風の戦士

咲乃零奈

風の戦士

第一章 狙う者たち


マキは震える息を吐いて、決意を固めたようにぐっと手近な小枝を噛んだ。

 年の頃十三くらいか。墨に浸したかのような真っ黒のショートヘア。遠浅の海の色を称えた大きな瞳が、脇腹に刺さった矢を映し出す。

 マキは、麻布の腰巻きに縫い付けてある色糸で編んだポーチから、包帯代わりの細長い布を取りだし、左手にくるくると巻き付け、そして――

 歯を食いしばり、腹の矢を引き抜いた。

「……っ!!ぐ……」

身体中の力が持ってかれるような痛みが腹を襲う。

 しかしそれに慣れる暇などなかった。

 他人の手のような気さえする指先を何とか動かして、ドッとあふれ出た血液を止める。左手に滑り止めで巻き付けた布は、そのまま栓として役立った。

 マキは手際よく、新しい布でぐるぐると腹を巻くと、ようやく疲れたように息をついた。

 顔も首筋も、汗でびっしょりだった。

(ハナ姉……)

 地面から大きく盛り上がった木の根の間から、ひっそりと空を仰いで、マキは残してきた姉を想った。

 耳にまだ、ハナ姉の緊迫した声が張り付いている。


『森まで一直線に走るんだ』

『あたしが時間稼ぐ。できるな?マキ。風の部族の戦士だろ』

『だーいじょうぶ、すぐに殺したりなんて、できるワケない。奴らには、あたしらが燃やしちまったあの紙っきれの情報が必要。でしょ?』

『行くよ』


 マキは苦々しい思いで顔をゆがめた。

(風(ふう)尾族(びぞく)め……寝返りやがって!)

自然と体に力が入れば、傷が熱を持ち力を奪った。マキはさらに腹を立てながら、絡み合う木の根の天幕の下、痛みに負けて体を横たえた。

「ハナ姉……無事でいてよ……」

祈るように吐き出された吐息は、どこまでも力無く、弱々しかった。


******


 この世界を表す言葉のひとつに、「風を制するものが世界を制す」というものがある。

 世界は、地中から吹き出る暖かい〈龍風(ルホウ)〉によってできあがった、という通説を、よく表した言葉だ。

 風の生まれる穴、〈ルホウの寝床〉から吹き出る風〈ルホウ〉には、生命の源がすべて含まれており、〈ルホウ〉の通った大地には、緑が豊かに芽吹き、虫が生まれトカゲが生まれ、そして人が生まれるのだ。

 それゆえ、〈ルホウの寝床〉を手中に治め、風の行くあてを制限することができれば、国ひとつ滅ぼすのも容易いと言われていた。

そして〈風の戦士〉は、〈ルホウの寝床〉を、ルホウの神〈御風様(ミホウサマ)〉のご意志に従って、奉り守ってきた者たちであった。

 当然、〈ルホウの寝床〉は、周囲の豪族や、権力者の注意を常に惹きつけていた。

 しかしこれまで〈ルホウの寝床〉が権力者たちの手に渡ることなく、ひっそりと、かつ大胆に、自然の摂理のままに保たれて来たのは、ひとえに〈風の戦士〉らの高い戦闘能力と、山中で培われた土地勘のおかげだった。

 今最も勢力を拡大しつつある強国〈仙〉すらも、風の戦士に手をこまねいている状態だったのだ。

 しかしこの均衡状態に、ついに終止符を打つ出来事が起きた。

 〈ルホウ〉の失われる果て〈海〉を渡って、異人の船がやってきたのだ。

 〈仙〉にもてなされた彼らは、自分たちが南の果てにある島より、珍しい植物の苗を自国へ持ち帰る途中であることを説明した。

 〈仙〉は彼らの到来によって、その高い航海術、進んだ科学技術などに衝撃を受けることとなったが、同時に、脅威を感じた。

 もし彼らが攻めてきたら、我らはひとたまりもない、と。

 そして危機感に追い詰められた彼らは、今まで手を出せずにいた〈ルホウの寝床〉を一刻も早く手中にすべく、ついに本格的に動き出したのだ。


第一節 アメリア・ローレンス


その男が通る先には、たちまちのうちに頭を下げる人々によって、道がつくられた。民は額を地面につけ、その恩恵をせがむがごとく、畏敬の念を込めて両手の平を天に向けるのだ。

 民たちは、頭を下げているので、直接見ることは出来ないが、確かに今目の前をお通りになっている御輿(みこし)の人物に向けて、口々に言う。


「大王(おおきみ)」「我が大王(おおきみ)様」


 御輿の上の人物はそれにいちいち応えたりはしない。ただ威厳を持って、少しだけ民を見くだしながら、じっと座って通り過ぎるだけだ。

 その御輿の列に、突然飛び出してきた者があった。

 髪のほつれ頬のやつれた中年の女で、手の中に赤子をくるんだらしき布を抱いていた。

「大王(おおきみ)様!この子をお助け下さい!大王(おおきみ)様!」

「無礼者!」

護衛の者らが騒ぎ、救いを求めてきた母親の首先に槍を突きつけ囲む。そんな中、御輿の上の人物が口を開いた。

「伊吹(いぶき)」

「はっ」

御輿の右脇に控えていた、他の護衛とは少し雰囲気の違う若者が応える。

「処理せよ」

「はっ」

「ゆくぞ」

大王(おおきみ)の一言で、その若者以外の護衛の者たちは持ち場に戻り、何事もなかったように御輿は進み始めた。

「!おおきみさま……!」

今にも泣きそうな母親は、うろたえながら護衛の足にすがりつき、払われた。

 そこに先ほどの若者、「伊吹」と呼ばれた男が近づき、声を掛けた。

「赤子はご病気か」

はっと母親は顔を上げ、聞いてもらえると思ったらしく急いたようすでそれに答えた。

「食べるものがないのです!畑は育たず風は吹きませんでした!どうぞ、どうぞ大王(おおきみ)様のご守護をこの子に……」

伊吹はふむなるほど、と少しだけ考える仕草をしたのち、泣きもせぬ赤子の小さな頭に手を乗せ、ホッとした様子を見せた母親に言った。

「心配することはない。もうすぐ大王(おおきみ)は〈ルホウ〉を取り戻される。それまで踏ん張っておれば、この子は大王(おおきみ)様の母上〈ミホウサマ〉に守られるであろう」

「え……。で、ですがもうこの子にそんな余裕は……!」

「それ以上は、大王(おおきみ)への背徳とみなされますよ。大王(おおきみ)はきっと私に、あなたを斬れとお命じになるでしょう」

「そんな!」

「ひとまずこの餅をやろう、私の昼飯だ。これで下がれ」

「……・。」

背を向けた伊吹を、その母親はもはや引き留めようとはしなかった。ただ三秒だけ唖然としたのち、赤子を強く抱きしめてすすり泣いた。


 伊吹が御輿の横に追いつくなり、大王(おおきみ)が民には聞こえぬ程度の声で言った。

「斬り殺せば済んだものを。神の御子である我の道を塞いだ時点で十分な背徳である。守護などと図々しい」

「この年風が吹かぬ地域と言えば、西の方の盆地の民にございましょう。あの母親も必死なのです」

伊吹がそう答えると、大王(おおきみ)が小さく鼻を鳴らしたのが分かった。

「奴隷は奴隷には優しいのう」

「…………。」

伊吹はそれには答えなかった。

 帯に差した銅剣の柄が、伊吹の心情を代弁するかのように、強い日差しにどこまでも鈍くきらめいていた。



******



 「大佐!報告します!ただいまホホギノミコトがこちらへ……」

「見えている」

海岸に停泊中の帆船の上で、部下の報告を不機嫌そうに遮りながら、アメリア・ローレンス大佐は、海岸の方へと近づいてくる御輿の一団を、見くだすような目で、事実見下していた。

 腰まで豊かなウエーブの栗毛を伸ばし、同じ色の瞳をして、元々白い肌は日焼けで赤みを帯びている。海軍らしく詰め襟のシャツに黒の軍服を着こんでいたが、胸のふくらみや締まったウエストはそれで隠せるものではなかった。頭には、つばを大きく折り上げた、白い羽根飾りの三角帽を被っていた。腰のベルトにはサーベルを差し、仁王立ちする彼女の体重の一部を、長い指揮棒が支えている。

「私が出よう。あのような野蛮人どもを、この船に乗せたくはない」

「アイサー」



******



 かくして、アメリアは仙の大王(おおきみ)「ホホギノミコト」と、陸の上にて対面した。

言葉の翻訳には、背中合わせのふたつのタイプライターに、オルゴールの管がいくつもくっついて、さらに拡声器を備えたような機械が使われた。

 片眼鏡を掛けた薄い毛髪の紳士が、弟子の少年とともに翻訳に立ち会う。

 アメリアは他に三人の海兵を従えて、砂浜に用意したテーブルの前に仁王立ちしていた。御輿が数メートル向こうで止まり、テーブルまでの数メートルに、白絹の布が敷かれ、ようやく仙の大王(おおきみ)は地に降り立った。

 仙の人々のほとんどが着ている前合わせの上着とすとんとしたゆったりめのズボンに、布を厚く巻き付けただけのくつ。仙のほとんどの人がそうしているように、髪型は真っ黒な長髪を両耳の位置で八の字に結っている。

 ただ他のほとんどの仙の民と違うことと言えば、決定的な装飾の多さだ。


 ――あとは、がりがりにやせ細った人々や、よくても筋肉の締まった者が多い中、この男だけはぶくぶくと太って、牛が座っているかのようだということくらいか。


 アメリアは皮肉を込めて心の中で吐き捨てた。

「つくづく愚王の見本のような男だな」

そう呟くと、タイプライター翻訳機の所で音がし出したので、

「訳さんでいい」

険しい表情を大王(おおきみ)に向けたまま、アメリアはぴしゃりと言った。

「ラビットソン教授。あなたの生真面目は取り柄だが、知っての通り私は血の気が多い。せいぜい船が直るまでは、この原住民族と戦争など起こさんで済むように取りはからってくれ」

「は、はい、やってみ、ます」

ラビットソン教授と呼ばれた紳士は、しどろもどろに答え、緊張に耐えきれぬ様子で額の汗をぬぐった。そして、すぐ隣で機械の最終調整をする弟子に、こっそりと声を掛けた。

「コ、コール、助手、よろしくだよ。僕は君の言ったとおりに訳すからさ」

機械から目を上げた金髪碧眼の少年は、期待されていることが嬉しいらしく、目をきらめかせて元気よく答えた。

「はい、教授!俺、大佐の言葉をしっかり意訳します!」

「しっ、コール君、静かにね……」

アメリアの無言の威圧感に慌てながら、ラビットソン教授はさらに冷や汗を掻くこととなった。

 傘を差された大王(おおきみ)が、従者とともに近づいてくると、彼らの無駄口も消えた。

始終仏頂面だったアメリアは、次の瞬間、にこりと笑った。

「これはこれは仙の愚王、ホホギノミコト。本日はどんなくだらない用件で?」

その文章は、少年コールとラビットソン教授の尽力により、まあだいたい同じ意味で、ケンカを売る言葉を省いて訳された。

 向こう側を向いたタイプライター側の拡声器から、音がひとつずつ流れ出る。

 そんな中、一人の若者が進み出てタイプライター翻訳機械の前にひざまずいた。

 伊吹だった。

 大王(おおきみ)の言葉を代弁するのだろう。

 精悍(せいかん)な顔つきの青年は、翻訳機のボタンを少し時間を掛けながら押していった。

 向こう側を向いたタイプライターには、ラビットソン教授がここに着いたときすぐに調べ上げたこの国の言葉の文字列が、ボタンの上に即席で貼ってあった。

 他の土地で原住民族との交流を重ねてきたラビットソン教授には、すでに彼らの言葉の組み立て方については理解していた。

 向こうの言葉で押された言語は、翻訳機の今の設定に従って、こちら側の言葉に変換されて聞こえてくる仕組みになっていた。

 もちろんこちらの国の文字とは仕組み自体がちがうため、きれいな言葉としては聞こえてこない。だが、聞こえてきた母音、子音からだいたいの文脈をはじき出すことはできた。

 出てきた音をさらにきれいに訳し直した結果、このような文章が現れた。

「そなたらの銃隊が風尾族を制圧したおかげで、〈風(ふう)尾族(びぞく)〉は〈風の戦士〉どもを襲った。

そこで提案だが、我らの兵にも〝銃〝という武器を扱わせたい。貴重な木材と人員をそなたらの船の修理に捧げておるのだ。一丁、譲ってくれるだけでよい」

それを聞いたアメリアは、満面の笑みで言った。

「もちろん却下だ。辺境の島の原住民の上に反り返っている者に、武器など渡す阿呆はおらんと言え」

さすがにこの文章を当たり障り無く変換するには無理があったが、まあなんとかやってのけた。

アメリアは続けた。

「我らも大事な銃歩兵小隊を提供しているのだと言うことを忘れるな、愚王。明らかにこちらの方が損をしているのだ。今の時点ですでにな」

その言葉を言い終える頃には、彼女の表情から笑みは消えていた。不快きわまりない表情で、体格的に見下ろす形になるホホギノミコトを見下ろす。

「それよりも風の戦士とか言う者たちからさっさと〈ルホウの寝床〉とやらの場所を聞き出せ。バロゼッタ帝国海軍は、いつまでも原住民の伝説に付き合うほど暇ではないぞ」



******



 大王(おおきみ)一団が去っていく後ろ姿を険しい顔のまま眺めながら、アメリアは背後に控えた三人のうちの一人、他二人の軍服より少しだけ肩章などの装飾のついた屈強な体つきの男に、声を掛けた。

「ワン中尉。留守を頼む」

ワン中尉と呼ばれた少し黄色めの肌の男は、細い目をさらに細めて訊く。

「ローレンス大佐、〈ルホウ〉とやらを信じているか?」

するとアメリアは髪を揺らして振り向いた。その表情には不敵な笑みが浮かぶ。

「何、どうせ船はすぐには直らんのだ。ここで暇して愚王の相手などするより、山中で軍議でも開いていた方が、私は落ち着く」

えっ、と他二人の平兵が若干の恐ろしさをアメリアに感じる中、ワン中尉は言った。

「ひどいネ大佐!ワンだって原住民の殲滅(せんめつ)したいネ!ずるいずるい!」

ええっ、と他二人の平兵はさらに驚くとともに、冷や汗すら掻きそうになった。平兵にとっては、アメリアの迫力はもとより、だだっ子のような軽口を叩くワン中尉にはもっと恐怖を感じるのだ。ここまで航海をともにしてきてもなお、そのひやひや感に慣れることはなかった。

 そして駄々をこねるワン中尉に対し、アメリアはついに、爆弾発言を口にする。

「ふん、心配せずとも留守番だってすぐに暇ではいられなくなるさ。私は〈ルホウ〉を手に入れることにした。〈ルホウ〉に価値がなければそのまま伝説を利用し、この土地を我が国に引き入れる。」

「たっ、大佐……!失礼ながら!」

ついに平兵の一人が抑えきれなくなり、敬礼とともに口を挟んだ。

「何だ二等兵」

「はっ!す、すでに我らの行動は本国命令の範疇(はんちゅう)を超えております!この土地に関しては、軍律に従い、一度本国へ持ち帰っての検討が必須ではないかと!」

おお、言った!と、もう一人の平兵が尊敬を込めて同僚を見守った。

 同僚は直立不動、石化したように固まってアメリア大佐とワン中尉の一斉視線を受け止めている。

 心臓止まってるんじゃないか、と同僚を心配しだしたとき、

 アメリアの豪快な笑い声が海岸に響いた。

「貴様は真面目そうだ。そして私によく物が言えたな。その勇気も買ってやろう。……ワン中尉、貴様は留守に回らんで済みそうだぞ。よかったな」

「おお!助かるネ!」

ワン中尉がニコニコと二等兵を見遣った。

「は!」

平兵は反射的に返事してから、

「――はっ……?」

疑問符。

かくして、勇気を出したばっかりにバロゼッタ海軍船の臨時責任者にされてしまった二等兵に後を任せ、アメリア大佐とワン中尉は銃歩兵を送り込んだ先、真北の方角の山中へと向かったのだった。

 アメリアの命令で、ロナルド・ラビットソン教授と弟子コール・チェンバーも同行することになった。



******



 〈仙〉の兵とアメリアの銃歩兵小隊が現在拠点を置いている〈風(ふう)尾族(びぞく)〉の村は、垂直に切り立った崖の上にあった。

 ……いや、アメリアたちの拠点は崖の上に置いていたが、〈風尾族〉の家屋自体は、崖を這う頑丈で巨大な蔓に、球形の編みカゴのような家を木の実のようにぶら下げていた。

 いくつかの密林を経験したことのあるアメリアですらも、その光景には目を見張った。

 そしてそれ以上は特に何の反応も示さず、すぐに、自兵のテントへ姿を消した。

 ラビットソン教授と弟子コールは、その光景を見ながらしばし並んで崖縁に佇んでいた。日は暮れ時、緑に覆われた山の向こうへ埋もれようとしていた。

「ここが、龍の尻尾……。〈龍風(るほう)〉の駆け上ってくる場所というわけですか」

ラビットソン教授が、考え深げに声を漏らした。

 コールは顔を上げて、教授の神経質で気弱そうな学者顔を眺める。

「……教授は、〈ルホウ〉についてどう思いますか?」

するとラビットソン教授は、片眼鏡をきらりと橙色に反射させながら、コールへと目を移した。

「君は、どう思いますか?コール君」

講義をする口調で、彼は問うた。

 コールは少しだけ考えてから、答えた。

「自分の知る限り、バロゼッタも含め他の土地でこのような風の穴があるとは、聞いたことがありません。だけど、……」

少し言い淀みながらも、頭の中にある考えを整理しながら、続ける。

「似たような神話は、確かに至る所に存在する。神の息吹が世界を天と地に分離したとか、風が駆け抜け、人間は地中から地上へと姿を現し、動き回れるようになった、などの類の話です。」

「そうだね。」

「ですが俺は完全に神話の類だと。風創造説を唱えた古い学者はいますが、それはたいてい、一笑されて終わっていますし」

「でも、ここにはあるというね」

「はい。もし本当ならば、是非この目で確かめてみたいです。興味があります。この世界を自由な渡り鳥のように取り巻く命の風が、生まれている場所を」

コールがそこまで言い終わると、ラビットソン教授はうんとひとつうなずいてから、

「そこまでが、君の見解ですか?」

さらに訊いた。

「はい」

コールは正直に答えた。

「うん。では、〈仙〉の王が〈ルホウ〉を欲している理由――恐らく〈ルホウ〉を手にすれば強大な力となると信じているのでしょう、それについて、どう思いますか?」

「はい。信仰の対象物を手にすることで民からの神信仰を集め、自らを神と崇めさせることで土地を統治する民族は確かに珍しくはありません。まあ、当然の流れかと」

「そうですか。しかし僕は、それについては少し見解が違います」

「え……っと、どういうことですか?」

完璧な回答をしたつもりでいたコールは、若干戸惑いを見せながら訊いた。

 ラビットソン教授が再び崖の下に、崖を覆う蔓と家々と、埋め尽くすように実る果実に目を落とすと、刹那に風が駆け上がってきて、教授の薄毛をふわりと持ち上げた。

「〈仙〉の王は、恐らく〈ルホウ〉を手に入れるだけでなく、操るつもりでいます。

 もし事実〈命を生む風を生む場所〉であったのだとしたら、それは軍事的武器に匹敵する可能性が、無くはないのです。風が無くなり森が荒野と化した国は、たくさんありますからね。」

「――まさか」

コールは一瞬言葉を失いながらも、どうにかそれだけ反応した。

 するとラビットソン教授は言った。

「彼らが言う伝説をすべて事実だと仮定するからには、そういうことになってきますよ。本当に操ることができるのかも疑問ですが。――アメリア大佐も、この事には気づいています。だからこうして、いざとなったら〈ルホウ〉を〈仙〉より早く手に入れるつもりでいるのです」

「…………。」

「君もそろそろ、ある程度彼らの言葉は分かるようになってきているでしょう。僕は面倒ごとが怖いのであまり自由に動き回れません。

 しかしコール君。君ならできます。この民族の事を、自由に調べて回って来てください。お願いできますか?」

「!任せてください教授!」

コールは目をきらめかせながら張り切って答えた。


第二節 風尾族


 十六歳のハナは、誰もの目を惹く美しい娘だった。

 妹マキと同じ墨色の、しっとりとした長い髪を肩甲骨の辺りでゆったりと結んでいる。

 瞳も同じく〝遠浅の海の色〝で、その澄んだ瞳が、キッと目の前に立つ男をにらみ付けた。

「風の部族の恥さらしめ」

 すると次の瞬間、手のひらが降ってきて、彼女の頬を叩いた。

 そのままどさりと地面に倒れ込み、顔と体の片側が土に汚れる。

「おーおー言ってくれるねぇ、ハナちゃん。元許嫁(いいなずけ)にさ」

 そう言って男はかがみ込み、そっとハナの髪をなでた。ハナはほとんど反射的にそれを避けようとして、顔を地面に押しつける。

 後ろ手に縛られているハナは、口で抵抗するしかなかった。

「ヒュウガ。まだあたしに未練があんの?ああ、それともあたしに振られたから、傷ついたプライドが癒えないんだ?」

「俺のおかげでこうして無事なんだぜ。そういう言い方はないんじゃねえかな」

「こういうの、世間ではフツー無事っては言わないって、知ってた?」

ハナは冷たく言い放って、縛られた手を強調するように動かす。

 ぐ、とヒュウガは押され気味の顔をしたが、すぐに気を取り直した。

「ふん、まあいいさ。俺がその気になりゃあ、テメエなんてすぐに〈仙〉の大将に差し出してやるんだからな。

 いいか、ハナ。いい加減その態度改めた方がいいぜ。

 テメエの命も体も、俺の手中にあるって事忘れんなよ」

「だれが」

唇を噛んで、ハナは鋭い視線でヒュウガを射抜いた。

「そっちこそあんまり調子に乗るなよ。あたしは天の神〈ミホウサマ〉の巫女。

 巫女が秘密を漏らすくらいなら死を選ぶって、知ってるよなあ?」

ヒュウガはその意志を秘めた瞳に一瞬圧倒されながらも、それ以上に鼓動が熱く跳ねるのを感じていた。

「やっぱいい女だな、ハナ」

ヒュウガの手が再び、今度はハナの首筋と鎖骨の辺りに伸びる。

 ハナはそのにやついた顔に向かって、つばを吐いた。

「!」

 ヒュウガは動きを止め、そのつばが自分の、狼の毛皮の肩掛けに飛んだ事を目にすると、

 次の瞬間、ぶち切れた。

「この女ぁあぁ!」

ヒュウガの振り上げた手が、今度は固く拳を握った。



******



 マキははっと短く息を吸って意識を取り戻した。

 まだぼやけたままの視界の中、目の前に人の顔があることを認識すると、反射的に腰の短刀を引き抜いて振り上げていた。

 そしてその人物の首筋に突きつけようとしたつもりが、そこでやっと気づいた。

 それは人ではなく、野犬だったということに。

 辺りはすっかり夜を迎えていた。

 突然刃を振り回された野犬は驚いて飛び退いた。

 マキはすぐに跳ね起きると、まだ足下が自分の感覚を取り戻せずにいるまま、短刀を逆手に持ち替え威嚇のつもりでぶんとふるった。


 ウウウ!ブアウッ!


 一度は怯んだ野犬だったが、所詮は血の臭いのする手負いの獲物に、まだ息があったというだけだ。すぐにとどめを刺すべく、間合いを取って飛びかかる姿勢を取った。


 ガウッ


「くっそ!」

 飛びかかってきたのはしかし、木の根の向こうにいた違う一匹だった。

 マキは腕を掠りながらも何とか倒れ込んで急所への攻撃をかわし、空(くう)を切った野犬が自分の上を飛び越えるとき、短刀をその腹に向けて思いっきり突き出した。


 ぎゃん


 ざっくりとは行かなかったが、傷を負わせることには成功した。

間髪入れず、最初の一匹が、さらに別のもう一匹とともに飛びかかってきた。

「っぐ!」

横に倒れ込んでしまっている上、そうそうスペースのない木の根の下で、とっさにマキは体を丸めて、短刀の刃で首元だけを守った。

 とっさの策だったが、それが功を奏し、一匹は短刀を噛んで歯茎に刃を食い込ませ、口から血を流しながら飛び退いた。

 もう一匹はしかし、マキの右腕を狙っていた。

 が、飛び退いた一匹が邪魔になって押し出され、二匹はそのまま倒れ込んだ。

 マキはその隙を逃さず前転して、木の根の天幕から脱出した。


 ――どこか、高いところへ上らないと!


 ガアッ!


野犬たちがすぐに同じフィールドに飛び出してくる。

 マキは短刀を木の幹向けて振り投げた。

 短刀は巨大であまり凹凸のない幹に突き刺さった。

 三匹の野犬たちが、唸りながらマキを囲むように間合いを取る。

 マキは彼らに全神経を傾けながら、機会を待った。

 きっかり一秒。

 野犬たちが土を蹴った。

 マキはその瞬間、野犬たちの向こう、――短刀を刺した木に向かって、走り出していた。

マキは野犬たちに触れられる直前のところで、強く踏み切って跳んだ。

 先ほどまで宿にしていた根っこに飛びつき、駆け上がると、勢いのままに再び跳躍。

 マキの右手が、幹に突き刺さった短刀の柄を掴んだ。

 そしてマキは、右手を軸にぐるりと体を宙に持ち上げ、タイミングよく右手を放すと、すとっ、と短刀の柄に足を添えたのだった。

 マキの足は、方向転換して追ってきた野犬たちの鼻先を掠め、彼らの牙がぎりぎり届かぬ場所に落ち着いたのだった。

 が、それも一瞬だった。

「うぐぅっ」

 まだ塞がりもしていない傷が、その激痛で彼女の力を瞬間的に奪ったのだ。

 よろりと、世界が傾いたのが分かった。


 最悪だ……。


 ガウッ バウゥ バウ ガフッ


 犬の鳴き声が耳元を擦る。

 落ちていく一瞬を、やけにゆっくりと感じながら、目の前を、ハナ姉の顔がよぎった。

「!」

 次の瞬間、マキは体を捻って受け身を取っていた。固い木の根に背中がぶつかる。

 ――犬のエサになんか、なってる場合じゃない!

 しかし野犬たちは降ってきた獲物に、容赦なく襲いかかる。

「うわあああああああああああっ!」

マキは暴れて、そのまま木の根のカーブを転がり落ちた。

 犬たちはぴったりくっつくようについてくる。

 マキは地面に最初に膝が付くよう転がり落ちたため、素早く体勢を整えることができた。

 そして一匹の鼻を殴った。


 ぎゃああぅっっ


「くそっ、くそっ!」

 マキは拳を振り回した。

 このままじゃ、やられる……!

 そう直感したときだった。

 ついに右腕に新たな激痛が走った。

「――!放せこのヤロォ!」

 先ほど歯茎を痛めつけられた犬だった。 その牙が深々と肩の下を突き刺した。

 振りほどこうとすれば、同時にそれは、野犬の体重に腕の肉までごっそり持って行かれることを意味している。

 「いやあああああああ!ハナ姉っ!ハナ姉――っ!!」

マキは絶叫した。

 声がひっくり返って掠れて、肺の中身をすべて吐き出すかのごとく。

 しかしそこに、ふいに灯りが差した。

「だいじょぶか!」

 変な訛りの入った少年の声が、マキの耳に届く。


 誰……?


 その誰かは、小さな炎を閉じこめた容器を片手に掲げ、心もとないナイフを必死に振り回しながら、マキへと駆け寄ってきた。

 野犬はナイフよりも灯りに驚いた様子で、ぱっとマキを放すと、暗闇へ散った。

「うわああ!」

 抵抗する元気もなかったマキの血まみれの腕を見て、金髪碧眼の少年は卒倒しそうな顔をした。

 が、それをこらえながらマキに身振り手振りで訊く。

「なにか、手当て、持つ?」

「……?手当て、するもの?ここに」

マキは色糸編みのポーチから、止血用の布を取り出そうとして、その中身が空っぽなことに気づいた。

「……ない。もう、使い切っている」

落胆とともに声を漏らすと、少年はポケットから自分の布を出した。

なにかひどく肌触りのよい布だった。

「俺の、ハンカチ。とりあえず、縛るだけ縛るよ」

「〝ハンカチ〟……?」

見たこともない民族なのは一目瞭然だった。彼のつたない言葉には、時々意味不明の言語が混ざる。

 マキの腕を固く縛りながら、少年は言った。

「俺の名前はコールです」

なぜそこだけやけに流暢なんだろう。

「君は、なに」

あ、またカタコト。なにって何。名前?

あんたに言う必要ない。

そう答えようとしたけれど、マキの口は勝手に、自分の名前を名乗っていた。

「……マキ。風の戦士」

 たぶん、興味深げにこちらを見る目とか、カタコトで頑張って話そうとしている様子が、少しだけ、かわいく思えたりしたせいかもしれない。

 白い肌には、そばかすが目立っている。

 金色の髪。

 炎の灯りが見せる錯覚?

 こんな色、初めて見た。

「ルッシェ!」

コールはたぶん「よし」とか「できた」とかの類の言葉を発しながら、マキの右腕から手を放した。

 やけに小綺麗な身なりをしているその少年の袖には、マキの血が付いてしまって、

 普段そんなこと気にも留めないのに、

 何だかこの時ばかりは、少しだけ申し訳ないような気がした。

「マキ」

ふいに言葉を呼ばれて、少し戸惑う。

「なに?」

「マキ!」

「……コー、ル?」

「うん!コール。マキ。」

コールは目をきらきらさせて自分とマキを交互に差しながら繰り返した。

「分かったから」

マキはふっと思わず笑みをこぼした。

 変な奴だな。

 そう思った。

 するとコールは、何か言いながら背を見せてかがんだ。

「え……」

おぶってくれるって事だろう。

確かにここにいては危ない。

血の臭いに、獣たちがいずれまた寄ってくるだろう。

だが、ほかにどこにいこうというのか?

自分の集落へ連れて行くつもりだろうか?

 マキがためらっていると、コールはカタコトで言った。

「キズ、とても手当て、しないと」

「…………。」


悪い奴では、なさそうだが。


 木の上で夜を過ごそうにも、木の上にのぼる力も出ないマキは、幹に突き刺したままの短刀を引き抜いてから、結局、コールの背に身を預けたのだった。

 小さな炎を閉じこめた容器――彼が「ランプ」と呼ぶその灯りのおかげで、夜行性の獣は警戒してすぐには寄ってこない。

 立ち止まりさえしなければ、とりあえずは大丈夫だろう。

 それでも腰の後ろに装備した短刀をいつでも引き抜けるよう、マキは警戒していた。

 警戒しながら、コールの肩に乗せたあごを動かして、何者かを探った。

 彼は言った。

「船、来た。海、遠い。」

「海の向こうから……?〈ルホウの失われる果て〉から、来たって言うの?」

マキは驚きを隠せずにいながらも、妙に納得できてしまった。コールのきらきらした金色の髪や、やけにきっちりとして素敵な衣服のせいだろうか。

「……あんたは、〈ミホウサマ〉の使者?」

「〝ミホウサマ〟?」

「天の神で、〈龍風(るほう)〉を司る神」

「あはは。違う。俺はヒトです」


 あ。また流暢。〝俺の名前はコールです〟の応用?


「バロゼッタ、国。来た」

「国?国があるのね?」

コールはうなずいた。

 さく、さく、と、急ぐわけでもなく、彼は何年分かの落ち葉に覆われた湿った地面を踏み進む。

 少し進むと、木の幹に記したバッテンの目印がちらほらと現れた。

 慣れない山中を散策する際の最低限のルールくらいは知っているようだ。

 やがて、コールは少しだけ開けた高台で、足を止めた。

「着いた。今は、俺、あそこにいる」

 マキは目を見開いた。

 ちょうどここからは対岸にあたる位置に、何度か目にしたことのある光景が広がっていた。

「〈風尾族〉の……集落」

 マキの瞳に怒りが浮かぶ。


 ――ハナ姉。

第三節 伊吹


 伊吹は、苔むした岩の隙間に体をねじ込むようにして、鍾乳洞の中へ入り込んだ。

 鍾乳洞の中は、温風が満ちていて湿度が高く、息苦しかった。

 他二人の〈仙〉の兵が、伊吹に付き添って続く。

 しばらく狭い道を進むと、ぽっかりと広い空洞へ出た。

 そこにはすでに、たいまつが灯されていた。

 そして伊吹は、石ころを拾うと、それを前方に向けて思いっきり投げつけた。

「――がッ!」

 突然横から飛んできた石つぶてが、ハナに向けて拳を振り上げたヒュウガのこめかみを直撃し、ヒュウガは短い悲鳴とともに地面に倒れ込んだ。

「……?」

ハナは体勢を変えて、その顔を伊吹の方へ向けた。

 ヒュウガも、少し血の出たこめかみに手を当てながら、目を向ける。

「それは〈仙〉の物だ。勝手な真似をするな、風(ふう)尾族(びぞく)」

伊吹は声を張り上げた。

「なっ……」

ヒュウガは一時呆気にとられ、次に伊吹に負けぬ大声を出した。

「なんでここが分かったぁ?!誰がしゃべった!」

「阿呆だな」

伊吹はその涼しげな目元を細め小さく呟いてから、二人の方へと闊歩した。

「寄るんじゃねえ!コイツは渡さねえぞ!」

とっさにヒュウガは、近くに立てかけていた自分の槍を手にした。

 が、それを構えるより早く、気づけば槍の間合いの内側に、伊吹は潜り込んでいた。

 腰に提げた銅剣を抜くこともなく、ただヒュウガの槍の柄を片手で押さえながら、伊吹は力のこもった瞳でヒュウガを見据えた。

「武器を置け」

 すさまじい殺気だった。

 一瞬、その場の誰もが空気に呑まれ、息を止めた。

「…………。」


 カーン。


 ヒュウガが体をこわばらせて、槍を落とす音が、洞窟内に鐘のように響いた。

「連れて行け」

 伊吹が言うと、仙兵たちがはっと我に返り、慌ててヒュウガを両側から挟み込み、その背を押して来た道へと向かった。

「いや、待て」

ふいに、伊吹が背後で言った。

 次の瞬間、ヒュウガの両脇で血しぶきが噴出した。

 目を見開いたヒュウガが振り返るより早く、銅剣を持った腕がその首を締め上げていた。

「……かッ……?くはッ……」

やがて、ずり、とヒュウガの体から力が抜け、伊吹はゆっくりとそれを解放した。

「風尾族が風の戦士を襲うとき、〈仙〉の伝令がそれを見ていたことくらい、想像がつかんのか。 堂々と巫女を連れ去ったお前の行動が、ルホウの寝床への入り口を示してくれたのだ。……阿呆め」

 ヒュウガの投げた先ほどの問いに、ようやく伊吹は答えてやった。

 ――もはや本人には聞こえていないだろうが。

 「てっめええええええ!」

 残った一人、ハナが、怒り任せに声を上げた。

「〈仙〉め!何故殺した!」

「安心しろ。〈風尾族〉の男は死んでいない。……だからこうして、ぐるぐる巻きに縛っている。ぐるっぐるにな」

事実ヒュウガをこれでもかと言うほどぐるぐる巻きに仕立て上げながら、伊吹は冷静な声を出した。

「えっ……なっ……何で……」

 ハナは戸惑った。怒りの矛先も行く先を失い、ただ混乱する。

「じゃあ何で……味方を」

「味方じゃない。この二人は大王(おおきみ)、火穂伎命(ほほぎのみこと)の狗(いぬ)だ。私の補佐をしつつ、私を見張っていた」

「あんた……」

ハナは身を起こし、じろじろと伊吹を観察した。

「自分の国の大将にたてつく真似していいのか?」

 伊吹は完成したヒュウガ芋虫を壁際に引きずって寝かせると、ハナの方を向いた。

「〈仙〉は私の国じゃない。私の国は十七年前、あの男に滅ぼされた」

「えっ……?」

「私はその国の王子だったが、火穂伎命(ほほぎのみこと)の気まぐれで殺されなかった。代わりに奴隷として仕えさせられた。やがて武芸の腕を見込まれ、奴の側を任された……」

ハナと距離を取ったまま、伊吹は向かい合うかたちであぐらをかいて座る。

「だが私は、一時たりとも奴への復讐を思わないときはなかった。そして奴もそれを知っていて、わざと私を側に置いている。

 間近にいながらその首を狙うことすらできず、殺したい相手を守らねばならんこの屈辱……。奴はそんな私を見て楽しんでいるのだ」

 だが、と伊吹はハナに声を掛ける。

「もしかするとついに復讐の機会が巡ってきたのかもしれぬ。火穂伎命(ほほぎのみこと)は私に手綱をつけつつも、制圧した風の戦士の土地を任せた。手綱を引きちぎれぬ狗だと思っているのだろうが、それは間違いだ」

 伊吹はそこまで語ると、ふ、と少し笑みをこぼした。

 ハナはそんな伊吹に探るような目を向けながら、忠告する。

「あたしは決してルホウの秘密を教えはしない。隙を見て逃げ出すか、あんたを殺すか……それができぬなら自害してやる」

「分かっている。蒼い目の巫女たちは〈ルホウ〉の秘密を聞き出そうとすれば死んでしまう。だから私は、私の話をしている」

 死んでもらってはかなわんからな、と伊吹は苦笑する。

 とてもつい今し方仮にも味方を殺めた人間とは思えない。

 この人の良さそうな笑顔が、この人の本質なのだろうか。

 そしてそのような人が、顔色ひとつ変えず目的のために人を殺してしまうということは、

 つまりそれほどまでに、復讐への決意が固いということだ。

 「刺し違えてでも」と、そう思っているのかもしれない。

 ハナが考え込んでいると、伊吹が再び口を開いた。

「だが〈ルホウの寝床〉への入り口が分かっただけでも大きな前進だ。さあ巫女、立て。

 私の近くにいれば、守ってやれる。大王(おおきみ)からもな」

「なぜ……」

「私の切り札だからだ」

そう答えてから、伊吹はふっと顔をゆるめた。

「――などという理由では、そなたはすぐにでも死を選んでしまいそうだから、言い直そう。

 正巫女だった三人の老女は死んだ……不用意に〈仙〉が〈ルホウ〉について聞き出そうとしたせいで。

 私は彼女らが風尾族と〈仙〉の兵士たちのさなかで、舌を噛み切って事切れていくのを、遠くから見ていた。それを私は、悔やんでいるのだ。信じてはもらえぬかもしれぬが……。

 気高き生き物が死んでいくのは、ひどく悲しい気持ちにさせる」

「……都合のいいことを」

 復讐のためなら手段を選ばぬというのに。

 だがハナは反発する気持ちを抱えながらも、立ち上がった。

「せいぜいあたしが正巫女様と同じ道を選ばぬよう、気をつける事ね」

「誓うよ」

 伊吹は少しだけホッとしたように声を漏らした。

 言ってみせるからには、やってみるがいいわ。

 ハナは心の中で、伊吹に挑戦状を投げかけた。

第二章 交錯する思惑

第一節 コール・チェンバー


「…………。」

二人の間に、しばしの沈黙が流れた。

 マキは力の入らない右腕をコールの首に巻き付けてあごを上げさせ、左手に握った短刀を、その首元に、太い血管の位置に突きつけていた。

 ややあって、マキが言った。

「風の戦士たちをどうした」

「あそこには、いない」

コールは答えた。

「じゃあどこだ!ハナ姉は……風の戦士たちはどこにいる!答えろ!」

耳元で叫ばれ、コールの頭がびくりと少しだけ揺れる。

「俺は知らないです。ハナ姉……マキ、探している、人?」

「そうだ!お前らが風尾族をけしかけたんだろ?!」

「え……っ」

「風尾族は、風の戦士から堕ちた者たちとはいえ、風の戦士を襲ったりはしない!そのせいで……。分かっているのか?自分たちが何をしているのか!」

熱のこもったマキの声が、鼓膜を破られそうな程がんがんと、コールの頭に響く。

 おぶわれているマキは、突然落とされるのを警戒して、皮膚が切れるぎりぎりの所まで、短刀の刃を彼の首に押しつけていた。

 もしコールがマキを落とせば、自動的に彼の首も危ない。

 コールはマキの言葉を聞きながら、強制的に上を向かされたその瞳に、満天の星空を映していた。

「――マキ」

「なんだ!」

「俺は、戦う側の人種ではないよ。敬愛するラビットソン教授の助手として、ここに来た。俺は君たちの考え方を知りたい」

「……何をしゃべっているんだ?」

コールはバロゼッタ語で自分の伝えたいことを、一方的に話した。マキには当然、彼の話した内容はまったく分からない。

 ふざけずに答えろ、そう怒鳴ろうとしたときだった。

 コールが少しだけ首を動かして、肩の位置にあるマキの頭に目を向けた。

「〈ルホウ〉、正体、知りたいです。教えて。俺はマキと話がしたいです」

「?!……お前に話すことなど――!」

激情に任せて断ろうとしたマキは、コールの真剣な深い碧の瞳に戸惑って、言葉を止めた。

「俺は教えて欲しいです。俺は研究者です。研究者は、信じた道、進む、ヒト。」

マキは呆気にとられ、無意識に短刀を下ろしていた。

「……風の戦士に味方するか?」

コールは答えた。

「マキの味方なら、してもいい」

「なっ……」

「そうだ、マキ、いいもの、見る」

いい物見せてあげる、と言いたいのだろう。

 首元から短刀が離れたコールは、開けた高台から再び森の中へ、バッテン目印を頼りに少しだけ歩く。

 彼がランプを掲げた先には、夜光キノコの群れがあった。

 夜光キノコが列をなし、ぞろぞろと木の根を越えてどこかへ向かっていた。

 「すごく、きれい。あれ、アリ、だよね?」

訊いたのは、コールだ。

「そう。キノコアリ。月光キノコが好物で、こうして列をなすの。きれいかもしれないけど……」

 きれいだと思うのも納得はできるけど……。

 マキは怪訝そうな顔でコールの横顔を見遣った。

「あれ、食べれないよ。キノコが毒持ってるせいで、アリも毒持ってるから……」

 思わず少しだけ、申し訳なさげな口調になる。

「え?」

コールは驚きを顔に出して、少し戸惑った後、

「あははは!」

声を上げて笑った。

「??」

マキは何がおかしかったのか分からずきょとんとする。

「そっか、食べれない。残念」

コールは笑いながらそんなことを言って、そしてそこを離れた。

 マキはもはや、警戒することを忘れてしまっていた。

 コールの素直さは、ぴりぴりした心を柔らかくするような、不思議な雰囲気があった。

「見つかる、まずい?」

そう問われて、マキは風尾族の方へ近づいていたことをはたと思い出す。

 うなずくと、コールは少し考えるように黙った。

 割に、でてきた言葉は、

「じゃあ、見つからない、気をつけよう。そっと、行く」

なんか無計画だった。



 ******



 無計画だった割にすんなりと、見張りのバロゼッタ兵の目をかいくぐる事ができた二人は、問題なくコールのテントへ辿り着くことができた。

 木の枠組みに布を被せただけの狭いテントの中には、やたら物がごちゃごちゃと置いてあった。

「……本当に今日、来たの?」

マキは思わず尋ねていた。

 物のほとんどは小瓶で、マキにとっては珍しくも何ともない雑草やキノコや虫が、大事そうに入れてあった。

「そうだよ。見たことない物、集めた」

 そう言いながら、コールはポケットからさらに小瓶を取り出した。

 人差し指ほどの大きさの細長い小瓶には、先ほど見た月光キノコとキノコアリが、ワンセットで捕まっていた。

 ぽわんと薄緑色に光る小瓶をテント入り口にぶら下げながら、コールは目をきらめかせた。

「キレイだよね」

「…………。」

マキはコールの様子を、ただ黙って見ていた。

 このキノコの採集中に、野犬に襲われた自分の悲鳴が聞こえたのだろう。

「はい、これ。消毒しないと」

差し出された褐色の瓶を、受け取る。

 マキが腹の布を解き始めると、コールは慌てて向こうを向いた。

 けれど気になってちらっと少しだけ目線をやると、マキが消毒液を、腹の傷に直でかけようとするのを目撃した。

「ドゥシェ!……止まれ!待って待って!」

「え」


ばっしゃん。


「――――――!!」

深い矢の傷に消毒液を派手にぶっかけてしまったマキは、悲鳴を押し殺して無言で地面にうずくまった。


 やや後、

「!」

怒りの目をコールに向けると、コールはおろおろしながら言った。

「ごめん、ごめんね。俺がするから。いい?」

 マキは涙目でしばし睨んだ後、鬼の形相でうなずいた。

 その間に、約束通り、マキは話した。

 風の戦士が守っている〈龍風(るほう)〉がどんなものなのか。

 風の戦士たちの生活がどういったものか。

 何を食べているか。

 どんな儀式があるか。

 そして――、

「……巫女?マキが?」

 コールは包帯を巻く手を止めて、聞き返した。

「そう。この青い目。これが巫女の証。青い目を持って産まれてきた者だけが、〈ルホウの寝床〉に立ち入ることを許される。だから風の戦士ですら、巫女以外の者は、〈ルホウの寝床〉の正確な位置は知らない」

マキは続ける。

「今、その場所へ行き来していた正巫女は三人いた。

 私とハナ姉は、やがて〈知恵の儀式〉を行って、正巫女様たちの後を継ぐはずだった……。

 だけど正巫女様たちは、風の戦士たちが風尾族と〈仙〉に落ちたとき、自らその命を絶たれた。

 私たちは、正巫女様たちが捕まる前に、巫女たちだけが知る秘密が書かれた一枚の紙を託されていた」

「……それは、〈ルホウの寝床〉の場所、記していた?」

コールが訊いた。マキはうなずいた。

「それだけではないけれど……、そう。あんたたちが欲しているのはその情報だよ。そしてその紙はすでに無い。ハナ姉が秘密を守るために燃やしたから」

「……つまり、マキかハナ姉が、〈ルホウの寝床〉の場所、言わない、俺たちは辿り着けないです。」

「うん、そういうこと。〈ミホウサマ〉は己の龍を、深淵に隠してらっしゃるから」

 マキが話し終えると、コールはしばし考え込むようにうつむいた。

 そうして、反応を待つマキに、ようやく尋ねた。

「〈ルホウ〉って、何だと思うですか?」

マキはここに来て原点に立ち返るような質問に、面食らった。


 ――神様のことはもう話したはずだし――。


 少しだけ迷った後、一言で表す言葉を見つけて答える。

「〈ルホウ〉は、すべての生命の源。」

「そっか、分かった。ありがとう」

 コールは話してくれたことに礼を言うと、再び考え込んでしまった。



 ******



 マキは目を覚ました。

 テントの中は、寝付いたときと同様に、夜だった。

「…………」

 額に手を当て、テント中央にぶら下がるランプをぼうっと眺めながら、何度か瞬きをして、

「!」

ハッとして飛び起きた。

 反射的に左手を、頭に敷いていた短刀に伸ばしたが、短刀を握る前に、身体中の痛みが彼女の動きを止めた。

 そしてマキは、コールの姿がないことに気づいた。

 昨日コールは、マキのために荷物を寄せ集めて毛布を敷き、ごわごわのベッドを作ってくれていた。

 コールは枠組みに引っかけたハンモックで、寝るのだという。

 マキは、自分もハンモックには慣れている、自分がそっちでいいと言ったが、けが人に不安定な寝床は拷問でしかないと断られた。

 そして本来なら葉っぱの裏にひっついたさなぎのようにぶら下がっているはずの彼が、そこにいなかったのだ。

 マキは毛布を深く被って、ゆっくりと起き上がり、なぜか足にまでじんじんとした痛みを感じながら、よろよろとテントの入り口へ向かった。

 が、その時、ばっと目の前の布が広がった。

「!」

 驚いて一瞬硬直したマキの前に、

「ルッシェ、マキは起きました」

何か温かい飲み物の入った金属製のカップを手にしたコールが立っていた。

 微妙にへたくそな言い回しにも慣れてきたマキは、差し出されたカップを素直に受け取った。

「次の日、夜。分かる?」

 その言葉で、ようやく自分が何時間眠っていたのかが明らかになる。

 マキは熱い紅茶をすすりながら、黙ってうなずいた。

「あ」

 コールがふと斜め上を見て、声を上げた。

「光、ない……」

「え?」

 つられて顔を上げると、ぶら下げた月光キノコの小瓶が目に入った。

「ああ」

 それくらいのことで残念そうにしょげるコールをほほえましく思いながら、マキはカップを地面におくと、小瓶の紐を解いた。

「風に当てなきゃ。月光キノコは月の光のような光を放つからそう呼ばれるけど、光ってるのは月のおかげじゃなくって、〈ルホウ〉のおかげなんだよ」

 空気穴を空けた布の蓋(ふた)を取り外して、マキは少しだけテントの布をめくると、中身を外の地面に転がした。

 キノコは少しだけ転がって止まり、アリはキノコを置いて逃げていった。

「見てて」

マキはキノコが転がされて行かないよう、指先でつまむと、そのまま風に当てるようにしばし待った。

 今日も、昨日と変わらず、ここには柔らかい温風が吹いている。


 ポウ……。


「あ……」

 キノコの傘の部分に、光の点が宿った。

 次の瞬間、ぶおっ、と少し強い風が吹くと、


 ぽわん。ぽわん。ぽわん。ぽわっ……。


 「わあ……!」

コールは感嘆の声を上げた。

 光の点は次々と増え、あっという間に月光キノコは、本来の光を取り戻したのだ。

 コールは深い碧の瞳をきらきらさせながら、幻想的な変化を見せた月光キノコに、ひたすら目を奪われていた。

「これは、〈ルホウ〉のおかげ?」

 コールが尋ねると、マキはうなずいて言った。

「ね。〈ルホウ〉は生命の源。」

「うん。そうだね……」

そう応えた後で、コールはふいに、何かが引っかかったような顔をして、月光キノコを見つめて固まった。

 少しの間の後、

「……そうか!そういう事か……」

「?」

バロゼッタ語で、彼は目を見開きながら呟いた。

第二節 交錯する思惑


「――び、〝微生物を含んでいる〝?」

 ロナルド・ラビットソン教授は、驚きとともに、弟子の言葉を反芻(はんすう)した。

「はい、教授!」

 コールは、目をきらめかせて答えた。

「〈ルホウ〉の正体は、生命体に必要な幾種類もの微生物を含んだ風なんです!」

 ラビットソン教授のテントの中。コールが折りたたみ式の木のテーブルに身を乗り出すと、ぶら下がったランプが頭上で揺れた。

 ラビットソン教授はコールを見つめて少しだけ言葉を失った後、読みかけの本を伏せて置いた。

 椅子を引いてコールとまっすぐ向き合い、肘をついて顔の前で指を組む。

「……〝月光キノコ〟と、言いましたね……。」

 コールがテーブルの上に置いた、薄緑色に光る小さな傘のキノコを、興味深げに見下ろす。

 コールは興奮気味に続ける。

「土の中にはたくさんの栄養素が含まれていますよね!それは元を辿れば、あらゆる生き物を分解してくれる、微生物のおかげです。ではその微生物はどこから来たのか?

 それが答えですよ、教授!」

「ふむ……」

ラビットソン教授は片眼鏡の位置を直しながら、考え深げに声を漏らした。

「つまり、この世界のあらゆる微生物は〈ルホウ〉によって生み出され運ばれており、〈ルホウ〉が常に新たな微生物を送り込み続けなければ、やがて土地は枯れ、植物が育たなくなる、と。そういうことですね?」

 コールはコクコクとうなずいた。

「それで思ったんです。この月光キノコが傘に付着させているのは、恐らく――、」

「いいよ、言ってみてごらん」

「はい。発光バクテリアの一種ではないか、と」

「バクテリアですか……」

「このキノコは〈ルホウ〉に含まれる成分のうち発光バクテリアだけを傘に付着させ、アリに胞子を運ばせているんです。

 だけど、風に当たらないと一晩で光は失われました。付着していたバクテリアが、死滅してしまったからです」

「なるほど……非常に興味深い見解です。ごく単純に考えれば、発光バクテリアが風によって運ばれるなど、と言いたいところです。

 しかし確かに、この辺りの風は湿気を含み暖かい……海水の中でしか生きられないと思っていましたが、このキノコに付着するものは、平気なのかもしれません」

 ラビットソン教授は、立ち上がって肩掛け鞄を手にした。

「もっとサンプルが必要です。コール君、案内してくれますか?」

「はい!」



 ******



 「〝風尾族を討て〟だと?」

 一方アメリア大佐の元には、風の戦士を制圧した〈仙〉の伝令兵により、新たな要請が届けられていた。

 タイプライター翻訳機を使って訳された言葉を、アメリアはひどく不快そうに反芻した。

 〈仙〉の伝令は、ラビットソン教授を待たずに、翻訳機で旨を伝えてきた。

 幸いなことに短いその文脈は、代打のバロゼッタ兵がきれいな文として組み立て直すまでもなく、アメリアにも通じた。

「風尾族の反乱を恐れているのか?どう思う、中尉」

 アメリアは指揮棒を体の前に垂立させた仁王立ちの体勢をひとつも動かすことなく、厳しい目つきをワン中尉に向けた。

「そうネ……ワンはね、行きたいヨ」

「――誰の指示だ」

 願望を口にしただけのワンはさて置くことにして、アメリアは〈仙〉の伝令兵に問うた。

 翻訳機がぎこちなく活躍し、伝令兵になんとか意味が伝わる。

 伝令兵はそれには、自分の口で答えた。

「イブキ」

「〝イブキ〟……ホホギノミコトの側にいた、あの男か……。」

アメリアは眉間にしわを寄せ、ぼそりと呟く。

「本来ならば原住民同士の戦にこれ以上関わっていられるか、と言いたいところだが……」

 その言葉を聞き留めたワンが、細い目を一本線に見えるほどに細めた。

「……大佐。イブキという男は、何か臭うネ」

「貴様もそう思うか」

「注意した方がいいネ。こいつらとは、雰囲気が違った」

 低い声で、ワンは語気に警戒の様相を込めながら、考えを述べた。

「時間を稼げるか。中尉」

その言葉に、ワンは少しだけ口元を緩めた。

 ごつごつした右手が背中に伸び、バロゼッタ海軍の制服にはそぐわない、特殊な形の打撃武器をそっとなでる。

 彼の背には、棒の先に鎖と無数のトゲがついた球がぶらさがる、フレイルと呼ばれる武器が収まっていた。今は、鎖は棒に巻き付けられて固定されていた。

「潰していいネ?」

「私の言葉を聞いていたか?ややこしくするな。それだけだ」

 そしてアメリアは、待ちぼうけの〈仙〉伝令兵へと、最終決定を短い言葉で伝えた。

 「手を貸そう」



******



 〈風(ふう)尾族(びぞく)〉族長、ジンオウは、小柄だが筋肉の盛り上がった、戦士としての尊敬を集める男だった。

 白髪の交じったあごひげは三つ編みにし、長いくしゃくしゃの黒髪にも何本かの三つ編みが混じる。

 彼は戦士としての実績を示すがごとく、ヒグマの毛皮をマントとして肩にかけ、引きずっていた。

 そして今彼は、風の戦士の集落にいた。風尾族の戦士たちが、捕らえた風の戦士たちを、丸太に五人ずつ両手首を縛り付け、次々どこかへ連れて行くのを、岩に腰掛け無言で眺める。

 そこにやってきたのは〈仙〉の人間、伊吹だ。

 伊吹は目の上で両拳を重ね、ひざまずいて挨拶した後、言った。

「さすがは風尾族だ。あなたたちにかかれば風の戦士も一網打尽でしたね」

「皮肉か?」

「めっそうもない」

 微笑む伊吹を、ジンオウはうさんくさげにちらと見遣る。

「……私たちは己の家族を守るためならなんでもやる。それだけだ。だが、」

終始冷静に対応していたジンオウの言葉に、熱がこもった。

「風尾族も生まれつきの戦士だということを忘れるなよ、仙の者。お前たちの牙に少しでも隙が見えれば、風尾族は戦う。女も子も」

「分かっていますとも。しかし」

 伊吹は声を潜めて続きを口にした。

「〈仙〉は風尾族も、滅ぼすつもりですが」

「なんだと?!」

 ジンオウの怒声が、うゎん、と辺りに響いた。一斉に風尾族の者たちと、丸太に括り付けられた風の戦士たちの目が向く。

 皆の注意が惹きつけられるのもかまわず、ジンオウは怒りの声を上げた。

「我らの妻子に、我が戦士たちに、決して手を出さぬというから、我らは手を貸したのだぞ!約束が違うではないか!」

「静かに、ジンオウ」

伊吹はしかし、きわめて平静だった。

「早ければ明朝にでも、あれが送り込まれるでしょう」

 ぴく、とジンオウの片眉が上がった。何かに思い当たった様子の彼に、伊吹はうなずく。

「そう、あなた達が手も足も出なかった、あの異民族です」

「気色の悪い長筒を持つ奴らか……」

ジンオウは苦々しげに顔を歪めてから、ふと伊吹の行動に疑問を感じた。

「なぜそれを、教える?」

 すると伊吹は、瞬間、その瞳に冷たい光を宿らせた。

「気まぐれです。お気になさらず」

 そして去りながら、伊吹はぼそりと呟きを漏らした。

「我が大王(おおきみ)を、戦場に引きずり出すためですよ」


 ――せいぜい戦うがいい。戦場でならば、火穂伎命(ほほぎのみこと)を狙う隙はいくらでも作れるというものだ。

その重い腰を上げて、ここへ来い。

 そなたはよほど追い詰められない限り、自ら陣頭指揮に立ちはしない。

 だからこの私が、その舞台を用意してやるのだ。

 私の目の前で家族をいたぶりながら殺していったこと、今こそ後悔するがいい。

 そしてこの私を生かしておいたことも……。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)、待ちくたびれたろう。

 いよいよそなたの首を、この伊吹が落とす時が来たのだ!――。


 少し離れた丘に陣取る、〈仙〉伝令兵のテント群へ向かって闊歩しながら、その口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。 

第三節 開戦


 「くっそ」

 縄でぐるぐる巻きのままのヒュウガは、うねうねと体を動かし、地を這って出口を目指していた。

 たいまつの火は、意識が戻ったときにはすでに消えていた。

 真っ暗だが、出口の方だけぼんやりと少しだけ、それこそ岩の輪郭が分かるか分からないか程度に、明るいので、それだけを頼りに向かう。

「あのヤロォ、わざわざ出口から引き離していきやがって」

 殺されなかったどうのこうのよりも、この徒労がものすごい嫌がらせに感じて、ヒュウガは絶え間なく悪態をついていた。

 が、そこにふいに、光が差した。

 「ヒュウガ!テメェ何やってんだ!巫女は任せろって言ったのは誰だよ」

風尾族の仲間だった。ヒュウガがあまりに戻ってこないので探しに来たのだろう。

「うるせえな」

 ヒュウガは苛ついた声を出した。仲間は顔をしかめた。

「何だこの血の臭い……げっ?!」

 足下にぬるりとした感触を感じて、ようやくそこに、二体の死体が転がっていることに気づく。

「おい!突っ立ってねえで早くこの縄を切れよ!ジンオウに話があんだ!」

「い、一体何があったってんだ?」

仲間は戸惑いながらも、ヒュウガの縄を動物の骨のナイフでぎりぎりと切っていく。

 二晩ぶりに自由になったヒュウガはよろよろと立ち上がりながら、それに答えた。

「あの〈仙〉の男!アイツはヤベエんだよ!とにかくジンオウに……」

 急いで出口へ向かおうとしたヒュウガの足が、仲間の一言で止まった。

「……それなら、もう手遅れだ」

「は……?」



******



 洞窟を出て行きながら、まずヒュウガに情報として飛び込んできたのは、あまりに最近聞き覚えのある、ばばばばん!という発砲音だった。

 心臓が嫌な予感に冷えきるのを感じながら、岩の間をすり抜けて外に出ると。

「何てこった……。」

ヒュウガは呆然とした。

 少し距離のある位置から、あの異民族たちが、〈風の戦士〉の集落――今は〈風尾族〉の戦士たちが陣取っている場所へと、長い筒から煙を出しながら、容赦なく攻撃している光景が、ヒュウガの目に飛び込んできたのだ。

「〈風の戦士〉を討てば、俺らには危害を加えねえんじゃなかったのかよ……」

 目の前の光景が信じられない様子で声を漏らした後、ガン!とヒュウガは拳を岩壁に叩きつけた。

ギリ、と歯をきしらせ、ヒュウガは顔を上げる。

「あのうさんくせえ〈仙〉人はどこに行った?!」

「し、知らねえよ!自分らの野営地にいるんじゃないか?」

仲間はヒュウガの剣幕に驚きながらも、あごでそちらを示した。

 〈ルホウの寝床〉があるこの山の隣に、見慣れぬ天幕が幾つか張ってあるのが、確かに見えた。

「高見の見物ってか……。」

 ヒュウガは忌々しげに呟いた。

 〈ルホウの寝床〉は、こんもりと飯を盛ったような形の、この山のどこかにある。

 山の西側の麓を拠点とする〈風の戦士〉の集落は、鬱蒼とした森林の中を縫うように広がっていたが、見つかりづらい代わりに、もっとも低い土地でもあり、周りを崖や丘などの高台に囲まれてしまっている場所だった。

 そして、ひとつ奇妙なことがあった。

 ここからは、〈風の戦士〉の集落がある森林と、北側の丘で向かい合う形で武器を構える異民族――バロゼッタ兵の姿が俯瞰(ふかん)で見渡せた。

 のだが。

 圧倒的な武器を持つバロゼッタ兵は、少人数ながらも、今現在明らかに〈風尾族〉に反撃の余地を与えていないというのに、一向に丘の上を動く様子がないのだ。

 ただ、森林から〈風尾族〉が何人か単位で飛び出そうとすると、そこを狙って発砲するだけだ。

 それはむしろ、脅しとけん制に見えた。

「何がしたい……?」

首を捻るヒュウガを、すでに下方に移動した仲間が呼ぶ。

「ジンオウと話すんだろ?!もたもたしてんじゃねえ!」

「チッ、今行く!」



******



 ルホウの山を滑りおりて森林に足を踏み入れれば、わりとすぐの所に、少しだけ森が切り開かれた場所があった。

 〈風の戦士〉たちを南のあり地獄状の盆地に追い出してしまった今、ここには〈風尾族〉の男たちしかいない。

 皆、武器を手にいきり立っていた。

 そして皆、口々に異民族バロゼッタや〈仙〉を罵りながらも、動けずにいた。

 ヒュウガとともに広場を見渡した仲間は、「んあ?」と声を上げた。

「ジンオウの姿がねえ……族長、どこ行った?」

 ざわついていた場が、その一言で静まりかえった。

 瞬間、風尾族の戦士たちは、すぐに直感した。

 勇猛なる戦士の鑑ジンオウが、今ここにいないということが、何を意味するのかを。



******



 森の端で、キラリと何かが光るのを目の端に捉えると、ワン中尉はそちらを手で示し声を上げた。

 「てーっ!」


 ばばばばばん。


 七人ずつ二列に並んだ銃歩兵の、前列の七人が、そちらに向けて一斉射撃した。

 森の中に響いた銃声は少し響いて、空へと余韻を残した。鳥がバタバタとあちこちで飛び立ち、森がざわめく。

 それに構うことなく、銃歩兵はすぐに後列と交代する。

 前に出てきた次の七人は、すぐに撃てるよう準備万端にした小銃を、先が二股に割れた棒に載せて固定し、発射の命令を待つ。

 彼らが持っている小銃――火縄式マスケット銃は、一発ごとに銃口から弾丸を押し込む必要のある銃だった。

 そのため、弾丸を込める隙を狙われないよう、二組に分かれて交互に発射するのが基本だ。後ろの七人はすでに、次の弾丸を装填する準備に入っている。

 取り付けていた火縄を引っ張り出し、銃床の下端を地面につけて支えながら、銃口から管を使って火薬を詰めていく。次に、詰め綿で火薬を抑えつけ、弾丸を銃身に押し込むのだ。

 滞りなく、淡々とした流れ作業のように行われていく、装填、交代、待機、発射を後ろで指揮しながら、ワン中尉は、腕組みして、すねたようにぼやいた。

「体ひとつで突っ込んでくることしか知らない民族は、これだから面白くないネ」

 森の方を見渡せば、初めこそ、怒りに支配された〈風尾族〉が勇んで飛び出してきていたというのに、今や、ちらほらと様子を窺うように人影が見えるだけ。

 彼らは、今回、風尾族を殺すような真似はしなかった。数日前、〈仙〉兵の援護として〈風尾族〉制圧に加わったときに、すでに銃器の脅威は思い知らせていたからだ。

 今、〈風尾族〉の戦士を殺せば、彼らの闘志を逆に燃え上がらせてしまうことを、ワンは十分に理解していた。

 いくら〈風尾族〉がバロゼッタの武器に叶わないとはいえ、こちらには人数がいない。

 戦士たちが、銃に対する恐れを超えるほどの怒りや勢いを見せてしまえば、相当厄介なことになる。

「大佐……さっさと戻ってきてヨ」

 屈強な大男は、ぷっくりと頬をふくらませながら、子どもみたいにそんなことを呟く。

「こんな時間稼ぎ、ワンは苦手ヨ。ヒマね……」

 しかし、彼の憂いもすぐに消え去ることとなった。

 側面の茂みから、何かが高い跳躍とともに飛び出してきたのだ。

 ヒグマの毛皮をはためかせながら、太陽の光の中央から、その男はワンの脳天目がけて、手斧をブンと振り下ろした。

 そして手斧はそのまま、男の全体重とともに地面に突き刺さった。

 すんでの所で身体を捻って避けたワンは、目の前で殺気をまとって立ち上がる初老の戦士を、ニィと口角を上げながら見下ろした。

 右手が背に伸び、棒の先に鎖とトゲ球がついた彼の相棒、〝フレイル〝を握りしめる。

「遊んでくれる子が来たネ」

 機動性に欠ける銃歩兵たちが慌てる中、一人の銃歩兵が叫ぶ。

「中尉!」

 ワンが目を遣ると、男の登場を合図にするかのように、森の方からも一斉に、風尾族の戦士たちが槍やナタや、石つぶてなどを手に飛び出してきていた。

「なかなか楽しい民族ネ」

 ワンは、一人で乗り込んできた風尾族族長ジンオウの、ゆらりと向けた鋭い眼光を一身に受け止めながら、ゾクゾクを隠せない様子で声を漏らした。

第三章 三つ巴

第一節 水面下の蛇


 「なっ……何事だ?!」

 〈風(ふう)尾族(びぞく)〉に向けて発砲を始めたバロゼッタ兵を見留めて、〈仙〉の伝令兵たちは騒然とした。

「なぜ〈風尾族〉を襲撃している?!」

「大王(おおきみ)からの指示は?!」

「知らぬ!何も指示は来ておらぬし、つい先ほど万事順調の報せを飛ばしたばかり……」

「あの異民族、何と愚かな!せっかく味方についた〈風尾族〉を刺激しては、こちらが危ないというのに!」

「ええい、とにかく直ぐに伝令だ!馬の用意!」

「落ち着け、皆。私が行こう」

 冷静な声が割って入り、どたばたと馬に鞍を取り付けていた伝令兵たちの動きが止まった。

「――伊吹!……なんだそのなりは……」

 伝令兵たちが驚いたのも無理はなかった。

 伊吹の衣裳(いしょう)には、その手で殺めた〈仙〉兵二人分の返り血がべったりとついて、大きな染みになっていたからだ。

「……大王(おおきみ)が私の護衛にとつけてくださった二人が……、〈風尾族〉にやられた」

 伊吹はさも沈痛そうな声で言った。

「なんだと?!」

伝令兵たちから怒りの声が上がる。

「おのれ山猿どもめ、この圧倒的な力の差を前にして、なおも逆らうとは!」

「…………。」

 はぎ取った天幕の布を頭からすっぽり被って体に巻き付け、顔と〈風の戦士〉の装束を隠しているハナが、成り行きを見定めるように、静かに伊吹の後ろで呼吸する。

「それから他にも、大王(おおきみ)に伝えねばならぬ事がある。おそらくあの異民族は――〈ルホウ〉を本気で横取りするつもりだ」

「確かか?!」

「ああ。私があの異民族に、昨夜伝令を送ったのを知っているか?」

「状況の把握のためにと、一人送り込んでおったな」

「ああ。――見よ」

「?!」

 伊吹が掲げたそれは、切り取られた髪の毛の束――〈仙〉人を象徴するまげの一方だった。こびりついた血が毛の一本一本に絡みついて、毛質を固く傷ませている。

「彼は帰らず、今朝これが届けられた」

「ああ……」

彼らの怒りの声はもはや、嘆きにすり替わっていた。

「…………。それで伊吹、それは誰だ?」

 伊吹の戦況に関する報告が終わり、少しだけ落ち着きを取り戻した一人が、伊吹の後ろに佇むハナに目を向けた。

 何となく顔を覗き込もうとした伝令兵から、ハナは反射的に、うつむいた顔を反らした。

「?」

「ああ、この人は〈仙〉の民だ、安心しろ」

伊吹がにこやかに紹介した。

「西の盆地の民だそうだ。迷い込んだらしいので、道に出るまで送ってやろうかと」

 〝西の盆地の民〟と聞いて、伝令兵たちは途端に顔をこわばらせた。

「なるほど。それは……それならば伊吹、任せるぞ」

 そう言いながら、じりじりとハナから離れる。

「二人ほど、付き添ってくれるとありがたいが」

「だだだ大丈夫!な、皆!そなたの腕なら一人で森を抜けられる!行け、許す!」

 慌てて、むしろ青ざめながら、一人が皆に同意を求めると、満場一致で全員が首を縦にぶんぶんと振った。

「そうか?では行ってくる」

「伊吹!」

鞍の準備のできた栗毛色の馬にひらりとまたがりハナを馬上に引き上げた伊吹を、一人が呼び止めた。

「その、くれぐれも大王(おおきみ)に……」

ハナをちらちらと見ながら言い淀む伝令兵に、伊吹はさらりと答えた。

「我らが大王(おおきみ)は天の神〈ミホウサマ〉の御子。もし私が疫病を持ち込もうとも、大王様(おおきみさま)の前ではすべて浄化されてしまうのだろう?心配ない」

「そうか……そうだな。では伊吹、都に着くまではくたばるな」

 その言葉は伊吹の心配ではなく、伝令が伝わらずじまいだった場合を恐れての発言だった。

「痛み入るね」

 伊吹は皮肉半分の言葉を残して、馬の腹を蹴ると、獣道の奥へと消えた。



 ******



 「嘘に慣れているな」

木々を縫って走る馬の上、ハナがぽつりと声を漏らした。

 伊吹は一度だけ、前に座るハナの後頭部を見下ろし、そしてすぐに目線を前に戻した。

「慣れている。いくらでも嘘をつかねばならなかった。ヤツの側に居続けるために。ヤツの興味を引き、飽きさせず、役に立ち、おだて上げてきた……」

「復讐に未来はない」

「分かっている。だが私に、未来など要らぬ」

それに、と伊吹は付け加える。

「いずれにせよ、あの男が己を〝神の御子(みこ)〝などとうそぶき、〈仙〉の大王(おおきみ)で居続ける限り、この国に未来はない。」

 そこだけは、ハナもうなずいた。

「〈ミホウサマ〉の御子(みこ)だなどと腹立たしい。冒涜以外のなにものでもない」

 すると、ふっと後ろで小さく息を吐く気配を感じた。

「初めてそなたと意見が合ったな」

「…………。〝西の盆地の民〟は、」

 ハナが言い終わらないうちに、伊吹は「そうだ」と答えた。

「疫病が流行っている。この年は、西の盆地には〈ルホウ〉が吹かなかった」

「……〈ルホウ〉は吹いた。そのはずだ」

「え…………」

 伊吹にとって意外な言葉であったらしく、小さく声を上げた。

「どういうことだ?巫女……吹いたのか?吹いたというのに、作物は育たず、虫は死滅し、動物は逃げ出し、人々は飢えたというのか?」

「ハナ」

「何?」

「私はまだ、正巫女ではない。ハナだ」

 ハナはそっちを先に訂正してから、伊吹の疑問の答えを続けた。

「〈ルホウ〉は万物の命の風。〈ミホウサマ〉は万物の命を司り、万物の命に対して常に公平。ある命にとっては栄養となりうるものが、違う命にとっては猛毒になりうることも」

 伊吹は、ハナの言葉の意味を噛み下すがごとく、少しだけ黙った。

 ドッドッドッと馬が土を蹴る音だけが、鈍く響く。

 ややあって、伊吹はハナの言葉を簡単明瞭に表した。

「――〈ルホウ〉には二種類あるということか?我々にとって恵みをもたらす風と、逆に命を奪う風……。」

「もっと複雑だけど、まあ、そういうこと。」

 ハナがそう言ったとき、馬が森を抜けた。

茂みから飛び出すと、一気に視界が開けた。

 空は澄み渡り、緩やかな草原の坂を下った先には、森の境界線に接するように、丸石を両脇に並べて造った道があった。

 〈仙〉によって敷設中の、〈仙〉の都に通じる道だ。

 石を二輪車に山積みにして運ぶ、粗末な衣服の人々が、土埃まみれになりながら働いている。

 そして働く人々が、何となくそこだけ大きく避けて通る場所があった。

 道脇に、あの異民族が十人ほどを引き連れて待ちかまえていたのだ。

「読まれたか」

 すらりと背の高い女の指揮官と目があった瞬間、伊吹はすべてを悟った。

異民族の指揮官――アメリア大佐は、道脇に折りたたみ式のテーブルを据え、その上にあの奇妙な箱、タイプライター翻訳機を用意していた。

 指揮棒を垂立させ相変わらずの仁王立ちで、アメリアはバロゼッタ語で呼びかけた。

「待ちくたびれたぞ、イブキとやら!」

野太い声で、彼女は言う。

「さあ、是非とも教えてもらおうか。貴様らの腹の内を」



 ******



「こちらはワンが相手するヨ。君らは子猿たちに集中するといいネ」

「アイサー!」

 そうして対峙したワンは、ジンオウが立ち上がるまでは、迂闊に手を出せなかった。

 初老の男がただ体勢を整えているだけというのに、不思議とそこには隙が無く、下手に手を出せば逆にこちらが隙を作る結果になりかねなかったのだ。

 立ち上がったジンオウも、その間に動かなかったワンに、何かを感じ取った様子だった。


 ばぁん!ばぁん!ばぁん!


 銃歩兵隊が、向かってくる〈風尾族〉に、ついに遠慮のない発砲を始める。

 ――どう出るネ?猿の長、ジンオウ。

 ワンはフレイルを持つ手に力を込めた。


 ぶんっ……ぶんぶんぶんぶん……。


 ジンオウから目をそらさぬまま、いつでもフレイルの特性を生かした攻撃ができるよう鎖を振り回す。

 じり、とジンオウのかかとが、距離を取るように後ろへと動いた。

 殺気を称えた眼孔は、ひたすらにワン一点に集中している。


 じり。じり。


 微かに、微かに。ジンオウは後ろへ……いや。

 ワンは違和感を感じた。

 ジンオウは真後ろに下がっているのではない。


 斜め、後ろへ?


 あることに気づいて、ワンはなりふり構わず地面を蹴った。

 ジンオウはその一瞬先に動いていた。

 ワンを鋭く射抜いていた視線は反らされ、その先には銃歩兵が。


 ザンッ。


 「……う、うああああああああああああああああああ!」

 ジンオウの斧が、後列の装填準備中の兵を襲った。

 直前で気づいた兵は、とっさにそちらを振り向こうとして、

 振り向き終わった頃には、銃を握っていた彼の両手が、ぼとりとジンオウの足下に落ちた。

 「ジンオォォォォォォォォォ!」

ドォンと山中に響いた怒声とともに、間合いを取ったワンの腕の筋肉が唸る。

 フレイルのトゲ球が、着地してかがみ込んだジンオウの後頭部に迫った。



 ******



 「我が大王(おおきみ)。貯水池に白蛇が」

 ひょうたんの上半分を切り取ったような形の編みカゴを持って、火穂伎命(ほほぎのみこと)の配下の豪族らしい男が、その御前(ごぜん)に現れた。

「〈ミホウサマ〉よりの使いか、はたまた何かの前触れではと思い、捕まえさせまして、献上に参りましてござります」

 壁(かべ)竪(たて)式――地面を掘って土台とし、茅(かや)と粘土で壁を仕上げ、茅葺きの屋根を持つ、火穂伎命(ほほぎのみこと)の御殿。

 一部屋のみの室内は、一般豪族のものより広く取られ、貴重な白絹や染め布を惜しみなく使って飾られている。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)が鎮座する中央には、すごく低いテーブルを九つほど並べたような木製の床が置かれ、さらに毛皮の敷物が敷かれていた。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の手前にも薄手で目の粗い麻布がかかり、謁見者は直接見ることを許されない。

 麻布のカーテンを通した向こうでは、火穂伎命(ほほぎのみこと)がごろりと寝転がって、カゴ一杯の木の実やフルーツをつまみながら、数人の女を侍らせている。

「白蛇か」

火穂伎命(ほほぎのみこと)は何気ない感じで言った。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)にはべる女の一人が、それは白蛇を献上に来た男の娘だったのだが、ここぞとばかりに声を上げる。

「まあ白蛇。きっと、幸運の前触れですわ。すぐに占い師にお見せしなければ」

 しかしその時、火穂伎命(ほほぎのみこと)の頭の中には、ある言葉がよぎっていた。


『――白蛇は、真の王には服従を示すと言います』

 誰の言葉かは思い出せなかったが、どこかの部族の言い伝えに、そんなのがあったのだ。

 そしてまるでその考えを見透かしたかのように、手前に置かれた白蛇は、カゴの中で威嚇の音を発しながら、暴れ出したのだ。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)は、気づけば立ち上がっていた。


 我を真の王では無いと申すか。


 白蛇に、ひどく侮辱された気分が込み上げると同時に、周りに侍る人間たちに、見下されたような気すらした。

 当然、他の者たちはその言い伝えを知らなかったため、突然立ち上がった大王(おおきみ)に、ただ驚いただけだったのだが……。

 白蛇のカゴを布越しに見下ろし、しばしば尋常ではない心持ちを顔に浮かべ硬直していた火穂伎命(ほほぎのみこと)は、やがてぽつりと言った。

「殺せ」

「……は」

媚びる愛想笑いを浮かべる豪族の男が、その言葉に一寸戸惑った。

 占い師にも見せず、白蛇を殺す?

 すると彼の大王(おおきみ)は、今度ははっきりと宣告した。

「白蛇も、その男もこの娘も、今すぐ処刑せよ!」

「えっ?」

「えっ?」

わけが分からない父と娘は、同時に短く声を上げた。

 戸惑う彼らを、衛兵たちが囲み捕らえ、一人は白蛇のカゴを手に、御殿の外へと引きずり出されていった。


 きゃああああああああああああ!


 どすっと鈍い音がして、泣き声の混じった女の長い絶叫が響いた。

 そしてそれも、もう一度鈍い音がすると同時に、ぴたりとやんだ。

第二節 一騎打ち


 今回、タイプライター翻訳機に活躍の機会が与えられることはなかった。

 アメリア大佐の言葉が打ち込まれもしないうちに、馬上の伊吹が、腰の銅剣を抜いたからだ。

 磨かれた銅というものは、太陽の光に、かくも美しくきらめく。

 それは、夕焼けに染まる黄金の色に似ている。

 しかし伊吹の剣は今、本来の美しさを失っていた。

 その眩しいほどの反射は、どこか鈍く、暗く。

 彼の銅剣は、影を放っていた。

 伊吹が剣を抜いたのを見ると、アメリアはフンと鼻を鳴らした。

「話す気もないか……。これではっきりした」

 そうして、一人の兵に言う。

「ワン中尉に伝えろ!撤退だ!」

「アイサー!」

 三人がそれぞれ、バロゼッタ海軍の黒馬に乗り、森の方へと走らせようとすると、行く手を阻むように、伊吹が走り込んできた。

 バロゼッタ伝令たちはサーベルを抜いた。

 が、彼らが刃を交える前に、発砲音が響いた。

 離れて状況を見守りだした道路工事中の人々が、ひいいいと上ずった声を上げた。


 ヒヒヒィ!


 一番驚いたのは足を撃たれそうになった伊吹の馬だった。

 興奮して前足を高く上げ、

「っぐ!」

伊吹はその背から振り落とされそうになる。

「行け!これは私の獲物だ!」

アメリアの声が飛ぶと、伝令三人は素早く伊吹の馬の横をすり抜けていく。

 しかし、

「ぐあっ!」

 最後の一人はすり抜けられなかった。

 暴れる馬の上で、――信じられないことに――、伊吹は、横側へと大きく上体を倒し込んで距離を稼ぎ、銅剣を突き出したのだ。

 それは一撃必殺とはいかなかったが、一人の肩を深く傷つけ、致命傷を負わせるには十分だった。

「行け!」

 慌てて馬を止めて振り向いた前の二人に、もう一度アメリアの厳しい声が飛んだ。

 けがを負った兵は、どうにか馬の向きを変え、その場を離れた。

 手綱を強く引き、ようやくコントロールを取り戻した伊吹が、アメリアをにらみ付けた。

 アメリアは、苦々しい顔をしながらも、先ほど発砲した、歯車でそのつど火花を発生させ引火するタイプの、単発式拳銃を、腰のホルスターに戻した。

 単発式とはつまり、火縄銃と同じく、一発ずつしか発砲できないということだ。

 戻ってきた手負いの兵を馬から降ろさせると、それに自分が飛び乗り、サーベルを抜く。

「――銅剣が鋼鉄にかなうものか」

アメリアは口の中で呟いた。

 伊吹は、馬上からハナを降ろした。

「……逃がすのか」

 ハナは意外そうに目を見開く。伊吹は、アメリアの方から目をそらすことなく、短く言った。

「邪魔になっただけだ」

 ハナは、少しだけ躊躇するそぶりを見せた後、きびすを返し森へと走った。

「ヴーレ!」

 背後で誰かが「追え!」といった類の言葉を叫ぶのが聞こえ、そしてそれは、アメリアの「ドゥシェ」で制止された。

 ハナは振り返ることなく、森の中へと姿を消した。

 「――――。」

 「――――。」

 伊吹とアメリアの間に、呼吸を計るような、静かな間が流れた。


 そして、


「来い!」

 アメリアの声と同時に、伊吹の馬が地面を蹴った。

 栗毛と黒鹿毛の馬が、そう遠くもない距離を一気に詰め上げると、二頭の中心でガン!と激しい激突音が響いた。

 アメリアのサーベルは、伊吹の剣の腹を狙っていた。

 二人の剣が太陽の光を鏡のように跳ね返す。


 ざんっ。


 アメリアのサーベルは、彼女の勢いと体重を乗せて伊吹の刃に襲いかかり、伊吹は受け止めた衝撃に、一瞬だけ顔を歪めた。

 銅剣の腹の上を滑らせるようにして、サーベルの刃は不快音を立てながらなぎ払われる。

 双方の馬ともに、勢いのまま少し進み、素早く手綱を斜め後ろに引いて無理矢理の方向転換。

 そして、伊吹の銅剣は、無傷だった。

「何だと……」

 アメリアは驚きを顔に出した。

 ――折るつもりではいた。あの勢いで突っ込めば、折れると踏んでいた。一刀でできぬとも、その刃に深く、傷かヒビが入ってもおかしくないはずだった。

 だのに何故。

 あの男は何をした?

 いや……剣の方か?

 まあいい。次は……確実にやる!


 間髪入れず馬の腹を蹴り、アメリアは再び右手にサーベルを構え、伊吹へ突進する。

 次は〝本体〟を狙っていた。

 アメリアのサーベルは、長さ的に騎乗戦ではかなり有利だ。


 先ほどの激突で銅剣の間合いは知れた。

 ならばこちらの剣先が届き、相手が届かぬぎりぎりを――狙う!


 栗毛の馬が黒鹿毛に迫る。

 ぎりぎりを攻めるに当たって、手っ取り早いのは槍のような突きだ。

 まさにすれ違おうという直前、アメリアは斬りつけを予見させるような構えから、刺突の構えへの切り替えを見せた。

 とっさのことに、伊吹は反応できず、銅剣を盾にするだろう。

 そうしてできた隙を逃さず、そのまま二度目の斬撃を食らわせる。


 ――さすがの貴様も避けれはしまい!


 しかし、伊吹はアメリアの読みに反した行動を取った。彼女の突きが繰り出されるより一瞬先に、再び大胆な上体倒しをして、アメリアの動きを封じるがごとく、剣を大きく振ったのだ。

「――っ!」

 突きどころではなくなったアメリアの方が、伊吹の攻撃を避ける羽目となった。

 馬を引いても避けきれないと踏んだ彼女は、その身を一気に、仰向けに倒し込んだ。

 ゆっくりとその一瞬は流れた。

 空を向いた彼女の高い鼻の、ほんの数センチ上を、伊吹の銅剣が平行に滑り――、

 刃はアメリアの三角帽のつばを掠って、羽根飾りの毛先を少しだけ風に舞わせながら、

 一陣の風のように彼女の上を過ぎ去った。

 二人は間をおかず、背中合わせに上体を起こしていた。

 できるだけ早く、直線に進む馬を再び急転換させる。

 が、この時には、今度は伊吹が、すでにアメリアに向かって突っ込んできていた。

「ふん」

 アメリアは小さく鼻を鳴らした。

 ――部下を傷つけられ、熱くなりすぎたか。

 それは、今までの互角のような交戦がまるで、嘘のようだった。

 彼女は突進してきた伊吹の馬の前へと、大胆に己の馬を飛び込ませたのだ。

 このままではらちがあかないと悟った彼女に、決闘じみた剣の戦いは、もはや無価値だった。

「?!っぐ!」

 伊吹が短く声を上げた。

 行く手を阻まれるのがあまりに急すぎた上、伊吹自身、アメリアの行動が読み切れなかったのだ。

 彼は思わず手綱を強く引き、急停止から回避につながるような行動を取ってしまった。

 そこに突き出された、アメリアのだめ押しの一手。

 剣先は当たらなかったが、大きく反り返った馬の背で、ただでさえ手綱を強く引きすぎている伊吹に、一撃を避けさせ、重心を大きくずらさせてしまえば。


 ――――ッドォオオオオン……!


 栗毛の馬がついに、横腹を地面に激突させた。

 派手な土埃がぶわっと舞って、馬とともに落ちた伊吹の視界を、瞬間的に奪う。

 馬の下敷きになった片足を引き抜き、何とか起きあがった伊吹の前に、きらりと白く反射するものが現れた。

 土埃が収まると、彼はずらりと並んだ剣先に囲まれていることを知った。

「終わりだ、イブキとやら」

 黒馬をトコトコと伊吹の前に歩かせて、馬上からアメリアが、バロゼッタ語で鋭く言った。

「不本意きわまりないことにしろ、貴様のせいで愚王の元へ至急行かねばならん。貴様を突き出し、〈仙〉兵の応援と護衛を要求せねばならんのだからな」

 そうして、アメリアは、バロゼッタ兵に指示した。

「逃亡できぬよう、足の腱を切って連れて行け」



 ******



 「待て!」

 地にうつぶせに抑えつけられ、その両足に剣の刃が当てられたとき、一人の女の声が強くこだました。

 ハナだった。

 アメリアが、いったん部下に待機をかけて、そちらに目を向ける。

 ハナは、体に巻き付けていたマント代わりの天幕をはぎ取ると、武器を持っていないことを証明した。

 彼女の墨色の美しい髪がふわりと風になびき、遠浅の海色の瞳は、太陽の光の下でいっそう透き通ったような光を帯びる。

 完全に見物人と化している道路工事の人々から、その神秘的な美しさに、ため息が漏れる。

 何者だ、とアメリア側が訊く前に、ハナは用件を叫んだ。

「あたしは〈風の戦士〉の次期巫女、ハナ!〈ルホウの寝床〉の場所を知っている!入り口まで案内してやろう!代わりにその男を自由にしろ!」

 無関係の見物人、言葉の通じないバロゼッタ人たちの中、ただ一人伊吹だけが、自分の耳と目を疑ったような顔をした。

 アメリアはその様子をちらりと見下ろし、伊吹をタイプライター翻訳機の前に連れて行かせた。

「訳せ」

 バロゼッタ語でアメリアが指示し、状況的に意味を理解した伊吹は、素直にハナの言った言葉を入力した。

「…………。」

訳を聞き、考え込むように黙り込んだアメリアに、森の辺から、ハナが追い打ちをかけるように呼びかける。

「〈ルホウ〉が狙いなのだろう!欲しくてたまらないのだろう!その男を助けなければ、あたしは今ここで自害するぞ!誇り高き巫女として!〈仙〉を出し抜く気はあるか?!ならば必要なはずだ!」

 その声色には、少しだけ焦りが見えた。

「…………。」

「〈仙〉はとっくに、入り口を知っているぞ!〈風尾族〉に聞いたはずだからな!どうする、異民族ども!」

 ハナはそこまで言い切ると、はっと少しだけ息を吐いた。

 黙り込むアメリアの反応を見守る。

 アメリアは、

「どう思う、ワン……中尉はいないか」

 習慣付いている言葉を口にし、そしてその後は早かった。

「いいだろう巫女!貴殿の提案、乗ってやろう!ただし!」

 かたかたかたかた……。

 アメリアの言葉を、バロゼッタ兵が少々急きながらタイプライターに打ち込んでいく。

「ただし、この男は我らにとって有害である可能性が大きい!巫女、我らは貴殿を、捕虜として扱う!男がおかしなそぶりを見せしだい、貴殿を殺す!」

「構わない!ルホウの秘密が守れるならばそれも本望!」

「おい!」

 ハナの答えに、伊吹はタイプライターを打つ手を止めて振り返った。

「自分の言っていることが分かっているのか巫女!」

「ハナだと言ったろう」

怒りを見せた伊吹の首元に、すぐに剣が突きつけられてけん制されたが、構わず伊吹はハナに呼びかけた。

「私などのために死ぬ価値などない!必要もない!放っておけ!」

「伊吹」

ハナはとても落ち着いた声を出し、伊吹の言葉を止めた。

「ではせいぜいあたしが死ななくて済むよう、気張ってくれよ」

「――――。」

 伊吹は言葉を失った。


 なんなんだ、その丸投げは……。

 いや、助けられたのは私の方だが……。


 バロゼッタ兵に小突かれ、ハナがアメリアに対して言った言葉だけを、翻訳機に打ち込む。


 頭の回転速度が妙に遅くなっていて、

 何かもう、バロゼッタやら〈風の戦士〉の巫女やら、いろんなものに逆らわなければならなくて、何だかがんじがらめだ。


 されるがまま、伊吹は銅剣を森の中に放りこんで返却され、その身を解放された。

 銅剣を森へ放ったのは、すぐにまた攻撃されるのを防ぐためだ。

 そして伊吹と入れ替わりに、毅然とした表情のハナが、再び――今度はバロゼッタ海軍の最中へと足を踏み入れ、捕虜となった。

「…………。なぜだ」

 バロゼッタが去ろうとするときも、伊吹は面食らった様子でその場を動けずにいた。ぽつりと、それはほとんど独り言だったのだが、

 ハナは答えた。

「借りがあったような気がした」

第三節 出兵


 ガッシャンッッッ!

 鎖が別の金属に激突する音が響いた。

 ワンの武器フレイルは、そのトゲ球をジンオウの後頭部に届かせることはできなかった。

 ジンオウは腰にもうひとつ、手斧を潜ませていて、銃歩兵に狙いを変えた瞬間、もう一方の手斧で後頭部を守っていたのだ。

 ジンオウの構えた手斧に直撃したトゲ球が、そのまま大きく軌道を反らして地面へ向かう。

 ワンは振り切ったフレイルを手早く振り上げると、そのまま体を回転させて勢いをつけ、立ち上がろうとするジンオウを狙った。


 ガキィィン!


 とっさに身構えたジンオウの交差した斧に、火花を散らしてトゲ球が当たる。

 ジンオウの瞳が、ちらと背後の気配を確認したのを、ワンは見逃さなかった。

 コイツ……!

 途端、頭の中が熱くなる感覚が込み上げる。

 まだ銃歩兵を狙う気でいるネ


 ぷちっ。


 彼は頭の中で、何か糸のようなものが切れる音を聞いた。

「今ワンと戦ってるのでしょうがァァァ?!」

 ワンと戦っていながら、他のヒト狙う、何という侮辱!


 ガアンッ、ゴォンッ、ガンッ!


 彼の攻撃に迫力と破壊力が増し、なによりスピードが上がる。

 〝フレイル〝という武器は勢いをつけて振るう一撃必殺。その打撃力は、時には鉄の盾をも砕く。しかし勢いをつけねばならない分、普通は振るう前と振るった直後に、隙ができるものだ。

 それをワンは、その鍛え上げた肢体によって、剣を扱うかのような早さで、右から左へ、左から右へ、ひゅんひゅんと振り回し、攻撃を繰り出していく。

 ジンオウも襲いくる連続攻撃に、ひとまず避けと防御に徹している。

 ワンに押され気味になって、じりじりと後退しているが、

 ワンをぎょろりと射抜く瞳に、苦しい色などみじんも無かった。

「こっっ……のぉオオオオオオオオ!」

 その目がかんに障ったワンは、ついに大きくフレイルを振り上げた。



 隙が、



 ほんの一瞬の隙が、ワンの腹部に、


 ――――ドッ……!


「うがぁッ……!」

 ジンオウの突進を、許した。

 腕を振り下ろすより前に、ワンは後ろへ大きく一歩、よろける羽目となった。

 すなわちそれは、隙の連鎖。

ワンが体勢を立て直すより早く、ジンオウの斧が風を切る。

「ブホッ!」

 ワンは脇腹へと突き刺さる激しい衝撃で咳き込んだ。

 ジンオウの手斧の刃先が、ワンの左脇腹に直撃していた。

 ワンはしかし、隙を最小限に押しとどめるため、無理矢理右に一歩踏みだし、斧の刃先から体を引き離す。

 ジンオウはそれを狙っていたかのごとく、すでにもう一方の手斧を振り上げていた。

「うおおおおおおおおおおおおおおお!」

 ジンオウの気迫がこだまする。

 振り上げられた手斧は、ワンの右首筋を狙っていた。

 立て直す余裕を与えず、ジンオウの渾身の一撃が、ワンの太い血管を断ち切るように振り下ろされた。


 ザザン!


「ぐあっ……」

 太い声の短い悲鳴が、規則正しい銃声と、向かってくる戦士たちの雄叫びの背後で、響く。

 次の瞬間、ジンオウが横へと吹っ飛ばされた。


 ドサアアアアッ。


 ワンの胸の位置ほどしかない背丈の小柄な体が、土を削りながら地面を滑った。

 悲鳴はつまり、ジンオウのものだった。

 ジンオウには、ワンがフレイルを、とっさに背中で左手に持ち替えたのが、見えていなかった。

 脇腹に深手を負わせた手応えのあったジンオウにとって、この二秒ほどの間に、体勢を立て直すことすらできずにいるワンが、左手側から攻撃を繰り出すなど、あり得ないことだったのだ。

 ただし間合いが近すぎた今の場合、ワンはフレイルのトゲ球の部分でなく、その柄自体を武器とした。

 ようは木の棒で思いっきりなぎ払われたようなものだったのである。

 ジンオウは怒りを顔に出して直ぐにぴょこんと立ち上がって、肉食獣が獲物を狙うがごとく、姿勢を低く構えた。

 つう、と、首筋を液体が垂れ落ちるのを、ワンは感じ取っていた。

 その額には、汗がにじむ。


 危なかったネ……。


 ほんの少しだけ、斧はワンの首を掠っていたのだ。

 ワンは、獲物を自分一本に絞ったらしい肉食獣を油断無く見つめる。


 フォンフォンフォンフォン……


 彼のフレイルが再び回転を始め、鎖が唸りを上げる。


 …………。


 ワンが先に踏み出そうとしたその時だった。

 二頭の黒馬が北側の森から飛び出してきたのだ。

「アメリア大佐より伝令ーっ!撤退!」

「待ちくたびれたヨ大佐」

 ワンが目をそらした隙にびゅんと距離を詰めたジンオウを、見ないまま避けて、ワンはバロゼッタ銃歩兵へと声を張り上げた。

「放火ネ!」

「アイサー!」

もう一度の発砲が行われ、その間に、後列はもう装填を行わなかった。ただ横一列に散って、地面に火縄を近づけたのだ。

 瞬間、火柱の壁ができあがり、風尾族と丘の上のバロゼッタの間に、熱く高い、絶対的な仕切りを造り上げた。

 そのきれいな横一列の炎はつまり、あらかじめそこに可燃性の液体をまいて準備万端整えていたことを意味した。

「ジンオウ、お邪魔したヨ」

伝令のバロゼッタ兵がワンのために黒馬を空けると、ワンは飛び乗りながら言った。

「何もしない、ダイジョーブね」

ふふふと笑って呼びかけると、ジンオウはワンを睨んだままだったが、しかし風尾族の戦士たちが足止めを食らった今、もはや手を出そうとはしなかった。

「撤退!」

ワンが叫び、銃歩兵小隊は負傷兵を担ぎつつ、駆け足でその場を離れていった。



 ******



 頭を切られた白蛇が、その艶やかだった鱗をどす黒く染め、地面で未だ、尻尾の先をくねくねと動かしていた。

 そこに、びらびらした袖の上着と袴(はかま)を着て、頭には長い色糸の束を提げた冠を乗せた、一人の少女が現れた。

 真っ黒な髪はあごの辺りでばっつりとそろえていて、肌は気味が悪いほど白く、その瞳は金色だった。

 彼女は処刑された二人の人間には目もくれず通り過ぎたというのに、白蛇の前でだけ、足を止めた。

 そして、特に表情を動かすわけでもなく、大きな瞳を前に戻し、大王(おおきみ)のいる宮へと歩を進めた。

「花露(かろ)か」

 少女を見るなり、布越しに、大王(おおきみ)、火穂伎命(ほほぎのみこと)が声をかけた。

 花露と呼ばれたその少女は、普段ならば、それに応えるように目の上で袖を合わせ頭を垂れるところだったが、今回はそれをしなかった。

 花露は抑揚のない声で、出し抜けに言った。

「わっちの白蛇を殺めなさりやんしたか?」

すると大王(おおきみ)は、「おお」と声を上げた。

「あれはそなたの蛇であったか。それはすまぬ事をした。しかしの、花露、白蛇が神の子である我に、反抗的な様子を見せたのだ。何やら不吉であったゆえ、蛇を連れてきた親子ともども処刑したのだ」

大王(おおきみ)は、饒舌(じょうぜつ)になってそう説明した。

 白蛇がどこからともなく現れたのではなく、専属の占い師のものであったと知って、安心したのだろう。

 花露はそんな大王(おおきみ)を、無礼にも観察するようにじろじろと見ながら、ぽそりと、再び口を開いた。

「いいえ、火穂伎命(ほほぎのみこと)。神言あって、御前を試させていただききやんした」

その言葉で、大王(おおきみ)の顔から笑みが消える。

 花露は淡々と続けた。

「わっちの白蛇だから何だというのでござんすか?火穂伎命(ほほぎのみこと)、御前は白蛇を手なずける術を知らぬのでやんすな」

「何だと……」

不思議な雰囲気を放つ少女の大きな瞳が、まるでそこに布の仕切りなど存在しないかのごとく、大王(おおきみ)をじっと見つめる。

 大王(おおきみ)は背筋にひやりとしたものを感じていた。

 少女の金瞳は、いつもどこか虚ろのようでいて、しかし目を合わせた途端、その何ともいえぬ眼力に驚かされる。

 奇妙な気色を与える花露の存在は、全ての民の頂点に立つ者と自負する火穂伎命(ほほぎのみこと)ですら、畏怖の念を感じずにはいられなかった。

 「火穂伎命(ほほぎのみこと)、御前(おまえ)は間もなく大王(おおきみ)では無くなる」

 呪文のような花露の言葉に、大王(おおきみ)は憤慨することもできなかった。

 その射殺すような金瞳から、目をそらせず、ただ、口を半開きにした。

「御前(おまえ)は大王(おおきみ)の器ではなかった。わっちはもう、御前を導きはしないでやんす。天のすべてが御前をそこから引きずり降ろすように、回り始めているのでやんす」

「こ、ころ……」

「殺すのでやんすか?わっちを殺したって、天の巡りは止められぬでやんす。わっちは、天にかすりもしない存在でやんすから」

 震える声で処刑を宣告しようとした大王(おおきみ)を遮って、花露はやはり淡々と、そんなことを言った。

「ど……どうしろというのだ!花露!答えよ!天の巡りにそなたが無関係だというのならば、今ここで我に味方せねば、拷問にかけるぞ!」

 大王(おおきみ)は焦りを前面に出して、体裁も気にせず花露にすがりついた。

 花露は冷ややかとも取れるほどに感情の欠片も浮かばぬ目を大王(おおきみ)へと向けた。

「天の巡りに影響を及ぼすのは、わっちではなく御前でござんしょう。〈仙〉というくにの大王(おおきみ)である自覚がありますれば、わっちがこうと言わずとも、おのずと巡りは変えられましょうに」

「……。」

大王(おおきみ)は、しばし呆然と花露の金瞳を見つめたのち、ハッとして立ち上がった。

「〈ルホウの寝床〉……あれが我の手に落ちさえすれば」

「衛兵!」

「はっ」

大王(おおきみ)の声に反応し、出入り口を守る兵二人がひざまずく。

「出兵の準備だ!この火穂伎命(ほほぎのみこと)自ら、〈ルホウ〉を見つけ出してくれようぞ!」

 半日もたたぬうちに、出兵の合図の太鼓が鳴り響いた。

 偶然か必然か――伊吹の望んだように、大王(おおきみ)火穂伎命(ほほぎのみこと)はかき集められるだけの兵を引き連れ、〈仙〉の都を出立したのである。


 天の巡りだと?

 ならば我は神の先手を打つのみ。

 〈ルホウ〉を手にし、神さえも操る存在となるのだ。

 誰にも邪魔などさせぬ……!


 火穂伎命(ほほぎのみこと)は、銅の装飾で飾った戦馬の上、今更込み上げてきた怒りと焦りで、静かにその目をぎらつかせていた。

第四節 策


 「報告します。前方に、向かってくる騎馬が一騎」

大王(おおきみ)は、人を遣わせよ、と指示しようとして、その人物がちらと目にはいると、指示をやめた。

 代わりに、草原の遙か彼方を一直線にこちらへ向かうその人へと、直接声を張り上げて呼びかけた。

「伊吹!――伊吹か!」

 伊吹は栗毛の馬を駆って草むらに線を引きながら、大王(おおきみ)の側まで来ると、騎乗のまま答えた。

「我が大王(おおきみ)。何故ここに……?それに、この軍はなんです?」

 尋ねながら、伊吹の中には、「勘づかれたか?」と緊迫がよぎる。

 ――バロゼッタは〈仙〉への伝令を送らなかったが……。まさか別隊がいたのか?

 しかしそんな伊吹の心配をよそに、大王(おおきみ)は、

「そんなことはどうでもよい!」

と伊吹を一喝した。

 その赤ら顔はますます赤くなっている。焦りと、ほんの少しの恐怖の色が、浮かんでいる。

 大王(おおきみ)の心情穏やかでない様子を感じ取った伊吹は、違和感を覚える。


 なんだ?


 大王(おおきみ)が伊吹に、戦況を訊く。

「正午の伝令では〝万事順調〝とのことだったな、伊吹。なにも変わりはなかろうな?」

「――――。」


ここぞとばかりの私の行動に気づいたか?

この質問は、質問ではなく探りだろうか?

答えによっては……殺されるか。


 一秒の間にそれだけの考えを巡らせた伊吹は、心の中で舌打ちした後、半ばやけくそになって言った。

「〈風尾族(ふうびぞく)〉が、〈風の戦士〉の集落にて反乱を起こしました。バロゼッタだけでは対応しきれない。至急、この軍が必要です。大王(おおきみ)、このまま現在の拠点、〈風尾族〉の村へ向かってください」

 嘘だとばれていればこの場で首を切られるだろう。

 そう思いながら、目の上で両拳を合わせ頭を伏せて、じっと大王(おおきみ)の反応を待った。

 大王(おおきみ)はしかし、伊吹の予想していなかった反応をした。

「そうか……やはり、やはり……」

 ちらりと目だけを送ると、大王(おおきみ)は目を見開いてどこかを見つめ、その表情にいっそうの焦りを浮かべていた。


 どうしたというんだ?


 さすがの伊吹も戸惑う。大王(おおきみ)は少しの間の後、覚悟を決めたように顔を上げた。

「行くぞ伊吹!」

「!……御意!」

 伊吹は面食らいながらも、とりあえず気づかれてはいないらしい事が分かって、復讐への希望を取り戻した。



 ******



 〈風尾族〉の集落に留まっては危ないと判断したバロゼッタは、夕刻までにはそこを立ち去る準備を整えていた。

 しかし、そんな彼らの元に〈仙〉軍先発隊が現れたため、火穂伎命(ほほぎのみこと)の到着まで、アメリアは出発を延ばすことになった。

 崖の上に天幕などを用意していく〈仙〉軍先発隊の様子を見、それから岸壁の〈風尾族〉の家々を見下ろし、最後に崖の縁で遠巻きに見守る〈風尾族〉の女、子ども、老人たちを見た後、

 アメリアはラビットソン教授を呼び寄せた。

「あののろまな者らに、〈仙〉軍が集まる前にさっさと逃げるよう言え。バロゼッタは彼女らを解放する」

 仁王立ちで、ひどく不快そうな面持ちで、アメリアは吐き捨てるように言った。

「私たちは戦に関与するのはごめんだ」

 口ではそう言いながらも、ラビットソン教授はアメリアなりの女たちに対する気遣いを感じて、少し表情を緩めた。

 「優しいですね、大佐」などというと撃たれそうな気がするので、もちろん教授はそんな台詞を吐いたりはせず、ただ「分かりました」と言って、彼女らの元へと駆け寄った。

 ラビットソン教授は語学の勉強を兼ねて彼らと何度か話をしていたので、幾分かは彼らに信頼されていた。

 「逃げる」ということに最初はもめた様子だったが、やがて、己の戦士たちが待つ南側へ向かって、森の中へぞろぞろと入っていった。

 戦うときは戦士たちと一緒に、そう説得されたのだろうか。

 アメリアは、さて、どうするか……と思案を巡らせた。薄暗くなり出している。


 先発隊の話では、軍は夜には着く。

 イブキが動いたのだろうか。

 それにしたって、大王(おおきみ)まで出てくるとは……〈仙〉はやけに焦っているな。

 いや、確信を得ているのか?

 〈ルホウ〉の場所に。


 その時、甲高い少女の声が響いて、アメリアは振り返った。

「ハナ姉!ハナ姉!」

「ドゥシェ!ドゥシェ!待て、だめ、マキ!」

 この土地の人間らしい少女が、何やら捕虜の巫女の名を呼びながら駆け寄っていく。その後をラビットソン教授の助手が慌てて追いかけている。


 誰だ、あの少女は。

〈風尾族〉の一人か?


 アメリアは眉根を寄せ、その素性を判断するためにしばし観察を決め込んだ。



 ******



 「――マキ?!」

 ハナがぱっと顔を上げた次の瞬間、妹は全力で首元にしがみついた。

「ハナ姉っハナ姉!――よかった、無事で!よかったっ……」

 マキはたがが外れたように、ぼろぼろと泣き出した。

「マキ、あんたも……」

あんたも無事で、と言おうとしたけれど、ハナはその言葉を呑み込んだ。

 マキは傷だらけだったからだ。

 特にひどい傷を、腹部と右二の腕に受けているのが分かる。

 手当てはきちんと施されているようだが、泣きながら、マキが、時折痛みに体をこわばらせるのを感じた。

「――――。」

 ハナは、何も言葉が出てこなかった。

 ただ、マキを引き寄せて、その温度を確かめるように、頭を抱いた。


 ごめんね。守りきれなくって。

 生きててくれてよかった、マキ。


 心の中で、そう囁いた。

「――ていうか、ハナ姉!」

 突然泣くのをやめてばっと顔を上げたマキに、ハナは面食らった。

 マキは一通り姉の無事を確認したら、もう切り替えた様子だ。

「なんでこの人たちといるの?!平気?!殺されてないよね?!」

 一瞬、なんて切り替えの早い子!なんて思ったがそこまで切り替えられてもないようだ。

「殺されてはないよ。マキ、落ち着いて。いったん落ち着いて」

 そうしてハナは、完全にテンパっているマキをなだめなだめ、これまでの経緯をざっと説明した。

 マキはそれを聞いて、今度は落ち着くどころかバッと立ち上がって姉をにらみ付けた。

「〈ルホウの寝床〉の入り口を教える?!ハナ姉、何考えてんの!」

マキは怒りをあらわに、声を震わせて怒鳴った。

「私たち、何のために仲間を見捨てて逃げたの?!何のために……」

「マキ」

ハナがマキを引き寄せた。

「だーいじょうぶ、入り口まで、だから。入り口が知れたところで何だっていうの?誰もその先へ辿り着けはしない」

「でも……でも、約束、守らなかったら……。あいつらが、解放しなかったら……?」

「その時は、どうすべきか、姉ちゃん分かってるよ」

「……!」

 その言葉の意味が分かるだけに、マキはハナの肩に額を預けたまま、ぐっと唇を噛んだ。

「死なないで」

 切ない願いに、ハナは、何も答えずにただ、妹の髪をなでた。

 コールは、二人のやりとりの意味がすべて分かってしまうコールは、ただ立ちつくしていた。

 「…………。」

コールは、何かを言いかけるように口を開いたけれど、のどから言葉が出ない様子で、すぐに口を閉じた。

 無意識に伸ばした手が、行き場を失うように宙に留まった。

 アメリアは、マキがハナとひどく親しい間柄であることを理解すると、部下を一人呼び寄せ、指示した。

「あの子どもを追い払え。邪魔だ」



 ******



 数人の兵に引っ立てられて、わめき散らすマキがぺーいっと森の奥へ放りやられてから直後のこと、〈仙〉本軍が到着した。

 間もなく、〈仙〉軍の建てた天幕のひとつに、アメリア大佐、ワン中尉、大王(おおきみ)火穂伎命(ほほぎのみこと)と、〈仙〉軍を率いる豪族の男が一人、そして伊吹が、顔をそろえた。

 今回はタイプライター翻訳機は使われず、通訳として、ラビットソン教授も同席した。

 伊吹は、アメリアがどう出るか――伊吹が独断でバロゼッタと〈風尾族〉を焚きつけ、戦闘に持ち込んだことを、この場で告発するのか――を探るように、目を向けた。

 すると彼女はこちらを一瞥(いちべつ)し、興味なさげな様子ですぐに視線を外した。


 ――なるほど、約束は守るということか。


 会議の内容は、ごく表面的で平易なものだった。

 お互いに腹の内を隠しての話し合い。

 バロゼッタ軍は、〈風尾族〉が先に反乱を起こしたという伊吹の言い分に乗っかった上で、これ以上は関われない、船へと戻りたいので護衛が欲しい、と要請した。

 巫女を手中にしているとは言わない。

 もちろん、〈ルホウ〉など眼中にも留めていないといった様子を見せる。

 それでこの大王(おおきみ)が納得するはずもなく、じりじりとした腹のさぐり合いが続く。

 伊吹は、自分が〈ルホウの寝床〉への入り口を見つけてしまっていることを、大王(おおきみ)には言っていなかった。

 そしてその事は、ここにいる人間では、彼と、今は他のバロゼッタの天幕に隠されている、ハナしか知らない。

 本当の切り札を持っているのはつまり、伊吹だったのだ。

 彼はここに集った人間たちの手持ちのカードを、唯一、全て把握しているのだから。

 それ故に、彼は口を挟まず、しばらくは様子を見守って、何をどう動かせば、己の目的への道が開かれるか――、その一点に集中して思案を巡らせていた。

 だが、ハナの言葉が、脳裏をちらちらとよぎる。

 〝せいぜいあたしが死ななくて済むよう、気張ってくれよ〟

 伊吹は頭をかきむしりたい衝動を必死に抑えた。

 巫女の言葉が集中力を、散漫させる。

 ――なぜ気にする。巫女をそばに置いて隠したのは、私に利があったから。

 我が大王(おおきみ)抹殺に向けて、使える駒(こま)を手元に置いたに過ぎないのだ。

 もはやここまでくれば、巫女の命などどうでもよい。

 ましてや〈ルホウの寝床〉へと辿り着かせる必要もない。

 そして私は、入り口までなら案内できる。

 あそこなら――。

 伊吹は、一度だけ訪れた〈ルホウの山〉の岩窟を、鮮明に思い起こした。


 あの、ほぼ密室の薄暗い空間。

 少人数しか入れないあそこでならば――、やれる。


 そうして、イライラしだしたアメリアと、何とか銃歩兵の力をもっと利用しようと遠回しに話を引き延ばす火穂伎命(ほほぎのみこと)の間に、伊吹はついに割って入った。

「さて、お互い腹の探り合いは、これくらいにしましょう」

「なに?」

 ラビットソン教授の訳を聞いたアメリアが、眉根を寄せて伊吹を睨んだ。

「伊吹、何か考えがあるのか」

大王(おおきみ)が発言を許す。伊吹はそれに一礼をして、顔を上げた。

「我が大王(おおきみ)、我らの目的は〈ルホウの寝床〉であって、〈風尾族〉討伐ではない。我らがここに留まって猿の相手をする必要性など、皆無です」

「だが今や、その〈風尾族〉が〈ルホウの山〉への防壁と化してしまっておるのだぞ?きゃつらを黙らせねば、道は開かれまい」

「この大軍を率いて行かれるおつもりなら、確かにそれしか方法はござりませぬ。しかし大王(おおきみ)、〈ルホウ〉の力さえ手に入れてしまえばこちらのもの。〈風尾族〉だろうが〈風の戦士〉だろうが、もはや敵ではなくなります」

「回りくどい説明はよい。策があるならば、さっさと言え」

 大王(おおきみ)がそう促すと、伊吹ははい、とひとつうなずいてから、考えを述べた。

「ようは、〈風尾族〉の注意をここへと引きつけておき、我らは気づかれぬよう少人数で、森の中を大回りして、〈ルホウの山〉へと近づけばよいのです」

 ラビットソン教授の訳とともに、ぴく、とアメリアの耳が動く。


 どういうつもりだ。


 鋭い視線が伊吹に問う。

「ま、待て、伊吹!」

一人、大王(おおきみ)だけが、驚いたような、焦燥したような声を上げた。

「そなた、まさか――、まさか、〈ルホウの寝床〉への入り口をすでに見つけておるのか?!」

 伊吹は当然その問いに、

「はい」

と、答える。

 ――つもりだった。

 しかし、いざ口から滑り落ちたのは、沈着冷静な彼の意識とは、まったく別の言葉だった。

「いえ、私は知るよしもありません。しかし幸運にも、アメリア大佐はその場所を知る巫女を見つけ出し、捕らえております」

「何?!まことか!」

大王(おおきみ)が目をむいてアメリアに確認する。

 アメリアは、少しだけ苦々しげな顔をしたが、すぐに笑顔を作って、うなずいてみせた。

 伊吹の言葉の背後によぎっていたのは、巫女を死なせぬにはどうすればいいかという、衝動的な思いだった。

 今の時点で伊吹にできることは、ハナの存在価値を公(おおやけ)にすることで、誰にも手出しできぬようにすること。

 バロゼッタは、数で圧倒的に劣る彼らは、大王(おおきみ)が「渡せ」と言えば、従うしかないだろう。

 そしてあの場所で大王(おおきみ)さえ殺害してしまえば、彼女はもう自由だ。

 伊吹は、己の言葉に初めこそ戸惑ったものの、すぐに先の流れを計算し直していた。


 そなたの挑戦状、受けてやろう。


 彼の読み通り、会話は進んだ。

 大王(おおきみ)が巫女の引き渡しを要求し、アメリアが承諾。

 気分の乗った大王(おおきみ)は、快くバロゼッタ兵撤退のために護衛をつけると約束。

 そうだ。異民族はさっさと去るがいい。私の計画に、そなたらはもはや邪魔だ。

 伊吹は内心でほくそ笑みながら、それを表面にはおくびにも出さず、静かに見守る。

 だが、アメリアの思わぬ一言が、伊吹の計算にずれを生じさせることとなった。

「大王(おおきみ)ホホギノミコトよ。しかし少人数で行くのはあまりに危険な気がする。よければ私もお供しよう。もちろん、」

 アメリアは不敵な笑みを浮かべて、腰のホルスターから拳銃を抜き、その銃口を大王(おおきみ)へと向けた。

「私にはこれがあるぞ」

「!」

反射的に伊吹は、大王(おおきみ)の前に飛び出して、アメリアへと剣先を向けていた。

 ――私が殺すのだ。

 長年の癖で思わずそうしてしまったのだが、その事実がたまらなく嫌気を伴い、心の中でそう言い聞かせつつ、アメリアを睨んだ。

 アメリアはフッと唇の隙間から息を漏らすと、伊吹を無視して、大王(おおきみ)へと呼びかけた。

「この距離なら、私はこの男を殺せるが、この男は私に傷も付けられん。どうだ、ホホギノミコト。私たちの助けは不必要か?」

「い、いや……。」

 しばし惚けた表情を浮かべた大王(おおきみ)だったが、次の瞬間、かっかっかっか!と声を上げて笑った。

「うむ!そうしてくれるか!いやはや何とも心強い!のう、伊吹!」

「…………。」

伊吹は、油断なくアメリアを見ながら、

やがてゆっくりと、その刃をさやに収めた。

「――はい、まことに。」

ぎこちなく、大王(おおきみ)の言葉に応える。

 アメリアは、その瞳に見下すような、半分勝ち誇ったような光を映して、伊吹が納刀したのを確認してから、ようやく銃をしまった。

「では、十分後に出発だ」

アメリアが言い、ラビットソン教授が訳し、大王(おおきみ)が驚きを顔に出した。

「もうか?夜分ではないか」

「〈風尾族〉がここに到着してから出発していては遅かろうが。我々は見つからずに進まねばならんのだぞ?悠長に朝など待っていられるか。とことん考えが浅いのだな、この国の王は。〈風尾族〉は明朝、いや早ければ今夜にでも、奇襲をかけてくるかもしれんぞ。巻き込まれている場合か?私はごめんだな。貴様が陣頭指揮のために残るというなら話も分かるが。まあ貴様のような奴が指揮に残った方がそこの豪族の指揮官にとってはやりづらいことこの上なかろうよ。私の知ったことではないがな」

 直で伝わらないのをいいことに、アメリアはここまでの鬱憤(うっぷん)を発散させるがごとく、一気にそれだけ語り終えると、少しすっきりした面持ちで軽く一礼し、大王(おおきみ)の返事も待たずにきびすを返したのだった。

 今回話を振られなかったためか珍しく大人しかったワン中尉も、すぐに後に続いて去り、

 取り残されてしまったラビットソン教授が、大佐の言葉から失礼と嫌みを取り除いて要約した上で翻訳し、額に汗を浮かべながら、一人必死で、大王(おおきみ)にその旨を伝えるはめとなった。



 ******



 「ワン中尉」

 すでに撤退準備の整っている自軍の方へと闊歩しながら、アメリアは振り返りもせず声をかけた。

「分かっていると思うが、いざとなったら応戦できるよう、準備と警戒を怠るなよ」

「アイサ。ワンに任せるネ」

 ワンがにこやかにそう答えると、初めてアメリアは、ちらりと振り返り、大きな傷を受けているはずのワンの腹部に目を遣った。

 軍服のコートが破れて血に染まっている。

「次あるとすれば籠城戦だ。一人も船に近づけるな。接近戦は避けろ。それだけだ」


第四章 聖域への侵犯

第一節 龍風探知計


 マキは、木の幹や草陰を壁にして、そうっと、〈仙〉兵の占領する場所の近くへ戻ってくると、忍び込めそうな隙はないか、息を潜めてうかがっていた。

 もちろん、無数に建つ天幕の中からハナ姉を見つけ出して、助け出すつもりだ。

 バロゼッタの兵たちが〈仙〉の兵十名ほどに守られながら、ぞろぞろと暗い森の中へ入っていくのを見留めると、マキは眉をひそめた。

 ――帰るのか?あの異民族は。〈仙〉兵とともに、闘うのかと思っていたけれど……。

 反対側の森の道へと入っていく彼らを、ずいぶん遠くから、マキは、目を凝らして観察する。

 そして一団の中に、たいまつの炎に一瞬キラリときらめいたものを見つけ、マキはバッと立ち上がった。

 ――あいつが、〈仙〉の大将!

 その男だけが、頭にシャラシャラとした冠をつけていた。だから一目で直感した。

 頭の両脇にまげを結った、ずんぐりむっくりの男の近くには、とりわけ護衛がきちんと付き添っているように見える。

 ――異民族を帰す気ならば、大将があそこにいるのは変だ!

 詳しい成り行きを知らないマキにも、その事だけは分かった。

 そして、次の直感が、彼女の脳に電流を走らせた。


 ハナ姉も、あの中にいる……?


 直感が先。追いついてくる裏付け。

 ――ハナ姉は、異民族を〈ルホウ〉の入り口まで案内しなければならないと言っていた。

 〈仙〉の目的も〈ルホウ〉だ。

 〈仙〉の大将が異民族と行動をともにするということは……間違いない。


「行かなきゃ」

 マキは呟きを漏らすと同時に、〈仙〉の駐屯地を回り込む方向へと、森の中を走り出していた。

 ――奴らの跡をつける。

 見失わなければ、助けられる瞬間は必ず、来る!――

 走るたびに響く矢傷に、マキは苦しそうに顔を歪め、何度もえずきそうになりながら、それでも足を止めなかった。

 走りながら、左手で腰の短刀を触って、そこにあることを確認する。

 風のように、茂みの中を駆け抜ける。

 ――止まるな。逃がすな!

 激しく打ち付ける波のような感情が、それだけが、マキの痛む体に鞭打ってくれた。

 再び視界にバロゼッタ兵団を捕らえたとき、そこに、あの目立つ大王(おおきみ)の姿はなかった。

 ――?

 マキは茂みの暗がりから、頭を伸ばして何度もその姿がないか確認する。

 三十名弱ほどのバロゼッタ兵と、十名ほどの護衛の〈仙〉兵。

 確かに先ほど見た一団に間違いはない。

 だが大王(おおきみ)がいない。

 頭数は大きく減ってはいないが……。


 ――二手に、分かれたのか!


 何故かは分からない。〈仙〉の大将が少人数で行動するなど、普通なら考えられないことだ。

 だが「何故」なんて、考えたりしない。

マキはすぐにきびすを返し、一団の辿ってきた獣道を逆走し出した。

 ハナ姉がいる可能性がある方へ、ただ走る。

 獣道を〈風尾族〉の村側へと戻っていくと、ふいに、左脇に、草の押し倒された後を見つけた。

 もともと夜目が利くマキだが、今夜は〈仙〉兵が近くで駐屯してくれているおかげで、その見逃しそうな痕跡もはっきりと、薄明かりの中に浮かび上がっていた。

 ――ここだ!

 ざっ。

 マキは急停止の勢いで前につんのめり、地面に片手をついた。

 腹を折り曲げた瞬間、慣れかけていた痛みが一気に腹を駆け上がってきて、

「ぐほっ」

 苦しい吐き気を催した。

「…………。」

マキは地面にしゃがみ込んだまま、少し息を整えるように黙って、腕で口元をぬぐい、

 そして、キッと顔を上げた。

 体の方向は急停止の時からずっと、無理に掻き分けられた脇道を向いている。

 よーい……、どん!

 と、かけ声でもかかったかのように、その足が地面を蹴飛ばすと同時に、手のひらが拳を握って宙を切った。

 苦しさを振り切って、マキは再び走り出した。

 一度道を見つけてしまえば、なんとかなる。

 人の歩いた跡なんて、例え足跡がはっきりと残ってはいなくとも、本人たちがよほど注意して隠しながら進まない限り、そう簡単に消し去れるものではない。

 間もなく、マキは少人数の彼らを、視界に捕らえることに成功した。

 ――っ、ハナ姉……!

 姿を見つけると、すぐに飛び出して周りの人間を片っ端からなぎ払い、その手を引いて助け出したい衝動に駆られた。

 駆られたが――、分かっていた。

 私の力じゃ、そんなことできないと。


 だから、まだだ。


 マキは、苦い思いで木の幹に爪を突き立てた。

 気づかれないよう、見失わないぎりぎりの距離を保って、木の陰に身を隠しながら、姿勢を低く、彼らを追跡する。

 呼吸すらも、最小限に抑える。

 風が柔く吹いている。

 ざわざわと、命の恵みに感謝するかのように、木々が葉ずれの音を奏でる。

 コールが〝ランプ〟と呼んでいた小さな灯りひとつで、彼らは森の中を突っ切っていく。

 人数は、八名。

 見知った顔や、見かけた顔が割といる。

 コールはもちろん、彼がよく話をしに行っていたラビットソン教授という人物、そして異民族の大将らしいアメリア大佐。彼女が引き連れる部下二人すら、何となく見覚えがある。

 話したことがあるのはコールだけだったが、コールの天幕に隠れながらバロゼッタ兵を眺めていたせいで、なんかやたら詳しくなってしまっていた。

 残りの〈仙〉側の人間は知らない。

 冠をつけた男が大王(おおきみ)なのは間違いない。もう一人若い男が、護衛としてか、付き添っている。

 ハナ姉は後ろ手に縛られ、バロゼッタ兵の一人に見張られながら、歩を進めている。

 と、さらに小一時間ほど歩いたところで、彼らは止まった。

 マキはハッとして、出しそうになった頭を引っ込め木の幹を背にする。

 どうやら休憩を取るようだ。

 荷物を持ち歩いていないことから見て、仮眠を取るほどの休憩ではないのだろう。

 〈ルホウの山〉へ辿り着くには、ここからはまだそれなりの距離がある。

 それを見越しての小休憩か。

 ――今なら、行けるか?

 マキはじり、と緊迫とともに、左手を短刀の柄に添えた。

 そしてその時、マキはコールらしい人影が、何か手荷物を地面に置くのに気づいた。

 鳥かごに布を被せたような品だった。薄緑の淡い淡い光が、布の隙間から漏れていた。


 何か、――嫌な予感がした。



 ******



 アメリア大佐は、休憩を指示した後、バロゼッタ兵の一人に言った。

「子猿が一匹ついてきている。追い払え」

 その言葉が、「誰か人間の子ども」を指すこと、そして今の場合「ハナの親族の少女」を意味していることは、バロゼッタ語が通じる人間にはすぐに分かった。

「アイサー」

「待ってください大佐!」

 心当たりがありまくるコールは、思わず進み出て、兵の応答に被さるようにして声を上げていた。

「俺に、行かせてください」



 ******



 「マキはそこにいますか?マキ!」

 少しだけ一団より離れて後戻ってきたかと思うと、コールはいきなり呼びかけた。

 ――気づかれていた。

 マキは考えた。このままコールに短刀を突きつけ、奴らを脅すか?

「マキ!いるよね?」

 名前を再び呼ばれて、びくりと体が反応する。

 どんな奇襲の策も、無駄なような気がしてきた。

 マキは観念して、それでもすぐに短刀を抜けるよう手を添えたまま、木の幹の陰から、ゆっくりと姿を現した。

 途端、コールはぱっと顔を輝かせて寄ってきた。

「マキ!」

「止まれ!」

マキの鋭い声が、コールの足を止めさせる。

 マキは斜めに体を構え、素早く斬り込みに踏み込めるような体勢を取って、じっとコールを見つめた。

「……〝あれ〟は何だ?」

「えっ?」

マキの質問に一度首を傾げたコールだったが、マキが視線で示した先、一団の方を顧みると、〝あれ〟が何を指すのか分かった。

 コールは目を泳がせたが、ついにマキの無言の圧力に屈して、白状した。

「〝ブレアロネ・ビュロ・ルホウ〟――えっと」

 バロゼッタ語の名称で言ってから、どう言葉を置き換えたものか悩んで、

「〝探知〟、〝計る〟、〝龍風(るほう)〟……うーん……」

さらに悩んだ。が、マキは言いたいことを何となく汲み取り、つなげてみる。

「〝龍風(るほう)探知計〟?」

「そう!」

コールは再びぱっと顔を明るくした。マキの臨戦態勢など忘れている様子で、緊張感もなく話を続ける。

「キノコアリ、月光キノコ!それを使っています。〈ルホウ〉のより濃い方角、指す」

 すばらしいことを語るみたいに、嬉しそうに、コールは説明した。

「マキのおかげ、生み出した……発明?発明、しました」

「――――。つまり、」

 マキの声が、微かに震えをおびた。

「その〈龍風(るほう)探知計〉があれば、道を知らずとも〈ルホウの寝床〉へ導いてくれると……?」

「そう!すごい!ね!」

コールは夢中でそこまで答えてしまってから、ハッとした。

 マキにとってそれがどういう事か、思い出したからだ。

 偶然の出会いではあったものの、一所懸命で勇猛果敢なマキのことを助けたいという思いは、嘘ではなかった。

 しかし研究者としての彼の好奇心は、全く別の所に存在して、しばしば周りを見えなくさせるのだ。

 マキは、ゆっくりと短刀から手を下ろした。何か力が抜けてしまったかのようだった。

「マキ……」

「味方、してくれるんじゃなかったのか」

抑揚のない声だった。それが余計、彼女の落胆を感じさせた。

 コールは言葉が出てこずに、口を半開きにしたまま固まっていた。

 何か言わないといけない。

 でも、何を言えばいいのか分からない。

 コールの心境を知ってか知らずか、マキは次の瞬間、はじけたように怒鳴った。

「自分のバカさ加減に腹が立つ!」

「――言おうとした!」

 マキの声につられて、ようやくのどから言葉が上がってきた。

 コールは必死で訴えた。

「俺は言おうとしました!マキ!さっき、でも……」

 コールは辛そうに歪めた瞳をそらす。

「でも、言えなかった。助けたい、思ってます。ごめん、……ごめん」

「――――っ」

 黙り込んだマキの方へと、ちらりと目を上げると、

 彼女は、ひどく傷ついたような顔をしていた。

 コールはてっきり、もはや敵を見るような目で、あの果敢に立ち向かおうとする目で、自分を見ているものと思っていた。

 だから初めて見るその表情に、うろたえた。

 自分の胃に、ずっしりと重い石でも入れられたかのような気色がした。

「――……中途半端に」

 ぽつりと、マキが声を漏らした。

「中途半端に味方のような振りをするな!」

 最後はやはり、強い言葉へと変わっていた。


 〝ちゅうとはんぱに みかたのような ふり〟……。


 コールの中で、マキの言葉がまず意味もなく反芻され、そしてじわじわと、その内容が熱を帯びてくる。


 マキは怒っていない。ただ、

 ――傷ついている。


 凍り付いたかのように身動き取れなくなったコールの横を、刹那に、風が駆け抜けていった。

 コールの足下で、土と枯れ葉が舞った。

 ハッと振り返ると、マキは一団の方へ駆けだしていた。

「マキ!」

 ようやく体が動く。コールはマキを止めようと、後ろからその名を呼ぶ。

 しかし彼女は振り返りもしなかった。

 獲物を見つけた狼のように、一直線に森の中を走り抜けていく。

「マキ、止まって!マキ!」

 ――だめだ、そっちに行っては!

 君が危ない……!

 コールは自分の情けなさに、奥歯を軋らせずにはいられなかった。

 追いついてくれ……!

自分の足に、こうも切に願う事があるとは思わなかった。

 コールは盛り上がった木の根に引っかかりそうになりながら、マキの背を追う。

「こんなものっ!」

マキの声。

 前方がざわめき、アメリア大佐が立ち上がったのが見えた。

 「ハナ姉」が、彼女の名を叫ぶのが聞こえた。

 マキは、短刀を抜いて振りかざしていた。

 〈龍風(るほう)探知計〉に。

 伊吹が剣を抜いたのが見えた。

 コールは最後の短距離ダッシュをすると、

「ドゥシェ――ッっっっ!」

 自分でも驚くほどの大声を出して、マキの前に滑り込んだ。

「っ?!」

短刀を振り下ろしたマキの驚いた瞳と、一瞬だけ目があった。

 そして、


 ざ く。


 嫌な音が、耳の横を掠めた。

 肩の関節のあたりに、何か熱さを感じ。

 次に、皮膚の裂かれた痛みが襲った。

「――う……」

 コールが唸りながら身をよじるのを、跳び上がって離れたマキが、呆然と見つめる。

 そのとき。


 ――ダァンッ。


「!」


発砲音が響いて、マキの左手が後ろへ振り払われた。

 その手から、短刀が弾け落ちる。

 次に目を上げたマキの瞳には、険しさだけが残っていた。

 まっすぐ腕を伸ばし、マキの短刀をピンポイントで撃ち落としたアメリアは、白く煙の上る拳銃を構えたまま、バロゼッタ語で何か言った。

「いい加減にしろ。これ以上邪魔になるようならこの場で始末する、……って、言ってる」

 コールが地面に転がったまま、痛みをこらえた声を出すと、マキは思い出したようにコールを見下ろして、


 ――あ、また……。


 傷ついた顔をした。

「マキ、あたしのことはいいから、逃げろ!」

 ハナの声が飛ぶ。

 マキはハナの方を見て、思考停止したような顔で後ずさった後、

 猫のような動きであっという間に、茂みの中へと消えた。

「コール助手、見せろ」

アメリアが闊歩してきて、コールを起き上がらせ、肩を触った。

「大丈夫です、大佐。掠っただけでした」

「そうか。ならばいい。消毒しておけ」

「あの……」

「なんだ」

「すみません。あの……」

「ふん」

アメリアはある程度予想済みだったらしく、ただ鼻を鳴らしただけだった。

 コールは傷を押さえながら、

「…………。」

黙って〈龍風(るほう)探知計〉に目をやった。

 鳥かごのような形のものに、布が被せてある。布の隙間からは、月光キノコの微かな光が漏れている。


 〝みかたのような ふり〟……。


 マキの言葉が頭の中で、呪文のようにこだまする。


 でも俺は、バロゼッタの人間で――。

 大佐や教授を裏切るような真似、できない。

 ――もし〈ルホウの寝床〉なんてのが見つかれば、大発見だ。


 研究心だけが突っ走って、コールには周りの事情など見えていなかった。

 どうでもよかった、という方が正しいのかもしれない。


 でも気づけば、あっちもこっちも命懸け。

 まるで琴線の上を渡り歩いているかのように、危うい状況。


 そうだ。俺が今ぐらつけば……

 ここにいるバロゼッタの人間全員を危険に晒すことに――。

「コール君。大丈夫ですか?」

 ラビットソン教授に声をかけられて、コールは我に返った。

 ラビットソン教授が心配そうに、顔を覗き込んでいた。

「これは降ろしましょうね」

 そう言われ、手の甲を押さえられ、やっと気づく。

 いつの間にか、〈龍風(るほう)探知計〉を今にも地面に打ち付けようとするかのように、両手で高く掲げていたことに。

「――――。」

 強く言い聞かせようとしていた事とは別の所で、抑えつけられた気持ちが、体を動かしてしまっていたようだ。

 でもそのせいで、余計、抑えつけた方の気持ちを自覚してしまった。


 マキを助けたい。

 例えそのせいで、俺たちが危険に晒されることになっても。


 感じたことのないような熱を持った想いに、自分でも戸惑う。

 どうしてこんなにも、あの子に惹きつけられてしまうのか。

 その時、大佐の「出発だ!」の号令がかかって、ラビットソン教授はコールの手から〈龍風(るほう)探知計〉をひょいと取り上げた。

「ここからは、これは僕が持ちましょうね」

「あ……。」

 君はけがをしているから、とラビットソン教授は微笑みかけたが、その表情には少し探るような色が浮かんでいた。

 コールは、ゆえに、反論などできなかった。


 〝皆を危険に晒しても〟?

 何を考えてたんだ、俺は……。


 先ほどの衝動のような気持ちを振り切るように、コールは頭を振って立ち上がった。

第二節 短絡的乱暴者の奔走

 「おい、ヒュウガ?どこ行く」

背を向けたヒュウガに、仲間が声をかける。

 〈風尾族〉はまさに今、〈風の戦士〉の集落を出立しようとしているところであった。

 男たちの掲げたたいまつが、まるで祭りでもあっているかのように、黒い森の中に煌々と光る大きな点となって、浮かび上がっている。

 「ハナを探しに行く」

〈ルホウの山〉の方角をにらみ付けて、そうのたまった彼の狼の肩掛けを、仲間の力のこもった手が、瞬間、掴み上げた。

「この期に及んでまだ女か?!ヒュウガてめえ、自分勝手もいい加減にしろ!」

 頭に血の上った仲間の怒号も、戦士たちの上げる鬨(とき)の声の中では、響きもしない。

 しかし構わず、仲間はヒュウガへの怒りをぶつけた。

「そもそもあの巫女は〈風の戦士〉の人間だろ?!今助けるべきは自分らの家族じゃねえのかよ!テメエの村の女、子どもは、心配じゃねえのかよっ!」

「放せよ」

 ヒュウガは仲間のもっともな言い分を一通り受け止めた後で、ただ一言、低い声で唸った。

 いつもの彼なら狼の毛皮を掴み上げられた時点でぶち切れているところだ。

 異様な雰囲気のヒュウガに、仲間は少しだけ戸惑った。しかし彼も血気盛んな戦士。それくらいで引き下がる訳もない。

「分かってんのか、ヒュウガ。今この場を離れんのが、一体どういう事か」

 少し声を落ち着けて、仲間は真剣な声で問いつめる。

 するとヒュウガは、ハッと自嘲するように声を吐いて、仲間の手を肩掛けから引っぺがした。

 その手首を強い力で握ったまま、顔を近づけて威嚇するように睨む。

「ジンオウへの裏切りとでも言いたいのか?〈風尾族〉へ背を向けることになるとでも?」

 仲間は息を呑んだ。

「まさかテメエ本当に……」

「アホか」

 メキッと骨の軋んだ仲間の手首をようやく放してやると、仲間は「この野郎」という目でヒュウガを見ながら、手首をさすった。

 ヒュウガはそれで気が済んだ様子で、やっといつもの調子で答えた。

「別に〈風尾族〉を見捨てるとか、そういうこっちゃねえよ。ジンオウを裏切るつもりもねえ。だが……〈仙〉の狙いは〈ルホウの寝床〉なんだろ?だったらよお、この戦いは終わらねえぞ。〈風尾族〉の村を取り戻しただけじゃ」


「はあ?テメエ何言ってんだ……」

 仲間は理解不能の様子で首を傾げる。

 ヒュウガは仲間に向き直って、珍しく落ち着いた声で説明した。

「あの気味悪ィ異民族を味方につけた〈仙〉は、勢いづいてやがる。何としてでもこの機会に〈ルホウの寝床〉を手に入れたいはずだ。それは同時に、俺たちの敗北を意味する。だろ?」

「だったらどうしろっていうんだよ?!それでも今俺たちにできることは、村を取り返すことだけだろ?!」

「だから!」

ヒュウガの声に熱がこもった。

「だから、ジンオウが村を取り返す間に、同時に巫女も取り戻す必要があるって事だよ。〈ルホウの山〉を熟知してんのは巫女だけだからな!じゃねえと、奴らは諦めねえぞ。逆に言やあ――」

ヒュウガはにっと口角の片方をつり上げた。

「それができりゃあ、全ての利を一気に取り戻せるってこった。奴らはまた当分、攻めては来れなくなる」

「ふむ。考えは分かった、狼の戦士ヒュウガよ。それを以てどうゆく?」

「!ジンオウ?!いつの間に……」

 突然口を挟んだ初老の男の声に、仲間が声を上げて跳ね退いた。

 背の低い族長は、ひょろりとしたヒュウガをじっと観察するように見上げる。

 一方仲間は、族長を囲んでいるつもりで鬨(とき)の声を上げ続けている戦士たちの熱狂集団と、どうやって抜け出してきたのか神出鬼没な己の族長とを、不思議そうに交互に見遣った。

 ヒュウガは、ジンオウの前にひざまずいて、述べた。

「俺が単独行動で、捕らわれた巫女を探す。それだけだ」

「そうか」

 次の瞬間、ジンオウはヒュウガの狼の肩掛けをはぎ取って、彼の目の前で引き裂いた。

 ヒュウガは険しい顔で、黙ってそれを見ていた。むしろ見守っていた仲間の方がたじろいだ。

「戦士として闘わぬ今のお主に、これは不要だな?」

「……。」

「己の名誉は、その口で言ったことをやり遂げてみせることで、回復せよ」

淡々と告げられる厳しい言葉に、ヒュウガは、それこそヒグマと一対一で対峙しているかのような、緊迫感を含んだ笑みを浮かべた。

「ありがとよ、ジンオウ」

 その一言を残すなり、彼は〈ルホウの山〉の方へ、愛用の槍を片手に姿を消した。



 ******



 マキは、走っていた。

 どこへともなく。

 だけど、足は勝手に、〈ルホウの山〉へと向かっていた。


 はっ。はっ。はっ……。


 自分の息がやけに、耳に響く。


 きもちわるい。


 ――ガッ……どたーん。

 地面を這う蔓(つる)につま先を引っかけて、彼女らしくもなく派手にすっ転ぶ。

「……っ……。」

 起き上がる気力もなく、ただそのまま、体を丸めた。

 傷の痛みなんて、忘れていた。


 心が激しく乱れていて。

 胸焼けがして。

 悔しくて、悲しくて、

 自分に失望する。


 理由を挙げれば、いくつかある。

 またハナ姉に、『逃げろ』と言われてそうすることしかできなかった自分。

 事故とはいえ、コールを傷つけてしまった自分。

 いつも一歩追いつけていない、自分。

 悪態をつく気すら失せて、黙り込んでいると、ひどい吐き気が込み上げてきて、地面に這いつくばって咳き込んだ。

 何も吐くものなんてないのに。

「げほっ!げほっ!げほっ!……」

 しばらくそれを繰り返したのち、再び力無く、地面に身を預ける。

 目の端に、薄緑の光の列を捉える。

 ――キノコアリ。ここは通り道、か?

 だとしたら危険だ。

 キノコアリは気性が激しく、月光キノコを運ぶ邪魔になる動物は片っ端から毒針で刺して襲う。


 離れなきゃ。せめて……立ち上がらないと。

 思いはただ頭の中を巡るだけで、体は動こうとしない。


 〝意味、あるのか?〟

 もう一人の自分が、ひっそりと囁く。

 〝立ち上がって、このまま走り続けて、意味があるか?私にハナ姉はどうしたって、助けられないというのに〟

 ぞくりと悪寒が走って、さらに肩を抱いてうずくまった。

「でも……」

 マキはゆらりと手をついて、立ち上がった。

「でも、死にたくないんだ!」

その大きな瞳からは、栓を外したかのように、涙が溢れた。

 〝死にたくない〟

 誰より、〈風の戦士〉より、〈ルホウ〉より、結局は自分か。

 マキはその拭えない恐れに、皆への罪悪感に、深く後ろめたさを感じた。

 でも、足はよろよろと、勝手に進む。

 夜だからといって、彼女の足は道を覚えていて、決して方向を違えることはない。

 マキはキノコアリの列を飛び越えるとき、薄明かりを見下ろして、ふと呟いた。


 〝綺麗だ。〟



 ******



 「ぐぁああああああっああああっ!」

 〈仙〉の伝令兵駐屯地があったところで、男の悲鳴が上がった。〈仙〉兵の悲鳴だった。

「なあオイ、叫んでねえで教えろや」

 ヒュウガの苛ついた声が闇を低く震わせ、突き立てた槍が、ぐいとねじられる。

 地面にうつぶせに抑えつけられている〈仙〉伝令兵は、右手の甲に走るさらなる激痛に、また引き絞るような悲鳴をあげた。

「もう一回訊くぜ?」

 ヒュウガはゆっくりと何度目かの質問を繰り返す。

「巫女を連れ去ったそちらさんの男は、どこへ、行った?」

「だっ……だから!」

苦痛で涙目になりながら、伝令兵の男は必死で答える。

「巫女など知らんと言っているだろう!本当に……ぎゃっ……あああ」

 ズンと槍に体重がかけられて、切っ先が彼の手の肉をさらに深くえぐり、伝令兵はむなしくもがく。

「やっ、やめろ!そうだ!巫女は知らんが、伊吹が女を拾ったと言って連れてきたのならば見た!それのことか?!」

 ぴく、とヒュウガの片眉が動き、膝で伝令兵の背中は押さえつけたまま、手に込めた力だけを緩める。

「伊吹……〝息吹〟か。フン、大層な名だな。そいつはどこ行った」

 ギリッ。手の甲が再び嫌な音を立てて、一寸ホッとしていた伝令兵は思わぬ痛みにいっそう大きく声を上げた。

「み、都へ行った!我が大王(おおきみ)様に伝令のため、走ったきりだ!」

「なるほどな。あんがとよ、オッサン」

ヒュウガはにやりと笑って、膝を退けた。

 伝令兵は今度こそ解放されて、転がるようにヒュウガから離れると、血の出る右手を押さえながら、吐き捨てた。

「調子に乗れるのも今の内だ、猿どもめ。なぜ我ら伝令兵がこの駐屯地を片付け、私だけが森に潜んでいたか、分からんか」

「は?知るか。関係もねえよ」

 血を払うように槍をぶんと一振りして、すぐさま去ろうとしたヒュウガの背中に、伝令兵の痛みをこらえた声が降りかかった。

「今に、ここも〈仙〉軍が占拠するからだよ!阿呆が!」

「……?!〈仙〉の大将が軍を率いたってのか!」

 振り返り様、ビシッと弦をはじく音がして、一本の矢がヒュウガに向けられた。

 しかしそれは足下を、無様に土を削りながら滑っただけだった。

「んの野郎ッ――!」

カッと頭に血の上ったヒュウガが、伝令兵に槍を振り上げるも、

「…………。」

振り下ろすことなく手を止めた。

 傷む右手を無理に使って最後の矢を敵へと放った伝令兵は、気を失っていたのだ。

「チッ、やり逃げかよ」

 だらだらと手から血を流した状態で気を失った彼は、仲間が側に隠れてでもいない限り、もはや助かりはしないだろう。

 ヒュウガは何か消化不良のような顔をしながらも、森の中へと足を向けた。

 〝伊吹〟は〈仙〉の大将の所へ向かい、〈仙〉の大将は軍を率いてここへ来る。

「攻める人数増やしたからって、〈風尾族〉がやられるかよ」

 頭の中を整理しながらも、それだけは、口に出して言い聞かせずにはいられなかった。

 ヒュウガは森の中を、〈仙〉が現在制圧している場所――〈風尾族〉の村の方向へ向けて走り出した。

 軍を率いて来るというのなら、遅かれ早かれ大将はあそこに陣取るはずだ。

 というか、この鬱蒼とした土地では、他に布陣できるような場所など無い、というわけだ。

 しかし半刻ほど駆けたところで、彼は足を止めることとなる。

 前方に、ふらふらゆらゆらとおぼつかない足取りで向かってくる、小柄な人間の姿を見つけたからだ。

 子どもであることだけは、暗闇でも知れて、警戒しつつもさっさと近づき、それが誰かを確かめる。

 月明かりで顔が分かるなり、ヒュウガは目を見開いた。

「テメエは、ハナの――」

その声に初めて、マキは誰かが近く覗き込んでいたことに気づき、ぼうっと顔を上げた。

「ああ……短絡的乱暴者か」

「容赦ねえな……オイ、それよりお前の姉貴探してやってんだけど、何か知らねえか?」

 尋ねたヒュウガの前で、マキの頭が前後に揺れた。

「オイ……?」

次の瞬間、彼女の体からふっと力が抜け、倒れ込んできた。

「オイ!どうした、えーとマ、マイ?マイ!」

 とっさに支えたおかげで、地面に頭を打ち付けることは免れる。

「マキだ……間抜け」

 うっすらと目を開けて、ヒュウガに身を預ける形になりながら、もうろうとした様子でマキは訂正した。

「ああ、そうか。ってこれだ!この出血のせいだお前、一体何やった?!」

「ハナ姉……助け、られない。無理だ、もう」

そうして、すうっとその目は閉じられた。

第三節 迷宮の入り口


 ひんやりと冷たくすがすがしいものがのどに流し込まれ、マキははたと目を開けた。

「お、気づいたかよ」

 目の前にヒュウガの顔があったので、とりあえず反射的に殴ってしまった。

 ごんっと割かし容赦ない音がして、ヒュウガはその高い鼻を押さえてうずくまった。

 拍子に、動物の皮をなめして作った彼の水筒が地面に落ち、中身の水をぶちまける。

「……いってぇなあオイ!せっかく助けてやったってのに!」

体を起こしたマキは、すぐに状況を理解して、

「ああ、すまん」

ちゃんと謝った。

「謝罪が軽いな!テメエ舐め腐ってるだろ……」

ちゃんと謝ったのに、この短絡的乱暴者は何か納得いかなかった様子だ。

 まあ、悪いなどとこれっぽっちも思っていなかったのも事実だが。

「ちゃんと止血しとけ」

 ヒュウガは頑丈でしなやかな青い蔓(つる)を木の幹から引っぺがすと、ぶっきらぼうに放ってやった。

 マキは少し面食らいながらも、素直にそれを受け取る。

「傷口が開いてんだよ。てめぇ、貧血起こしたんだ」

「……そうか」

「…………。で?」

「あ?」

マキは黙々とほどけかけの腹の包帯を巻き直しながら、ヒュウガの一文字の意味を一文字で聞き返した。

 腕の包帯は血でべちょべちょになっていたため、ほどいて折りたたんであて布のようにし、蔓で口も使ってしっかりと縛り上げた。

 ヒュウガが険しい顔で言う。

「ハナはどうした?」

 途端、マキの目に憎悪の光が浮かんだ。

「その口でハナ姉の名を語るな、二度と!この堕ちた一族めが!」

マキは腰の短刀へと左手を伸ばし、抜き取って投げつけようとした。

 が、伸ばした手は柄を掴むことなく、するりと空を切った。

 それでやっと、アメリアに撃ち落とされたことを思い出す。

「くそ……」

 ギリッと唇を噛んだマキを見遣って、ヒュウガは不機嫌そうに言い返す。

「オイオイ何だってんだよ。俺はハナを守ろうとしてやったんだぜ?〈仙〉兵に見つかる前に隠してやったんだ。それを何だよ、悪者みてえに」

「そもそもお前ら〈風尾族〉が寝返ったりしなけりゃ、こんなことにはならなかった!」

「あのなあ」

喚くマキに、かがみ込んで視線を合わせ、ヒュウガがため息混じりに声をかける。

「〈風尾族〉だって危なかったんだ。ああしなきゃ、皆殺されてたんだよ」

「そんなものが言い訳になるか!〈風尾族〉は役目を捨て、分離して崖に居を構えたが、元は〈風の戦士〉と違いなかったはずだ!戦士ならば戦え!最後まで!」

「いい加減にしろよ」

 ヒュウガの低い声が、マキの言葉を止めさせた。

「先祖の話なんか知るか。俺たちを〝堕ちた一族〝というなら、尚更俺たちには、お前らの事情なんざ関係ねんだよ。

 ひとつ言っとくぜ、〈風の戦士〉サン。

 ジンオウが守っているのは〈ルホウ〉じゃねえ。ともに過ごす家族だ。いつだってな。

 だから交流のあるテメエらだって襲った。ジンオウが、〈風尾族〉が、どんな気持ちでそれを実行したか、訳も分からねえくせに勝手なことべらべら並べ立ててんじゃねえぞ」

 彼の瞳にも、怒りが満ちていた。

 マキは負けずに言い返そうとしたが、次のヒュウガの言葉で、それをためらった。

「正義掲げてりゃ済む奴らは、ラクだよな」

「――――。」

その言葉に込められた意味は、マキにはいまいち理解できなかったが、何よりヒュウガの投げやりな様子が、気にかかった。


 コイツに、チャンスを与えてもいいのかも知れない。

 いや、〈風尾族〉に。

 〈風尾族〉は、心まで売ったわけではなかったと、

 ――信じてみても、いいだろうか?


 「ヒュウガ」

マキはごくりとつばを飲み込んで、心を決めて顔を上げた。

「ハナ姉は〈ルホウの山〉の入り口までの案内役をさせられてる。人数はハナ姉以外に七人だ。奴らが約束を守れば、ハナ姉は入り口で解放されるはずだ」

「なっ……本当かそれ?!」

ヒュウガが目を見開いて、思わずマキの両肩を掴み、傷口を押さえられてマキが短く悲鳴をあげた。

「痛い!」

「あ、悪ィ」

ぱっとヒュウガは離れる。

「だけどよぉ、そこまで案内しちまって、本当にハナは解放されるのか?」

 ヒュウガが険しい顔をすると、マキは予測済みらしくうなずいた。

「だから、待ち伏せする。約束を守らぬようなら、私たちでハナ姉を助けるんだ」

「……!マイ、テメェ……」

ヒュウガが意外そうに驚いた声を出し、

「マキだ間抜け!」

マキが鋭く訂正した。

「よっしゃ!」

 ヒュウガが気合いの声とともに立ち上がった。

「そうと決まればさっさと行くぞ!」

「ああ」

マキは立ち上がろうとして、立ちくらみに木に寄りかかった。

 その様子を黙って見ていたヒュウガが、ぽそりと提案した。

「……おぶるか?」

「いらん!」

マキは全力で即答した。



 ******



 ハナは、マキとは別のルートを進み、〈ルホウの山〉を東側へ回り込む方向へと、皆を導いていた。

 ハナのすぐ前を、バロゼッタ兵が邪魔な枝や草を払い落としながら、道を作って歩く。

 ハナは暗い色を瞳に落としながら、黙々と歩を進めていた。

 八人行動は、やはりペースが落ちる。

「どのくらいで着く」

 伊吹がそれとなくハナの横に来て、目線を前にしたまま尋ねた。

「……夜明けには」

 ハナは星と月の位置を確かめるように一度空を見上げて、ぽそりと答えた。

「巫女」

 伊吹は口を動かさずに、声を落として呼びかけた。

「あの子は大丈夫だ。生きようとする者は、そう簡単には死なない」

 ハナは、ぐっと気持ちを抑えたような顔をした。

「それを言いに来たのか」

ゆるい風にかき消されそうな程の声で応える。

 気持ちを察せられ、気休めの言葉をかけられたと思うと、腹が立った。

 しかし伊吹は、それすらも察したのか、こんな風に続けた。

「そなたの隣にいる男も、運だけで生き延びてきたと思うか?」

 ハナは伏せがちの目を見開いた。

 伊吹の言葉には、想像を絶するであろう過酷な運命を過ごしてきた、独特の重みがあった。

「ハナ」

 初めて名前を呼ばれ、不意打ちにぎょっとしてしまう。

 立ち止まりそうになった足を、何とか動かす。

 伊吹はハナの心の動揺には気づかなかった様子で、そっと言った。

「あの子を信じろ」

 励ましでも、気休めでもない。

「気高きそなたたちを、失意の底に落としたりはさせぬ。決して」

 〝約束〟よりも、はるかに重い響きを伴うその言葉は、

 敵の中で一人、綱渡りをしているハナにとっては、うっかり心強く聞こえてしまう。

 何の根拠があるの、と言い返したかったけれど、伊吹の言葉は不思議と、すうと染み渡るように胸を満たし、そんな隙を与えなかった。

 だけど、いい様に丸め込まれるなんてごめんだった。

 この男が平然と嘘をつけるのは、見ていたから知っている。

 心強い、などと思ってはいけない。

「あんたに言われるまでもない。マキは死なないし、あたしだって死ぬ気はないよ」

 ――強がりで言ったみたいに、聞こえただろうか。

 子どもみたいだったなと少し気恥ずかしくなっていると、伊吹が次の瞬間、顔をほころばせた。

「それだけ強気なら平気か」

「!」

ハナは思わず、バッと伊吹の方を振り向いて、物珍しいものでも見るようにその笑顔を見つめた。

「引き続き、」

 何事もなかったように話す彼の表情は、どこかまだ、柔らかな余韻を残している。

「生きようとしろよ、ハナ」

 そう言い残して、来たとき同様さりげなく、後方の大王(おおきみ)の元へ戻っていった。

「あ、あの、〝足を止めるな〟、と」

 ラビットソン教授がアメリアの言葉を伝えてきて、ハナは慌てて前を向いた。

 ――〝生きようとしろよ〟って、何よ。案内頼むぞ、じゃないのか?普通。

 戸惑いが胸を満たすと同時に、変に心臓の鼓動が大きくなっていた。

 あの男の言動は、予測不能だ。

 ハナは真剣にそんなことを考え眉間にしわを寄せながら、気持ちの波をごまかそうとするかのように、ずんずんと足を速めた。

 アメリアが後方で、

「なんだ?急にやる気を出したな」

 こちらも眉間にしわを寄せ、首を傾げていた。



 ******



 一方マキとヒュウガは、あの岩窟の入り口付近にたどり着くと、二カ所に分かれて岩陰に隠れた。

 作戦では、まずマキが飛び出して囮になった隙に、ヒュウガがハナを助け出すという算段だ。

 つまり強行手段でハナ姉を救い出すかどうかの判断は、マキにゆだねられていた。

 マキはとりあえず投げつけられそうな大きめの石だけ、手近に準備していた。

 マキの場所からは岩窟への入り口が見下ろせる。

 緊張を解けないまま、じっとその時を待った。

 やがて長い夜は明け、

 空が白い光を浴び始める。

 しかし、

「?」

 来ない。

 マキは岩陰から顔を出し、森の方を見遣った。


 何故だ?

 もう着いていてもおかしくない。

 気配すら――。


 刹那に浮かんだ嫌な考えに、息を止める。

 まさか…………!

「ヒュウガ!ここじゃない!」

 マキは岩陰から飛び出して、下方に隠れているヒュウガに叫んだ。

「は?」

ヒュウガが驚きながらも顔を出す。

「〈ルホウの山〉に入るには、ここだろ?」

「入り口は他にもある!」

マキは青ざめながら続けた。

「ハナ姉は他のどれかへ向かったんだ!」



 ******



 伊吹は、辿り着いた場所で、言葉を失っていた。

 「壮観だな」

アメリアが特に感動も見せず冷静につぶやく。

「フン、この中に……」

大王(おおきみ)火穂伎命(ほほぎのみこと)は、目をぎらつかせてにやりと笑う。

「ついに〈ルホウ〉が我がものに……!」

「すごい」

コールが声を上げ、ラビットソン教授もうなずいた。

「ま、まことに興味深い建築です」

 そこは、岩を掘って造られた、広い地下道を通り抜けた先に、突如立ちはだかるように現れた場所だった。

「すでに山の中、といったところですか。まさに〝入り口〝ですね」

ラビットソン教授は、片眼鏡を押し上げ、感嘆の声を漏らした。

 巨大な岩壁が円筒となって、高く空に突き上げている場所だった。

 ちょうど明るくなってきた空から、光のカーテンが降り注ぐと、ある一点をことに眩く照らし出している。

 それは、西側の岩壁一面を透かし彫りで仕立て上げた、絡み合う幾匹もの龍の彫刻。

 表面はつやつやと、塗料で仕上げたかのように濡れた輝きを見せ、大きくせり出した岩窟の天井から滴り落ちるしずくが、光の反射をあちこちで起こせば、龍たちが動いたかのような錯覚を起こさせる。

 下方には、人が通れる門が開けられていた。

 二本の太い円柱で、角材を支えるような形のその門にも、当たり前のように二匹の龍が巻き付き、通行人を見極めるかのように、目玉をぎょろりと睨ませていた。

 もちろん門自体も浮き彫りの一部だ。

 浮き彫りの壁から零れる朝日は、さらにその奥の岩壁を光らせる。

 龍の壁に守られた向こう側に、ぽっかりと巨大な穴が口を開けて待っていた。

 その穴の周りにも丁寧に彫刻が施され、斜め上方両側に、ひとつずつ半球形の目玉をひんむかせれば、くぐる者たちをまるで龍の口に入らねばならぬかのような心持ちに陥らせる。

「どういうことだ、ハナ」

伊吹が表情に少しだけ険しさを加えて、低い声で訊いた。

「あの狭い岩窟が、入り口なのではなかったのか」

 目の前に見せつけられているのだから、答えは明らかなわけだが、それでも訊かずにはいられなかった。

 ハナは淡々と応えた。

「入り口は、風が吹き出す隙間の数だけ存在する。だけどその中でも、最も神聖で正当な入り口はここ。いくら許嫁(いいなずけ)だろうと、この場所だけは教えたりしない」

「…………っ」

伊吹ははっきりと顔を歪めた。

「なぜ、わざわざそのような場所を選び連れてきた」

 すると刹那に、ハナが伊吹の顔を見上げた。

 無表情だったが、瞳に、怒りに近いような熱が宿っていた。

「広いから」

 その答えに伊吹は面食らって、じっとハナを観察するように見つめた。その心内を、読み取ろうとでもするかのように。

「なぜ」

 二人の会話は一言ずつだというのに、何故かお互いに意味が通じた。

 伊吹はつまり、ハナが自分の復讐の邪魔をするため、あえてここを選んだのだと言っているのを、理解した。

 その上で、「なぜ邪魔をする」と尋ねたのだ。

 ハナも伊吹の質問の意味を分かっていた。

 ふいっと目をそらして、彼女は言った。

「復讐に燃える男って、ダサイよ」

 伊吹はまたもや絶句した。

 なんだその理由は。ふざけているのか。

 声を荒げたかったが、冷静な彼はすぐに大王(おおきみ)に目をやり思い直す。

 ――いや、まだだ。まだすべてのチャンスが失われたわけではない。気づかれてさえいない限りは、やれる。

 「伊吹。何をしておる、行くぞ」

大王(おおきみ)が視線に気づき、呼びかけた。伊吹は密かに、ぐっと銅剣の柄を握りしめた。

 ――しかしまずは、巫女との約束が先だ。

 「我が大王(おおきみ)」

 彼は大王(おおきみ)の前でひざまずき、両拳を目の上で合わせ頭を垂れた。

「約束を守った巫女の解放を」

 大王(おおきみ)は伊吹ごしに、ハナの横顔に目を向け、数秒だけ考えるそぶりをした。

「いや、あれも連れて行く」

「?!我が大王(おおきみ)、しかし道案内ならば、あの異民族が作った龍風(るほう)灯で事足りるかと」

 伊吹は少し焦りながら進言する。が、大王(おおきみ)は次にもっと信じられないことを口にした。

「いやいやいや、伊吹、お前は賢いから、当然察してくれるだろうと思っておったぞ。あの娘……そう、あれは巫女ではなく娘だ。美しく芳しい娘。〈龍風(るほう)〉を手にした暁には、側に置き奴隷として使うのも一興。違うか?」

 堂々とのたまった大王(おおきみ)の言葉はハナの耳にも届き、ハナは大王(おおきみ)の方を見て硬直した。

 伊吹は怒りを抑えるために重ねた拳にしびれるほど力を入れ、心の中でハナに向かって文句を言った。

 ――私の復讐の邪魔などするから、己の首を絞めることになるのだぞ!

 「連れてこい」

大王(おおきみ)の絶対の圧力に、伊吹は

「御意に」

そう答えるほかなかった。

「あなたは約束を守らないと!」

 声を上げたのはコールだった。

 じろりと火穂伎命(ほほぎのみこと)がコールを見遣ると、コールはびくりと少し身を引いた。


 勢い、だけだった。

 とっさに、マキの傷ついた顔が浮かんで。

 気づけば、あの人を守らなければと、使命感を伴ったかのように、口が動いていたのだ。


「何か言うたか、小僧」

冷たい光を帯びた火穂伎命(ほほぎのみこと)の声が、コールを黙らせる。

 コールはまるで、胸の内に用意していたはずの言葉をすべて、その男に絡め取られてしまったかのような気色に囚われた。

 口を開けたまま、固まってしまう。

 伊吹が頭を垂れたまま、

 余計な口出しをして自分の首を絞める奴がここにも一人いたか、と密かに顔を歪めていた。

 しかしそこに、アメリアのバロゼッタ語が割り込んだ。

「確かに得策とは言えませんな、〈仙〉の大王(おおきみ)」

 ラビットソン教授が滝のような冷や汗を流しながら、大佐の言葉を同時通訳して火穂伎命(ほほぎのみこと)へ伝える。

「なんだと?」

火穂伎命(ほほぎのみこと)は、あからさまに不快感を表情に出して、アメリアへと目を向けた。

 我に口出すと言うことが、どういうことか分かっているのか。

 大王(おおきみ)火穂伎命(ほほぎのみこと)の目が、そう言っていた。

 アメリアはそれを受け流すようにして、続けた。

「従者のその男、」

自分のことが引き合いに出され、伊吹がぴくりと耳を動かす。

「私が見た限りだと、ここに着くまでに何度か、あなたに向けて殺気を放っていたように見えたが」

「…………。」

「それがどうした?」

伊吹は頭を垂れたまま押し黙り、火穂伎命(ほほぎのみこと)は分かっているとでもいうようにすぐに聞き返した。

「この男はそもそも奴隷で、我を憎んでおる。殺気が向けられるのは平時のこと。のう、伊吹?」

にやついた顔が伊吹の頭頂部を見下ろし、伊吹は今すぐ銅剣に手をやりたいのをこらえながら、

「いえ、……」

ただそう言葉を濁すしかない。

火穂伎命(ほほぎのみこと)はアメリアにふんぞりと向き直って、

「だがこの男は我に斬りかかれぬ。噛みつくことすらできぬ。我が、王であるがゆえ」

そう言い切った。

しかしアメリアは動揺した様子も見せない。

「可能性の話だ。巫女を連れて行けば、あなたの首を狙う頭数は増える。目的のために二人が手を組めば、さすがのあなたも危うかろう。……はっきり言っておくが」

 アメリアの次の言葉に、

「我々は貴様に協力するが、用心棒ではない。それを心に留めておけ」

火穂伎命(ほほぎのみこと)はようやく顔をしかめて考えることになった。

 珍しく、終始ラビットソン教授が意訳せずともすむ言葉を選んでいたというのに、最後の最後で危険な発言。

 油断していたラビットソン教授は、それをそのまま火穂伎命(ほほぎのみこと)に伝えてしまった。

 しかしそれが今回は、逆に功を奏したのだろう。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)は言いくるめられたのがしゃくに障ったような顔をしていたが、やがて忌々しげに伊吹に言った。

「巫女を解放しろ」

「やめておけ」

 重ねてアメリアの待ったがかかり、そこにいる全員が「?!」という顔をした。

「拘束は解くな。今自由にすれば、その巫女は我々の邪魔をするために動くだろう。ここは彼女たちの山。仲間に知らされることだけは避けねばならん。……行け」

説明の後、バロゼッタ兵の一人に指示する。

「我々がここへ戻ってくるまで、あの女を見張っておけ。その後は私の関知するところではない。大王(おおきみ)、どうとでも貴様の好きにするがいい」

最後は火穂伎命(ほほぎのみこと)に呼びかけると、火穂伎命(ほほぎのみこと)は再びその表情に悪どい笑みを取り戻した。

「なるほど、よい考えだ。一時は、後の処遇を考えねばならぬかと思うたぞ、アメリア殿?」

するとアメリアは、にこりと愛想笑いを浮かべた。

「まさか。ここまできて、貴様の逆鱗に触れるような愚かな真似をするわけがなかろうが。今までの我慢が無駄になってはかなわん」

 それはさすがに、ラビットソン教授が大幅に意訳した。

 「大佐……」

 門に向かってきびすを返したアメリアの背に、コールが思わず声をかけると、アメリアはぼそりと呟いた。

「コール助手、心配することはない。〈ルホウ〉を我々が手中にしたとき、あの愚王はこの世から消えるのだから」

「……!」

 固まったコールをちらりと見遣って、アメリアは不敵にふっと微笑んだ。

「まあ、〈ルホウ〉に利用価値があればの話だが」

 こうして一行は、ハナとバロゼッタ兵一人をその場に残し、ついに門をくぐったのだ。


第五章 龍風(るほう)の寝床

第一節 想い


 花露(かろ)は、己の住居にこもっていた。

 一部屋のみで構成された壁(かべ)竪(たて)式住居には、今はむせかえるような薫香が立ちこめている。

 大王(おおきみ)の宮と同じく、中央に一段高い床が設けられ、そこに彼女はいた。

「ひと」

 ひとつ声を発し、目の前の長方形の低い台に、コトリと銅鏡を置く。

 台の上には、白蛇の胴体と首が、土器の皿の上に載せられている。

「ふた」

コトリ。二つ目の銅鏡が並ぶ。

「みぃ、よう」

三では何も置かれず、四で勾玉(まがたま)が置かれた。

「いい、むう、なな、……」

立て続けに勾玉が、白蛇に捧げるかのようにその周囲に並べられていく。

「や」

八つ目に置かれたのは、巻かれた反物(たんもの)だ。

白絹で織られたそれを、そっと台の端に添える。

「ここのたり、ふるべゆらゆらとふるべや」

後の二つも反物だった。薄く透き通る黄色の布、そして、最後に目の粗い麻布。

 数え終わると、花露はごく少ない呼吸で、神歌を唱う。

「おぎ奉るこの柏手(かしわで)に

 畏(かしこ)くも来たりましませ尊(たっと)き御(おん)方(かた)

 天(あめ)の原(はら)より今此(ここ)に

 光の桟橋降ろし給え

 御前(おまえ)様(さま)の白蛇を

 花露がお返し致しまする」

 ぱん。続けて打った柏手の音が、普通ならあり得ない破裂音を伴って、室内に響いた。

 瞬間、台の上に並べられた捧げ物に、虹色の光が差した。

 時刻はちょうど、夜が明けて、花露の住居にも朝の光が当たるころ。しかしこの室には、光の差し込むような窓はない。

 灯りといえば、小さく灯した皿の油の火のみ。

 本来なら、台の上に自然光が当たるはずがなかった。

 虹色の光は捧げ物にまとわりつき、それらを眩く照らし出すと、強すぎる白い光へと変化した。

 刹那、閃光の爆発が起きた。

 まるでその一瞬、土の壁はすりガラスにでも成り代わったかのようだった。

 光は花露の住居から溢れ出て、一秒にも満たない間に、都一帯を覆うほどに拡散したかと思えば、ぐんっ、と急速に収束して、消えた。

 あまりに早すぎて、花露以外の人間はその現象を気にも止めなかった。ほとんどの人は、一瞬朝日に目が眩んだだけだと思いこんだのだ。

 目を潰されぬよう顔を伏せていた花露が、ゆっくりと目を上げると、土器の上の白蛇の首と胴体が、綺麗につながっていた。

 花露は少しだけ目を見開いたが、それは蛇が息を吹き返したことに驚いたからではなかった。

 白蛇は土器の上にとぐろを巻いて、何事もなかったかのように、ちょろちょろと先の割れた舌を泳がせている。

 花露が白蛇にゆっくりと袖先を差し出すと、白蛇は探るように顔を近づけた後、主人と分かった様子でするすると花露の首元へ上った。

「わっちの役目は終わっておらぬと仰せられるか?我ら人間の道をまだ、閉ざさないでおいてくださるのでやんすな」

花露は誰にともなく呟いた。

 室内の光は嘘のように失われ、元の薄暗さを取り戻している。

 花露の首元で、安心したように白蛇は目を閉じて眠る。

「みいちゃん」

 花露はてらてらと光るその胴を指先でそっとなでた。少しだけ、彼女の表情が年相応の十歳そこらの色を帯びた。

 しかしその雰囲気もすぐに消え、花露は物思いにふけるように天井を仰いだ。

「剣は未だ、光を取り戻さぬでやんすなあ」

片手で首元の蛇をなでながら、彼女は声を漏らす。

「早う目覚めよ、龍の風を守るべき真の王。ミホウサマはまだ見捨ててはおられぬぞ。御前(おまえ)が間に合わねば、わっち共は他の生き物に、王権を渡すことになるのでやんすよ」

 花露は白蛇の生(せい)を確認するように目を落とし、そのうつろに見える金瞳に、一抹の不安の影を落とした。

「人間から知恵は奪われ、賢き次の生き物が、すべての恩恵を引き継ぐのでやんす。そうはなりとうなかろう、真の王」

 そうして、もどかしげに、ごく小さな声を出した。

「その曇った心を洗い流し、研ぎ澄ませるほどの器は、御前(おまえ)にはあるはずでござんしょうに……」



 ******



 ばさばさばさと、森の北側の方で、カラスたちがいっせいに空へ飛び立つのが見えると、ヒュウガは一度足を止めた。

「始まったか」

マキもそちらに目を向けたが、その時にはヒュウガは再び走り出していたため、慌てて追いつく。

「そっちじゃない」

「あ?」

 マキは追い越し様に声をかけ、岩山の斜面を下る方へ足を向ける。

 そのまま森側に分け入っていくと、細い滝の流れ落ちる泉にたどり着いた。

「行くぞ」

「行くぞって、どこに――オイッ!」

マキはざぶんと水の中に飛び込み、ヒュウガは焦った声を上げた。

 深さのある透き通った泉を見つめていると、マキがそのまま、滝側の岩壁の中に消えるのが確認できた。

「……その向こうって、ことかよ」

ヒュウガは驚きながらも、理解するとすぐに自分も飛び込み、マキの後を追った。

 上からは一見すると分からない洞穴が、奥へと道を作っている。泳いでそこをくぐると、すぐに前方は行き止まりとなり、上を見上げると水面があった。

 マキが何かつるされた紐のような物を引っ張っているのが見えた。

「ぷはっ」

 ヒュウガが水面から顔を出したとき、

 円盤状の岩がごろごろと転がり、滝のあった方に入り口ができた。

「なんだ。ついてきたのか。先に言え」

岸から上がったヒュウガを見て、マキが言い捨て、紐を再び引っ張った。

 岩ずれの音を響かせて、滝の向こうの景色が、再び円盤で遮られていった。

「テメエが『行くぞ』って言っただろうが!先に言えはこっちの台詞だ!」

「行くぞ」

「ああ行くさ!」

 その先は、地下へ向かうかのように石造りの階段が下へと伸び、そしてやたら幅の広い石造りのトンネルへと辿り着いた。

 明かり取りの小さな窓が、地表と接する部分に等間隔に開けられていて、そこを通り抜けるのに火を灯す必要はなかった。

 時折そこから、ズボッと音を立ててネズミが降ってくる。

「すげえな……」

走りながら、強固な造りの長いトンネルに、ヒュウガが感嘆の声を漏らす。

マキは、ヒュウガを見遣って、すぐに前に目を戻しながら、

「そういえば犬の毛皮はどうした、ヒュウガ」

「狼だ!」

声を張り上げて訂正した後で、ヒュウガはケッと不機嫌そうに吐き捨てた。

「見りゃあわかんだろ。俺は戦いに背を向けてんだから」

 ポタ。ポタ。

 土に含まれる水分か、朝露の名残か。

 しずくが落ちて、水たまりに当たると音を立てる。

 少し静寂が流れ、ヒュウガが反応無しか、と思いかけた頃に。

「見直した。お前は戦っている」

険しい顔を崩さぬまま、マキがはっきりと言った。

 慰めかフォローかは知らないが、意外な言葉にヒュウガはマキの横に並び出て、まじまじとその横顔を見下ろした。

「……テメエも、五年待てばイイ女になりそうだな」

「取り消す。キモイ。近寄るな。」

「ああ?!何だよ、褒めてやったんだぞ」

本気で不満げな声を上げたヒュウガに、マキは哀れみを含むため息を漏らす。

「だからハナ姉に〝死んでも許嫁なんて解消してやる〟なんて言われんだよ間抜け」

「なっ……!人の傷口をえぐるなよ……それにこれから俺は、復縁の予定だ!」

意気込んで言ったヒュウガに、

「私は応援しないが、まあ頑張れ」

「なんだよそれ!がんとして敵かよ!」

しかしマキの口調からは、心なしか、今までのとげとげしさが消えていた。



 ******



 ボクッ、と鈍い音がして、ハナの生足を舐めるように見ていたバロゼッタ兵は、次の瞬間、気を失ってあっけなく、地面に突っ伏した。

「マキ!」

ハナの顔が輝いて、マキは両手で持った大きな石を投げ捨てると、ハナに駆け寄った。

「ハナ姉!平気?」

「うん、平気。それよりあいつら、中に入ってったよ。早く追わないと――」

「分かった。――っこの縄、固い」

「下がってろ」

ヒュウガが割り込み、槍の先をハナの手首を縛る縄に引っかけて、くいっと器用に捻る。すると嘘のように、はらりと縄は緩んで落ちた。

「ヒュウガがなんでここに?」

マキに訊いたハナの目が、不穏な光を帯びる。

「ハナ姉の追っかけで」

「オイ、待て!シャレにならねえよ!」

「なるほど。もういい、帰れヒュウガ。あんたに用はない」

ハナは敵を見る目つきでヒュウガを睨み、マキを胸の中に引き寄せる。

「あ、ハナ姉……、でも一応、コイツのおかげで助かったんだ」

さすがに少し罪悪感を感じたマキが、付け加えるが、ハナはその眼孔を緩めることはなかった。

「それだけは礼を言う。だがここからは関係ない。行こう、マキ」

「――そうもいかねえんだよ」

次の瞬間、ヒュウガの槍がひゅっ、と風を切った。

 刃先はハナとマキの間に割り込むも、二人は培われた反射神経で飛び退き、傷ひとつ負わない。

 しかしヒュウガは、それを計算済みだった。

 突き出しただけのはずの槍が、ゴトンと地面に落ち、マキとハナが一瞬そちらに気を取られた隙に、

「?!お前っ……」

「ハナ姉!」

 ハナとマキの叫び声が響く。

 ヒュウガはハナの背後に回り込み、右腕を後ろ側に捻って背中で固定させ、身動きを封じたのだ。

「俺と来い、ハナ。ジンオウと約束した。お前を〈仙〉の奴らから取り戻して、この戦を止めさせると」

 思いがけず真剣な声だった。

「…………。」

「ハナ姉……っ」

マキは迂闊に動けず、その場で成り行きを見守る。ひとつ救いなのは、ヒュウガがハナ姉を傷つけないと、分かっていることだ。

「無駄だ、ヒュウガ。あたしだけ取り戻したところで、戦は終わらないし、それどころか負ける。〈仙〉の大将は恐らく〈ルホウの寝床〉へ辿り着く。道しるべを持っているから」

「だからって、今から妹と二人で乗り込んでどうするつもりだよ」

ヒュウガの語気が荒くなる。

「戦闘慣れした異民族も一緒なんだろ?!それにお前をさらった男も……見てただろ?!アイツはヤバイ!」

「伊吹はもがいているだけだ。暗闇の中で、ずっとずっと長い間。今ならまだ、あの人も救える」

「……何、言ってんだ?ハナ……」

思わずヒュウガの手が緩みそうになり、その隙を逃すまいと、ハナの意識が背後に向く。

 が、それに気づいたヒュウガがすぐに、力を入れ直し、ぐいと上方に引いた。

「――っ」

ハナは不自然な体勢でつま先立ちになりながら、顔を歪めた。

「肩入れする気なら尚更だ。手の関節くらい外してでも、連れて帰る」

ヒュウガのひやりとした声が囁くと、次の瞬間、

「いい加減にしろ!」

ハナの怒鳴り声が、うわん、と岩壁の内側を震わせた。

 彼女の剣幕に、ヒュウガが面食らう。

 ハナはぐるりと体を捻って彼から離れようとしたが、すんでの所でヒュウガが手首を掴み直した。二人は向かい合って、行こうとするハナをヒュウガが引き留めたような形になった。

「……ハナ」

「手を放せ、ヒュウガ!早くしないと手遅れになる!〈ルホウの寝床〉が侵されては全てが終わりだと、分からないのか!」

ハナの怒りと焦りに満ちた声。

 ヒュウガはその瞳に、戸惑いを浮かべた。

「俺はただ、お前を守ろうと」

「だとしたら、やり方を激しく間違っている。許嫁と決まったあの時からずっと」

ぺいっとハナが手を振りほどき、今度は、ヒュウガも言葉を失った様子で、そのままに任せた。

 ハナが続けた。

「あんたはいつも、自分のことばっかりだ。それで〈風尾族〉が救えるか?ヒュウガ。状況をよく見ろ。あんたは元許嫁であって、今は許嫁でも何でもない。それと同じだ。状況は変わったんだ。

 あたしは戦を止める鍵ではなくなったんだよ」

「だ、だけどよ、ハナ!お前に死なれたくない!」

「だったら走れ!」

「?!」

「今すぐ〈風の戦士〉たちを解放し、この場所を伝えろ!それが今、お前だけにしかできないことだ!」

「…………。」

ヒュウガは目を見開いて固まっていたが、

 やがて、諦めたようにため息をついた。

 槍を拾って、二人に背を向ける。

「――ハナ、お前、惚れているのか」

「は?」

「伊吹とかいう男に」

ヒュウガが、抑揚のない声で尋ねる。ハナは質問自体に動揺する。

「今そんなこと、関係ない」

「答えてくれ!」

ハナの言葉を遮るように、ヒュウガの背中が震える。

 ハナは少し黙って、

「分からない」

小さな声で答えた。

「でも、惹かれてる。たぶん」

「……そうか。分かった」

「ヒュウガ……」

ヒュウガはバッと振り返ると、いつものように自信家な笑みを浮かべた。

「戦士たちは任せとけ!〈寝床〉は、テメエら巫女がしっかり踏ん張れよ!」

 そうして返事も聞かず、彼は地下道へと続くゆるいスロープの洞窟へ、風のように消えていった。

 ハナはヒュウガが行ってしまった方を、少し複雑そうに見つめていたが、

 心配げに覗き込むマキと目が合うと、表情を引き締めた。

「あたしらも、戦うよ」

 マキはその一言で、一気に覚悟と集中力を取り戻したような顔になった。

 うなずいて、二人は龍の門を駆け足でくぐる。

「――ハナ姉。私にも助けたい人がいる」

不意に、呟くように告白したマキを、ハナは少し驚いて見つめた後、表情を和らげた。

「そっか」

そして、前を向く。

「先回りするために、毒の道を選ぶよ。息は、平気?」

ハナの重い質問に、マキは予想済みのようにうなずいた。

「行くしかない」

第二節 龍風(るほう)を守る聖獣


 龍風(るほう)探知計と言えば何だかものすごい機械のような響きだが、実のところ、即席で作られたそれは、ごく単純な造りをしていた。

 ドーム状の鳥かごを利用して作られた探知計の中には、まず底に土が敷かれ、中央には小型の風見鶏が設置されている。

 ちょうど鳥かごを二分する高さの所に、金網がぴったりとはめ込まれ、三カ所に突き立つ小枝が、土と金網を繋ぐ。

 その小枝を、キノコアリたちがしきりに行き来し、真っ黒に塗りつぶしている。

 キノコアリは金網の上に辿り着くと、光る微生物を目印に、月光キノコを探し求める。

 しかし彼らはキノコを調達することなく、足や触覚に微生物を付着させては、下の土の中にこさえた巣の中に戻っていく。

 それもそのはず。

金網の上には確かに、月光キノコの傘がびっしりと並んでいたが、その上には薄く脱脂綿が貼られていたのだ。

 金網の下にぶら下がるキノコの足にも、濡らした脱脂綿が、靴下のようにひとつひとつ巻きつけられて、枯れない対策もばっちりだった。

 つまり、キノコアリはひたすら、キノコの傘の上の脱脂綿に付着した、発光バクテリアの掃除をさせられているというわけだ。

 キノコアリたちが延々掃除を続けてくれるおかげで、月光キノコに吸い寄せられた発光バクテリアは、すぐに運ばれて消えていく。月光キノコに光が強く宿れば宿るほど、発光バクテリアの密度が濃い方へと、歩を進めていることになるのだ。

 風見鶏が風の吹く方向を大まかに示し、月光キノコの光具合で道を選別する。

そういう仕組みだ。

 一行は、龍風(るほう)探知計を掲げたラビットソン教授を先頭に、火穂伎命(ほほぎのみこと)、伊吹と続き、様子を見守るように、あとからアメリアがついてきていた。

 コールはさらにその後ろに付き従い、最後尾を残り一名のバロゼッタ兵が守る。

 闇の中、じっとりと濡れた風の吹く洞窟は、時折オオオオウと龍が唸るかのような風鳴りを起こした。

 目をぎらつかせていた火穂伎命(ほほぎのみこと)すらも、この異様な空気には、やはり緊張の色を浮かべている。

「さ、さて、どちらか……。」

 何度目かの呟きが、前方のラビットソン教授の口から漏れ出た。

 その広い空間には、縦横に穴が空いていた。

 しかし風見鶏の方向から、風は進行方向右端側のどれかだと知れる。

 二つほどに絞り、ラビットソン教授は探知計を掲げた。

 まず右側のひとつへ。

 キノコは薄い余韻の光を残すだけ。

 隣り合った左側のひとつ。

 ぽうっ……!

 とても外で見た光とは比べものにならないほど、脱脂綿の表面が緑色に染まった。

「こちらです」

 ラビットソン教授が進み、皆が続く。

 コールはふと不思議に思った。

 風は全ての穴から少しずつは吹き出しているはずなのに、なぜ、間違った道ではまったく月光キノコの反応が見られないのか?

 そして、通り過ぎようとする右側の穴にランプの灯りを差し込ませたとき、

「!」

 コールはぎょっとした。

 灯りに照らされた道の奥には、びっしりと白蛇のような生き物が、待ちかまえるかのようにうごめいていたのだ。


 シャアアッ!


 コールと目があった瞬間、鎌首をもたげた白蛇のような生き物は、黄色い眼光に尾を引きながら、コールの手首目がけて飛んできた。

「、危ない!」

 バロゼッタ兵がすんでの所で、コールの襟首を引き寄せる。

「うわあっ!」

 コールは尻餅をつき、

 白い影が、彼の頭を掠めながら、ぼろぼろとした灰に変わって消えた。

「?……消えた」

 呆然と宙を見つめる。

「こ、コールくん、大丈夫、ですか?」

 コールの叫び声で足を止めた教授が、駆け寄ってくる。

 コールがはい、とうなずき、教授、と蛇のぎっしり詰まった洞窟の中を示した。

「角のある白蛇とは……始めて見ました」

教授は興味深げに、片眼鏡の位置を直す。

「それより、どういうことでしょう。穴を出た途端、形を崩してしまうとは……それにこの臭い」

 灰から漂ってくる酸っぱい臭いに、コールは顔をしかめる。

「臭い……?吸わない方がいい」

ラビットソン教授が手を差し伸べるも、コールの目は未だ、洞窟の奥の白蛇たちに釘付けになっていた。

「……道を知らない者は、容赦なく襲われる。――まるで神話の世界です……。」

「そうですね。門番のような生き物だ」

教授はコールの興味に付き合いながらも、腕を掴んで立ち上がるよう促した。

「行きましょう」

「早うしろ」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の苛ついた声が前方から降りかかる。

「は、はい」

ラビットソン教授が慌てて答え、

 フンとアメリアが嘲るように鼻を鳴らす。

「あの王が知っているのではないか?その気色の悪い生き物の事は」

 恐らく答えられないであろう火穂伎命(ほほぎのみこと)の代わりに伊吹が、反射的に進み出た。

「一本角の生えた白蛇は、伝承では〈震皮(しんひ)〉という名で知られているが」

 答えた後で、

 伊吹も含めそこにいる全員が、はたと動きを止め、異民族同士、目を見合わせた。

 今、ラビットソン教授は通訳に入っていなかった。

 というのに、伊吹はこちらの言葉を解し、またこちらも、彼の言っている事が理解できた。

 まるで最初から、ひとつの言語を話していたみたいに。

「言葉が……通じる……?」

 信じられない現象。

 誰もが認めがたい様子で絶句する中、コールの声が小さく響く。

「どういうこと、でしょうか教授」

振られた教授が、不安げに薄毛を指先で触った。

「さあ、さすがの僕にも……。神が塔に雷(いかずち)を落とし、言語を分割させたという神話ならば有名ですが、まるで真反対ですね」

 何となく言った言葉だったが、その神話になじみのあるバロゼッタ側の人間だけが目を見開く。

「面白い」

アメリアが気丈に笑った。

「つまり〈ルホウ〉の力に、少なからず期待してもよいというわけだ。なあ、〈仙〉の大王(おおきみ)どの」

「あ、ああ。そうだな。言われずとも」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)は、アメリアほど早く順応したわけではなかったが、彼女につられるようにその口元に笑みを取り戻した。

「早うしろ、道案内の者。〝守る者〝が居るということは、〈ルホウの寝床〉は近いぞ!」

 調子を取り戻した火穂伎命(ほほぎのみこと)は、ラビットソン教授に命令する。

 気を利かせた伊吹が彼の元に駆け寄り、その背を押して前へ促した。

 棒立ちになっていた教授は、おかげでどうにか前進した。

 伊吹はその時、蛇の居る側の穴を見遣った。

 吸い込まれそうなぼうっとした暗闇の中、途端に幾対もの黄色い光がきらめいて、

「……っ」

確かにそれらは伊吹を狙っていた。

 瞬間、全身を縛り付けられたかのような錯覚を起こした。

 が、目をそらさずにじりじりと後ずさって、伊吹は何とか、眼光の呪縛から逃れたのだった。



 ******



 ハナとマキはある細い穴の前まで来ると、足を止め、顔を見合わせた。

 二人の表情には少なからず緊張が浮かび、その目に宿すのは命の賭けをする戦士のきらめき。

「紙に書いてあった秘詩、覚えてるな?」

ハナが確認し、マキはうなずく。

 二人は向かい合って、お互いの脈を取るかのように両手を繋いだ。

「ひと」ハナの声が響く。


「ふた」続いて、マキの声。

「みい」


「よう」

二人は呼吸を合わせるようにして、ゆっくりと交互に、数えを口にする。


「いい」「むう」


「なな」「や」


「ここのたり」


「ふるべゆらゆらとふるべや」


 呼吸と心拍数をそろえる事に成功すると、片手を放し、二人は奥へと目を向けた。

 暗闇の中から、シューと微かな音が、重なるようにして、いくつも聞こえてくる。

 入り口に立つ二人の存在に気づき、様子をうかがっているかのような音だ。

 二人は目で合図し合うと、声を重ねて詠誦(えいしょう)した。

「畏(かしこ)くも

 龍風(るほう)守りし天(あめ)のくちなわ。

 此(ここ)に在るはみなかたの

 神の御力(みちから)授かりし子ら。

蒼き瞳に縁(えにし)あらば

 暗き闇路も迷わざらまし。

光明(こうみょう)以て導き給え。

 御風(ミホウ)の守りを今一度、我らのために緩めたまえ」

 詩を詠む内には、シューという音が消えていった。

 そして何の反応もないまま、穴はただ沈黙し、

 ハナとマキは、それを合図と受け取った。

 二人は息のリズムを崩さずに、薄く薄く、溜め込むというよりは身体中を満たすがごとく、空気を吸った。

 そしてついに、〈震皮(しんひ)〉のうごめく道へと足を踏み入れる。


 一歩目は、ゆっくりと。

 二歩目は、確かめるように。

 三歩からは、少しだけ早足に。


 二秒後には、二人は手を繋いだまま、地を蹴って走っていた。

 〈シンヒ〉たちは、両側へと身を寄せて道を空け、行く先を示すかのごとく、不気味に黄色い眼光を放っていた。

 おかげで、灯りを持たずとも、二人は迷わず先を急ぐ事ができた。

 それがつまり、〝震皮(しんひ)たちの許可を得た〟ということに他ならない。

 しかし、奥に行くにつれて、酸っぱい臭いは着実に濃くなっていった。

 震皮(しんひ)のツノの先から霧のように、常に神経毒が吹き出しているのだ。

 特殊な呼吸法は巫女の必須技術。

 それを知らなければ、どっちみち無事に通り抜ける資格など無い、とでも言っているかのようだ。

 呼吸法自体に不安はない。

 激しく驚いたりしない限り、正巫女様から教わってきたこの方法を、崩す事はありえない。

 マキには平素なら、ここを通り抜けるだけの自信があった。


 ただ――。

 今回は少しだけ、事情が違っていた。


 傷口の焼けただれるような痛みが、じわじわと彼女を襲っていたのだ。

 布で覆ってはいるものの、毒霧はいつしか布に浸透し、肌に辿り着いてしまっていた。

 ずっと無視してきたが、その痛みはどんどんひどくなる一方。

 だがここで呼吸を乱せば、数分の内には動けなくなる。

 そしてあとは、震皮(しんひ)のエサになるだけだ。

 マキはただひたすら、傷の痛みを無視する事に務めた。

 心の中で気合いを入れ直す事すらできない。

 顔を歪める余裕もない。

 そんな事をすれば、ハナ姉との間に心拍数や呼吸のずれが生じ、呼気はすぐに底をつく。

 ハナは無心を保ちながらも、次第にマキの歩幅が安定を欠き始めた事に、早い段階で気づいていた。

 しかしだからといって、どうともできないのだ。

 頭の隅で、どっちを取るか計算する。


 マキに合わせて足を遅めるか。

 それともこのまま走り抜けて、なるべく短時間でここを抜けるようにするべきか。


 どちらもいい考えには思えなかった。

 時間がかかれば傷口から、マキはハナより早く毒にやられるだろうし、

 このままの駆け足に、マキが痛みをこらえながらついてこられるかも怪しい。

 思わずぎゅっと、繋いだ手に力を込めると、

 マキが握り返してきた。


 ――あたしの方が、弱気に。


 その事に気づくと同時に、握り返されたそれだけで、ハナの心には勇気が湧いた。


 マキはまだ大丈夫。

 信じろ。


 第三節 龍を手にせしめんとき


 浅い水たまりが、面積の半分を占めている場所だった。

 天井は果てしなく高いわけでも、首が伸ばせぬほど低いわけでもなく、ほとんどの鍾乳石は頭上より高い位置で尖端を結んでいる。

 緩やかなカーブを描いて延びる回廊のようなその空間は、大量の発光バクテリアにより、殊に水たまりを、強く、怪しく、光で浮かび上がらせていた。

 その静かな水面が、不意に無粋に歪められ、人の足がばたばたと、慌ただしく水をかき混ぜた。

 銅剣を抜いた伊吹だった。

 いつかのような、周りを一瞬で冷やすような殺気が、彼にまとわりついていた。

 平時涼やかさを称える瞳も、今はただ狂気にも似た暗い光だけを放っている。

 彼は無表情で、目だけに鋭い感情を集めながら、壁を背にその人物と対峙した。

 彼の黒い瞳には、明るい薄緑の光の中黒く浮かび上がる、スラリとした人物の姿が映り込む。

「言葉が通じるというのはまったく不便なものだな」

 サーベルを抜いたその人物――アメリア大佐が、口元には笑みを称え、眉間にはしわを寄せた複雑極まる表情で、やれやれと言わんばかりに声を上げる。

 彼女の背後には、大王(おおきみ)、火穂伎命(ほほぎのみこと)が、その装束を無惨にも袈裟切りに引き裂かれた姿で、立っていた。

 破かれた布の隙間からは、深く斬りつけられた木板が覗く。

「惜しかったのう、伊吹」

火穂伎命(ほほぎのみこと)の嘲りに満ちた声が降りかかるも、今の伊吹にはアメリアから目をそらす余裕がない。

 先のアメリアの言葉は、伊吹にとってはもっともだった。本来なら、火穂伎命(ほほぎのみこと)がとっさに何かを言ったところで、それはラビットソン教授のワンクッションを置いてからでなければバロゼッタ側には伝わらない。

 それが訳されてアメリアの耳に届く時には、伊吹はすかさずの第二刀で、火穂伎命(ほほぎのみこと)の命を絶てていたはずだった。

 だが、第一刀が、予想外の隠れた鎧に防がれたとき、火穂伎命(ほほぎのみこと)がアメリアに呼びかけた言葉は、この特異な状況下、暇を与えず届いてしまった。

『死んで困るのはそなたらであるぞ、異民族!我が無事戻らねば、あの巨大船は日が沈むまでには破壊される手はずなのだからな』

 その言葉を聞いて、傍観を決め込む彼女ではない。

 アメリアの中には、常に幾方もの戦局が想定されている。何がどう転んで、不利益被るはめにならないとも、限らないのだ。

 だから今現在の所は、火穂伎命(ほほぎのみこと)を生かす事で、「保険」をかけておく事にしたのだ。

 岩壁や、垂れ下がる鍾乳石の濡れた表面を、びっしりと覆い尽くす発光性の微生物が、吹きすさぶ風に飛ばされては、空中で光を失って、姿を消していく。

 伊吹の足下に水滴とともに付着したそれらも、少しでも乾くと光を落とす。


 ずり。


 伊吹の足が交差するように横へと動き、同時に足場の滑り具合を感覚で掴む。アメリアはそれを、目だけで追う。

 この空間へ来たとき、伊吹にとって「今しかない」という決定的な隙が、火穂伎命(ほほぎのみこと)に見えた瞬間があった。

 だから剣を抜いた。

 このところ、やけに影のような光を纏う銅剣を。

 しかし火穂伎命(ほほぎのみこと)も、やすやすと伊吹に首を預けているわけではなかった、という訳だ。

 それは何とも滑稽(こっけい)な重ね着で証明された。本人が得意げなのがまた、その滑稽さに拍車をかけている。

 息が詰まるような湿度の風が、絶えず奥から吹き抜けていく。

 汗か水滴か分からないものが、伊吹の首筋をつうと滑った。

「生かしてやるのも、ここまでだな、伊吹」

 恐らく対峙する二人の耳には入っていないが、火穂伎命(ほほぎのみこと)がくっくっと笑い声を上げる。

「そのまま大人しく牙を抜かれておれば、生かしておいてやったものを」

 恩着せがましくそんな事をのたまう。伊吹に牙を剥かせようとあらゆる方法で虐げてきたのは自分だというのに。

 滴の一粒が、二人の間に垂れ下がる巨大な鍾乳石の表面を滑り、先端まで辿り着くと、じわりと体積を膨らませた後、

 宙へと身を投げた。

 落ちていく滴は、そのまま伊吹の構える銅剣に、着地するつもりでいた。

 しかしその一粒は、銅剣に触れることなく、ぽちゃっとかわいらしい音を立てて、水たまりへ直行することとなった。

 同じ瞬間、水たまりの向こうで、剣がぶつかる音が響き、火花が散った。

 例によって、伊吹が急激に間合いを詰め、アメリアに迫ったのだ。

「っ、」

一瞬だけ出遅れた様子のアメリアは、しかしすんでの所でサーベルをかざし、伊吹の刃を受け止めていた。

 顔の前で斜めに構えたサーベルの刃に左手を添えて、伊吹の勢いを打ち消す。

 二本の交差する刃物を挟んで、二人は鼻先でにらみ合う。


 そして何を合図にか、はじかれたようにお互い背後に飛び退き、距離を取る。

洞窟内は、常に暖かい〈龍風(るほう)〉に満たされているというのに、この空間だけは異様な温度を皆に感じさせていた。

 伊吹を見れば冷気が体を襲い、アメリアを見れば灼熱の炎に包まれたかのような感触がする。

 二つの相対する種類の殺気がぶつかり合えば、そこには嵐が生じる。

 アメリアが仕切り直すかのように、サーベルを目の前に垂直に掲げ、ぶんっと右下に振り払った。

 伊吹は銅剣を握り直し、他の人が瞬きをする間に、再びアメリアとの距離を一気に詰めていた。

 伊吹のとる間合いはいつも、銅剣の長さに対してひどく離れすぎていた。しかしそれこそが、彼の強み。

 相手は無意識に、その距離からどのくらいで間合いを詰められるか、計算する。たいていは、己の経験を元に。

 だから、突然腰を低くし、予想を上回る速さで目の前に現れる伊吹に、反応できないのだ。

 剣を抜く手は自然と一寸遅れ、それが伊吹の斬り込みを許す。

 だがアメリアは、伊吹の動きを一度で見切っていた。

 彼女はくるりと体を回転させて、伊吹の刃の流れに沿うかのようにして離れ、

 そして、己の間合いに持ち込んだ。

 すかさず繰り出されたアメリアのなぎ払いを、伊吹がすれすれで頭を下げて避ける。

 ぱさ、と右のまげ紐が切れて、長い髪の先が水面に浸かる。

 次の瞬間、微かな気配を感じて伊吹の銅剣が頭の上に構えられると、びりびりと腕に電流の走るような衝撃が走った。

「ふん」

 体重をかけてサーベルを振り下ろしたアメリアの、鼻を鳴らす音が聞こえ、

 伊吹が剣越しにそれを見上げたとき、

「しねえええええ!」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の声が急激に近づいた。

 ガチャン、とアメリアのサーベルが水面を切って地面にぶつかる音がし、

 ほぼ同時に火穂伎命(ほほぎのみこと)の構えた銅剣が伊吹の脇腹を狙って突き出される。

「!」

 険しい顔で分かりやすい攻撃から逃れた伊吹の前に、空を切ってつんのめった火穂伎命(ほほぎのみこと)の首がさらされる。

 伊吹の瞳がカッと閃光のように意志を宿したのが、誰の目にも見て取れた。


 間髪入れず、彼は火穂伎命(ほほぎのみこと)の剣を握る手を踏みしだき、

「うああっ」

 思わず剣を放した火穂伎命(ほほぎのみこと)の肩を膝で押さえ込むと、素早い動きで銅剣をその首根っこにあてがう。

「たっ助け……」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の声が情けなく宙に消え、

 伊吹が剣に力を込め、いざ引き斬らんとしたとき、

 アメリアの蹴りがドッ、と伊吹の後頭部に、強い衝撃を与えた。

「ぐ、はっ……!」

 咳き込みと悲鳴を混ぜたような声が漏れ、宙に見開いた瞳孔から、殺伐とした光がフッと消える。

 伊吹は大きく前に上体を突き出した後、派手な水しぶきを立てて、火穂伎命(ほほぎのみこと)の傍らに顔から倒れ込んだ。

 頭が岩に当たったせいか、赤い血が緑に光る水の中に細く流れ出し、うやむやに溶け出していく。

 倒れ込んだ伊吹は、別に意識を失ったわけではなかった様子で、ぴくりと動き、体を支えようと左手を地面に突き立てた。

 しかし水面から上げようとした顔は、火穂伎命(ほほぎのみこと)の手のひらによって押しつけられる。

「この!この!奴隷が!卑しい負け犬めがぁ!」

先ほどまでの情けない様子はどこへやら、ぶち切れた火穂伎命(ほほぎのみこと)ががんがんと、伊吹の頭を掴んで、しつこく地面に叩きつけた。

 水たまりの深さはくるぶしない程度だが、これではろくに息もできず、途中何度か、ガホッと大きな気泡が水面を泡立たせた。

「頭は冷えたか?!のお伊吹?!いや足らんなあ!そなたは息絶えぬでもせねば頭を冷やす事などできなかろう!」

 すでに伊吹の意識が飛んでいる事に、アメリアは気づいたが、火穂伎命(ほほぎのみこと)は気づいているのかどうだか知れない。

 がん、がん、がんと岩と頭蓋骨の当たる音が響く。

 「……コール助手、ラビットソン教授とともにこの先を見て来い」

 アメリアが、遠巻きに身をすくめていたコールに指示すると、青ざめた表情の彼は急いてラビットソン教授の方へと向かった。

 「大王(おおきみ)ホホギノミコト」

 アメリアが火穂伎命(ほほぎのみこと)に声をかけると、顔を真っ赤に目をつり上げた火穂伎命(ほほぎのみこと)が、いったん手を止め、アメリアを見上げた。

「とどめを刺したらどうだ?もうこれは意識がない。いくら痛めつけようと貴殿の体力の無駄だ」

 アメリアがもっともな事を言うと、火穂伎命(ほほぎのみこと)は物足りないように頬肉を引きつらせた後、

「――つまらん。あっけないのう」

吐き捨てて、水に浸かった己の銅剣を取り上げた。両手で柄を握り、伊吹の背に垂直にかざす。

 その表情には、やっといつもの、主に誰かに処刑宣告したときに見せる、優越感と爽快感の入り交じった笑みを取り戻した。

「我直々に殺してやるのだ。そなたの親妹すら叶わなかった光栄であるぞ」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の目が残酷に煌めき。

 その剣が伊吹の背中に突き立てられようとしたとき。

 「大佐!大佐!来てください!」

 滑りそうになりながら、コールが進行方向から舞い戻ってきて、ただならぬ声を上げた。

「〈ルホウの寝床〉が見つかりました!」

「――!」

「まことか!」

 アメリアの横でがばっと立ち上がった火穂伎命(ほほぎのみこと)が、鼻息荒く声を上げる。

 伊吹のとどめのことなど頭から吹っ飛んだ彼は、コールの返事も待たずにその横をすり抜けていった。

「大佐」

 コールは火穂伎命(ほほぎのみこと)に突き飛ばされそうになりながらも、慌てた瞳をアメリアに向ける。

「ああ」

アメリアはそれだけ返事をして、コールの方へと闊歩した。バロゼッタ兵一人もきびきびと後へ続く。

 今までいた空間を抜け、少しだけ狭い隙間をくぐった先、それは姿を現した。

 どんと威圧感を伴って客を出迎えるのは、入り口で見たのとまったく同じ造りの、龍の門だ。

 その空洞は、バロゼッタの古城が一軒まるっと収まりそうなほど大きい。

 発光バクテリアが岩壁一面に付着して、絶えずチカチカと光を灯したり消したり繰り返している。

 龍一匹一匹がその光の揺らめきを受けてうごめき、外と同様、生きているかのような錯覚を与える。

 ラビットソン教授の提げた龍風(るほう)探知計に至っては、発光バクテリアを集める月光キノコの性質上、もはやカゴの輪郭がぼやけるほどの光を放っている。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)が門の開かれたところを見つけると転げるように直行し、アメリアはその後を大股でついていく。

 一方ラビットソン教授は手帳を取り出して夢中で門をスケッチし始め、コールは目を輝かせながら透かし彫りの表面をなでた。

 バロゼッタ兵は己の目が信じられない様子で立ちつくしていたが、はたと気づくと、慌てて大佐の後を追う。

 透かし彫りにすっかり気を取られていたコールだが、その隙間から見えた向こう側の景色に気づけば、口をぽかんと開けて、ラビットソン教授の肩を叩く。

 教授もようやく目を上げ、そして言葉を失った。

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトンと、風車の中で聞こえるような規則正しい音が、風の音に混じって耳に入っていたのを、急激に意識した。

 龍の透かし彫りで仕切られた向こうには、地面に空いた巨大な穴と、その上にフタのように取り付けられた、幾つもの風車。

 そして、壁面を埋め尽くすほどの木の歯車が、軋む音を響かせながら、すべてを連動させて回っていたのだ。



 ******



 マキとハナは、最後の一歩を大きく踏み込んで、滑り込むように、〈震皮(しんひ)〉の道を抜けた。

「はあっ」

 ハナは地面に手をつき、大きく息をついた。しびれが取れるときのようなじんわりとした震えとともに、呼気が整ってくる。

 くらりと立ちくらみに似ためまいを乗り越えてから、隣のマキに目をやる。

「…………マキ!」

 ハナは慌てて呼びかけた。

 マキの呼吸が戻っていない。

 ハナと同じく地面に突っ伏していたマキは、肘をついて上半身を支えた状態で、目を前に向けたまま、ほとんど息をしない。

「マキ、呼吸を戻せ!」

 ハナがぐいと顔をこちらに向けさせる。

 マキの蒼い瞳が、戸惑ったように揺れた。

「息を吸って!」

ハナの焦燥した声が、狭い空間に響くが。

 ハナを見上げたマキの瞳が、言っていた。


 ――息って、どうやって吸うんだっけ。


 マキはほとんど息を止めている。

 その事に気づいたハナは、心臓がひゅっと冷えるのを感じた。

「吸うの、マキ!吸って!」

瞳はただ、どうすればいいか分からぬように揺れるだけ。

 マキの顔が歪む。

「…………っ」

 声にならない声を上げて、胸を押さえてドッ、と倒れ込む。

 息を制限し続けて、心臓に負担がかかっているのだ。痛みが走るのだろう。

 それでも息の仕方を思い出せずにいる。

 息を吸って、吐く。

 たったそれだけの感覚を。

 マキは、息苦しさに気を遠くしながら、必死で思い出そうとしていた。


 けれど、感覚が。

 感覚が思い出せない。


 どこをどう使えば、息を吸えるのか?

 今まで呼吸するとき、どうやっていたっけ?


 口を開いてみるけれど、のどのあたりで吐き出したい何かは止まり、咳き込むことすらできずに、ただびくりと体をけいれんさせただけだった。

「マキ……」

 ハナもハナで、どうすべきか必死に考えを巡らせる。


 吸い方が分からない?

 ならば、どうすればいい。


 はたと思い当たって、ハナはマキを起こすと、岩壁に両手をつかせた。

「マキ。何も考えなくていいから、衝撃に備えろ」

 マキの瞳が、少し戸惑った後、覚悟するような色を帯びる。

 ハナは、

「ふぅーっ」

と深く息を吐いて、マキの背中、肩甲骨の間を狙って、するどい蹴りを入れた。


 ドゴッ。


 強い衝撃が背中を襲い、伸ばしていた両腕がぐいと曲がって、岩壁が顔面の間近に迫る。

 大きくのけぞったマキは、あごを天に向けて、

「――かはっ!」

 心臓が揺れそうな程の衝撃を、咳き込みに変えてのどの奥から吐き出していた。

「ゲホッげほっげほっ……」

 そのまま崩れ落ちて、地面に向かって咳き込む。

 咳き込みの反動で、息が吸われた。

 マキの背をさするハナに、制止するように手のひらが向けられた。


 もう、平気。


 咳き込みがやむと、マキはぐったりと仰向けに倒れ込む。大きく胸を上下させて、はあーっ、はあーっ、と、ゆっくり息を吸って吐いた。

「マキ」

 ハナが声をかけた。

 ハナは、マキがすぐには動けない状態であることに、気づいていた。

「姉ちゃん、先に行ってくるから。動けるようになったらおいで」

「…………、!」

 マキが何かを訴えるように、寝っ転がったまま首を振る。

 ハナはマキの額にそっと手を当て、

「よく頑張ったな。またあとで」

 言い残すなり、すっくと立ち上がって、前方に空いた四つんばいでしか進めないような大きさの穴によじ登って入っていった。

 マキは、慌てた色を浮かべて立ち上がろうと腕に力を入れるも、その力は胴体と連動することなく、やけに重たい体はびくともしなかった。

 神経毒の影響だ。

 ただでさえ傷からマキの体に入り込んでいた神経毒が、呼吸の流れを戻したせいで、一気に暴れ始めたのだ。


 くそ……。


 マキはのどの奥で叫んだ。

 けれど、重たい体は、彼女の意識をどんどん遠のかせていった。



 ******



 這いつくばって穴を進んだ先で、ハナは、行き止まりになって腕を止めた。

 木製の羽六枚を放射状に組み立てた、比較的小型の風車がはまっていた。

 時期的に、この場所の風車が動いていないのは知っていた。

 彼女は手を伸ばし、枠ごとそれを取り外す。

 出た場所は、〈ルホウの寝床〉を見下ろせる場所――、歯車に覆われた壁の一カ所だった。



******



 森を南へと下った先にある、岩肌のむき出しになったあり地獄状の盆地。

 そこだけ植物はぷっつりと途切れて、朽ち果てた倒木がごろごろしている。

 〈風の戦士〉たちが捕縛されているのは、森の中に突如として現れる不自然な荒れ地だった。

 〝あり地獄状〟とはいっても、その面積自体が広いため、急斜面を下り降りた底には、百人弱の人々が集っても余裕の広さが確保されている。

 遠くから見れば、ちょうど地面にお椀が埋め込まれたかのような形状をしていた。

 斜面のふちには、急ごしらえの木杭が内側に向かって斜めに突き立てられ、さらに杭同士を強度の弱い紐でゆるりと繋ぎ、逃亡の隙をみじんも与えない工夫が施されていた。

 椀の底。

 余裕の広さがあるにもかかわらず、戦士たちは一人の老婆を囲って集っていた。

 子どもたちは親に寄り添うように抱かれ、親を失った子どもたちは友に寄り添う。

 そしてここにいる彼ら全員の拠り所が、倒木に腰掛けるその老婆なのだ。

 彼らはざわついてもいなかったが、沈黙してもいなかった。

「ヤエ婆さま」

 話し声の流れのなか、誰かが深刻な表情を老婆に向ける。

「なぜ我々は生かされているのですか?」

皆の注意が、質問した若い青年へと何となく向き、それから答えを聞くべく、ヤエ婆と呼ばれた人物に向く。

 ヤエ婆が太く編んだ白髪の三つ編みを揺らしながら、その青年へと目を向けた。

 遠浅の海の色、と言うにはいささか色彩を薄めすぎた瞳が、沈黙で先を促す。

 青年ではなく、他の大人が、便乗するように「そうだ」と声を上げた。

「確かに〈風尾族〉との戦闘中、命を落とした戦士たちはいる。だが、ほとんどはこうして捕縛の形を取られ、生かされている。後から来た〈仙〉兵ですら、私たちを殺さなかった。こんな手の込んだ場所につれてきて……」

「食料だって、最低限は投げ入れてきたわ」

 違う誰かが後方の地面を指さす。

 そこには空っぽの大きな編みかごが五つ、木の実の殻をあたりに散らかして転がっていた。

 今も、上を見上げれば、六人ほどの〈仙〉兵が見張りとして、あぐらを掻いて暇そうに雑談している。

「皆の者。〈風の戦士〉よ。心を澄ませよ」

 ようやく、ヤエ婆が口を開いた。

 皆の声がぴたりと止まる。

 ヤエ婆はぐるりと戦士たちを見渡して、脇に置いていた竹の杖を持ち上げると、天に向けた。

「先ほどから、風が吹いておる。かすかに」

「なに?」

「風が?」

「なぜここに」

 何人かは驚きの声を上げ、それ以外の者たちは、それを感じ取ろうとするかのように、ただ黙り込む。

 やや間をおいて、次に発したヤエ婆の声は、ひどく真剣味を帯びていた。

「私が正巫女として修行を積んだのち、正巫女ではなく長となる道を辿ったことは、周知の通りじゃ」

 遠回しな物言いだが、それが逆に、戦士たちには、ヤエ婆がよほどのことを伝えようとしていることが、びしびしと感じられた。

「巫女が学ぶ特殊な呼吸法を、今から皆に教えようと思う――」

 今度は、全員が全員、言葉を失った。

 ヤエ婆は、一言一言を聴衆の心に刻み込もうとでもするかのように、ゆっくりと、言葉を紡いだ。

「皆で生き残るためじゃ。よいか、心して聞くがよい。まずは、隣の者と手を――」



 ******



 「見てください、大佐、教授」

コールが声を上げ、全員の視線がそちらへ向いた。

 コールは入って左奥――恐らく東側と思われる方に立っていた。

 彼の前には、祭壇らしき大きな石の台が鎮座している。

「どうした、コール助手」

闊歩していくアメリアの前を、大王(おおきみ)火穂伎命(ほほぎのみこと)がびゅんと通り過ぎ、コールを押しのけるようにして台にしがみついた。

「これだ!これが〈ルホウ〉を操る箱!」

「……制御板か」

 アメリアが横から覗き込む。

「分かるか、教授」

そう声をかけて脇に避け、ラビットソン教授にそれが見えるようにした。

「まさか、こんな所にこんな精巧な物が……」

制御板をみるなり、ラビットソン教授は自分の目を疑った様子で声を漏らす。

 祭壇に見えた物は、石で組み立てた箱だった。

 上部には文字のような刻みがぎっしりと施され、五百文字ほどのそれらひとつひとつに、木製のレバーのような物が、石版下の空洞から突き出ている。

 その小さいレバーは、押し倒すタイプのスイッチに近い。

 だがこの制御板の恐ろしいところは、レバーを倒す向きが、必ずしも一方向ではない事だ。

 五百個のレバーは、それぞれの文字の形に沿って、動かせるようになっていた。

 文字の形も様々で、ひとつも同じ形状の物は見当たらない。

 つまりこの制御板は、下手したら何百万通りもの形態を持ち合わせている事になる。

「なんと書いてある」

 アメリアが制御板をにらみ付けながら、誰にともなく尋ねる。

 これに手っ取り早く答えられるのは一人しかいないため、火穂伎命(ほほぎのみこと)が制御板をなで回しながら口を開いた。

「これは我々の使っている文字ではない。とてつもなく古い文字――おそらくは〈神の文字〉だ」

「操作の仕方は分かるのか」

その問いには、ラビットソン教授が口を開いた。

「これが、この土地……もしくは世界中に、風を送り込むための品だとするなら、あの巨大な歯車に描かれた数字と対応するはずです」

 ラビットソン教授の目が上方にそらされる。

 目線の先にあったのは、この部屋の中で歯車の主ともいうべき威圧感を持った、三段重ねの時計のようなもの。

 その歯車にだけは、方位計のそれとそっくりな、この国の数字文字が刻まれている。

 がちん、がちんと音を立てて、三段の数字計は、一番上の一文字だけしか書かれてない一枚を残し、二枚で規則正しく回っている。

「――なるほど」

 意外にも火穂伎命(ほほぎのみこと)が何かに辿り着いた様子だ。その声は笑い声のようにも聞こえた。

「思い出したぞ。伊吹だ」

「何?」

「えっ?」

「……?」

アメリアとコールが短く声を上げ、ラビットソン教授はスケッチを始めていた手を止めた。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)は、ぶつぶつと呟くように言った。

「我が滅ぼした伊吹のくにだ。あやつのくにの古墳で、この文字が使われていた。持ち出させた際に、宝物(ほうもつ)や土偶(どぐう)に刻まれているのを、見たことがある……」

 そうして、ぎりっと歯を軋らせた。

「白蛇の伝承も幼きあやつから聞いたのだ!あやつこそ、もっとも早く殺すべきであった!」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)はきびすを返した。

「どこへ行く」

「王の座は渡さぬ!」

「殺すなら、ここへ来て解読させてからにしろ」

「こ、コールくん、いいかい?」

「はい、教授」

「これ、さ。南国の島で見た地図遺跡の並びに見えないかい?」

 ラビットソン教授の一言で、全員の動きがぴたりと止まった。


第四節 暴走


 ラビットソン教授の一言で、全員の動きがぴたりと止まった、

 その瞬間だった。

 ガタコンッ、と壁の風車のひとつが枠ごと外れて、地面に激突したのは。

 風の音と他の歯車の稼動音に紛れて、一度は誰もが聞き逃した。

 だが続けざまに、西側の壁から人影が飛び出して来れば、さすがに気づく。

 その人物は、五メートルほどの高さのある穴から、両腕をまっすぐ前に突き出した格好で、まるで水にでも飛び込もうとするかのように、頭から宙へと躍り出ていた。

 両手のひらが先に地面に触れれば、素早く首を内側に曲げ、ごく自然な動きで前転へと移行し、全ての衝撃をしなやかに受け流す。そこから立ち上がりに移るのも、流れるような動作で完了された。

 二秒の内に、同じフィールドに立つこととなった蒼瞳の娘――ハナに、その瞬間、アメリアの拳銃の銃口が向けられる。

 ハナは間髪入れずに地面を蹴った。

 狙う先は当然、火穂伎命(ほほぎのみこと)。

 最も門に近い位置に立つその男は、同時に最もハナから近い位置にいることになる。

 アメリアは少し離れたところから、両手で構えた銃ごしに、ハナの動きを追った。

息を止めて、来たる一瞬を狙う。


 ――。


 振り返った火穂伎命(ほほぎのみこと)の一歩前で、ハナの前進が止まる。

 アメリアの人指し指に、ぐっと力が入った。


 ――かちん。


 やけにかわいらしい音を響かせただけで、拳銃は沈黙した。

「、湿気で火薬がやられたか」

 すぐに原因を察し、アメリアが忌々しげに呟いたとき。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)が、抜いた剣をヒュッと左から右へ滑らせた。

 そしてそこに一瞬前まであったはずの巫女の首は、こつぜんと消えていた。

 ガッ、と横殴りの衝撃をふくらはぎに感じれば、火穂伎命(ほほぎのみこと)は思わずよろける。

 かがんだハナが蹴飛ばしたのだ。

「巫女め」

火穂伎命(ほほぎのみこと)は吐き捨てながらも、すぐに右足を支えに出し、剣を今度は縦に、下方のハナめがけて振り下ろす。

 ハナの凛とした瞳が、剣を捉え、

 ざんっ――。

 若干上体をずらすことでそれを交わせば。

 片足を軸に回転し、たちまちのうちに、隙のできた火穂伎命(ほほぎのみこと)の背後を取った。

 途中から、成り行きを見守ることにしていたアメリアの目にはその時、ハナが火穂伎命(ほほぎのみこと)の膝の裏狙って、思いっきり体当たりする様子が映っていた。

 がくんと両膝を地面に打ち付けた火穂伎命(ほほぎのみこと)は、一瞬何が起きたか分からない顔を浮かべ、その後、

「――――っう」

 両膝の関節に容赦なく響いた痛みに、声も出せずにうずくまる。

 すかさずハナの手が、火穂伎命(ほほぎのみこと)の力の抜けた手から剣を奪い取ると、

 キィン――!

 突進してきたアメリアのサーベルを、ぎりぎりで受け止めた。

 その衝撃に耐えきれず、すぐにハナの方から飛び退く。

 素材が銅である火穂伎命(ほほぎのみこと)の剣は、当然のように、刃こぼれを起こした。

 アメリアは倒れ込んでいる火穂伎命(ほほぎのみこと)を意にも介さずまたいで通り過ぎると、ハナから一切目は逸らさず、サーベルの刃先は右斜め下に向けて、カッカッカッと、真正面から近づいてきた。

 ある距離まで近づくと、サッと二人の間の空気が張り詰めた。

 アメリアが大きく一歩を踏み込んで、その伸びやかな第二刀がハナに迫った。

 鋼鉄製のサーベルが、地面と平行に、鋭く弧を描いて、宙を切り裂いた。

 ガッ、と、ハナがとっさに出した銅剣にその刃が触れ、そのまま通り過ぎ、


 パキン


 あっけなく、まるでただの木の枝みたいに、ハナの持つ剣は目の前で真っ二つに折れた。その切っ先が、力を失ったように地面に落ちる。

「なっ……」

 自分の目が信じられない様子のハナは、動揺の色をはっきりと浮かべる。

「逃げればよかったものを」

 アメリアの言葉が降りかかる。

 ハナは、一瞬こそ気を取られたものの、すぐに切り替えて、剣をパシッと逆手に持ち替えた。

 無論、接近戦で扱いやすいように、だ。

 半分の長さになろうとも、これが刃物であることには変わりない。

ぐん、と姿勢を低くして突撃しようとしたとき、

 すっかり気を逸らしてしまっていた火穂伎命(ほほぎのみこと)の手が、ハナの足首をぐっと掴んだ。

「!」

 いつのまにか地を這いずって、ハナの足下に近づいていたのだ。

 バランスを崩したハナがそのまま地面に突っ伏し、

「殺せ!」

火穂伎命(ほほぎのみこと)の罵声にも似た声援が飛ぶ。

 アメリアはあまり気分の良くなさそうな表情を浮かべながらも、サーベルの刃を、ためらいもなくハナの首元へ振り下ろした。

刹那、

「大佐ッ!」

コールの大声とともに、

〈龍風(るほう)探知計〉がアメリアの背後目がけて飛んできた。

 コールの声が無かったら、鳥かごはアメリアの右肩にぶつかっていたことだろう。

 すんでの所で振り返ったアメリアは、飛んできた〈龍風(るほう)探知計〉を、サーベルを持った手でなぎ払った。

 ゴトッ、とそれが地面に落ちたとき、向こうでは、バロゼッタ兵が、コールを勢いよく地面に抑えつけていた。

「何やってる!」

後ろに手首を捻って身動き取れなくして、バロゼッタ兵はコールを怒鳴りつける。

「その人を殺せば、俺たちは二度とここから出られませんよ、大佐!」

コールは首だけ前に向けて、同じ大声で叫んだ。

「そのまま押さえてろ。綱を渡せ」

思わぬ身内からの妨害だったが、アメリアは大して動揺も見せぬまま、殺し損ねたハナの背を素早く踏みつけながら、バロゼッタ兵に指示する。

 投げられた綱は少し手前で地面に落ちたが、そのまま滑って近くへ届いた。

 〈龍風(るほう)探知計〉は、アメリアの目の前をごろごろと転がっていって、中央部に空いた風の吹き出す穴のふちに辿り着くと、ぐらりと一呼吸置いた後、底へと消えていった。

 アメリアはそれを見ようともしなかった。

 地面に激突した時点で、もろい作りの〈龍風(るほう)探知計〉は、土と金網と月光キノコが、中でめちゃくちゃになっていたのだ。

「命拾いしたな、巫女」

その手から折れた銅剣を奪い、適当に放って、後ろ手に縛って起き上がらせながら、アメリアが淡々と声をかけた。

 一人制御板とにらめっこしていたラビットソン教授が、「解けたぞ」と呟いたのは、その時だった。

 彼はこの騒ぎに、まったくの無頓着――というか、気づいてすらいなかった。

 なぜなら開いた手帳片手に、彼は制御板から目を離さぬまま、こう言ったからだ。

「わ、分かりましたよ、コール君!ここへ来て、僕の補助を」

「えっ」

コールが思わず、体を起こしそうになるが、それはバロゼッタ兵にて止められる。

「教授、コール助手は今、手が放せません」

厳しい声で、表向き教授に向けられた言葉は、コールへのけん制だ。

 ラビットソン教授が振り向きもしない内に、巨体が、どたばたとアメリアの横を駆け抜けていく。火穂伎命(ほほぎのみこと)だ。

「説明せよ!」

 石台にめり込みそうな勢いで突進し、ばんと両手をついて前のめりになった火穂伎命(ほほぎのみこと)に、

ラビットソン教授は完璧に突き飛ばされて、尻餅をついた。

「こ、これは、この山のすべての吹き出し口への道を記しています」

よろよろと吹き飛んだ片眼鏡を拾い上げながら、ラビットソン教授は講義の口調になる。

 請う者に教えるというのは、彼に染みついた習性だ。

「こ、これは、南の島にあった地図遺跡とごく似た方式で描かれています。つ、つまり――パズリッごほん、パズルです」

大事なところで噛みながらも、教授は一所懸命に続ける。

「こ、ここで見えるだけでも、岩壁に空いた空気孔にはすべて、ファンが取り付けられています。あ、あれが、この穴だらけの岩山に幾箇所も取り付けられることで、風は調整されている。と、すれば――」

目を白黒させる火穂伎命(ほほぎのみこと)の目の前でガチ、ガチッと小指サイズのレバーがどんどん弾かれていく。

 やがて、倒されたレバーによって、何の意味もないと思われた文字列の中に、中央から外へ向けて、一本の道が出来上がった。

「このようにして、風の通る方向を決められる。後はこの脇のハンドルを回せば、設定が上の歯車群に伝わるというわけです。あの巨大歯車ははじめ中枢かと思いましたが、どうやらそうではなく、単なる他の一部であり――、大まかな方向を示す、表示計かと」

「やめろ!」

ハナの怯えたような声が、全員の鼓膜を震わせた。

「あんたら、間違ってる!それは〈ルホウ〉の制御板なんかじゃない、それは〈審判のはじき〉!――この山を侵入者から守るための罠だ」

 それを聞いた火穂伎命(ほほぎのみこと)の口がにやりと歪むのを、ハナの両瞳が映した。

「罠であればわざわざ口にはしまい。何と下手な嘘を」

「――っ、嘘ではない!それに触ってはいけない!ここにいる全員が死ぬぞ!いや、……この山の周囲に生きる、全てのものが!」


「黙れ、巫女」

 終始様子を見守っていたアメリアが、一言とともにサーベルを突きつけるが、ハナはそれをキッと一瞥(いちべつ)しただけで、火穂伎命(ほほぎのみこと)をなおも説得しようと試みる。

「〈龍風(るほう)〉は龍だ。人間の手で制御などできるわけが無いんだ!愚かなのはアンタたちの方だ!全滅するぞ!」

語気を荒げる彼女を楽しそうに見下ろして、火穂伎命(ほほぎのみこと)は冷淡に告げる。

「ほう、そうか。ではまず、南の無風地帯に集めておいた、そなたらの家族で試すとしようぞ」

「――――。」

ハナは呆然として、数秒間言葉を失った。

「そなた」

火穂伎命(ほほぎのみこと)はくるりとラビットソン教授へ向き直る。

「先の打ち合わせ通り、狙った場所の生き物を死滅させてみようではないか?」

 この大発見を目の前にしたラビットソン教授には、示された〝問題〝の〝解答〝を探り当てる以外、意識が向いていない。

 ラビットソン教授は機械のように、火穂伎命(ほほぎのみこと)の言葉を反復して、

 手帳を見ながら空中で指をゆらゆらと動かし、小刻みに目線を動かした。やがて、ガチン、ガチャコ、ガキッガコッ、と教授の指はレバーを弾く。

「やめろっやめろっ……!」

ハナの嗚咽(おえつ)のような叫び声がむなしく響く。

 コールは、無意識のうちに再び、この遺跡への興味に頭を満たされていた。地面に伏せたままの体勢で、痛いほどに目線を上げて、教授の背中を食い入るように見つめる。

 そんな中、アメリアはハナの戦意喪失を感じ取るなり、静かにそこから離れた。

 ラビットソン教授が独り言同然に、ぶつぶつと語り出す。

「ま、間違った道から、発光バクテリアが全く検出されなかったのは、不自然でした。しかしその謎には、コ、コール君が気づいた」

 この中でこの講義を聴いているのは、恐らく彼の弟子だけだろう。

 文字列のレバーを複雑に倒していきながら、教授の説明は続く。

「し、〈シンヒ〉という、奇妙な生き物の存在です。あの生き物は毒を放っていた。は、発光バクテリアはあの生き物の毒によって死滅するため、通り抜けることができなかったのです。

 発光バクテリアが〝生命の道〝を示しているとすれば、〈シンヒ〉が示すのはし、〝死の道〝。


 とっ、通ってきた方向から大まかに、〝死の道〝であるルートを割り出し、その上で狙った方向へと道を作ってやれば……っと」

 ようやく、教授の指が止まった。 

 ギリギリギリ。

ハンドルが回される。石台の中から、カタカタカタカタと軽快な音が控えめに響き。

 全ての歯車が、一度停止した。

 風の中に生まれた静寂。

 やがて表示計は、下二枚が数字の組み合わせを変え、上の一枚が、方角を示す。


 ギッ……。


 木が軋む音がし、

 そして、留め金を外したかのように、歯車たちが急回転を始めた。

 規則的に響いていた音は、もはやつながってひとつの唸りに聞こえる。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!


「終わりだ……」

見開いたハナの瞳から、絶望を凝縮した一粒が流れ落ちた。

 やがて小刻みな振動が、全員の足下を震わせた。

 ばたん、ばたんと降ってきたのは、岩壁の穴に取り付けられた小型の風車。

「なんだ!」

ぐるりと上を見回したアメリアの目に。

 続けざまに穴から溢れ出てきた、〈シンヒ〉の群れが映る。

 シンヒは真っ白な滝となって、全ての穴から煙を上げて落ちてきた。

 落ちたシンヒは地を這って、あるいは壁を這って、あっという間に全員を囲い込んでいく。

しかしそれらは、彼らに襲い掛かりはしなかった。

ずりずりと白い大地が彼らを避けるように迫ってくるが、飛びかかる気配はない。

様子をうかがっているようだ。

「た、大佐!退きましょう!」

慌てふためく部下の兵に、アメリアは決めかねた様子でだまって一瞥をくれる。

「くはっ」

声を漏らしたのは、火穂伎命(ほほぎのみこと)――、ではなかった。

「きょ、教授……?」

おかしな様子に気づいて、コールが思わず呼びかける。

ゆっくり起き上がるが、もはやコールどころではないバロゼッタ兵はそのままに解放する。

ハンドルの所にうずくまるラビットソン教授の肩に、手を伸ばそうとしたとき、

 勢いよくラビットソン教授が立ち上がった。

あごを頭にぶつけそうになって、コールは慌てて飛び退く。

 振り返った教授の目が、らんらんと輝いていた。

「凄い、凄いですよコール君!見ましたか?!見ましたか!これはすばらしき発見です。我らがものになったんです」

「教授?何言ってるんですか……」

あまりの変貌ぶりに、コールの声は惚けている。

片眼鏡を光らせながら、ラビットソン教授は両手を広げた。

「これで世界の気候が操れるんです!歯車はすべて動いています!完璧に」

「教授?ラビットソン教授!しっかりして下さい、どうしたんですか?」

腕を引くコールを見下ろして、彼の師は恍惚の表情を浮かべた。

「世界の気候を操れるんです、わ、私たちが――むぐ」

次の瞬間、津波のような白い影が、教授を頭から飲み込んでいった。コールの目の前から、一瞬にしてラビットソン教授の姿が失われた。

「――――」

目を剥いて硬直したコールは、

「むぐぐっむぐっむぐ――――!」

足下で、うごうごとうごめくシンヒの大群の不自然なふくらみが、くぐもった断末魔を発しながら、やがて平坦になっていくのをぼうっと見下ろしていた。

「ひゃあああああ」

その様子を見て、悲鳴をあげたのは火穂伎命(ほほぎのみこと)だった。

腰を抜かし後ずさる。

シンヒたちは彼には襲いかかることなく、ただ周囲へと避けた。

 ガラガラと中央の風穴に据え付けられたたくさんの風車が、音を大きくしていた。

「……まずい」

その事に気づいたハナが、ハッとして呟いた、次の瞬間。

爆発を起こしたかと見紛うほどの強風が、その穴から吹き出した。

 風車はいっぺんに吹き飛んだ。

 ハナは目をつぶった。足は地面から離れ、轟音の中を遠く飛ばされるのを感じた。


 うわあああああ


 バロゼッタ兵のものとおぼしき悲鳴が、微かに耳元を掠ったが、それもやけに遠くなっていく。

 ダンダンダンッ!と、他四人が龍の門に身体を打ち付ける中、ハナだけが、その門を通り抜けていった。受け身を取る余裕もなく、遠距離を飛ばされて、勢いのままハナは岩壁に身体をぶつけた。

 目を開いたとき、龍の門を、シンヒたちが埋め尽くしていくのがちらりと見えた。

 だが体勢を立て直そうとした瞬間、強風に再びバランスを崩し、彼女はさらに穴の奥へと転がされることになった。

 「こちらへ来い!」

アメリア大佐の声がかかり、龍の門の内側を伝って、コールとバロゼッタ兵は側に向かう。

 最初の爆発を乗り越えると、せめて立っていられる程度には、風は落ち着いていた。

 近くを通ると、シンヒはシャアッと威嚇さえするものの、飛びかかる様子は見せなかった。

 よろよろと二人が集まると、

「とんだ無駄足だ」

アメリアは不機嫌に吐き捨てて、門の空いていたはずの場所へ進んだ。

 そして門は、消えていた。

 否、シンヒがお互いに絡み合って、網状になって門を塞いでいたわけだが、

「どうなってるんだ……。」

バロゼッタ兵が己の目を疑った様子で呟き、強く拳を打ち付けた。

――シンヒは身体を硬直させて、まるで鍾乳石のように龍の門と一体化し、びくともしなかったのだ。

それが自分たちの役目だ、とでも言わんばかりに、門に集まったシンヒだけが身体の材質を変えている。

 ガンッ!

 バロゼッタ兵の振るったサーベルも、網を砕くには至らない。

 つるつるとした表面に傷はつくものの、傷ついたところを補強するかのように、たちまち他の動いているシンヒたちが寄ってきて、そこをより強力な網へと変貌させ塞いでしまうのだ。

「閉じこめられたか」

アメリアは状況を受け止めると、〈ルホウ〉の穴の方へと振り返った。

 地面と岩壁を埋め尽くしたシンヒたちが、怪しくこちらを睨み付けていた――。

第六章 覚醒

第一節 龍の毒


 〈ルホウの山〉の外側において、その変化にいち早く気づいたのは、身動き取れず山を見守っていた〈風の戦士〉たちであった。

 どうんっと強い衝撃波が、彼らを襲い、地面をころころと転がせた。

「〈ルホウの寝床〉は侵された」

体勢を立て直し、よろよろと長ヤエ婆の前に集まってくる戦士たちを前に、彼女は冷静に告げた。

「間もなく、龍は毒を吐き、我らを淘汰するであろう。よりふさわしき僕(しもべ)を得るため」

子どもをしっかりと腕に抱いたり、胸に引き寄せる母親たちが、長の言葉に、ごくりとつばを飲む。夫たちは、戦士特有の表情の中に父親として家族を守る色を覗かせる。若者たちは、不安の色を無理に隠すかのごとく、ただ闘志だけを瞳に宿した。

 びゅおおおおと、最初の衝撃に続く強風が、山の方角から一直線に吹きすさぶ。

「ヤエ婆、山が……」

誰かが声を上げ、ヤエ婆はうなずいた。

「〈龍風(るほう)〉に仕える聖獣、〈震皮(しんひ)〉の群れが、山を覆っておる。己の毒を、この全てに行き渡らすため……。この風はすぐに〈シンヒ〉の毒に染まる」

 戦士たちの目が、少し遠くに見えている山の頂を映す。山の穴という穴から、衝撃波とともに吹き出し始めた白い小さな個体の群れは、みるみるうちに山の外側に壁を組んでいく。それはまるで、籠が伏せた状態で編まれていくかのようだった。

 ヤエ婆は固唾を呑んで見守る彼らに、ついに合図を下した。

「一秒でも長く生きようぞ。〝一秒長く生きたが故、助かる命〝というものは、この世に確かに存在する。まだ絶望するには早いぞ、戦士たちよ。今の我らが賭けられるのは、各々の生命力のみ。さあ、教えたとおりじゃ。呼気を体に満たすのだ」

まるでそれが絶対的に助かる道であるかのように指し示す彼女の言葉とは裏腹、誰もが感じていることがあった。

 ――巫女の呼吸法は、巫女となる者たちが幼き頃からの訓練を経て修得する技術。付け焼き刃で、できるわけがない――。

 誰もそれを口に出したり、表情に出すことはない。むしろそれを考えぬよう躍起になっていた。だけど、暗黙の了解にも似たその考えは、

 死を覚悟する彼らの中に、シンヒの毒よりも早く浸食していた。



 ******



 〈風尾族〉と〈仙〉兵の決戦地においても、一瞬遅れほどで暴風が襲いかかったことにより、否応なしに、異変が知れ渡ることとなった。

 武器を取って混戦していた彼らは、一同に動きを止めた。

 白いカゴに覆われていく〈ルホウの山〉の不気味さは、その実態をよく知らぬ者にすら、言い様のない命の危機の恐怖を与える。

 一瞬の沈黙が戦場を覆った後、

 一人の〈仙〉兵が声を上げて戦線離脱、森へと走り逃げたのを皮切りとして、

〈仙〉はパニックを起こして一斉に引き上げ始めた。

 そこにあって率いていた豪族の男のみが、馬上から逃げる兵たちを止めようと叱咤(しった)していたが、馬すらも前足を上げて暴れ出す始末。

間もなく落馬した彼の前に、

「――」

ジンオウの斧が突きつけられた。

 率いる者がいなくなったことで、兵たちに足を止める理由は完全に失われた。

 威嚇しながら〈風尾族〉の戦士たちが逃げる彼らを追い立てて、ついにそこで動く者は、〈風尾族〉の生き残りのみとなった。

 ジンオウは、〈仙〉兵が引き上げてしまい、最後に馬一頭が森の中へと消えた後、向かい風に、ごわごわの髪をなびかせた。

 厳しい瞳が細まるが、

「ジンオウ……」

不安げに声をかけてくる〈風尾族〉の者たちに、やはり彼は、何も言わなかった。



 ******



 ワン中尉の防衛戦線が張られている海岸沿いでは、強風ではあったものの、少し離れているせいか、はたまた森の木々に風が阻まれたおかげか、〝異常〝というほどの風は感じられなかった。

 ただ、台風のような風が吹き出したことには誰もが気づいた。

 この日の、まだ夜も明けきらぬ早朝時のこと。彼らは、船の修理のための木材を切り出し、浜へと運び込んでいた〈仙〉の民衆たちを、早々に追い出していた。

余った木材は簡易のバリケードを組むのに使い、自身らは大佐の言葉を守って、船に籠もる籠城戦の構えを見せていたのだ。

 案の定、アメリア大佐の居ない隙を狙ったか、〈仙〉軍は彼らの目前に布陣した。

 そして彼らは、間を置かずに船を乗っ取ろうと浜を渡ってきて、派手な砂しぶきと爆破音の中に大きく足止めを食らうこととなった。

 浜にはつまり、〈仙〉軍がなだれ込むであろう場所へと、横一列に、踏めば爆破するよう火薬が埋め込まれてあったというわけだ。それは大した量ではなかったが、火薬を知らない彼らは、それだけで驚いて足踏みするだろう。

 ワンはそう踏んでいた。

 実際、彼らは他にも幾つも仕掛けられているのでは、と、無い地雷を恐れて、弱腰を見せた。

だが、率いる豪族の男がその尻を蹴った。


戻る者は殺す。


後方で何人かの兵が斬り殺されると、彼らは恐怖に駆られて一斉突撃を開始したのだ。

 ワンの判断は素早かった。

錨(いかり)を上げ、いったん船を沖まで引き離したのだ。

 アメリア大佐を拾うために、人質に取られぬために、この海岸を死守するのは重要事項ではあったが、船を壊されては元も子もないとした彼の考えだった。

 しかし沖へ逃げても、一時の逃亡に過ぎない。

 戻るのが難しくなるほど沖へ行くわけにも行かず、〈仙〉側ではすぐに手こぎの舟が運ばれ、何艘(なんそう)もこちらへ向かってくる。

 強風が吹き荒れたのは、ワンが、船上に乗り込まれての混戦を覚悟した、そんな時だ。

 風は大きな波を起こし、バロゼッタの航海船でさえ、飲まれるのを予感させるほど、大きく斜めに揺らいだ。もちろん波に浮かぶ小舟などは、ひと飲みであった。

 〈仙〉軍が手を出せなくなったことを悟り、一息ついたワンは、次の不自然な揺れに、もう一度海面を覗き込むこととなる。

 船の周りに、鯨(くじら)らしき影が集まっていた。

「ワン中尉……っ、こ、これは……」

 留守番を押しつけられていた二等兵が――今は中尉の補佐を担っていたが――、ぐらりと危なげに揺れる甲板にしがみつきながら、声をかけた。

鯨たちが船体に頭をぶつけてきたのだ。

 ワンは首を傾げた。

「困ったヨ。変な鯨たちネ。これじゃあ逃げられないヨ」

そして、冷たく低い声で言った。

「大砲用意」

ワン中尉の苛ついた声に、二等兵は戦慄せざるをえなかった。



 ******



 不可思議な動物の行動は、鯨に限ったことではなかった。

 〈仙〉の都。

 自室に籠もっていた花露(かろ)の元にも、嵐のような暴風の中、恐々とした面持ちの豪族たちが押し寄せていた。

「花露様!鴉(からす)が空を埋め尽くして……」

「花露様!西門をいのししの群れが襲っておりまする!数にして約五百!」

「花露様、北門には熊が押し寄せて」

「東には野犬が」

「飼い犬や鶏も狂ったように鳴き立てて……」

「いったい何が……!」

「ミホウサマよりお告げは……」

 「花露様!」

  「花露様!」

 彼らに相対し、じっと目をつぶって静かに一通りの報告を聞いていた花露は、自然と黙るのを見計らってから、すっくと立ち上がり、彼らの真ん中を毅然と通り抜けて、外へ出た。

 空は真っ黒な雲と、大量のあらゆる鳥で埋め尽くされていた。

 都には獣たちのうなり声と、恐れる人々の小さな悲鳴が鳴り渡っている。

 花露は、都の一番の高台である物見を目指した。

 彼女の後を、大の大人たちがぞろぞろと、すこし急ぎ足でついて回る。

 物見に大勢で上ることは不可能なため、やむ終えず大人たちは物見の下を囲い、花露を見守った。

 花露は都を見渡し、そして都の八つの門と土壁の周りを、あらゆる獣たちに包囲されていることを確認すると、彼女の首元に巻き付く蛇の頭をなでた。

「次期王権を狙う者どもめ。未だ王権は我らにあるというのに……。そうでやんしょ?みいちゃん」

白蛇がその声に呼応するがごとく、もたげた鎌首を花露、そして周囲に向ける。

「わっちの言うことが間違っておらぬならば、味方してくれるでやんすな」

ちろちろと、蛇の舌が臨戦態勢のように空を舐める。その瞳は都の外を見ている。

 カッと、花露は金瞳を空に向けた。


 ――去れ。ミホウサマの恩恵はまだ、我ら人間にあり――


 シャアアッ!

 花露の声は異様に響き、同時にどこへともなく威嚇の口を開けた白蛇の瞳が、炎のような光を帯びた。

 途端、

 ぎゃあぎゃあと、からすを筆頭とした鳥たちは、怒った声だけ浴びせて都の上空から引いていき、獣たちは門への体当たりをやめてじりじりと下がった。

 物見の下から、おおおおと感嘆の声が上がった。

「花露様ー!」

「花露様万歳ー!」

「巫女様!」

 その様子を耳に留めた花露は、一瞬照れを隠すかのような表情を見せたが、硬い表情を崩さずに白蛇に語りかけた。

「呑気なものでやんすなあ。いつミホウサマに恩恵を奪われるとも分からぬ状況であるというのに」

 白蛇は、ただ元のように、ぴたりと花露の首に巻き付いた。

 花露はそのまま都を一望しながら、黙って白蛇の頭をなでる。

 強風の中には、徐々に、酸っぱい臭いが混じり始めていた。

第二節 葛藤


 眩い光を放つ、一本の縦線があった。

 黄みがかった赤色の光は、太陽の色にも似ていた。

 光は、何かを語るように、波を伴って揺れた。

 すぐに、夢を見ているのだと気づいた。

 何度も見た夢だったから。


 ――目覚めよ――


 聞こえてきたのは、「声」ではない。だがいつも、不思議と分かる。


 ――〈龍風(るほう)〉を守護すべき、真の――


 真の……。

 その先を聞き取る前に、光の線は暗雲に隠れた。

 目の前は真っ黒な雲に覆われ、そしてひどい臭いが鼻孔を急襲した。

 違う、雲じゃない。

 すぐに思い直す。

 この臭いには、覚えがある。

 煙だ。

 生き物がナマのまま焼けこげていく、黒煙の臭い。


 ぎゃー


 雲の正体に気づいた途端、耳に入ってくるたくさんの悲鳴。

 はっきりとしてくる目の前の光景。

 高台の丘の上。

 見渡す都は、先ほどの煙が容赦なく覆っている。

 豆粒ほどに見える民たちが、走り逃げまどい、そして、矢を背に突き立てて、または一刀両断に頭と胴を分離されて、地面を血で染めていく。

 髪の毛とあごを掴まれて、ぐいと目線を固定された。

 その先に並ぶ、知った顔ぶれ。


 伊吹。

 いぶき。

 兄者。

 あにじゃ。


 最期に見合わせたその人たちの表情は、皆、悔しさに歪んでいた。幼い弟に至っては、訳も知らぬまま泣いている。

 後ろ手に縛られ、首を差し出す形で座らされている人々の傍らには、槍を手にした兵が並ぶ。

『よう見よ』

髪を掴んだ男の声が、耳元で囁いた。

 ぞっとするような感触が、心臓からのどへと駆け上がってきた。

 この時何かを、叫んだかもしれない。

 叫ぶこともできず、呆然としていたかもしれない。

 あまり、覚えてはいない。

『我の申し出を断ったくにの末路だ。のう、〝元〝王子?』

しかし男が耳元で言った言葉だけは、呪いのように染みついている。

『やれ』

 言葉を合図に、掲げられた槍が、親しい人々の背を突いた。

 この時も、悲鳴はあったのだろうか。

 それすら分からない。

 ただ、もうこの世で二度と会うこと叶わぬその人たちと、一秒でも長く一緒に居ようと、目を凝らしたのだけは覚えている。

 男の高笑いが響いたのも、不気味なほどに覚えている。


『悲しかろう。すぐにそなたも同じ所へ行くがよい』


 男の声が耳元から離れた。すらりと剣を抜いたのが、気配で分かった。

 けれど身動きなど取れない。

 取る気力すらない。


 父上、母上、弟、妹たち。

 すぐに、会えるだろうか。

 このまま目覚めなければ――。


 儚く願う。

 いっそこのまま目覚めないで欲しい。

 だが、それもまた叶わぬ願い。


 ここで必ず、声が割って入るのだ。

 『我が大王(おおきみ)、お待ちを』

戦場に似つかわしくない、冷静すぎる老婆の声。

『その子どもは殺めてはならぬでやんす』

『なぜか?』

男が機嫌を損ねた声を出す。

『後々、〈仙〉は危機を迎えるでやんす。彼を今殺めては、〝危機〝は〝絶望〝に成り代わりまする』


――何を言っているんだ?


『殺すときではないと申すか?花露』


――なぜだ。いっそ殺せ。


『難しいことではござりませんでやんしょ?奴隷としてお使いになっては?』


――やめろ、殺せ――。


 言いようのない恐怖が、身体を駆けめぐる。


 死より不確定な未来が、突きつけられる。


 怖い。



 ******



 「――っはあっ!」

伊吹は大きく息を吸って目を覚ますと、間もなく、顔を覗き込む人物に気づいた。

「息を吹き返したな」

ハナの蒼い瞳が、ホッとしたように揺れた。

 その優しく気高い光を見た瞬間、伊吹は己でも不思議なほど、安心感を覚えた。

「――伊吹?」

 ハナの戸惑う声が耳を打ったが、無視して強く抱き寄せた。そうせずにいられなかった。

 もうあの日に自分はいないと、確かな証拠が欲しかった。

「おい、……」

ハナはひととおり動揺した後、身体の力を抜いた。

「――実行しようと、したんだな」

頭から血を流して一人倒れていた彼の状況で、ハナは察していた。

「……。夢を、見ていた」

ようやく、伊吹が答えた。

掠れた声に、ハナがびくりと身じろぎすると、伊吹の腕は、彼女をなすがままに解放した。

 その場に座り直し、ハナを改めて見てから、伊吹は微笑んだ。

「助けられたな」

ハナは、不意打ちに頬を染めて、ごまかすように立ち上がった。

「っ、こんな浅い水たまりで溺れるやつがあるか!」

すると伊吹は始めて自分の状況を知った様子で、水たまりを見下ろして、それからふっと息を吐いた。

「――ところで、ハナ」

 すたすたと〈ルホウの寝床〉側へ通路を移動していった伊吹が、前方から声をかけた。

「このシンヒは……一体どうなってる?」

 二人がいる空間には一匹も〈震皮(しんひ)〉が入り込んでいなかったが、その入り口と出口は、例外なく、がっちりとしたシンヒ網で塞がれていた。



 ******



 どさどさどさ、と、空洞西側――門から向かって右側――で、シンヒの最後のひと吐きがあった。

 先ほど、ハナが出てきたのと同じ穴だ。

 ボトッと一角蛇にまみれて一緒に落ちてきたのは、マキだった。

 地面に山となっているシンヒたちのクッションに、彼女の体が力無く落ちてくる。

シンヒたちはぶしゅっ、と潰れたような悲鳴をあげたあと、彼女の腕に、首に、足に、絡みついて、その体を覆っていった。

 シュルシュルとひときわ大きなシンヒたちの舌の音が、そこから発せられた。

 目を開けておくのも困難な暴風の中、その光景にまず気づいたのは、バロゼッタ兵だった。

「なんだ、あれ……」

彼らは今、風の吹き出し口の中に見つけた、わずかばかりの窪みに降りて、シンヒの毒から避難していた。

窪みがあるのは穴の東側の壁。ちょうど向かい合う形になる。それでもここからでは、はっきりその様子が見えるわけではない。

 だが、

「マキだ……!」

コールは自分でも不思議な程の確信とともに、穴をよじ登った。

「コール!」

バロゼッタ兵が、慌ててコールの足を掴む。

「上に出たら毒が!」

「だけど」

穴のへりに両手と片膝をついた状態で、もう片方の足を掴まれたままのコールは、汗をにじませた顔をバロゼッタ兵に向ける。

「だけど行かないと」

「ラビットソン教授がいなくなった今、ここを出るために貴様は必要だ。コール助手」

割って淡々と口を挟んだのは、アメリア大佐だ。

その目線は、落ちてきたモノの正体を見極めようとするかのごとく、西縁に向けられていた。彼女の目線からは、シンヒの小山のてっぺんがかろうじて見えるだけだ。

 故に、コールが窪みの中で見たのは、ただシンヒの塊が何かとともに降ってきたその一瞬だけだった。地面に落ちたあとは、小山の頂上すら、かれの背丈では見えてはいなかったのだ。

 なぜ直感したのかは分からない。

 ただ、助けなきゃと思った。

 しかし、アメリアの言葉に、コールはためらった。

 ――ラビットソン教授ほどではないにしろ、俺にも民俗学と考古学の知識がある。

 大佐はそれを言っているんだ。脱出に、その知識が少なからず必要なはずだと。

 俺はバロゼッタ海軍に同行する一員として、

今最も危険を冒すべきではない人間なんだ……。――

 しかしその時、首だけ振り返っているその視界に、例のシンヒの小山が目に入った。

 確かに小柄な人間らしきモノが、その中に埋もれているのが分かった。

 ラビットソン教授が呑まれていった時と、全く同じだったから。

 少し緩みかけた腕に、彼は力を入れ直した。

「大佐」

コールはぐっと唇を噛んで、覚悟とともに声をかけた。

「必ず戻ります」

「あっ!」

彼は蹴ったくるようにしてバロゼッタ兵の手を振りほどくと、完全に体を引き上げて穴の上に消えた。

その時コールの脳裏に浮かんでいたのは、マキに言われた言葉だ。


『中途半端に味方のような振りをするな』


 ――偽善者なんかになりたくない。

でも、このままじっとしていたら、きっと俺は、事実そうなってしまう。

 マキ。君を助けたいと思った想いは……

 出会った時に伝えた想いは、

 偽善なんかじゃない。

 どうかそう、思わせて――


 その強い思いが、彼を突き動かしたのだ。


「追いますか?」

バロゼッタ兵が自身も上るべきかと迷って、大佐に指示を仰ぐと、大佐の反応は

「放っておけ」

それだけだった。

 一秒後、コールが反時計回りに、縁ぞいを走って小山の方へと向かうのが目視できた。

 足下のシンヒを蹴散らしながら、うごめく小山へ駆け寄ったコールは、もう躊躇などしなかった。

 シンヒの小山に手を突っ込んで、肘まで埋もれながら、かき分ける。

 かきわけられたシンヒたちは、すぐにコールの腕にからみついてきた。

 酸性の悪臭にも耐えながら、コールはひたすらシンヒたちの中に手を突っ込んだ。

 自分に絡みついてくるシンヒたちにまで、構っている余裕はなかった。


 自分の臆病さのツケが、今ここに回ってきたのだろう。

 そんな気がした。


 と、冷たい生き物たちの中に、突然柔らかく温かい感触を見つけ、コールはハッとしてそれを掴んだ。

 すると、手首を握り返す感触がある。

「マキ!」

コールは叫んで、一気にそこを掘り下げる。

白い蛇たちの中に、細く締まった腕が姿を現し、その向こうには、もうろうとした様子でうっすらと目を開けるマキの蒼い瞳が。

 コールは前のめりになって上半身をぐっとシンヒの中に落とし込むと、

 マキを抱きかかえるようにして、その中から救い上げたのだった。



 ******



 閉じこめられている状況を確認すると、伊吹は銅剣を取るために、一度ハナの側へと戻ってきた。

「これで破ろう」

水たまりの中に浸かっていた銅剣を持ち上げる。

「待って。髪がほどけてる」

ハナが言うと、素直に伊吹はその手に託した。

ハナは、残った片方の結び紐を解き、彼の長い黒髪をひとつに束ねてやる。

 束ねる途中、指先が首先に当たるたび、自分の鼓動に意識が向く。

 ハナは何とか平静を装って、束ね終わると、ポンと肩を叩いて合図した。

「これでよし」

「助かる」

立ち上がった伊吹の精悍な表情に、またどきりとしてしまう。

 しかしその気持ちに構っている間もなくなったのは、彼がまた、いつか見た黒い殺気を体にまとったからだ。

 進行方向は、脱出する方向ではなく、明らかに奥へ。

「待って、伊吹!何をするつもり?!」

ハナは慌ててその腕にすがりつくが、

「――」

伊吹は凍てつくような視線を、前方から外さなかった。

 その目は、奥にいる憎き大王(おおきみ)、火穂伎命(ほほぎのみこと)の姿だけを追っている。


 ……まだ、この人は闇から解放されていない。


ハナはその事実に落胆を感じながらも、無駄だと分かってて、彼の腕を引く。

「復讐心で殺したって、あんたは何も救われたりしない!やめろ、伊吹!思いとどまれ」

 シンヒ網の前に辿り着いた時、ようやく伊吹がこちらに目を向けた、そう思った瞬間。

 ぐいとあごを上に向けられた。

「何故そうまでして止めようとする?」

彼の冷たい吐息が、鼻のてっぺんにかかる。

「そなたに私を止める義理などなかろう」

殺気を体にまとわりつかせた伊吹の声も、目の光も、それだけでハナを硬直させる。

 至近距離でぶつけられる静かな殺気は、痺れが走りそうな程に、怖かった。

 もうすぐ唇が触れそうな位置で、彼は続ける。

「これ以上邪魔をするなら、そなたも今ここで斬り捨てる。あの〈仙〉兵たちと同じように」


 あの仙兵たちと――。

 伊吹を初めて見たのは、伊吹が同胞であるはずの者たちを躊躇なく殺めたところだった――。


 心臓を握られて目の前で潰されているかのような感覚に陥る。

 だが、戦士ハナは、恐怖と対面した時こそ、それを打ち破る術を知っている。

「やれるものなら、やってみたらいいわ」

キッと反抗的な目を向けると、伊吹は予想外だった様子で動きを止めた。

「私があんたを止める理由が知りたい?」

覚悟を決め、ハナは勢いのままに、彼の唇を引き寄せた。

「――?!」

伊吹が目を見開く。

ハナは唇を離すと、まっすぐその目を見上げて告げた。

「惚れたからよ」

「ばかな」

――ばかな?

「……気づいてなかったの?」

「いや、さあ。どうだろうな?」


どうだろうなって。


伊吹は険しい顔を崩さずに言った。

ハナはうつむいた拍子に、彼の銅剣の変化に目を奪われた。

「光って……る」

ここに太陽や炎はない。

〈シンヒ〉の毒で弱まってはいるものの、淡い光を放つ発光バクテリアだけが、唯一の光源だ。

反射するとは考えにくい。

なのに、伊吹の銅剣は太陽の光を映したかのように、眩い光を放っている。

伊吹は、目を剥きながら、銅剣を垂直にかざす。

そうして、腕を伸ばし、いろんな角度から銅剣を眺めたあと、その刃を自分側に向けた状態で、はたと動きを止めた。

「夢で見ていた光だ……」

あの縦一本線のくらくらするような光線が、今目の前にある。

「……これは、夢か?」

独り言だったが、惚けた様子のハナが答える。

「夢じゃないよ」

伊吹はその剣を、シンヒ網の方へとかざした。

 振るうまでもなかった。

 鍾乳石と化していたはずのシンヒたちは、途端に元の鱗と黄色い珠のような眼光を取り戻し、彼のためにするすると道を空けたのだ。

「シンヒたちが……あなたを認めた?」

自分の目が信じられない様子で、ハナは言う。

「……ハナ。教えてくれ。私は、〝真の〟――、何なんだ?」

「真の……?」

「ずっと見ている夢がある。でもいつも、その先が聞き取れない。幼い頃の記憶が、邪魔をするように割って入るのだ」

伊吹は、銅剣から目を離せぬまま、ぽつりと語った。

ハナはそれを聞いて、確信とともに納得した。

「〝真の王〟――。伊吹、あんた、選ばれた御子(みこ)だったんだね。この銅剣が、何よりの証」

その言葉に、伊吹は頭を振った。

「それはない!この銅剣は、そもそも古戦場にて拾ったものだ。真の王だというなら、その者はすでに討ち死にしている」

「どこでどう拾ったかなんて、関係ない。〈ミホウサマ〉がそう、導いたの。あんたの元に、この銅剣が収まるように」

「……適当なことを。だがちょうどいい」

伊吹は、そう言い捨てると、きびすを返して奥へと歩き出した。

 剣の光を畏怖するように、地面を埋め尽くす蛇たちが頭を垂れて道を空けていく。

 その中を堂々と、伊吹は闊歩する。

 龍の門へ向かって。

 銅剣の光は、黒く変わった。

 黒い光、そんなものがこの世にあるのか。不思議な光だった。

 銅剣から差す光のカーテンは、確かに黒い。だというのに、その黒さが闇を照らす。

 光に当たった〈シンヒ〉の色は、その瞬間だけ、黒色に染められて見える。

 ハナは慌てて後を追った。

「真の王ならばなおさらだ!伊吹、そんなことを、してはいけない!己の憎しみに負ける者を、〈ミホウサマ〉は真の王とは認めない!あの王には、〈ミホウサマ〉の下でしかるべき裁きを受けさせねばならない!……この騒ぎを止める手段も、無くなるぞ!」

「知ったことか」

ハナの訴える声も、一蹴されて終わる。伊吹は黒く輝く剣を、門にかざした。

 元々出入り口があった場所で、〈シンヒ〉たちが黒く染まり、するすると道を空ける。

 シンヒたちの瞳が、伊吹を品定めするかのように縛り付ける。


 あの眼光だ――。


 伊吹は、門を通り抜けようとした瞬間、手足が麻痺したかのような感覚に陥った。

 しかし、胸にふたたび燃えたぎった怒りが、銅剣のひと振るいを許した。

 縛りがふっと解け、そして、何事もなかったように歩き出す。

 門はハナまで通すと、背後でしゅるしゅると閉まった。

 蛇の巣窟と化した〈ルホウの寝床〉を見渡し、伊吹はその唇を、薄く開いた。

「見つけた」

 邪気――としか形容できないものが、彼の内から溢れ出てくる。

 ハナは、気づけば、彼に近づくことすらできなくなっていた。


 何故か。


 彼を止めようと近づいても、彼のまとった邪気の煙のようなものが、途端に息苦しさを与えるからだ。それは、息も止まりそうなほどに。

 伊吹を目にした〈シンヒ〉たちが、毒の噴霧をつぎつぎと止めていく。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の姿がどこにもなかった。

伊吹の行く先にあるものといえば、〈審判のはじき〉――異民族が「制御板」と勘違いしていた装置だけだが、それも、今は〈シンヒ〉の壁が覆って、小部屋のようになっている。


 まさか……あの中にいるというの?


ハナは勘づいて、思わず足を止めた。

これ以上〈審判のはじき〉へ今近づくことに、言い知れぬ恐怖を感じたからだ。

 伊吹がその前で立ち止まり、そして今度は、〈シンヒ〉たちが避けるのを待ったりはしなかった。

「はっ」

短い気合いとともに、彼は一息に斜めに銅剣を走らせた。


 ぶしゅうっ


〈シンヒ〉たちの悲鳴が、聞こえた気がした。

 何匹かが灰になりながら、他は絡み合っていた胴を一気にほどきながら、ばらばらと足下に落ちていく。

 火穂伎命(ほほぎのみこと)は、伊吹が向かってくる様子が見えていたらしく、制御板を背に、こちらを見ていた。

「…………。」

 丸腰の大王(おおきみ)に向かって、黙って銅剣を振りかざした伊吹を前に、火穂伎命(ほほぎのみこと)はにやりと笑った。

「遅かったのではないか、伊吹」

その言葉に、伊吹はぴたりと動きを止める。火穂伎命(ほほぎのみこと)は、続けた。

「〈シンヒ〉は我がここに近寄ることを許したぞ。我は認められたのだ」

「最期の言葉はそれだけか」

返事を待たず、伊吹は剣を振り下ろした。

「伊吹――っ!」

ハナのどうしようもない叫びが、背後から襲う。



 ******



 マキをおぶったコールが、あと四分の一周で安全地帯である窪みに辿り着く、という位置まで来た時、門が開き、異様な空気をまとった伊吹が現れたのを目にした。

 まだ全身の痺れが治らないマキが、それに気づいたかどうかは分からない。

 ただ、コールの肩で、彼女がぽそりぽそりと、もうろうとしたような声を出し始めたのは、同じ時だった。

「私たちは……助からない。もう、〈ミホウサマ〉は私たちを、見放す……」

コールは、伊吹の姿に足を止めていたが、マキの悲観的な言葉で、自分を奮い立たせた。

「大丈夫だよ。何か手はある。どうにかして、あの装置を調べるから。ファンは全て壊れてしまったけれど、」

少し苦しげに、コールは息をついた。途端、シンヒの酸がのどの奥に張り付いて、少しむせる。

それから、一歩一歩、吹き出す風に煽られそうになりながら、彼はまた、歩を進める。

「きっと、止める方法があるはずなんだ。マキ、諦めちゃだめだ。俺の推測だけど、〈シンヒ〉は己の出す毒霧の中でしか生きられない。風向きが毒の道を通るようになって、〈シンヒ〉の毒があふれ出したから、こんな風に彼らは自由になったんだと思う。

だから、風の通り道を元に戻すことができれば――俺らが、操ることができれば……」

「そんなこと、口にしてはいけない!」

マキの怯えた声が、コールの耳を打つ。

「えっ?」

じろりと周囲の〈シンヒ〉の目が、こちらを向いた。じりじりと、足下に迫ってくる。

「早く、撤回しろ、コール!何故私たちの言葉がここでは通じるのか、分からないのか?」

マキの焦燥した声。コールは戸惑うばかりで、口から言葉が出て行かない。

「私たちは見張られているんだ!〈シンヒ〉たちに!〈シンヒ〉は、〈ルホウの寝床〉を我がものにしようとする者を、決して許さない!」

「なんだって――」

〈シンヒ〉の一匹が、崖に追い詰めた彼へと、シャッと飛びかかる。

「うわ!」

よろけるが、何とか踏みとどまったコールは、

「撤回しろ!」

心臓の辺りに痛みが走るのを感じながら、マキの言葉にとっさに従った。

「撤回する!俺たちはここを脅(おびや)かす気はない!」

〈シンヒ〉たちがするすると嘘のように元の位置まで引き下がっていく。

コールの胸に噛みついたシンヒは、吹き出す新鮮な風に当たったせいで、灰となって飛ばされていった。

 マキは声を出すのも無理していたのだろう、疲れたように肩に頭を預ける。


 そうか、だから教授は――。


 マキの鼓動を背中に感じながら、コールは唇を噛んだ。


 『世界の気候を操れるんです』


 言ってはいけない一言を言ったから、襲われたのか……。


 下まぶたが濡れたように感じたのが、気のせいだったのか、込み上げる感情によるものだったのか、判断するほどの余裕はなかった。

 心臓付近に走る噛み傷の痛みで、彼もまた、穴に落ちないよう前に進むのが、精一杯だったのだ。 

第三節 覚醒


「〈シンヒ〉たちは我がここに近寄ることを許したぞ。我は認められたのだ」

「最期の言葉はそれだけか」

返事を待たず、伊吹は剣を振り下ろした。

 銅剣が、その刃を、火穂伎命(ほほぎのみこと)の首筋へと斜めに影を引く。

 黒色の閃光が走り、

 そして、

 伊吹の足下に、ボトトトッと落ちてきたのは、灰と化した一角蛇。

「……?!」

彼の刃は確かに火穂伎命(ほほぎのみこと)の首筋を捉えたはずだった。

 だが、血が滴り落ちることはなく、ましてやその首が落ちることもなかった。

「クク……」

含み笑いを聞き留めて、伊吹は眉根を寄せる。

火穂伎命(ほほぎのみこと)の口元が、意味ありげにつり上がっていた。

「――てやっ!」

伊吹は、続けざまの第二刀を繰り出した。

今度は刃を返して、脇腹から肩への振り上げ。

 そしてようやく、その瞬間をしかと目撃する。

 足下に絨毯を作っていた〈シンヒ〉らが、まさに刃から守る防壁がごとく、一瞬のうちに伊吹と火穂伎命(ほほぎのみこと)の間に仕切りを造り上げたのだ。

 またしても伊吹の刃は、シンヒを切り裂くに留まり、憎き男へ届くことはなかった。


「どういう……こと……?どうして、〈シンヒ〉が……」

その様子を遠くから見守るしかなかったハナが、自分の目を疑った様子で声を漏らす。

 ――〈シンヒ〉は、〈ミホウサマ〉は、……あの男を認めたというの?


「ふはははははは」

火穂伎命(ほほぎのみこと)のこらえきれぬ笑い声が響き、面食らっていた伊吹もすぐに緊張を取り戻す。

 カチャリと剣を構え直す音が小さく響く中、

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の笑い声は、みるみるうちに上へと昇っていった。

「見るがいい下賤(げせん)なる者どもよ!」

「これぞ我が、真の王である証!我こそが神に認められし唯一の王、ミホウサマの御子(みこ)也(なり)ィ!」

〈ルホウの寝床〉内に留まっている〈シンヒ〉が、火穂伎命(ほほぎのみこと)の体に巻き付き、一体と化していく。火穂伎命(ほほぎのみこと)の体はまといつく〈シンヒ〉の衣によって巨大に膨れあがっていき、その本体は宙高く担ぎ上げられた。端では体が収まりきらず、滑るようにその巨体は広い所へと移動する。

そう、ちょうどハナの目の前に。

 伊吹がすぐさま、ハナの前へと躍り出て剣を構えた。

 例えるならばタコのような動きで、何かが徐々に象られていった。

「服従するがいい、愚かな者よ。我が絶対的な力の前に」

火穂伎命(ほほぎのみこと)の勝ち誇った声が響いたのは、地面を埋め尽くしていた〈シンヒ〉が全て吸収され、はっきりとひとつの形が完成した時だった。

 姿を現したのは、八つ頭に八つ尾をもつ白蛇。

 八つの頭が、伊吹とハナに威嚇の鎌首をもたげ、シャアアアッと今にも丸飲みにしそうに口を大きく開ける。

火穂伎命(ほほぎのみこと)はその上半身だけを蛇の背から突き出した姿で、下から見れば蛇にまたがっているだけのようにも見えた。

しかし実際は、彼の腹から下は完全にシンヒ衣の中に埋め込まれている。その様子は、たくさんの生き物の集合体ではもはやない。

動きといい、安定感のある形といい、――そこにいるのは、一頭の怪物だ。

 表面の〈シンヒ〉は常に動きを止めず、流れるように絡み合っていた。

とっくに毒は出していないというのに、灰にならないのは、この中の毒の濃度が安定した為だろう。

 ハナは腰を抜かしたままただ呆然とし、伊吹は、剣が頼りと言わんばかりに、その柄を握り直す。

「醜さが増したぞ、火穂伎命(ほほぎのみこと)」

挑戦的に言い放つと、激昂(げっこう)した火穂伎命(ほほぎのみこと)の獣のような吠え声が轟いた。

「神の牙でそなたの腸(はらわた)引きずり出してくれるわ!」

八頭の頭が、火穂伎命(ほほぎのみこと)の声に呼応するかのごとく、一斉にその牙を剥いた。



 ******



 コールは、一瞬、ほんの一瞬だけ、胸に走る痛みのせいで、意識を失った。

 ぐにゃりと足下が歪んだかのような感触がして、


 あ、落ちる。


 そう思った。

 しかしその刹那、彼の左腕が力強く握られた。

 体は穴へと大胆に傾いた状態で、止まった。

 すぐに視界に色を取り戻したコールは、ハッとその人物を見遣る。

 アメリア大佐だった。

迎えに来てくれたのだろうか。

縁に残ったコールの左足の近くに立って、二人分の体重を片手一本で留めている。彼女は、コールを見て、ふっと息を吐いた。コールはホッと安堵した。

「たい……」

さ、と声を上げようとしたとき、コールの体は再び大きく傾いた。

 悲鳴などあげる間もなく、ひやっとした気色の悪さが足裏から頭のてっぺんへと駆け抜ける。大佐の手は、掴んでいたコールの二の腕辺りからズズッと一気に滑り落ちていき、そして、

 ぱし。

 手首で握り直され、彼の体はさらに大きく傾いて止まった。

 地面に片方だけ残されたコールの左足と、手首を握るアメリアの手が、絶妙なバランスを保って二人分の体重を支えている。

 背中のマキが滑り落ちていかないか心配だったが、マキはもうろうとしつつもしっかりとその両腕をコールの首元に巻き付けていた。

 コールは一度こそ混乱しかけたが、アメリア大佐の表情を見れば、すぐに理解した。

 ――今のは、わざとだ。

 アメリアの口は真一文字に結ばれ、瞳には鋭さを宿して、こちらをじっと見下ろしていた。

 コールは、自分の顔が青ざめていくのをまざまざと感じ取った。下から吹き付ける〈ルホウ〉が、底の見えない深淵をよりいっそう、体中に実感させていく。


 あの手が、放された瞬間、落ちる。


 置かれた状況が、文章として頭の中で流れると、途端に恐怖が体中を駆けめぐった。

全身に鳥肌が立ちそうになるけれど、それに気を取られた瞬間、足を滑らせてしまいそうだ。

 ――落とされる、の、か……?俺は……。

 冷や汗のようなものが、額を滑るのを感じた。

「小娘、起きているのだろう」

アメリアがふいに言葉を掛けた。

全ての音をさらって行く暴風音の中、彼女の声は自然と叫ぶ形になる。

 マキは答えず、頭を上げる気配も見せなかったが、アメリアは構わず呼びかけた。

「今からする質問に正直に答えろ!でなければこの手を放す!」

「…………。」

「貴様のせいでこれまで死ぬぞ。これは貴様を助けに行ったがため私に盾つき、そしてこのような状況に陥ったのだ。いいのか?」

その言葉で、マキがようやく、ぴくりと頭を動かした。

「……訊きたいのは脱出法、だろう?」

「マキ……。」

マキがはっきりと言葉を発したことにコールが驚くのと、アメリアがフンと鼻を鳴らすのは同時だった。

「ついでに、あの化け物の弱点も教えてくれるとありがたいがな」

ありがたいも何も、命を握っている状況で言うそれは命令だ。

マキは怪訝そうな色を瞳に浮かべながら、初めてゆっくりと頭を上げ、そしてアレを、視界に捉えた。

 八頭八尾の白蛇。

「何だ……あれは……〈シンヒ〉なのか……。――っ、ハナ姉!」

もともと視力の優れている彼女の目が、すぐさま姉を認識した。

「教えろ、小娘」

アメリアの冷徹にも聞こえる声色が、マキに自失する暇すら与えない。

「マキ……」

苦しげなコールの声が、このままの状態で長くは持たないということを、マキに実感させる。だがマキは、少し悩むような色を浮かべながら、歯切れ悪く答えを口にした。

「今、ここから生きて出る方法は、……ない。」

ギリッ、とコールの手首が音を立てた。コールの顔が歪む。

「それで?」

アメリアはしかし、引っ張り上げる様子を見せずに先を促した。

「いいからまずは、私たちを引き上げろ!」

マキの焦燥した声が弾ける。

「答えをもらったら引き上げてやるさ。続けろ」

アメリアのよどみない返事に、マキは唇を噛んだ。

が、コールの腕が震えだしたのを感じ取ると、諦めたように急いて従う。

「あの〈シンヒ〉の群れの暴走を止めねば、外へは出られない。何とか外へ出られたとしても、そこで力尽きるだろう!つまり、風の――」

「……っく!」

コールの、息混じりの短い悲鳴で、マキの言葉は遮られた。

ズリッ、と、彼の左足が崖縁で滑る。

 ヒュッと一瞬、心臓が上下に激しくずれたかのような錯覚が二人を襲い、

 ぐい。

 ――間一髪。アメリアの手が強く二人を引き寄せた。

 ドッと前のめりになりながら勢いよく地面に戻ったコールを、アメリアは闘牛士のように華麗に身を翻して避け、彼はそのまま地面に四つん這いに倒れ込んだ。

マキはコールの横に倒れ込む。

 はあ、と地面の安定感に息をついた二人に、アメリアが上から言った。

「つまり、風の通り道を元に戻さなければならない、ということか」

マキの答えの先を読んでいた。

マキは地面に手をついて起き上がりながら、険しい顔でうなずいた。

「その通りだ。だけど風を導くはずの風車が、全て壊れてしまっている。だから不可能だと言ったんだ。唯一可能性があるとするなら」

「あの化け物を倒す、か?」

アメリアは、マキの言わんとすることをどんどん先読みしていく。

マキは八頭八尾の白蛇へ目を向けながら話した。

「私が教わってきた伝えでは……、〈シンヒ〉は王と認めた者には従うと……。あれを見ればあんただって、信じる気にもなるだろう?」

アメリアをちらりと見上げると、アメリアはむっすりと口を結んで化け物を眺めていた。

 向こうでは、向かってきた八頭の頭を、伊吹がまずは跳び上がっての一刀でなぎ払ったところだった。

 黒い光がほとばしるのが見え、切られた先の〈シンヒ〉たちが地面に落ちて行く。

 しかし地面に落ちた〈シンヒ〉はすぐに胴体へと吸収され直し、頭の部分にはすぐに他の〈シンヒ〉たちによって新しい首が形成されていた。

 その黒い光によって、伊吹、そして蛇と一体化している火穂伎命(ほほぎのみこと)の存在を認識したマキは、驚きを隠せない様子で息を呑んだ。

「なぜ……」

呟くなり、跳ねるように立ち上がって走り出す。

「マキ!」

慌てたコールが後を追う。マキは、駆け寄っていきながら大声で呼びかけた。

「ハナ姉!どういうこと?!」

「え……マキ?!」

気づいたハナが目を丸くする。一瞬こちらに気を取られたその時、蛇頭のひとつがハナ姉に迫ったのを、伊吹の一刀が斬り捨てた。

「邪魔だ、下がっていろ」

伊吹の殺気に満ちたひと言が降りかかり、ハナは戸惑いながらも、地を這うようにできるだけ離れようとする。

 マキに追いついたコールが、後ろから抱きつくようにしてその足を止めさせるが、マキはそれに構わず、もう一度大声を上げて問うた。

「どうして?ハナ姉!」

ハナは、マキも自分と同じ疑問を抱いてるのだと思った。


〝どうして〈シンヒ〉が、火穂伎命(ほほぎのみこと)に従っているのか。〝


そして妹に応える。

「分からない、あたしにも……どうして〈シンヒ〉が――」

「その男は何者?!」

マキの覆い被さるような質問に、ハナの動きが止まる。

「えっ……?」

「何故その男が、〝審判〟を受けている?!」

 ハナは、口をつぐんで目を剥いた。

 妹の目には、この状況が違って映っていたのだ。


 ――〝審判〟を、受けている?〈シンヒ〉に……?


 ぎぎぎと首を動かして、白蛇と奮戦する伊吹の姿を改めて目視する。

「……そっか……。」

ぽつりとその口が声を漏らした。

 絶望的に色を失っていた瞳に、一縷(いちる)の輝きが宿る。

「そっか……。やっぱり彼は……。いえ、彼こそが――。」

 ぶしゅううっと音を立て、左側二頭を斬り捨てた伊吹は、気づかなかった。

「ハナ姉っ!」

突然耳に入ってきた少女の声で、彼は振り返った。

 ――地面に座り込んだまま、自分を見つめるハナの瞳と目が合った。

 同時に視界に捉えたのは、その背後から迫る、一番右端の蛇。

「!」

伊吹はすぐさま地面を蹴った。

 だが間に合わなかった。

「?!っきゃああああああ!」

ハナの悲鳴が、近づいた彼の鼻先を掠って上へと消えていった。

第七章 王の光

第一節 失われた光


 八頭八尾の白蛇は、口にくわえたハナを高く高く持ち上げた。

 頭の先だけ形を崩して、〈震皮(しんひ)〉たちがハナの体にまとわりついて、その体躯を呑み込んでいく。

 伊吹は、すぐさま握った剣を振り上げて跳躍した。彼の目に、〈シンヒ〉が筋の流れのごとく絡み合う、白蛇の太い首が映る。

 そして彼は、その腕を振り下ろすより早く、腹に衝撃を受けて吹っ飛んだ。

「――ぐあっ!」

別の首が彼を押しやるようにして頭突きを繰り出したのだ。

 完全に一瞬、意識がハナだけに向いてしまっていた伊吹は、それをまともに受けて地面に叩きつけられると、岩壁に背が当たるまでの距離、地面を滑った。

 地面に這いつくばって、咳き込みとともに少量の血を地面に吐き出す。

衝撃で口の中を切ったのだろう。暗転していた景色がぐらりとすぐに戻ってくる。

 伊吹はよろりと目を上げた。

 ハナと目が、合うことはなかった。

その手首が、ずるりと、白蛇の首の中へ引きずり込まれていくのが、最後に見えた。

 切り裂いても切り裂いても、死を知らぬ生き物。圧倒的な力。

 そこに、吸い込まれていった、自分を好きだといった女。


 頭痛がした。

 何かが重なる。

 この気持ち。

 あの日と同じ。

 あの地獄……地獄の始まりの日と。

 ――また、私は。


 吹き飛ばされても放さなかった銅剣が、からんと音を立てて地面に落とされた。

 まとった陰の光が、フッと力無く消えた。


 ――また私は、助けられないのか。目の前であの男に、大事な人が殺されていくのを黙って見送るしかできないのか。


 瞳が揺れる。

呆然と、その場に凍り付く。

 自分が、今どこにいるのか、見失いそうな感覚に囚われた。

 あるはずのない黒煙が、目の前に満ちていく。

 臭うはずのない焦げ臭い臭いが、鼻をつく。

 繰り返すのはいつも、親しき人々の最期だけ――。


「剣を置くな!」

 ハナが妹だと言っていた少女が、十数メートルほど向こう側から、声を響かせた。はたと伊吹は息を小さく吸った。

黒煙が消え、ハナと同じ色の瞳が、視界に入る。

 マキは、今にも白蛇の前に飛び出していきそうなのをコールに全力で止められながら、伊吹に向けて声を荒げた。

「お前が剣を置いたときこそ終わりだ!目覚めろ、真の王として!ハナ姉はまだ、助けられる!お前だけが――」


真の王。


その言葉が、鐘のように心臓を打つ。


真の王。シンノオウ。


ハナも、同じ事を言った。


〝選ばれた御子〝。


「…………、ばかな。私にそんな器はない」


真の王しかこの白蛇を倒せぬと言うなら、私にどうしろというのだ。

 私は気高き生き物からはほど遠い。

己の憎しみに溺れたまま、闇から這い上がろうともしてこなかった。

 闇から這い上がることなど、諦めていた。

 お前やハナのような者こそ、王にふさわしく見える。


 私には、

「無理だ」

口の中で呟いた。



 ******



 花露(かろ)は、ハッとして物見の柵から身を乗り出した。

その金瞳に、揺らぎが表れる。

 それからすぐに、首元へと視線を落とし、じっと冬眠のように固まっている白蛇を見た。

「花露様、お降り下さい!」

下から焦ったような声がかかる。

 ガアガアと狂気に満ちた声を上げながら、一度は都の外へ追い出されていた鳥たちが、空を真っ黒に埋め尽くして飛んでくる。カラス、キジ、すずめ、ウグイス、ワシにタカにトンビまで。あらゆる鳥が徒党を組んで、堰(せき)を切ったように八方から迫っていた。

「みいちゃん」

祈るように花露は白蛇をなでるも、白蛇はまるで無関心の様子で、眠り続けていた。

 ビシッ、と矢が物見の外を掠め、今にも花露に襲いかかろうとした一羽のトンビが、地面に落ちた。

 見遣ると、物見の下では男たちが、弓矢を空に構えている。

 構えながら、再び花露へと叫ぶ。

「お降り下さい!危険です!」

 次の瞬間、その男へと大量のカラスが群がり、男の声は悲鳴へと変わった。周りの男たちが慌てて助けに入るも、完全にカラスとの乱戦と化している。

 花露は少しだけ顔をしかめた。

 どどどどど、と土煙が、あちこちで上がりだした。

「北門はねずみ、北西はいのしし、南は牛が突破したようでやんすな……。都の守りが崩れて行くのを、この目で見る日がこようとは」

他も時間の問題でやんすなと、花露は少しだけ寂しげに声を漏らした。

 そうして、いつものように白蛇に訊いた。

「あの男は、王権を放棄したのでやんすか?」

 しかし白蛇は、何の反応も示さない。

 花露は覚悟を決めた様子でその場に座った。

「滅ぶならば、最期まで見届けるのもわっちの役目でござんしょう」

都は今や、暴れ回る動物たちのあらゆる鳴き声と、人々の混乱と悲鳴で埋め尽くされていた。



 ******



――バァン!


銃声が海と空の境目へと消えていった。

 ワン中尉が鯨(くじら)を撃とうとしたとき、鯨たちの起こした大きな波によって、バロゼッタ海軍船はぐらりと大きく傾いたのだ。

銃口は大きく逸れ、バランスを崩したワンは、銃の衝撃も手伝って、補佐の二等兵を下敷きに派手に倒れこんだ。

 銃床を床に押しつけ杖代わりに立ち上がりながら、ワンは叫んだ。

「せんちょおぉ!迂回しながら鯨を振り切るネ!」

「分かっとる!」

バロゼッタ海軍船船長は、今の衝撃で落ちた帽子を拾いながら、船長室で二等兵の伝達に悪態をついた。

節くれ立った手が、少し重たげに、素早く舵を回す。

「さっさと帆を張れぇ!」

彼の怒号が遮られるようにして、再びバロゼッタ船が大きく傾ぐ。

 ごろごろと床の上をワインのビンが転がっていき、そして滑ってきた荷箱に潰されて割れた。

 船内、甲板を問わずあちこちで、乗組員が壁に叩きつけられたり、海へ落ちそうになったりして、とてもまともに指示が通る状況ではなくなっている。

 比較的大きな船であるはずなのに、鯨が意図的に作る壁のような波の前では、バロゼッタ海軍船は今や笹舟と化してしまっていた。



 ******



 また一人が、意識を失った。

 半数が地面に倒れ込む中で、老婆の祝詞(のりと)を詠む歌声だけが、厳かに響き渡っている。

 不穏な風は一層強く。

 不安を煽る地面の微振動はみるみるうちに早さを増し。

 そしてまた一人、肺の小さな者から順に、地面に突っ伏していく。

 ヤエ婆の舌もから回っていく。

 彼女一人なら助かったかもしれない。

 巫女の呼吸法をするのなら、詩(うた)など詠んでいてはいけないはずなのだ。

 けれど誰もそれを知らず、誰もそれを止めなかった。

 ヤエ婆の詩は、もはや言葉を為してはいなかったが、それでも続く。

 子どもの次はその親が。

 呼気を送ろうとして、息が続かず、二重に倒れた。

 詩はまるで、死んでいく者への手向けのようだった。

 誰からともなく、じっと呼気を溜めておくのをやめて、ヤエ婆に合わせ詠い始めた。

 皆は巫女の祝詞を知らないから、それは一音だけを、ヤエ婆の声の調子に乗せただけのものだった。

 一斉の歌声は、一面の曇天に向かって、響くことを知らぬまま重く消え。

 涙を流しながら、一人、また一人と、後に続くように意識を遠のかせていった。

 ヤエ婆の声が、ふと止んだ。

 風の戦士たちは、はたとヤエ婆を見た。

 彼女はうつむいたまま微動だにせず、半開きの両目から命の光が消えていた。

 でたらめな祝詞の声が、爆発を伴ったかのようにようやく空へと届いたのは、その直後のことだった。

 そしてそれも長くは続かぬうちに、風の音の中へとかき消えた。



 ******



 埋め尽くされた悲鳴の中、彼女の中だけは静かだった。

 白蛇が、首元で動いた。かと思うと、虹色の光となって、消滅した。

 それは霧散したと言うよりも、まるで、花露の肌から浸透して、その内側へと吸い込まれたかのようだった。

 花露の虚ろに見える金瞳に、初めて、少しだけ涙が浮かんだ。

 一粒のしずくが頬を滑ったとき、後頭部を鈍痛が襲った。倒れ込んだ花露は、自分を土器で殴った者を見上げた。

 なりからして、宮廷に仕えている者なのだろうと判断がついた。

その者は、花露の瞳と目が合うと、びくりと恐怖を浮かべた。

けれどそれ以上に、その男はもっとちがう恐怖を抱いていた。いや――、

 それは、むしろ狂気へと変わっていた。

 冷や汗の滲む顔。血走った目。震える声で、男は言った。

「供物と……なりて……どうか〈ミホウサマ〉の怒りを……お鎮め下さいませ。花露様」

 花露は、動く気力もなく、その者に答えた。

「わっちを殺しても、何の意味も為さぬでやんすよ」

淡々と。他人事のように。

 だが男にはその声が届かなかった様子で、軽々と彼女の体は担ぎ上げられると、物見の下へと降ろされた。

 そこには大勢が待ちかまえていた。

 老若男女、皆、泣きながら、嗚咽しながら、花露にすがった。

 助けてください、と。

 花露は、まるで物のように数人の男たちに担がれて、祭壇へと運ばれた。

 火あぶりが用意されていた。

 祭壇の前で、彼女は形式だけの祈りを捧げた。

 貴重な油を、たっぷりと頭からかけられて、丸太に縛り付けられた。

 足下につけられた火は、すぐに油を伝って彼女の体に巻き付いた。

 花露は、熱い猛者の壁越しに、自分にひれ伏す弱き者らをじっと見ていた。

 最期の時まで、

 熱さを感じてはいないかのように、

 ただ彼女は、彼らを見下ろしていた。

 その瞳に宿っていたのは、哀れみだけだった。


 都の最後の守りを焼き殺していることに、この者たちは最後まで気づかなかった。

 〈ミホウサマ〉の恩恵を伝える者がいなくなっては、

 この後お前たちは、

 誰にすがるのでやんしょうか。


 そして彼女は、丸太とともに真っ黒な炭になるまで、焼かれた。

第二節 灯る光


 木がミシミシと音を立て出し、まもなく自身の重量に耐えきれなくなると、幹を無惨に折りながら、地面へと倒れ込んだ。

 時節に似合わず茶色く乾燥した葉が、悲鳴のように音を鳴らして散った。

 つい今し方倒木と化した木を、瞳の隅に映しながら、ヒュウガは愕然としてその盆地を見下ろしていた。

 秘密の通路への入り口であるあの泉から、森を突っ切るようにしてここへ向かって来たのだったが、

 盆地は消滅していた。

 〈風の戦士〉たちがいるはずのお椀型の土地は、〈龍風(るほう)〉の爆発とともに雪崩れてきた〈震皮(しんひ)〉の大群によって埋めつくされ、すっかり平らに均(なら)されてしまっていたのだ。

 盆地から溢れたシンヒの群れは、留まることを知らぬかのように、風の流れに沿ってさらに西を目指している。


 シンヒは神の使い。

 シンヒは神聖なる獣。


 そう言われているのは知っているし、風の戦士たちほどではないにしろ、〈風尾族〉でも彼らの存在を畏れ、尊んできた。


 だけど、

 今はそのシンヒが、

 ただおぞましく、疫病のように思えた。


 ヒュウガは、盆地の北側で立ちつくしていた足を、じりと一歩前に踏み出した。暴風の壁の中に入ったのを肌で感じる。

すぐさま足下に絡みついてくる一角蛇を、蹴散らすように払う。

 盆地の内側へ向けて倒れ込んだ木々が、たちまち〈シンヒ〉の中に沈んでいく。

 あまりにぎっちりとしているので、地面のように上を歩けそうな錯覚に陥るが、木々が呑み込まれていくのを見て、間違いだと気づかされる。

 ヒュウガは進みかけた足を戻すと、額に冷や汗を滑らせながら小さく悪態の言葉を吐いた。


 〈シンヒ〉という生き物を、平素なら殺すなどもってのほか。

 どんな天災が降りかかるか分からない。

 だが。

「調子に乗るなよ、蛇共が」

 今はそんなことどうでも良かった。

 ただ彼の心臓には、怒りから来る熱さだけが燃えたぎっていた。


 〈風の戦士〉たちは、――ハナたちは、命を懸けて、てめえらを守ってきたんだ。

 その恩返しがこれか?笑わせんなよ。


 周囲を見渡した彼の目にその時飛び込んできたのは、地面に燻るたいまつの火種。

 見張りの〈仙〉兵が立てていたものだ。奴らの姿はない。巻き添えになったのか、もしくは危なくなる前に逃げたか。

 たいまつの台座は倒れていたが、シンヒは火を避けて通っていたため、その火種だけはかろうじてまだ生きていた。

 ヒュウガの足が地面を蹴った。

 火種さえあれば十分だった。

 ――シンヒは東から盆地へとなだれ込んでいる。だったら断つべきは――。

 彼は盆地を東側へと回り込みながら、そこら中に散乱している折れ枝のひとつを手に取ると、火種へとあてがった。

 水分を無くした枯れ枝は、すぐに火を受け入れた。

 ヒュウガはそれを持って今度はシンヒの波の中へ分け入った。

盆地の東側に倒れ込んだ、先ほどの木へと辿り着くと、上に乗っかったシンヒを乱暴に払いのけ、

 火を、つけた。



 ******



 「あの化け物さえやれば、ここから生きて出られるんだな?小娘」

アメリアの声が降りかかると、マキはハッと顔を上げた。

 彼女はサーベルをすらりと抜きながら、前方の大蛇を見据えていた。

「なっ……無茶だ!あれはあんたにやられるようなものじゃない!普通の獣とは訳が違うんだっ」

「ではあそこで怖じ気づいてぼけっとしてる男になら倒せるのか?」

鋭い指摘にマキは一度口をつぐんだが、その後「そうだ」と、か細く答えた。

 その様子にアメリアは、フンと鼻を鳴らし、真一文字に結んだ唇を少しだけ緩ませた。

「私だって化け物なんぞ相手にしたくはないさ」

言うなり彼女は走り出した。

 大蛇を前に、彼女の長い足が強く地を叩く――。

 壁際に追い詰められた伊吹は、火穂伎命(ほほぎのみこと)の指示によって、蛇の首で高く締め上げられた。

「長き務めご苦労だったぞ、伊吹」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の目の前へと掲げられる形で対面し、伊吹は空中で顔を歪める。

「安心するがよい。巫女は、死んではおらぬ」

 うねうねと蛇の背が波打ち、火穂伎命(ほほぎのみこと)の隣に呑み込まれたハナの顔が、ずいと現れる。

意識を失っているその唇を、火穂伎命(ほほぎのみこと)の人差し指がするりとなでた。

「さわる……、っ」

カッと頭に血が上った様子で伊吹が声を上げるが、ぎりと締め上げられてそれも最後まで言葉に出来ぬまま終わる。

「私が面倒を見てやる。伊吹、喜べ」

火穂伎命(ほほぎのみこと)が右手を差し出すと、〈シンヒ〉が群がって右手を覆い、そしてそれは、鋭い槍となって硬質化した。火穂伎命(ほほぎのみこと)の右腕そのものが白き刃となって、その切っ先は伊吹の首へと向けられた。

「そなたには、今ここで死ぬことを許そうぞ」

 刃先はつうっと矛先を下へとずらし、腹を狙って突き出された。

「ただし、最後まで我を楽しませるのだ。苦しんで死ね」

 ――ドッ――。

 腹に来ると思われたはずの衝撃が、背中全体に来て、伊吹は一瞬混乱した。

 雨のように降り注ぐ〈シンヒ〉の中、宙を舞う栗色の髪が目に飛び込んでくる。

 そして気づいた。

締め付けていた蛇は彼女によって切り落とされ、自分は地面へと投げ出されたのだということに。

 アメリアは、ダンと膝を曲げて着地するなり、近くに落ちていた銅剣をこちらへと放った。

「戦の勝敗は殺した馬の数では決まらん。将の首が全てだ。そんなことも分からないか?」

「――――。」

伊吹は、アメリアの行動に驚きを隠せなかったが、何よりもその言葉に目を見開いた。

「――私は、戦を……していたのか……?」

 放られた銅剣をもう一度、握りしめる。

冷たい、しかし慣れた感触が、じんわりと手の平から上ってくる。


 ――戦……?これが。


「今に限って言えばお前が将だ、伊吹」

サーベルを油断無く構え直しながら、アメリアが声を掛ける。目の前ではもう、切り落とした頭が再生されている。

「邪魔をするな異人めが!」

火穂伎命(ほほぎのみこと)の激昂した声は〈シンヒ〉の同調を誘い、八つの首が牙の形を見せて二人への威嚇を放つ。

 伊吹は剣を手に、立ち上がった。

 怒る火穂伎命(ほほぎのみこと)と、蛇の首越しに目が合うと、

 その瞬間、はたと。


 見える景色ががらりと変わった。


 くにを背負っているはずの王。

 ――だが……。

 だがあの王は……あの男は、いったい何の上にふんぞり返っているのか?――


 その時蛇が、蛙を捕らえようとするかのごとく、素早く突きを繰り出した。

 伊吹が視界の右端から迫り来るその一頭を見たときには、すでに蛇の鼻先が当たりそうな距離だった。

 一寸、彼の頭が呑まれたかのように見えた。

 だが次の瞬間、蛇の口からあご下に向けて一本の線が走ると、あご部分が切り落とされた。すぐさま伊吹のもう一刀が右上から蛇の頭へと振り下ろされると、完全に頭が落とされる。痛みを感じない様子のシンヒはただばらけただけで、頭を再生にかかるが、次の攻撃にすぐに移れるわけではない。その隙に伊吹は間合いを取ろうと飛びすさる。

 彼の持つ銅剣が、じわりと橙色の光を帯びていた。

 伊吹は、もはや蛇などあまり眼中に無いかのように、銅剣を眺めた。

 もう一度火穂伎命(ほほぎのみこと)へと目を向けながら、彼は先ほどの自問への答えに気づいた。

「逆だ……。逆だった」

 正面から間を置かず突進した蛇を、まるで竹でも伐採するみたいに切り落とす。

 その瞳はもう、火穂伎命(ほほぎのみこと)から一時もぶれることをしない。

 伊吹は自分の中に覚えた違和感を解消するかのごとく、答えを口にしていく。

「あの男は〈シンヒ〉を操れているのではない。〝乗せられて〝いるだけだ。強大な力を差し出されて……――」

 それが、〝火穂伎命(ほほぎのみこと)〝という大王(おおきみ)の真実。

 これが、

「――これが、〈仙〉というくにの本質だった」

 そう思った途端、笑いが込み上げてきた。

 ばかばかしさに肩を揺らしながら、左から来た二頭を斬り捨てる。

さらに右からのもう一頭は、進み出たアメリアへ任せた。

「何を笑っておるかあ!そたなに勝ちなどない!〈ミホウサマ〉が味方した我こそが王!まだ己の立場が分からぬとは、愚かな!」

 火穂伎命(ほほぎのみこと)の声には怒りと、若干の焦りが見えた。

 伊吹は顔を上げた。

 まっすぐ、自分を虐げてきた男を見返した。

「〈仙〉は担ぎ上げる人間を誤った。私が憎んできたものは、張りぼてで出来た空っぽの人形にすぎなかった」


 ――では何を憎むべきだったか?

 いや、何を責めていたのか?――


 瞬間、銅剣の光は太陽のごとく、光を放った。

 伊吹が夢で見てきたあの、本来の光を取り戻したのだ。

 光は彼を影の中に落とすことなく、その暖かい色で包んだ。

彼の目には使命を帯びた輝きが。その腕には力が宿ったように見えた。


「打ち破るべきは、〈仙〉の空虚に目を向けもせず、〈仙〉の横暴をこの目にしながら、己の復讐に囚われるがあまり行動を起こさなかった、私自身だったのだ……!」

 彼は銅剣を一振り、地面と並行に滑らせた。

 銅剣の刃先は弧を描き、光の輪が波動となって、空気を震わせ、

 そして――。



 ******



 「っ、中尉、準備完了です……!」

バロゼッタ海軍船。

ワン中尉の臨時補佐中の二等兵は、甲板の柵にしがみつきながら声をひっくり返しつつ報告した。

 ワンは、片手だけで揺れに耐えながら、いつも笑っているような横長の目を、さらに細めた。その先は執拗に追ってくる鯨の巨影を捉えている。

「左へ旋回、停止」

 ワンが言った。しばらく後、どうにかこうにかといった様子で、船が無理矢理舳先(へさき)を九十度傾ける。

波を横腹から受ける形となって船が再びおおきく傾いだ。

 船長室では、この船の主が、こめかみに青筋を浮かばせながら、怒号を上げていた。

「いったい何を考えとるんだあの阿呆は!沈むぞ!」

 甲板では、二等兵がワン中尉の指示を待つ。

「中尉、いつでも!」

 海の上では鯨(くじら)たちが、獲物が無防備に止まったのを感じて、ラストスパートよろしくずいずいと接近してくる。

その鼻先に巨大な波を携えて、白いしぶきが龍をかたどって迫り来る。

 この時、バロゼッタ海軍船は、どこか様を変えていた。

 普通あるはずのものが無くなっていたのだ。そしてそれは今、船の左腹に横長くぶら下がっていた。

「構え」

ワンの指示がついに飛んだのは、鯨が大砲の射程距離に入ろうというとき。

 鯨たちはそこから左右に広がろうとしていた。船を囲むつもりなのだ。

 このままでは普通に大砲を撃ったところで当てるのは難しい。

 しかし船上では、迷うことなく指示が飛んでいた。

 そして、鯨たちの持ってきた大波が、白き龍となって船底をぐいと持ち上げたとき。

 斜め上を向いた大砲が、一斉に火を噴いた。


 ごおん!ごおん!


 一瞬ずらされた二回の発射音。

反動に押し返される四機の砲台。

 発射されたのは、砲弾に結びつけられた網。普段マストに掛けられているあの巨大な網だった。

 それは鯨からの逃亡中に用意された即席投網。

マストの網を切り外し、端四箇所に砲弾を結びつけ、網が船の外側に来るよう甲板から紐で吊し、砲弾だけを窓から大砲内へと回収、セットしたというわけだ。

 網は砲弾に引っ張られて大胆に空へ身を投げ出すと、先に撃った二発と一瞬後の二発の距離差によって空中で広がり、波を抑えつけるようにして鯨の上へ。

 今にも分かれようとしていた鯨は上空から迫るそれに気づけず、三頭が一緒くたに網に絡まることとなった。かろうじて逃れた二頭の鯨が、驚いたか慌てたかの様子ですいーと三頭の周りを泳いでいる。

 波は抑えつけられそれ以上膨れあがることを許されず、バロゼッタ船は大きな衝撃とともに船底を海面へと叩きつけながら、水平を取り戻す事に成功した。

 衝撃に誰もが怯んだ静寂のあと、

「オオオオオオオオオオオオオォォォォォ!」

歓声が上がった。

「ワン中尉!ワン中尉!」

ワン中尉コールが巻き起こり、誰もが声の限りに勝利を叫んだ。

鯨を振り切る指示を出したのは、鯨たちの動きを封じる投網を作成する余裕を作るためだった。

「やはり……恐ろしい人だ……。」

二等兵は自分が鯨側でなくてよかったと心から思った。

 一方船長室では、

「滅茶苦茶だ。先に言っとけ」

 船長が戸を開け、寂しくなったメインマストを見上げながら、至極複雑そうにぼやいていた。

 そんな中、あまり間を置かぬまま伝達の者が駆け寄ってきた。

「すぐに錨を上げろとのことです」

「分かっとる!」

船長はコートを翻し、割れたワイン瓶の中身を一気に流し込みながら、再び舵の前へと立った。

「これで帆を畳めなくなったぞ、ワン中尉。残りの鯨から逃げ切れるかどうかは、海の気まぐれ次第というわけだ」

口をぬぐいながら、船長は一人こぼし、

 甲板ではアメリア大佐がいつもするように仁王立ちしながら、ワン中尉が、まるでその呟きが聞こえていたかのように、

「運なんて初めから当てにしてないヨ。船長は海の女神が惚れるような色男じゃないでしョ。だから、あとはその腕次第、ネ。船長」

 バロゼッタ海軍船は追い風に向きを戻し、残りの鯨から一刻も早く離れるべく、海面を滑り始める。



 ******



 ヒュウガは、単に、火を嫌がる〈シンヒ〉の侵攻を食い止めようとしただけだったが、偶然にもそれは予想以上の効果をもたらした。

 倒木に沿って燃えさかった炎の壁が、〈シンヒ〉の毒までも打ち消したのだ。

 〝〈シンヒ〉は、己の毒霧の中でしか生きられない。〝

 その法則を知らなかったヒュウガの目の前で、風下側にいた〈シンヒ〉たちはあっという間に灰と化してその身を散らした。

 灰は黒煙混じりの風に乗って、さらさらと西に向かって吹きすさび。

 盆地の底に埋もれていた人々を露わにしていった。

 ヒュウガは槍を片手にすぐさま盆地を滑りおりた。

「おい!」

 誰にともなく呼びかけながら、一番近くの幼い女の子に駆け寄る。

「しっかりしろ!生きてるか?!」

しかし、返事はなく、その小さな体躯を抱き起こし、心臓に耳をあてるも音はしない。

 だらりとぶら下がる手。一本線に閉じられたまま開かない目。

「おい……」

ヒュウガは、初めてぞっとした感覚が首筋を駆け上がるのを感じた。

「おい、誰か!」

 手遅れなのか。

 頭によぎる嫌な予感を打ち消すように、彼は立ち上がって大声を上げた。

「返事しろ!おい!」

 〈風尾族〉の……俺たちの、せい……なのか?

「誰か!意識ある奴はいねえのか!」

 違う人間に駆け寄っては、その肩を揺らす。


 俺たちは……。

 何を

 シテシマッタンダロウ。


 六人目の戦士を揺すったところで、ヒュウガはがくりと肩の力が抜けるのを感じた。

「くそ」

 こんなの、ないだろ。

 込み上げてくる熱いものは、行き場無く、ただ彼の表情を険しくさせる。

 誰も動かない。

 そんな中一人動き騒いでいる自分が、ひどくこの場にそぐわないものに思えてきた。


 〈風の戦士〉も、〈風尾族〉も、戦士だ。

 死が条理であることは誰もが覚悟の上。

 だが、〈風尾族〉は家族のために、信念を曲げて〈風の戦士〉を襲い、

 〈風の戦士〉は信念を通そうとしたにもかかわらず、守ってきたはずの〈龍風(るほう)の寝床〉によって滅ぼされた。

 俺たちは、何のために何をしたかったのか。

 こんな死に方……無いんじゃないか。


「誰か……息を吹き返せよぉ」

口から漏れ出た掠れきった声は、自分でも驚くほどに情けなかった。

 ――何をしたらいいのか、もう分からねえよ。

 腕の中の戦士をきつく抱きしめた。

「すまねえ」

 小さく、重く、謝罪した。

「――う」

 小さな吐息のような声が、ヒュウガの耳に入ったのは、その時だった。



 ******



 そして――。

 眩い光の波動は、八頭八尾の大蛇を散り散りに引き裂いた。

 絡まった糸玉がほぐれたみたいに、白い巨体は音もなく崩れ落ち、替わりに緩やかな傾斜の小山を為した。

 先ほどの頑丈な結束が嘘のように、わしゃわしゃと力無く蠢く〈シンヒ〉の中、呆然と座り込む男がいた。

 栄華にあぐらを掻き続けてきた男は、それ故に、

 栄華が己の手を離れつつある事実が、一分(いちぶ)たりとも信じられなかった。

 虐げてきた奴隷が、

 今や光り輝く銅剣を持ち、威光すら感じさせるようになったその男が、近づいてくるのが見えた。

 ぼんやりと、頭の片隅で思った。

 ついにこの我に、とどめを刺すのだと。

 しかし奴隷はこちらなど見向きもせず、傍らに落ちた巫女へと駆け寄った。

 その身を抱き起こし、強くその名を呼び、巫女が目を開けると、

 しっかりと抱きしめていた。

 この大王(おおきみ)が存在しないかのような振る舞い。

 斬りつけられる以上の屈辱。

 男は一人、呆然と座り込んだまま。

 ただ、こんな事があるはずがないと思った。

 すると。

 その思いが届いたかのように、

 〈シンヒ〉たちが再び彼の元へと集まってきた。


 〝核を取り戻さん〟。


 男にだけは、神の使いがそう言ってるように聞こえた。


 終わっていない。

 我が王なのだから。

 他に王はいらん。

 天が認めたからこそ、我は大王(おおきみ)となった。

 そうに違いないのだ。

 この富を支配を権力を、

 誰にも渡しはしない。


 〈シンヒ〉が胸元へと上ってくる。

 

 そうだ、それでいい。

 今一度我の腕を剣に。

 我の体を大蛇に。

 力を我に。







 ?





 待て。

 息が出来ぬ。

 首に…………。



 ……………………。




 火穂伎命(ほほぎのみこと)の恐怖に青ざめた表情は、すぐに群がった〈シンヒ〉の下へと埋もれていった。

〈シンヒ〉の尾がバタバタと小山の外側で揺れ、

 悲鳴をあげる間も与えず、

 血も流させず、

 大王(おおきみ)火穂伎命(ほほぎのみこと)は、〈シンヒ〉についばまれ、最期を遂げた。

第三節 王の光


 コールは、地に膝をついたままで、声を漏らした。

「勝った……?」

アメリア大佐を見れば、先ほどの波動に足を踏ん張った体勢でいたが、サーベルを鞘に収めている。

 大佐が武器を収めたのをみてやっと、本当に怪物は倒れたのだと実感することが出来た。

「マキ!」

瞳に希望を宿しながら、すぐ側に引き留めていたマキへと声を掛ける。

 彼女の様子がおかしいことに、すぐに気づいた。

 まず、コールの声に反応しなかった。

 次に、彼女の見開かれた両目は、蛇の倒れた場所ではなく、制御板――彼女らが〝審判のはじき〝と呼んだもの――の方を見ていた。

「……マキ?」

 顔を覗き込んだとき、

「聞こえる」

マキの唇が動いた。

 そして、彼女の足は〈審判のはじき〉へと動き出す。

「なに……」

コールの声は、彼女の耳には入っていない。

 早足になるにつれて、今度はもっとはっきりと、マキは同じ言葉を繰り返した。

「聞こえる!〈シンヒ〉が呼んでる!」

「え?」

もはや走り出している彼女の後を、戸惑うコールが慌てて追いかける。

 意識を取り戻したばかりのハナは、伊吹の肩越しにマキを見つけて、眉を寄せた。

「あの子……何をする気?」

 とっさに立ち上がろうとするけれど、伊吹の腕が固くそれを拒んだ。

「伊吹」

「……もうしばらく」

一言だけ、呟くように言われて、ハナは目だけで妹を見守るしかなかった。

 強く振りほどくことが出来なかったのは、彼が、水たまりで溺れた後にも、同じ事をしたのを思い出したからだ。

 きっと心細いのだと、それだけが何故か、痛いほど伝わってきた。

 マキは、〈審判のはじき〉の台に辿り着くと、それに手をかざした。

 彼女の透き通るような蒼の目が、光を帯びたように見えて、コールは少し離れたところで足を止めた。

 何か分からない、それ以上近づけぬ雰囲気があった。

 彼女の唇が音をこぼした。

「ひと」



 ******



 未だ所々に赤い光を燻らせ、黒い灰を宙に舞わせる火あぶりの跡。

 そこにもはや人はいなかった。

 民は皆、歯止めの利かなくなった獣たちに次々と襲われたからだ。

 その場所にいる者と言えば、――人間も獣も含めて――血を流し倒れて動かなくなった者だけだった。

 そんな血塗られた丘の真ん中、

灰の発生元である供物台の上、ヒトくらいの大きさの黒い炭の塊は、突然鋭い音を立てて、表面にヒビを走らせた。

 ヒビは瞬く間に広がった。

 弾けるような音が連続的にこだました。

 まもなく、バキンと何か太いモノが割れるような音を最後に、炭は八方に弾け飛んだ。

 火などとうに根だけと化していたはずの供物台の上、一瞬、大きな火柱が、龍のごとく天へと燃え盛った。

 火柱は刹那に消え、そしてそこには、白い肌の少女が、一糸まとわぬ姿で現れた。

 あごの辺りで切りそろえた黒い髪に、虚ろにも見える金瞳を携えた、ふしぎな雰囲気の少女は、灰の中から身を起こすと、地面を見下ろした。

 黒く焼かれた自分の抜け殻が横たわっていた。


 「花露様……?」

「花露様が!」

 どこからともなく少女の復活を驚く声が上がり、人々が集まってきた。

「誰ぞ、召し物を!」

 気の利く誰かの言葉で、すぐに彼女の肩に装束が掛けられると、少女はそっと立ち上がり、どこか遠くを見つめた。

 厚く低い雲に覆われていた天に穴が空き、赤みを帯びた斜陽が都を照らした。

 太陽に手をかざすと、光の中に、まるで最初からそこにいたかのように、腕に巻き付く白蛇が姿を現した。

 白蛇は、何かを言いたげに、じっと彼女を見下ろしていた。

「わっちの役目は、終わらなかったというのでやんすな?」

 少女は呟いて、手の先を首元へ近づける。

 白蛇は導かれるようにするすると、彼女の首元へ収まった。

「みいちゃん……御前(おまえ)はこうなることを予測していて……」

言いかけて、ハッと小さく息を呑み口をつぐむ。彼女は〈ルホウの山〉の方角へと目を遣った。

 白蛇の金瞳が光を帯びた。

 十人にも満たない群衆が息を殺して見守る中、何かを聞き取ったかのように、〈仙〉の巫女の唇が音をこぼす。

「ふた」



 ******



 「――ここのたり」

マキの指が、数を唱えるごとに、〈審判のはじき〉の上を滑った。

「もしかして、あの子……」

ハナが、遠巻きに、ぽつりと呟く。

「〈シンヒ〉と呼吸を……合わせてる……?」

「ふるべゆらゆらとふるべや」

数えの最後が発せられたとき。

〈審判のはじき〉のレバーの配置は、まるっきり変えられていた。

 コールは、元の配置とも違うその新しい組み合わせに、思わずその場で首を伸ばした。

 彼の目には、もはやそれが洞窟の地図に連動しているようには見えなかった。

 制御板ではない、と、ハナが言ったのを思い出す。

 〈審判のはじき〉の表面が、薄緑色の光を帯びた。

 マキの瞳が、それを映して光を帯びた。

 文字盤には、光っている箇所と光っていない箇所が存在して、おそらくその光源は、石台の中に発光バクテリアでも溜まり込んでいるのだろうと思われるが、

とにかく文字盤には、今まで無かった文章が、光の加減によって新たに浮かび上がったのだ。

 それが何と書いてあるか読み解く前に、マキがゆっくりと振り向いた。

 彼女の瞳に映った薄緑の光が、消えることなく映ったままであることに、コールは驚きを隠せなかった。

蒼の海色に、キラキラと輝く薄緑の文字が揺れ動いていて、これ以上なくふしぎで、これ以上なく、美しい色だった。

 マキは、辺りを見回すようにして、やがて伊吹を見留めると、口を開いた。

「目覚めし真の王。是(これ)へ」

マキの纏う空気は、もはや十三歳のそれではなかった。

 伊吹が、一度ハナと顔を見合わせた後で、ハナに促されるようにして、銅剣を手に、マキの前へ進み出た。

 するとマキは、一も二もなく彼の足下へひざまずいた。

 戸惑いつつも、状況を見定めようとしている伊吹の表情を見上げて、

マキは、静かに、しかし響くような声で、告げた。

「我らは王を見極め、〈ミホウサマ〉と真の王に忠誠を誓う生き物。――新王、伊吹。今一度、王の光で我らを照らし、新しき時代の到来を示されよ」

「……王」

伊吹は、見開いた目で、少し引け腰に呟く。

「私は、私は――、王になる器ではない」

彼は、鞘に収めた銅剣を、マキの前へと横向きに差し出した。

「これはお返しする。担ぎ上げる人間を間違ってはいけない」

その表情によぎる翳(かげ)り。

しかしマキは、銅剣を受け取らず、その鞘にそっと、愛おしげに手を添えた。

「決して間違ってはおらぬ。確たる理由が欲しければ言ってやろう。西の盆地には今年、ヒトにとって有益な種の風は吹かなかった。そのことが一部の雑草に毒を溜めさせ、巡り巡って家畜とヒトへの毒と成り代わった。疫病の蔓延……〈ミホウサマ〉の御子と名乗っていた火穂伎命(ほほぎのみこと)は、一度だってそれに目を向けただろうか。他の豪族は?〈仙〉の都に住む民は?

 答えはひとつだ。〝誰一人助けようとした者はいなかった〝。」

「!……まさか、あえてそうしたのか?私を試すために!」

声を荒げた伊吹をちらと見て、しかしそれには答えず、マキは続けた。

「西の盆地は、〈仙〉の一部であり、同時に〈仙〉にとっては辺境。見捨てても何の不利益も被(こうむ)らぬ。そなただけだった。何度も足を運び、病人や飢餓の者を看ては、何も出来ぬ己に腹を立てていたのは」

マキはそこで初めて、不意にハナへと目を向けた。

 伊吹の後ろで遠巻きに、成り行きを見守っていたハナは、妹が向けた視線に思わずどきりとした。

 その透き通って、輝く瞳は、一度も見たことのないもので。

 実の妹のはずなのに、そこにいるのは妹ではない、何か別の、ひどく尊い生き物だったのだ。

「え…………」

「后となりて、新王伊吹を支えよ、ハナ」

その言葉に動揺を見せたのは、ハナだけではなかった。伊吹は驚いたように顔をあげ、ハナを顧みた。

 二秒の沈黙の後、

「伊吹……」

どうすべきか迷った様子で、ハナが声を上げたとき。

「ハナ」

ほぼ同時に、伊吹が口を開いた。

「私のそばにいてくれるか」

彼の言葉は、決断に満ちていた。

 ハナは、一瞬、言葉を呑み込めずに固まった後で、頬に涙をこぼした。

「はい、真の王、伊吹」

彼女は顔をほころばせ、泣きながら、そうひざまずいた。

「伊吹。我らに示す刻だ。都は次期王の座を狙う獣たちに襲われている。高らかに光を示し、都と、全ての生き物を救うのだ」

マキの声へと振り向いた伊吹の表情からは、揺らぎが消えていた。

「ひとつだけ」

銅剣を持ち直しながら、伊吹が訊こうとすると、マキが先に応えた。

「先ほどの答えが気になるか。……〈龍風(るほう)〉は、そなたの素質を見分けるためだけに、生き物を滅ぼしたりはしない。

自惚れは転落を招くぞ、若き王よ」

「ではなぜ、あのようなことを」

問うた伊吹に、マキは少しだけやれやれといった風に息を吐いた。

「〈龍風(るほう)〉は全ての生き物の源だということを忘れるな。西の盆地には、放っておけば増えすぎて自滅する生き物がいた。それを助けたのだ」

「それは……」

興味を持ったのはコールで、思わず口を挟むと、マキがコールに向けて、柔らかく答えた。

「そなた達すらも知らぬ、小さき小さき生き物だ」

コールはその答えに、期待と驚きで息を呑んだ。

 マキは、伊吹へ向き直ると、促した。

「さあ、銅剣を高く掲げよ、そして王として命じるがいい。我らにどうして欲しい。真の王よ」

 伊吹はその声に誘われるようにして、抜いた銅剣の切っ先を、天へと向けた。

 銅剣は、刀身を露わにした瞬間から、明るく光り輝いていた。

 伊吹は己を落ち着かせるように、一呼吸置き、そして、命を発した。

「新王伊吹が〈震皮(しんひ)〉に命じる。

何人(なんぴと)にも壊されぬ、固く輝く網となりて、〈龍風(るほう)の寝床〉を永久に閉ざせ。

〈龍風(るほう)〉を八方に等しく吹き出すよう仕向け、毒の風の暴走無きよう道を示すのだ。

揺るがぬ事なき忠誠を以て、王おらずともここを守り続けよ!」

 瞬間、赤と金の混じったような光が、爆発のように視界を奪った。

 マキが、ハナすら知らない神歌を歌いだしたのも、光が弾けたのと同時だった。

第四節 道標


 「なんだ……急に波が止んだ」

呟いた船長の下に、船員が駆け込んできた。

「鯨が去っていきます!」

「なに?!」

 甲板ではワン中尉が、我に返ったように沖へと引き返していく鯨たちをじっとにらみ付けていた。が、戻ってくる気配が無いのが分かると、すぐに声を張り上げて言った。

「拠点の浜へ帰港準備ネ!大佐を拾いに行くヨ!」



 ******



 〈仙〉の都でもまた、海とまったく同じようなことが起こっていた。

 すなわち、あれほどまでに猛り狂っていた獣たちが、一斉に都の壊れた各門へと向かい始めたのだ。

それはまるで、雲の切れ間から差し込んだ斜陽になだめすかされたかのようだった。

 息も絶え絶え、疲労困憊して生き残った民たちは、森や草原や山へと帰っていく彼らを、

ただ呆気にとられ、追い立てる気力も力もなく、安堵の気持ちとともに見守った。



 ******



 〈ルホウの寝床〉では、巣穴に戻るかのごとく風穴に向かい始めた〈シンヒ〉たちが、縁に辿り着くなりお互いをガッチリと編み込み合うと、

吹き飛ばされそうなその身を次々と黄金へ変えていった。

 門を塞いでいた〈シンヒ〉も例外ではなく、一度鍾乳石のようになっていた者も、蛇へと戻ると、風穴へと集結していく。

どしゃ、と崩れ落ちる音とともに、塞がれていた出入り口が再び姿を現した。

「ぼさっとするな、コール助手。ここを出るぞ」

 〈シンヒ〉が〈龍風(るほう)〉の吹き出し口を覆うように黄金の籠を編み上げていくのを、言葉を失って見つめていたコールに、アメリアが通り過ぎざまに声を掛けた。その言葉で我に返ったコールは、慌ててアメリアとそれに追従するバロゼッタ兵の後を追おうとして、踏みとどまった。

「マキ…………」

 振り返った彼の目に、〈審判のはじき〉の側から動く気配もなく、ひたすら神歌を歌い続けるマキの姿が映る。

 次の瞬間、彼の足は自然と彼女の方へ駆け出していた。

「マキ!君も来るんだ、早く!」

彼女の腕に手が届くかという距離まで来たとき――。

 目の前が真っ暗に染められた。

 思わず足を止めたが、何故か体が前に猛スピードで進んで行く感覚が消えない。

 混乱してマキの姿を探すが、周りには誰もいない。

 広い空間もない。

 両側に迫る壁は肩がつきそうなほど狭く、上下は本来なら寝そべっていなければ通れないほど低い。

にもかかわらず、立ちすくんだままのコールの横を、黒い岩壁はどんどん後ろへ後ろへと流れていく。

「なんだ……これ……。幻覚……?」

 酔いそうに頭に手を当てながら、呟いた彼の前に、外の光が出現した。

 ぶわ、っと押し出されるように、岩の通路が終わると、突如視界が開ける。

 山の上から、濃い緑の森を見下ろしていた。

 足下は完全に宙に浮いていた。

 落ち着かない気色の悪さが足の裏を駆けたとき、びゅんと再び、視界は前進を始めた。

 緑の森はあっという間に去り、海を眼下に、ずっとどこまでも飛ばされていく。

 やがて土地が見えてくると、コールは目を見開いた。

「あれは……もしかしてバロゼッタ……?」

 地図で知っている形とそっくりの地形があった。

鳥か、もしくは鳥よりもっと高い位置から見下ろすその光景は、

精巧に彩色された地図そのものだった。

 雨雲にぶつかると、雨雲は背を押されて一緒に移動した。

 灰色の厚い雲の下では、雨の境目がはっきりと見て取れて、なんだか不思議な光景だ。

 バロゼッタに点在するレンガの町は、上から見るとタイルのモザイク画のようだった。

 やがて雲を突き抜けるようにして、さらにどこかへ。

 真っ青な平面で、突然視点は下降した。

そして海上で、トルネードとなった。

 トルネードは見知らぬ大陸へと上陸すると、野生動物を巻き上げながら、未開拓の大草原を荒らしに荒らした。

 コールは胸の中を込み上げる熱い感動とともに息を呑んだ。

 世界を見たのだ。今、この瞬間。

 その時、人肌が手首をきゅっと覆った。

 瞬間、彼は元の場所にいた。目の前には、マキの顔があった。

「あ…………」

意味もなく声を漏らした彼に、マキは言った。

「ここを守る事の出来る王が現れた今、ここでこの人が審判を受ける必要はない」

目はコールを見据えていたが、その言葉はコールに向けられたものではなかった。

「今、俺……」

「コールが見たのは、〈ルホウ〉の旅」

コールの戸惑った声を遮って、マキは答えを与えた。

「〈ルホウ〉の、旅……?」

「そう。この〈審判のはじき〉に近づいた者には、〈ルホウ〉の事を教える。

そして試す」

マキは固く握っていたコールの手首をそっと放しながら、言う。

「私も知らなかった。でも今日、ついさっき、知った。〈シンヒ〉たちに教えられた。

〈ルホウ〉の力を知らしめ、その力に目が眩むかどうか。

自分でも気づかぬ欲を露わにさせることで、〈シンヒ〉は見極めてた。

ここから無事に帰してもいい者なのかを。」

「――――。」

 とっさにコールは、ラビットソン教授の豹変した様子を、目の裏に思い出していた。

 つまり教授も、これを見せられて、それで…………。

 俺はどうだったんだろう。

 あのまま、マキが止めてくれなかったら。

 どんな答えを出したのだろう。

「どんな答えを出したんだろうなんて、考えなくていい」

コールの考えを見透かしたかのように、マキの言葉が降りかかった。

「大事なのは今生きてるって事。ハナ姉が道を知ってる」

その言葉に、コールだけでなく、近くでマキの神歌を見守っていたハナまでも目を見開いた。

「マキ、あんた……残る気?」

ハナの言葉に、マキがうなずく。

「すべての〈シンヒ〉をここへ導くには、道標が必要。私はその任を与えられた」

「そんなっ!」

思わず声を上げたコールとは対照的に、ハナはぐっと唇を噛んだだけだった。

 そして、マキの側へと歩み寄ると、その手を取った。

「マキ。あんたは次期巫女に……選ばれたんだね」

二人はしばし、蒼い瞳を交差させ、やがてハナの方から、スッとその手を放した。

「何やってるんだよ、一緒に行かないと!」

戸惑うコールの声に、応える者はいなかった。

「ハナ姉、ハナ姉は自分の役割を果たして」

マキはハナに、震えを無理に閉じこめたような声をかけた。ハナは、辛そうに顔を歪めたけれど、それをすぐに隠してうなずいた。

「行くよ」

伊吹とコールに声を掛け、龍の門の方へときびすを返した。

 コールはハナに腕を引っ張られながら、マキの方を振り返った。

 マキの神歌が再開されていた。

 その瞳は宙ではなく、こっちを見ていた。

 まるで焼き付けようとするかのように。

 彼女の周りに、外から来た〈シンヒ〉たちが網をこしらえていく。

マキはまるで鳥かごに捕らえられたかのように、網の中へと埋もれていく。

「…………。」

 コールは、ハナの手を振り払った。

「俺はこの国の人間じゃない。だから、この国の神様に従う必要はないよね」

「あっ……」

ハナが短く声を上げたときには、コールはマキの側へと駆け戻っていた。

 マキの神歌が途切れた。

「何やってる、コール!早く行って!」

網越しに、焦燥したマキの声が飛びかかる。

網状になった〈シンヒ〉たちが身を固くする前にと、コールは夢中で網の目を押し広げた。

 マキの顔が籠の中に見えると、コールは手を伸ばしたが、マキはそれを取ろうとはしなかった。

「あんたは分かってない!溢れ出た〈シンヒ〉をここに導いてあげなければ、大変なことになる!私のことは……」

「マキ!死にたいのか?!生きたくないのか?!」

コールの思わぬ厳しい口調に、マキは少しだけ怯みを見せて、まくし立てようとした言葉を呑み込んだ。

「答えて!君は死にたいの?!」

壊れされた網の目をすぐさま修復しようとする〈シンヒ〉を払いのけながら、コールの怒号のような呼びかけが降りかかった。

「そういうわけじゃ……だけど」

一度はたじろいだマキも、すぐに気を取り直し気丈に反論する。

「仕方ないの!私は〈シンヒ〉たちに選ばれ、道標を託された!残るしかないんだ!」

「周りを見て!」

「え……」

「蟻は最初の一匹が道を造れば、他の蟻は道を見失ったりはしない!全員が向かう方にただ流れていくだけだ。マキ、君はすでに一匹目の役割を果たしてる」

「――。」

籠の中で、マキは、ぐるりと周囲を見渡した。

網の隙間から見える〈シンヒ〉の群れは、マキが神歌を止めているというのに、止まる気配も減速の気配もなく、ただ押し寄せる波のごとく、この空間へと、〈龍風(るほう)の寝床〉へ向かって、流れ込んでくる。

 マキの瞳に揺らぎが浮かんだ。

 迷ったようにコールへと目を戻したとき、コールの両腕がずいと入ってきて、強くマキを抱き寄せた。

「一緒に行こう、マキ。帰るんだ」

耳元で囁かれた哀願のような言葉は、静かな湖面に投げ込まれたひとつの小石のようだった。

 コールの言葉は、このうるさい暴風の中でやけにはっきりと、響くように聞こえて。

 マキが無理矢理下敷きにした感情を、胸の奥から引きずり出させた。

「っう…………」

マキの詰まった吐息が、

涙をにじませた瞳が、

そして、ぎゅっと抱き返された温度が、全ての答えをコールに示していた。

 コールはマキを籠の中から引きずり出すと、力無く座り込んだマキの肩を抱いた。

「立てる?」

マキは何だか少し、ぼうっとしてはいたが、コールと目が合うと覚悟を決めたようにうなずいた。

 ハナの所まで追いつくまでもなく、向こうから駆け寄ってきて、ハナは無言でマキをぎゅっと抱きしめた。

「ハナ姉……私」

「姉ちゃんの手を放さないで、しっかりついてくるのよ」

マキの後ろめたさを感じたような雰囲気を、ハナの言葉が一掃した。

「大佐、巫女が道案内をしてくれます!」

コールは、門を出たところでこちらを待つアメリアの元へ駆け寄りながら告げると、

アメリアはようやく門を出てきた一行を見渡して、呆れたように言った。

「ピクニックでもしていたか?」

最終章 誓いの後に

第一節 生き残った者ら


 伊吹のかざす銅剣を灯りに、一行は駆け足で進んだ。

 〈シンヒ〉の黄金の網が、まるで追い立てるようにすぐ後ろへと迫り、岩壁を覆っていく。

 しかし〈シンヒ〉は、決して銅剣の光の中へ入ろうとはしなかった。

入れ違いに前から這ってくる〈シンヒ〉が、たまに光に照らされる事があっても、たちまち萎縮したように頭を垂れて、引き下がる動作をするのだ。毒霧の噴霧も、銅剣の光を視界に捉えるなり、一時的にやめていた。

 その様はまさに、王のために道を空ける臣下。

 毒霧が止むと言っても一瞬だけのため、息苦しさはあったものの、麻痺に至るほどのものではなくなっていた。しかし油断はできず、伊吹とハナの先導に少しでも遅れれば危険だった。

 途中ふと、背後で編み上げられていく黄金の輝きに少しだけ見とれてしまったバロゼッタ兵は、直後足下に出てきた〈シンヒ〉につまずき、

「うわ、うわあ」

そのまま網の中へと呑み込まれる事となった。

悲鳴に慌てて後戻った伊吹が、サーベルを鳴らしたアメリアの横から、銅剣を〈シンヒ〉の網に振りかざすも、ぺいと群れから吐き出されるように落とされたバロゼッタ兵は、その身を黄金へと変えて死んでいた。

 アメリアは苦虫をかみつぶしたような顔をして唇を噛み、青ざめて立ちすくんだ一行へと振り返ると、率先して進行を再開した。

 皆はアメリアの気迫に引っ張られるようにして、よりいっそう先を急いだ。



 ******



 とうに日は沈み、嘘のように平和を取り戻した山中は、いつもと変わらぬ湿気混じりのぬるい風に、草葉をざわめかせていた。

 そんな宵闇の中、〈風の戦士〉の集落には、生き残りの〈風の戦士〉たちと、〈風尾族(ふうびぞく)〉が、かがり火の灯りの下に集まっていた。

先刻、南のあり地獄状の盆地に、ヒュウガの上げた煙を目にしたジンオウが、素早く駆けつけたのだ。〈風尾族〉によって〈風の戦士〉たちの救出が行われた後、安全のためこの集落まで移動したのだった。

 〈風尾族〉の懸命な処置によって、一度は息絶えつつも奇跡的に息を吹き返した者や、薬湯で、麻痺による仮死状態から立ち直った者もいた。

それでも半数以上は手遅れのまま、盆地に置いてくるしかなかった。

〈風の戦士〉族長、ヤエ婆も例外ではなかった。

 かがり火を囲む〈風の戦士〉の内、体を起こすことが出来ているのはほんの数人だった。

 人が集まっているとは思えないほどに、とても、静かだった。

 ヒュウガもその輪の一人だったが、周りを何度か見渡してはそわそわし、

 やがて、意を決したように立ち上がると、松明(たいまつ)の火を手に一人、森の中へ分け入った。

 それを、背後から呼び止める者がいた。

 ジンオウだった。

 ヒュウガは、彼の呼び止めた理由を察し、己から答えた。

「俺はもう、戦士じゃねえ。だから勝手に行く。夜だろうと、関係ねえ。ハナたちが心配だ」

 自然の中で生きる彼らは、普段夜の帳(とばり)が降りれば活動しない。だからこそ、ジンオウはどこへ行くつもりかと、呼び止めたのだろう。

ヒュウガはそう思っていた。

 しかし、ジンオウの口からは、彼が予想もしなかった言葉が飛び出した。

「ヒュウガよ、戦士とは何か?」

「…………、?」

「戦士とは、信念を持って戦う者だ。誇りや家族を守るためにな」

ジンオウはそう言うと、かがり火の方へと振り返った。彼の目線の先には、〈風尾族〉と〈風の戦士〉がいる。

「私は〈風尾族〉を守るために戦ったが、お前は〈風尾族〉も〈風の戦士〉も、両方助けようと戦ったのだ。

ヒュウガ、お前は紛れもなく戦士であった」

「ジンオウ…………けど」

くっと顔を歪めたヒュウガの瞳には、南の盆地で見た惨状が、まだ張り付いて離れていなかった。

爪が食い込むほど握りしめた手のひらには、体温を失った人間の重みが。

 その内面を読み取ったかのように、ジンオウは続けた。

「お前が助けられなかったのは、お前が一人だったからだ。ヒュウガ、また同じ事をするつもりか?」

 ジンオウの言っていることは遠回しだったが、ヒュウガに悟らせるには十分だった。

 ヒュウガは、ほんの少しだけ黙った後、膝に手をついて頭を下げ、声を張り上げた。

「ジンオウ、〈風尾族〉の皆ァ!聞いてくれ!〈ルホウの寝床〉に入った奴らが心配だ!助けに行くには人手がいる!力の残ってる奴ぁ、どうか一緒に来てくれねぇか!」

 先ほどとは違う沈黙が、一瞬その場を包み、皆の視線が彼へと集中した。

 頭を下げたまま、ごくりと固唾を呑んだヒュウガの頭上で、ジンオウの声がした。

「だそうだ!行くぞ!」

揺らぎのない宣言だった。

 頭をぽんと叩かれて顔を上げると、〈風尾族〉の男たちが疲れた顔に気合いを入れ直しながら、次々と松明や武器を取って立ち上がるのが見え、女たちが、「ここは任せな!」と勇ましく宣言するのが聞こえた。

 ヒュウガは、ほっと小さく、息を吐いたのだった。



 ******



 十名ほどで向かった彼らはしかし、龍の門へ続く地下道が途中で崩れ、すっかり閉ざされてしまっている状況に遭遇することとなった。

ならばと推測で地上から山の東側中腹へと向かい、龍の門を見下ろせる場所を発見するも、そこでは二度目の絶望と相対した。

 松明をひとつだけ、穴の中へと落として照らし、縁に手をついて覗き込んだ彼らは、その状況に、押し黙らざるを得なかった。

一人が思わず嘆息した。

「こりゃあ、だめだ…………」

ヒュウガは何も言わずに、息をするのも忘れてギッと歯をきしらせた。

 龍の門は上部五分の一を残して、その身を崩れた土砂の中に埋めてしまっていたのだ。その隙間から抜け出して来れるのは、今や風くらいだ。

 中で見た時はあんなにも高く高くそびえ立っていた円筒形の空間は、もはや見る影もなかった。

「諦めんな!」

 不意に立ち上がったヒュウガが、声を響かせた。

「ジンオウ、もう一箇所の出口を知ってる。ちょうどここから裏側に回ったところだ」

「二手に分かれるか」

ジンオウの言葉に、男たちはうなずくと、場所を知っているヒュウガが半分を引き連れる形で、もう一箇所へと向かった。



 ******



 そして洞窟内では、伊吹が苦し紛れに岩を叩いていた。

「…………ハナ、他には知らないか?」

その質問に、ハナは妹と顔を見合わせてから、首を横に振る。

 ハナたちもまた、土砂へと行き当たったために、狭い道を通り抜けてもう一箇所の出入り口へと、途中から針路を変更していた。

 そしてそこもまた、〈シンヒ〉の振動によって動かされた土が、落石を招き、出口を塞いでいたのだ。

「マキ」

コールが声を掛けると、マキは身振り手振りでここが通れないことを示した。

 すでに、バロゼッタの言葉とこの土地の言葉は、元通りに通じなくなっていた。

「通れなければ道を開けるしかあるまい」

アメリアが言う。

 言葉が通じているかのように、伊吹はすぐに大きな石のひとつへと手を掛けた。

 皆もそれに倣うが、伊吹が作業するには銅剣を鞘に収めるかどこかに置かねばならず、それをすると灯りが消えてしまうため、やむなく暗闇での作業となった。

 〈シンヒ〉についての心配が無いのは救いだった。

 〈シンヒ〉はすでに落ち着いてしまったのか、それともここが出口付近であるせいか、この周辺には動くそれがいなかったのだ。

 ただし、来た道はがっちりと黄金の網で塞がれていたし、後戻りすら出来ない状況ではあった。

「ぐっ」

短い声とともに、伊吹が力を入れると、大きな石がごとりと転がった。

その先に待っていたのは、今度は土砂だ。人が体を横にしてやっと通れる幅の通路には、ぎっしりと土砂が詰まっていたのだ。

「伊吹、これなら私たちでもできる。あなたは灯りを」

ハナが言い、再び灯りが灯った。

 作業を始めてから二、三時間も経った頃だろうか。

交代で先へ潜ったアメリアが、すぐに戻ってきたかと思うと、バロゼッタ語で何か言った。

 言葉が通じない者たちにも、その意味が何となく分かるようになっていた。

 すぐさま伊吹が入っていき、銅剣の灯りが遠のく。そして同じように戻ってくると、

「あれは…………こちらからはどうしようもない」

アメリアの先の言葉に同調する見解を見せた。

「なぜだ」

マキが訊くと、伊吹が答える。

「外側の岩が出口を塞いでる。皆で力を込めれば、あるいはどかせるかもしれぬが、……この道幅では」

 ち、とアメリアは小さく舌打ちして、休憩がてら壁際に座り込む。

 誰からともなく、それに倣った。

 全員が疲れ果てていたのだ。

 もう、悔しがる余裕もないほどに。

 しかし座り込んでじっとしていると、余計に絶望的な空気が、重くのしかかった。

 ハナがマキの近くに寄ってきて、小さく訊く。

「傷は、平気?」

マキも、小さく答える。

「うん」

だけど傷が平気だからと言って、何になるのか。

 その思考が空気となって漂えば、それ以上何も口にはできない。

 ハナは黙って、マキの手を握った。

 ぴちゃん、ぴちゃんと、水音だけが空洞に響く。

 コールがふと、両膝に埋めていた顔を上げた。

 マキも、その直後、目を見開いてコールに確認するように目を向ける。

 ハナも顔を上げ、

「何の音?」

声を上げた。伊吹が黙って立ち上がり、出口の通路へと姿を消す。

 ずずずずと重い物が擦れるような音は、その先から聞こえていた。

 間もなく、伊吹の「押すぞ!」という大声が響いてきた。

 こちらに向けられたものではないのは、明白だった。皆は期待を抱いた顔を見合わせた。

 ずどぉん、と大きな音がして、通路から吹き出した土煙が、差し込む薄明かりに照らされると、伊吹の声がした。

「皆、来い!」

 〈風尾族〉の男たちに助けられ、外へと出た時には、すっかり空は白く、朝を迎えようとしていた。

第二節 誓い


 ――『〈仙〉の巫女は知っているはずだから、大丈夫』――。

 大王(おおきみ)を失った今、そのまま〈仙〉へと戻るには危険すぎると、いったんはハナを置いていこうとした伊吹だったが、マキのその言葉に後押しされて、ハナとともに帰路につくこととなった。



 ******



 二人を見送った後、マキは、長を失った〈風の戦士〉と、ジンオウ率いる〈風尾族〉を前に、話をした。

 何が起こっていたのか、全てを明確に、詳細に、話した。

時に、コールの補足を交えながら。

 すると皆は、マキに答えの先を求めた。

 正巫女として、お前はどう考えるのか、と。

 マキは答えた。



 ******



 伊吹が、道中出会った、武具を付けたまま彷徨っていた馬に乗って辿り着くと、マキの言った通り、〈仙〉はすぐに彼を迎え入れた。

 都の景色は、彼が出立した時とはずいぶん様を変えていた。

 ほとんどの家の屋根には大きな穴が空き、それを塞ぐ物すらなく、柱は無惨に折れ、土器の割れた破片が道じゅうを埋め尽くしていた。

 かろうじてそういった物が片付けられた大通りを、王宮に向かって進むと、王の住居区の前に、花露が頭を垂れて待っていた。

「真の王」

 花露はひざまずき目の上で拳を重ねた体勢で、第一声そう言った。彼女の背後には、生き残ったわずかな近衛兵と、すべての豪族たちが並び、同じくひざまずいている。

 伊吹は馬から降り、ハナが降りるのに手を貸し、そして花露と向かい合った。

 伊吹が何か言う前に、花露は口を開いた。

「わっちと、この者らへの処遇を」

「〝処遇〟?任命ではなく、か」

伊吹が少し意外そうに聞き直すと、花露は目を上げた。

 不思議な輝きを持つ金瞳が、じっと新しい王を射抜く。

「まだ自覚が足りぬでやんすな。旧体制のままで御前のくにを造るおつもりか?ここに集まりしは火穂伎命(ほほぎのみこと)の忠臣として仕えた者どもでやんす。そのまま臣下に置く必要は、もはやありはしないのでやんす」

 微かに、花露の後ろでどよめいた空気が流れた。

 恐らく、そこまで聞かされてはいなかったのだろう。

彼らは、当然自分たちはこのまま、大王(おおきみ)直轄の豪族としていられると思っていたのだ。

 伊吹は少し考えてから、

「それで、そなたは?」

 花露に訊いた。花露は何事もなく答える。

「もちろん、御前はわっちの処遇も決めねばならぬでやんす。

真の王となった御前だけは、わっちを処刑し、他の巫女を据えることもできよう」

「なるほど」

伊吹の右手が、銅剣の柄を握り、そしてスラリと剣を抜いた。

「伊吹……」

ハナが戸惑ったように声を上げるが、伊吹は構う様子も見せなかった。

 銅剣を日中の日差しにかざしながら、その光を眺めて言う。

「花露。そなたは、私が幼き頃、あの大王(おおきみ)に仕えていた老婆の〝花露〟と、同じ人間なのだな」

「王として目覚め、ようやく気づきやんしたか」

「何度も生まれ変わっているのか」

「厳密には、生まれ変わっているのではないでやんす。〈ミホウサマ〉に、死を認められておらぬゆえ。

……〝まだ〟。」

「今、私がそなたを斬れば、そなたは死ぬのか」

「真の王ならばできるでやんしょう。わっちが去(い)ねば、この任を負った別の者が、どこかに現れるだけのこと」

銅剣が、ぴたりと花露の首に張り付いた。

花露の首元の白蛇は、我関せずの様子で、じっとしている。

 逆光で、伊吹の体はひざまずく者たちからは影に見えた。彼の持つ銅剣だけが、やたらと眩しく日の光を反射している。

伊吹は静かな声で言った。

「そなたは私の家族を助けなかった」

花露は、金瞳に虚ろな影を落とした。

「助ける理由が?」

淡々と、伊吹の言葉に答え、

それを聞いた伊吹は、

「そうかもしれん」

あっさりと銅剣を降ろした。

「花露。私はそなたを処罰する気はない。他の者たちもだ。もう、過去の怒りに支配されていた私とは違う……。捨ててはならぬものが何か、全ての道理はどこへ繋がっていくのか、もやが晴れたようによく分かる」

 そして、銅剣を花露の前に横向きに差し出した。

「そなたの手で、清めと戴冠を執り行ってくれ。これからは私と、私の妃のために、助言と預言を」

 花露はもう一度、深く頭を垂れた。

「仰せのままに」

豪族たちの安堵の空気が伝わってくる中、花露は続けた。

「ではまず、ひとつ進言を」

「なんだ」

「御前が目指すべき〝くに〟にとって、ここにいる者らの民への悪徳ぶりはふさわしくないでやんす」

豪族たちの表情が一気に青ざめた。

 伊吹はハナを見返って、その優しげな目を見ると、表情を緩めて目を戻した。

「問題ない。これからはいろいろな決まりを作ろうと思う。王をもそれに縛られるような、確固たる決まりを。ついてこられる者だけが、豪族として残るだけであろう」

 豪族たちの冷や汗が止まることはなかったが、花露は伊吹の返答に、本人しか分からない程度微かに、硬い表情を崩した。

「王であって民であれ。このさきもずっと」

花露はそっと、祝詞(のりと)のように呟いた。



 ******



 バロゼッタ船がようやく帆を上げることができたのは、それから半月経ってからだった。

 「〈龍風(るほう)〉の事だが――」

 伊吹は、最後の夜、バロゼッタ船の停泊する浜にて宴を開いていた。修繕への協力の延長で、航海の無事を祈るための宴だ。その席で、彼はアメリアに切り出していた。

「第二、第三の火穂伎命(ほほぎのみこと)が現れては困るのだ」

天幕の外からは、〈仙〉と〈バロゼッタ〉、両国人入り乱れたにぎやかな声が聞こえていたが、中では、アメリアと伊吹の他には、翻訳機を打つ係の者二人と、それぞれの護衛が一人ずつ待機しているだけだった。

 ここだけは、周囲とはずいぶん対照的で、会談のような雰囲気だ。

 アメリアは伊吹の言葉に、しばし間を置いてから応えた。

「堅苦しいな。宴というのに」

そう言いつつ、土器の中に造られた発酵酒を、自分の器にひしゃくで注ぎ足す。伊吹はそれどころではないとでも言いたげに、硬い表情を崩さない。

アメリアは荒い焼き物の器を伊吹に掲げぐいと飲み干してから、席を立った。

「私があの山の事を生真面目に報告したとして、誰が信じる?御してこその力だ。御せぬ力は利用価値のないのと同じだ。私はそういったものには興味も湧かない」

だが、と彼女は続けながら、天幕の端まで歩くと立ち止まった。

「私の船に同行している学者は、そういうわけにもいかぬらしくてな。

――彼から話があるそうだ」



 ******



「マキ」

「……ハナ姉が、来いって言ったから、来ただけ」

コールがマキの姿を見つけて駆け寄ると、マキはむすっとした顔で目をそらしながら、自ずから言った。

「それでも俺は、マキにまた会えて嬉しい」

あれから、コールは浜辺の船、マキは今まで通りの森林の中での生活に戻ったため、二人が言葉を交わすのはまさに半月ぶりだった。

コールの素直な言葉に、マキはちらっと一瞬だけ視線をやったけど、またすぐどこともなく、海の方へと戻した。

コールが、斜めに向かい合うような形で、近くの流木に腰掛ける。

「皆いるね」

呟くように言った言葉はバロゼッタ語だったけど、

マキは意味を汲み取ったらしく、「うん」とうなずいた。

「〈風の戦士〉と〈風尾族〉は、遙か昔のように、またひとつの部族になった」

マキはぐるりと頭を浜の方へ向ける。

たくさん設置されたかがり火によって煌々と照らされる浜辺には、〈仙〉の民やバロゼッタ船員以外にも、〈風の戦士〉や〈風尾族〉の者たちが、一堂に会していた。ハナも、その中で一緒になって、笑顔を浮かべ語らい合っているのが見える。

「ハナ姉が妃になったことで、私たちは伊吹から新しく名前をもらった。

〈風守(かざもり)〉――これが私たちの新しい名称だ」

「…………。マキはこれからどうするの?」

「どうもしない。今までと同じように、〈龍風(るほう)の寝床〉を見守るだけ」

揺るぎなく答えたマキの横顔をじっと見て、コールは、「そっか」と当たり障りのない相づちを打つ。

「コールは?」

マキが、むすっとした表情を崩さずに訊いた。

「帰るよ。明日、帰る」

コールがぽつりと応え、

「そんなことは知ってる」

マキは怒ったような声を出して、とっさに、自分に違和感を感じた。

 自分でもどうしてこんなに苛ついているのか、不思議だった。

だけど何となく引っ込みがつかず、そのまま不機嫌な態度を貫く。

「帰って、それから?」

マキがそう促した時だ。

コールが不意に、マキの視界に潜り込むように、前へと躍り出た。

 思いがけず真正面から目が合うと、マキはぎくりとして、固まってしまった。

黒い海を背に、金髪を赤く煌めかせながら、彼の姿はきらきらと夜の中に浮かび上がっていた。

「マキ。俺を見て」

コールがまっすぐに言った。


 見て?なんで?


マキはコールの言葉に戸惑いつつも、目を逸らす事なんて出来なかった。

「マキ。俺は、明日帰る」

コールは、最初の頃に比べるとだいぶ上達した〈仙〉の言葉で、語りかけた。

 改めてその言葉を言われた時、マキは、体のどこかがずきんと音を立てた気がした。

 どこにも逃げられずに、彼と向き合ったままでいると、泣きたい気持ちが込み上げてくる。


 そうか、だから。

 目を、逸らしたかったんだ。私。


 それが分かった時、マキはコールの腕に手を伸ばしたい衝動に駆られた。

 その手を引いて、この浜辺から、あの立派な船から、彼を引き離したかった。


 何故か分からない。


 寂しい?


 たった少し、一緒にいただけなのに?

 どうしてこんなにも不安に駆られる?

 もう、会えないかもしれないから?

 どうしてこんなにも、

 もう会えないことが、


 怖い――?


「――本を、書こうと思ってる」

 コールの次の言葉に、マキは自分の中の謎の感情から引き戻された。コールは、言おうか少し迷う風に、後頭部を掻きながら、続けた。

「バロゼッタに帰ったら、ここのことを物語にして、たくさんの人に読んでもらうんだ」

「そっ――、そんなこと、したら」

マキは自分の耳を疑いながら、何とか言葉を発する。だが、コールはマキの言いたいことを分かってる上で制するように手のひらを見せた。

「待って、聞いて。〝作り話〟として書くんだ。俺の空想の冒険話、として」

「え…………?」

「あくまで作り話だから、誰もそれが実在するとは思わない。

誰もその力を狙いには来ない。……だけど、子どもたちはその話に目をきらめかせる。年月が経てば、〈龍風(るほう)〉の存在は確かに人々の心の中に残る。

俺は、〈龍風(るほう)〉を隠すんじゃなくて、正しい認識で伝えることが大事だと思うんだ。そして今は、〝空想話〟が、一番いい方法のはずなんだ」

ここの王様にも、もう許しはもらってるんだ、と彼は最後に付け加えた。

 マキは、コールの説明にはうなずいたものの、だからといって消えはしない胸の中のもやもやを、どうしたらよいのか分からぬままだった。

 するとコールが、まるでここからが本題だと言わんばかりにマキの前にひざまずいた。

「出版した本が売れたら、ここに戻ってくる。」

それは、バロゼッタ語だった。いじわるなほどに流暢な母国語で、彼は言った。

「俺の今の目標なんだ。ここには俺の知らない生き物が溢れてる。研究したい生命も、謎も、文化も!これで終わりなんてできない。

それに何より、君にまた、会いたい」

 マキは、彼のバロゼッタ語をじっと集中して聞いていた。

 コールは、彼女が聞き取れていないことを知っていて、そのまま続ける。

「不可能な話じゃないんだ。本が売れさえすれば、資金が集まる。研究機関に呼びかけるわけにはいかないから、俺単独で船との交渉をつけなきゃならないけど、でも商船を各国で乗り継げば、来れない事はないはずだ。陸地を経由して来る方法だってある!だってここは、幻の国なんかじゃないんだから」

マキが無反応なのを確認しつつ、

コールは「本当は、」と切り出す。

「待っててと言いたい。けどそんな無責任なこと、約束できない。俺が今言ったことが、本当に叶うなんて、自分でも思ってない。もちろん頑張るつもりだけど……夢物語だって、分かってる。だから、せめて俺のこと、覚えていて欲しい。もしも、今言ったことが実現して、戻って来れた時のために。

俺の、心の支えのために」

言い終えると、コールはマキの反応を待った。

 マキは、むすっとしたような表情のまま、コールを見据えていた。

もちろん、通じていないに違いなかった。

だから、コールが次に言う言葉は決まっていた。

彼女にも通じる言葉で、笑って言うのだ。

『ごめん、聞き取れなかったよね。バロゼッタで書こうと思ってる本の内容について、勝手に喋ってただけだから。』

「ごめ」

笑顔を作って、コールが用意していた言い訳をしようとしたときだった。

「――そんなの、だめ」

マキの声が、彼の言葉を止めた。

コールはマキの様子に、動きを止めるしかなかった。

 マキは言葉と一緒に感情が溢れ出た様子で、涙を落としていたのだ。

「そんなのだめ。

…………〝約束〟して、コール」

ずいと彼女は手のひらを突き出しながら、ぶっきらぼうにも聞こえる口調で言う。

「今俺が言ったこと、聞き取れて――」

「るに決まってる」

たじろいだコールの言葉を、マキはぴしゃりと継ぐ。そして止まらない玉の涙を、何故か悔しげに、もう片方の手でぬぐう。

「だけどマキ、俺は本当に戻ってこれるか分からないんだよ。いつになるかも」

コールが尚も、煮え切らない事を言うと、マキがにらみ付けた。

「かまわないから約束して!」

コールはしばし、口を開けて黙った後、マキの突き出した手のひらに、指を重ねた。

「〝約束〟する」

決意がひしひしと伝わってくる口調だった。コールは重ねていた指をずらして、マキの手のひらを包み込むようにぎゅっと握った。

「絶対戻ってくる。君に会いに。だからマキ…………」

コールの碧い瞳が、辛そうに揺らいだ。

「俺のことだけ想って、待っててほしい」

マキが、コールの手を、そのまま引き寄せて頬に当てた。

「うん」

二人は、朝日が昇るまでずっと、そこに並んで座って、

黒い海に映る未来を、一緒に眺めた。



 翌朝、晴天と穏やかな波に恵まれながら、大勢の原住民に見送られ、バロゼッタ海軍船は、この地を後にした。

第三節 ――の後に


 また、この季節が巡ってきた。


 〈龍風(るほう)の寝床〉は、あれ以来、眠ったように静かで、安定していて、

時たま強く吹く風は、龍の寝息のようだった。

 その山の頂上に座って、墨に浸したような漆黒の長髪をなびかせながら、彼女は海の方角を眺めていた。

 もう辺りは、夕焼けに赤く染まっている。

 森の向こうにわずかに見える青い線を見ていると、今でもそこに、あの大げさな船が見えるような気がする。

 ふと、焼けた光の中に黒い点を見つけて、はっと息を呑んで立ち上がった。

 しばらくそれに目を凝らしたあと、

「…………。」

少しだけ蒼の瞳に落胆を浮かべながら、彼女はふたたび静かに座った。

 返し忘れた〝ハンカチ〟という呼び名の布は、とっくに傷跡すらなくなった右腕に、まだ結びつけたまま。


 この季節になると、この風の臭いを嗅ぐと、

 あの時のことを、より一層思い出す。

 心はあの時に返り、

そして今に戻り、

 期待と、落胆を、延々と繰り返す。

 年ごとに変わっていくものと言えば、諦めが前に出ようとしてくること。


 七年目の今年も、〈龍風(るほう)〉は、同じように吹いた。

 でも、彼の姿は、やっぱりない。


 その時、ザッ、と人の足音がして、彼女は勢いよく振り向いた。

 そして一瞬の根拠もない期待は、すぐに裏切られた。

「オマエも飽きねえなあ」

「っち。なんだヒュウガか」

「あからさまに舌打ちするなよ!」

「そっちだって。飽きもせずよく茶化しに来るな。暇なのか」

「お前さー……」

ヒュウガは岩肌を上って、彼女の横に並んでしゃがみ込むと、海に向かって頬杖をつきながら訊く。

「本当にこのまま何年でも待ってるつもりか?アイツを」

「関係ないだろ」

つんと答えた彼女を見遣って、ヒュウガは何気ない感じでさらに言う。

「心配してんだよ、〈風守(かざもり)〉の現長として」

「あんたが長に任命されたのが未だに不思議でならないけどな」

「うるせーな。一応オマエだって賛成してただろうが」

「っち」

「舌打ちコラァ!…………って、そういう話じゃねえんだよ!」

ヒュウガはふうと軽いため息とともに、話を戻した。

「だからな、待つのに飽きたら、俺に言えよ。」

女がそこで初めて、ヒュウガを視界に入れ、

「露骨に怪訝な顔してんじゃねえよ!」

ヒュウガは思わずツッコミを入れた。

「まあ、それだけ言いに来たんだよ。第五夫人の座は空けとくからよ」

女は、思わず顔をほころばせていた。

「それはどーも」

「いや、なんだよその反応。励ましたんじゃねえぞ?今の、ちゃんとした話だぞ?」

「はいはい。長はさっさと帰れよ、日が暮れたら家族が心配するぞ」

そう言った彼女の腕を、ヒュウガがクイと引いた。

「それはテメーも同じだろうが。ほら、帰んぞ」

「私は、」

「最近遅くなりすぎだ。夜の森舐めてっと怖いぞー」

「怖くねーよヘタレ!」

「お前……ガキじゃねえんだから……。ほれ、立つ!」

ヒュウガに促され、渋々、彼女はそこを後にする。

 もう一度、振り返って、

そして影ひとつないその恨めしい海を見て、

出そうになったため息を押し殺し。

 八つ当たり上等ヒュウガに蹴りのひとつでも意味なく入れながら、今の集落である、元は〈風尾族〉の集落であったところに、帰っていく。





「ねえ」


そこに、西側の斜面から上ってきた影が、

もうひとつ――。

 人影は、斜面を北側へ降りていこうとしていた二人を呼び止めて言った。

「〈風の戦士〉の集落が、もぬけの殻だったんだけど……君たち何か知らない?」

振り返った二人の内、男は「おおお!……まじでか」と驚愕の声を上げ、

そして女は、

「――――コール…………っ!」

転げそうになりながら、斜面を駆け上った。

 西日の光の中に佇む人影は、その声を聞いて息を呑み、

 そして駆けてきた女を両腕で迎えた。

「マキ!」

 七年の時を経て、彼は約束通り、この地へと帰ってきた。

 〈龍風(るほう)〉が世界を巡るかのように、果てしない旅をして。

 二人が再開を果たしたその瞬間、龍が大きな息を吐くと、洞窟から緑に光る粉が吹き出し、二人を祝福するかのごとく、山を光で包み込んだ。


 光の中で、二人は、

七年前と同じように、手のひらを合わせて、新しい約束をした。



 今度は、もう二度と離れない約束を。



 ――終――


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風の戦士 咲乃零奈 @sakino_rena

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