壁となり、轟音を立てて地面に突き刺さる。


「ヴィオラ姫、今のうちに態勢をッ!」


 イグナーツが肩越しに叫んだのも束の間、次の瞬間にはその絶対防壁が大きくたわんだ。比較的境壁に近い場所に展開されたにもかかわらず、敵はもうそこまで迫ってきたのだ。


「イグナーツさん! 真ん中だけじゃ両脇から!」


 しかし、灰白色の神盾のサイズは十メートル四方。横幅百メートル、圧縮されたくさび形を為して押し寄せてくる奈落の大軍勢の、そのくさびの切っ先を遮ったに過ぎない。当然その左右は大きく開いている訳で――


「なんのッ!」


 イグナーツがその長い腕で複雑に空を切り、谷地を横切る大型の馬防柵へと灰白色の神盾を変化させた。かの神遺物は、その最大質量の範囲内であれば使用者の望む形へと変形させられるのだ。


 一枚の壁なら十メートル四方でも、極限まで細い枠組みで格子に組まれた馬防柵ならば質量の節約にもなり、かなりの範囲に展開できるというものだ。


「おおっ! さすが神器!」


 しかもその灰白色の枠組みは、通常魔法で出現させたストーンウォールなどと違って奈落の先兵を通過させない。まるで土砂を原料に錬成した現実の城壁のように、しっかりと奈落の大軍勢を受け止めている。


 が。



「ぐっ――これはさすがに無理か! 守る範囲が広すぎる! 一箇所、いや二箇所で敵が溢れるぞ!」



 イグナーツの叫びと同時に、整然と伸びた灰白色の馬防柵のうちの中央部と右端の二箇所が大きくたわんだ。


 そしてなだれ込んでくる死蟲の大群。


 柵を充分に伸ばしきれなかった右端からはそれを迂回するように、敵が最も集中している中央部からは柵を乗り越えるように、決壊した堤防を乗り越える鉄砲水の勢いで無数の死蟲が溢れ出てくる。


「そ、それでもこれだけ限定してもらえれば、あ、後はわたくしが!」

「ヴィオラ!」


 未だ蒼白な顔をしたままのヴィオラが、ふらつく体で緑白光の斬撃を飛ばし始めた。

 死蟲の大波に押されるように、ついに巨岩蟲が神盾による防衛ラインを越えてこちら側に現れ始めたのだ。


 ヴィオラの斬撃が先頭の巨岩蟲を両断してその進行を止めるも、その出どころは二箇所だ。中央からの二匹を屠っている間に、右端から現れた巨岩蟲が境壁に向かって加速しはじめ――


「だ、だめですっ!」


 ヴィオラが慌ててそちらにも斬撃を飛ばすが、そうなると今度は中央がフリーになる。

 大量の死蟲と共に灰白色の馬防柵を乗り越えてきた新たな巨岩蟲が、瞬く間にトップスピードにまで猛然と加速して。


「だだ、だめなんですからあっ!」


 ヴィオラの連撃がギリギリで巨岩蟲を分断し、その突進を止めた。猛烈に暴れ続ける残骸が余勢で地響きを立てて転がってきて、巻き込まれなかった後続の死蟲の波に呑まれて見えなくなる。


 同時に。


「――ッ!」


 僅かに目を離しただけの右方向から、凄まじいほどの衝撃がサシャたちの足元を揺らした。右端を越えてきた後続の巨岩蟲が、その巨体でついに境壁へと体当たりしたのだ。


「な、なんだ今のは!」

「新種の体当たりだ! 踏ん張れ、続けてくるぞ!」

「くそ! あんなの何度も喰らったら境壁が保たないぞ!」


 あちこちから兵士たちの叫び声が上がる。

 彼らは彼らで、絶え間なく襲いくる飛行蟲との激戦の最中なのだ。一瞬の動揺が隙を生み、戦場の喚声が一段と高まっていく。


「皆集中しろ! 我々の相手は飛行蟲だ! よそ見などしてる場合か!」


 青く輝く愛槍で一人奮戦するシルヴィエの叱咤が、鞭のように戦場に響き渡った。続けざまに境壁全体が揺れる中、気を取り直した兵士たちが再び奮闘を開始する。


「サシャ! こっちは私が何とかする! お前は新種を!」

「そんなこと言ったって!」

「なにか手はないのか! いくら飛行蟲を押さえても、アレをどうにかしないとこの境壁が保たない!」


 シルヴィエの正論に、サシャは改めて眼下を見下ろした。


 既に何匹もの巨岩蟲が境壁に激突し、うち数匹はヴィオラの斬撃で屠られているものの、明らかに手が足りていない。


 しかもこの先、たとえ境壁が衝撃に崩壊せずに持ちこたえたとしても。


 このまま行けば、押し寄せる巨岩蟲のその小山のような体躯を足がかりにして、死蟲が境壁上になだれ込んでくる――そんな未来が、サシャの目にははっきりと見えた。


「ああもう、こうなったら! ちょっと借りるよ!」

「使徒殿! いったい何を!」

「ヴィオラはこのまま真ん中をお願い! 右のは何とかするから!」


 サシャは双剣を素早く背中に戻すと、負傷してもがく刺又隊の一人からその得物を譲り受けた。そしてそのまま助走をつけて、ひと思いに胸壁から外へと跳躍し――



 必死に神盾を維持しているイグナーツの叫びが背後から追いかけてくるが、もはやそれどころではない。ひとつ思いついた手があるのだ。


 遠ざかる境壁上の叫喚、全身を襲う浮遊感。


「うおおぉおおお――」


 高低差十メートル以上、サシャが咄嗟に狙いをつけた着地先は。


「――喰らええええ!」


 手にした長柄の刺又を、全身を使って空中で大きく後ろに引き絞るサシャ。その二メートルを超える刺又の全てが、刹那に手加減なしに叩き込まれた青の光でバチバチと紫電を放っていく。



 そして次の瞬間、サシャは――――



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