最終話 『クロユリ』


「でさ、彼氏とはどこまでいってるの?」


昨日、高校からの友人から数年ぶりに「会って話そう」と誘われた。


お昼に待ち合わせ、軽く百貨店で買い物を楽しんだ後、休憩がてら軽食を食べるためにカフェへと寄り、ようやく腰が落ち着いたころにそんな質問が飛んできた。


「あ?なんだよ、どこまでって」


「しらばくれちゃって。そんなの決まってるじゃない、セッ……ごめん」


これ以上何も言わせまいと睨みを利かせると恵は反射的に謝罪をした。


しかし相変わらずその瞳には、好奇心が宿ったままで、答えなければ話が進まないことは見え見えだった。


「…別に、そんなのとっくの昔にやってるよ」


「えええ!そうなの?!週何っ?週何っ?」


「うっさいな…。…月一くらいだよ」


「えー!あーでもまぁ確かに世間一般からしたら少ない気もするけど、あの不知火くんと紗凪だもんねぇ。むしろ多い方と評価すべきか」


「ああ!もう、だから嫌なんだよこういう話。それより同級生の連中には言ってないよな?あたしと不知火が付き合ってんの」


「流石に言ってないけどー、紗凪?まだ不知火くんのこと苗字呼びなの?」


「…別にいいだろ、むこうも名字呼びだし…」


「うっっっわ、淡白〜」


「いいだろっ!あたしたちにはあたしたちのペースがあるんだよ!」


「ペースって言ったってあんたたちもう何年付き合ってんの?」


「えー…っと、大学4年の秋くらいだったから丸々3年くらいか…な」


「3年も付き合ってて名字呼びしてるなんてどうかしてるよ!本当に付き合ってんの!?」


「あー、煩い煩い。んだよ、じゃあ『ダーリン♡』とでも呼べばいいのか?」


我ながら気色の悪い声が出たと思う。


「ぷっ、あははははは!似合わなー!あはははははは、お腹痛い!」


「…ころす」


「ひひい、まって、謝るから!謝るから!謝…ぷっ、あはははははははは!」


「ちっ、人の事馬鹿にしやがって。そーいうお前の方は、どうなんだよ?」


「聞いてよーそれがさー、ついこないだ別れちゃってさ!」


「またかよ…あたしたちが付き合ってる間に何人取っ替え引っ替えしてんだ?」


「えーっと、まってね…たかくんでしょー?ひろくん、ふみくん、さとる…四人かな?」


「…呆れた。何となく高校の頃からそうなるとは思ってたけど男癖悪いなぁ…」


「違うんだって!こないだたかくんと別れたのだって向こうが悪いんだよ!?」


「あーはいはい、どうせ『部屋でタバコを吸うのをやめてくれない』とかだろ?」


「違うもん!たかくんはタバコ吸わないし!こないだ私の誕生日だったんだけど誕生日ケーキにね?モンブラン出してきたの!!」


「だから?」


「だからじゃないよ!紗凪も知ってるでしょ!?私モンブラン嫌いなの!なのにそんなこと知らないで『ハッピーバースデー』だって!?彼女の嫌いなもの普通誕生日に出す!?」


「…もしかしてそれが別れた理由?」


「そうだよ!酷くない?」


「…ちなみに彼氏さんに教えたことあったの?モンブランが嫌いなこと」


「…ううん?でも、普通言わなくても彼女の好きなもの嫌いなもの分かってるものじゃない?」


地雷女だ。

 

十年来の親友を前にしてそんなことを思わざるを得なかった。


「…はぁ。喧嘩するならまだしも別れる必要ないだろ。いつまでもそんなことやってると婚期逃すぞ」


くだらないと言いかけた口に、珈琲を含む。


「…ぶぅ、うるさいなぁ。って、紗凪と不知火くん結婚するの?」


口に含んだ珈琲が吐き出される。


「…うわっ!紗凪汚ーい!一体何歳よ」


「っけほ。うっさい!お前と一緒の二十五歳じゃ。大体なんであたしたちが結婚する話になってんだよ」


「え?だって婚期ーなんて話し出したから、もう射程圏内なのかなって。ほら同棲もしてるんだし」


「今はまだ結婚とかそんなの考えられる状況じゃねーよ。これから作家として売れるかかかってるだから」


「あ、作家といえば、読んだよ!不知火くんの処女作。意外と面白かったし、重版も決まったみたいじゃん!」


「ありがたいことになぁ。正直贔屓目無しに編集者としてのあたしが見ても面白いと思うし、後はメディアを通してどこまで認知させるかって所が焦点だと思ってるんだよね」


「彼氏の作品を贔屓目無しに見れるの〜?」


「見れるんだよ!ったく隙あらば直ぐおちょくろうとするんだから。ホントそういうの高校生の頃から変わんねーな」


「そーだよ!」


「開き直るな」


「話変わるんだけどさ!」


本当に忙しない親友だ。


「紗凪と不知火くんって何で付き合い始めたの?」


「何でって。…まぁ、偶々研究室が同じになって、それでアイツから告白された…からかな。なんだよ!」


親友の顔が腹の立つものに変わっていく。


「いやぁ、不知火くんもやりますなぁ。紗凪と付き合いたいから同じ研究室行くなんて〜」


「なっ、だからちげーって!偶々だ!偶々!…多分」


「でもなんで不知火くんは紗凪が好きになったんだろ?」


「あ?」


「わー!違う違う!紗凪を馬鹿にしたわけじゃないんだけど、ほら二人って高校の時はあんまり絡んだことないでしょ?」


「あー…まぁ。…色々あったんだよ、色々…な」


「なになになに?!同じ研究室で日々を送るうちに芽生えたラブなの?!ランデブーなの?!」


「うっさい!その馬鹿丸出しの質問やめろ」


「ねー教えてよー!教えて教えて!」


「もう小学生かよ。人様には言えない色々があったの!察せ!」


「…ふぅ〜ん」


ニヤニヤとした笑みを浮かべてる。


殴りてえ。


「…なるほどなるほど。不知火くんと紗凪はあんなことやこんなことがあったのね〜」


「それ本当に高校の奴らに言いふらしたらただじゃ置かないからな?」


「嘘嘘!言わない!言わない!ってかあの不知火くんだし、ちょっと言いづらいっていうか…何というか…」


「はぁ…そんな変な空気にすんなよ。あたしは今の関係に満足してるんだから」


「うっわラブラブかよ!リア充かよ!爆発しろ!」


「はいはい、いつか爆発してやるよ」


「あはは…。…あのさ、華ちゃんってあれからどうなったの?」


「どうなったって言われてもな…」


「ずっと気になってたんだけど分からずじまいで、当事者の不知火くんの彼女の紗凪なら何か知ってるかなって……」


「…もしかして今日呼んだ理由はそれか?」


「あーいや!そうじゃないんだけどね!あははは」


相変わらず嘘が下手な友人だ。


「正直、あたしも気を遣ってそんなに深くは聞いてないぞ。まぁポツリポツリと聞いた話だと、懲役10年だって」


「10年…」


「でもまぁ模範囚とかだと大体刑期の三分の二ぐらいで仮釈放とかされるみたいだけど」


「だから、華ちゃんが模範囚だとしたら10年の三分のニだから6.666666666666……」


「だからその馬鹿丸出しの年数やめろ。普通に七年とかでいいだろ」


「七年っていうともしかして仮釈放の時期ってそろそろ?」


「…かもな」


感情を抑えきれず、どうしても雑な返事をしてしまう。


「…あー。やっぱり、紗凪的には微妙?」


流石の恵も、今の感情の昂りは察したようだ。


「…そりゃそうだろ。彼氏に一生心に遺る傷を残した上に、妹を殺されてるんだぞ。正直、模範囚だろうがなんだろうが釈放されて欲しくない。例えそれが旧友だとしてもだ」


「そっか…。正直申し訳無いけど私はまだ実感がないんだ。あの華ちゃんが人殺しなんて。何かの間違いなんじゃないかって」


ドンッ


間違いなんて聞いて、堪えきれず机を叩いてしまう。


「間違いなんかじゃねえよ!…あ、いやごめん」


「…あはは、いいのいいの。私部外者だしね…」


「間違いなんかじゃ……ないんだよ。あたしはずっとアイツがどんだけ苦しんできたか側で見てきたんだから」







そうどれだけ苦しんでるか、ずっと見てきた。






それこそ高校の頃は絶望しきって今にも折れてしまいそうな、弱りきった姿。


別にその姿に庇護欲が唆られたとかそんな事はない。


ただ…、ほっとけなかった。


時々だが一人じゃ歩けなさそうなアイツを一人で歩けるようになるまで肩で支えてやった。


少しずつだけどアイツの歩みが力を覚えて、なんとか一人で歩けるようになった頃、卒業式を迎えていた。


当日の朝、無機質な白い封筒に白い手紙、そして「式の後、屋上で話したいことがある」とだけ書かれた文章。


直感でアイツと分かった。


式が終わった後、友人との別れを悲しみ再会を誓う。


そして、もう一人。


別れというより巣立ちを見守るようなそんな気分で屋上へ向かう。


扉を開けば、弱々しくも自分の力で立っているアイツが居た。


「やぁ、萩原さん」


「よう不知火」


「来てくれてありがとう。萩原さんの貴重な時間を取って、なんだか申し訳ないな」


「ああいいよ別に。気にすんな。それで?話って」


「一言だけどうしても伝えたかったんだ」


心臓が一度高鳴る。


「…なんだ?」


「ありがとう。命を救われた」


アイツはそのまま深く頭を下げた。


「…あー、いや気にすんなよ。あの日あの時のあたしの気紛れだ。恩を感じる必要なんてないよ」


何故だか分からない失望したようなそんな気持ちが湧いてきた。


アイツはもう一度顔上げて、一度も見たことない笑顔で


「ありがとう」


そう言ってきた。


「なんつーか…頑張れよ不知火」


あたしは雛鳥が巣立つ姿を見て安心し、そのまま屋上を後にした。


けれど安心したというのは自分を偽るための嘘。


本当はその場からさっさと居なくなってしまいたいと思っていた。


「…あー。そういうことか」


自分が何故失望したような気持ちを抱いたのか。


「卒業式の日に女子高生すんなよな…」


アイツを支えているうちに、いつの間にか惹かれてしまっていたことにようやく気がついた。


だけどアイツがどういう経緯で苦しんできたか、知っているからこそ打ち明けられない秘めた想いとなるはずだった。


本来なら。


今生の別れとも覚悟したはずなのにまさか、一年も満たないうちに再会を果たすとは思わなかった。


まさか同じ大学の同じ学部、果てには同じ学科とはな。


「それに不知火が洗脳していた、なんて馬鹿げた噂が流れてたが、逆だ。"アイツ"が不知火を洗脳していた」


「えっ…」


「これは付き合ってから分かったことだけどな、不知火の身体は火傷の跡や切り傷の跡が大量にあったんだよ」


「それってどういう…」


「つまり、高嶺華は自分を愛してくれるように、気に入らないことが起きるたびに何度も何度も身体を痛めつけ、"高嶺華を愛さなければ痛い目に合う"ってマインドコントロールされてたんだよ」


「一番むかついたのは初めてやったセックスの時だな。『ありがとうございます』って…。いやなんでもない忘れてくれ」


しまった。


気まずそうな恵の表情を見て、余計なことを言ったと思わざるを得ない


「ったく。忘れろって言ったのにそんな表情すんな」


恵の頰をつねる。


「いひゃい、いひゃい、いひゃい!」


学生の頃によくやってたことを思い出し、思わず笑ってしまった。


「むぅ…痛いよ紗凪!」


「あはは、ごめんごめん。今のはやりすぎたな」


「不知火くんにもそーやってDVしてるんでしょ、暴力女〜」


「あいつにそんなことするわけねぇだろ」


「うわ〜、言い切るなんてやっぱ熱々なんだね紗凪と不知火くんって。3年も付き合ってしかも同棲してこれだもんなぁ〜」


「同棲は関係ないだろ」


「あるよ!大いにあるよ。やっぱ付き合いたての頃はさぁ、相手の良いところしか見えなくて好き好き好き〜ってなるけど、同棲した途端、相手の嫌なところばっかり目が付くでしょ」


「そうか?」


「分かってないのはそれだけ紗凪と不知火くんがラブラブだって証拠だよ!…はぁーあ、まさか紗凪から惚気話されるとは思わなかったなぁ」


「あ?どういう意味だ?」


「もー、そうやってすぐ怒るんだから!よーするに、お幸せにってこと」


「へ、言われなくても幸せになってやらぁ」


そう。


不幸のドン底にいたあいつを今度は幸せにしなきゃいけない。


あたしが幸せにするんだ。


恋人の事を思い出すと、同時に恋人にした『夕飯までに帰る』と言った約束も思い出した。


慌てて腕時計で時刻を確認する。


「あ、もうこんな時間か。そろそろスーパー行って夕飯の買い物しないと」


「え?紗凪料理してるの!?」


信じられないものを見るような目でこちらを見る。


…むかついてきた。


「そりゃするだろ、彼女だし」


「…はぁ〜、やっぱ恋って乙女に変えるんだねぇ」


「…取り敢えず殴っていいか?」


「わー!暴力反対!」


「…はぁ、ったく。でも今日は会えて楽しかったよ恵」


「ツンデレのデレが出た」


「じゃ、伝票置いてくわー」


「ぁぁん!冗談だって冗談!って本当に行っちゃうの!?」


「あんだけおちょくったんだから珈琲ぐらい奢れ」


「う〜分かったよ。でも会計くらいちゃんと済ませてからバイバイしようよ」


「しょうがねぇなぁ」


そう言って恵は高級ブランドのバッグから高級ブランドの財布を取り出す。


一体、歴代の彼氏たちにどれだけ貢がせてきたのやら。


でもそういった身に着ける物が、身に纏う服が、身を整える化粧が、あの頃からどれだけ時が経ったかを感じさせる。


「さっ、じゃあ此処でお別れかな?」


「あぁ。本当に今日は会えて良かったよ恵」


「私こそ久々に紗凪に会えて楽しかった!」


「また暇な時にでも会おうな」


「絶対だよ!約束だからね?」


「あーはいはい、絶対絶対」


そんなに約束なんかしなくてもどうせまた会えるだろ。


そう思える友人がいることは、きっと恵まれてるんだろうな。


「バイバーイ!」


「あぁ、またな」


何だか気恥ずかしくなり、ぶっきらぼうな別れの挨拶をする。


「さて、と。夕飯なに作ろうかな」


恵が言ってたようについこないだ重版が決定した。


そのお祝いをしていないことに気がつく。


「…まぁお祝いを兼ねてハンバーグでも作るか」


……。



「思ったより時間かかっちゃったな」


スーパーで買い物を終え、出てくる頃にはすっかり街は茜色に染まっていた。


挽肉やら野菜やらをビニル袋に抱えて、急ぎ足で帰宅をする。


ふと、目に入る路地。


「…遅くなっちまったし、近道していくか」


本音を言うとあんまりこの近道は好きではない。

   

辛うじて道と呼べる幅はあるが、街灯はなく、日が沈んでしまえば、深い闇包まれるからだ。


けれどここを通れば大幅に帰宅時間を短縮できる。


今は夕日が沈みかけてはいるがまだ明るい。


ギリギリの判断で近道を行くことを選ぶ。


「こういう時間帯ってなんていうんだっけな…。確か逢魔時って言ってたっけな、あいつ」


逢魔時。


昼と夜の境目、黄昏時。


読んで字の如く、魔物や妖怪に逢いそうな不吉な時間帯。


あるいは災禍が招かれる時間帯。


そんなことを言ってたような気がする。


「昔に国語の授業でそんなことも習った気がするけど、あいつと付き合ってから覚えた言葉の方が多いなぁ」


そんなことをしみじみと思う。


細い路地を突き進み、恵との会話を思い出す。


「いい加減四年目になるし、呼び方変えた方がいいのかな」


慣れてしまったから今更疑問に思わなかったが、今一度考え直すとおかしな事ということぐらいはわかる。


「あまね…いや違う。アマネ、うーん。遍…ただいま遍。…うん自然だ」


驚くかな、あいつ。


少し恥ずかしいけど、あたしだってそろそろ下の名前で呼ばれたいし。


付き合ってもう3年だ。


うんそれがいい。





パキッ





「ッ!」


背後から枝が割れる音がする。


慌てて振り返るが特に何かがいる様子はない。


けれど薄暗さと不気味さが相まって、恐怖が背筋を伝う。


「…野良猫か?」


あんまり幽霊の類いを信じちゃいないがそれでも怖いものは怖い。


刻一刻と日の入りが迫っているので、急いでこの道を抜けることにしよう。


「絶対、今日こそ言ってやる。ただいま遍って」


ーーーーーーーーー

ーーーーーーー

ーーーーー

ーーー


「遅いな荻原さん」


集中の海から上がると、もう既に日が沈んでることに気が付いた。


恋人の帰りが遅く、心配する。


一度ノートパソコンを閉じて、煙草を手に取る。


そのままベランダに出ると、随分と冷え込んだ空気に身を細める。


まだ冬と呼ぶには早いが、すっかりと紅葉に染まった季節だと、日が沈みきってしまえば空気は身に染みるほど冷たくなっていた。


恐る恐る口に加えた煙草に火を付ける。


「…ふう」


夜空をぼやかすように、煙を吐く。


寂れたこの街は、明かりが少なく夜空の星が、都会よりは綺麗に写る。


とはいえ、都会と比べればマシ、といった具合なのだが。


「…嗚呼、オリオン座だ。もうそんな季節か」


強く光る四つの星で象られた体と、それを結ぶ帯を表す三つの星。


間も無く冬の訪れる、その報せだった。


「確か荻原さんに告白したのが三年前のこんな季節だったような気がする」


あの頃。


恋人と妹を同時に失ったあの頃。


今思えば、恋慕と憎悪と悲哀の矛盾した感情で、心が歪み悲鳴を上げ、正常な判断が出来なくなっていた。


簡単にお別れを告げたこの世と僕を繋げたのは、紛れもなく萩原さんのお陰だ。


「…"萩原さん"か」


想いを告げて、交際に至ってから今日まで三年という月日が経ったのにも関わらず、未だ下の名前を呼べずにいた。


原因は分かってる。


さな と はな


その名前が"彼女"のことを強く蘇らせる。


"彼女"の言葉が、未だ呪いとなって下の名前を呼べずにいた。


今となっては触れる、抱きしめる、口付けする、そして性交渉まで行っているが、初めは紗凪に触れるのも苦労した。


そんな臆病で奥手な僕を、決して紗凪は見限らずに、「焦らなくていいよ」と優しく応えてくれた。


交際を始めてから手を繋ぐまで、一年という月日を要したというのに。


「紗凪…。…面と向かってない時は言えるんだけどな」


喉に染み付いた怯弱が、癖となってしまっている。


客観的に見て、よくもまぁこんなに交際を続けられているもんだと感心する。


ベランダの手すりにかけていた腕の先から、煙草の灰が下へと落ちていく。


「行儀が悪いなぁ」


己を叱責すると同時に、灰が落ちていった地面に目を向ける。


「…こんな安アパートの二階からじゃあ、打ち所が悪くなければ自殺なんてできないな」


それなのにあの日、屋上から見下ろした校庭より随分と距離を感じる。


今となっては自殺なんて毛頭考えちゃあいないが、絶望の淵に立っていた僕は、屋上の縁に立ち、自殺をしようとした。


飛び降りることなんて怖くもなんとも思っていなかった。


寧ろ屋上から校庭の高さが五メートルにも満たないような近さに錯覚していた。












「さよなら」


そう告げて飛び降りようとした僕を止めたのは、金網の隙間を通った細い腕、紗凪の腕だった。


「なにしてんだよ!!!」


「萩原さん…」


「そんな馬鹿なことはやめて、こっちに戻ってこい!」


強くシャツが握られる。


皮膚に爪も食い込んでる。


「……痛いよ、萩原さん。少し緩めてよ」


「じゃあ一旦こっちに戻ってこい。そしたらこの手も緩めてやる」


強く握られているとは言え、金網越しに片手かつ女子の握力だ。


飛び降りようと思えば無理矢理にでも出来るだろう。


けれど僕を引き止めているのはそんな物理的な話じゃなくて、彼女の瞳に宿る強い意志だった。


僕はその強い意志に屈するように、金網をよじ登り、彼岸から此岸へ渡る。


「どうして止めたんだい?」


恨み言のようにそう呟いた。


「自殺は…するもんじゃない。生きてれば死にたくなることもあるだろうが、その逆も然りだ。この先きっと生きてて良かったと思える時が来る。けれど死にたい奴らは、どうしても目の前が暗くなっちまって、何も分からなくなる。だから誰かがこうやって止めなくちゃいけないと、そう思った」


「生きてて良かったって思える…?はは…無責任なこと言わないでよ。恋人は殺人鬼、妹は殺された、そして分からないだろうけど僕の夢だってもう叶わない」


「でもお前は生きている。それに夢だって持ってるじゃないか。一度や二度、落選したからって諦めるなよ」


「…!なんでそれを…」


「知っているかだって?ほら、これ。読んだよ」


それは表紙に『高嶺の花と放課後』と書かれたノートだった。


「こんな遺書紛いなもの、机の上に置いて置くもんだからまさかと思って屋上に来てれば、案の定だったな」


「なら、分かるだろう?僕はもう物語を書くことが出来なくなってしまったんだよ。落選したことも酷く落ち込みはしたけれど、書けなくなってしまったことの方がよっぽど深刻なのさ」


「こんなことがあったらショックの一つや二つでなんらかの支障が起きたって仕方がないよ」


「分かった風に言わないでよ。何も分からないくせにさ。萩原さんみたいな人にはきっと死にたいと思う人の気持ちなんて分かりはしないさ」


「おーおー言ってくれるね。まるであたしが死にたいと思ったことがないみたいな言い方だな」


「…間違ってるかい?」


「まぁ死にたいとは思ったことはなくはないが、お前ほど深刻なものじゃないな。…けどな、死なれたことならある」


「…?」


「中学の時だ。地元の幼馴染だった女の子がいたんだ。まぁ幼馴染ってだけでそこまで仲良くはなかったんだがな。中2のある日だ。そいつは自殺したんだ。原因は単純、いじめだよ」


「…」


相槌を打つことはしない。


ただ淡々と萩原さんの過去を聞く。


「特別仲が良い友達が死んだなら、きっと深く悲しんでたんだろうけど、あたしの中に芽生えた感情は罪悪感だった。確かに仲は良いとは言えなかったけれど、あたしはその子の死を止められた可能性のある立場の人間だった。もしかしたら助けられたかもしれない。そんな自責の念で毎日押し潰されそうになった。きっとあたしには関係ない人間だって思えば楽になれたのに。今だってそうだ。止められるのに止めなければ、あたしはまた何年も罪悪感に苛まれる。だから止めた。あたしがあたしであるために。理由としては満足か?」


「…萩原さんは、とても責任感の強い人なんだね。それに…、残酷だ」


「…」


「君はまた僕に地獄を生きろと言っている。想像できるかい?夜寝るたびに華が綾音を刺し殺す場面が何度も何度も繰り返される苦しみが?」


「ごめん、そこまでは考えてなかった。責任感が強いってのは無責任の間違いだな」


「きっとここで僕の自殺を止めたって死にたいって気持ちは消えるわけじゃあない。君がいなくなった隙に、また飛び降りようとするかもしれない」


「そしたらもう…あたしにできることはないかもな…。不知火…、これはあたしの我儘なんだけどさ…」


「なんだい?」


「生きて欲しい」


乾いた大地に水が染み込む感じがした。


誰にも、自分自身でさえ、己を生きて欲しいと思わなかったのに、ただ一言。


ただ一言、そう言われただけで僕の心はどうしようもなく喜んでしまった。


「…やっぱり君は残酷だ」


止めどなく涙が溢れる。


…。


それから僕はまた地獄を生きる道を選んでしまった。


死にたいという気持ちを抱える日々。


死神が誘惑してくる毎日。


それでも僕は、以前の自分ならどういう道を選ぶのか、考えに考え、その道を必死になぞっていく。


今は書けないかもしれない。


けれどいつかは書けるかもしれない。


今は夢に酔おう。


そうすれば僕はまた明日を迎えられる。


地獄の日々だった高校生活も、今振り返ってみれば長かったようで短いという、ありきたりな感想が出てしまう。


「夢を叶えたぞ…」


過去の自分が少しでも救われるように呟いた。


届くことはないのかもしれないが、それでも今に繋がっている。


それでいいんだ。


「冷えてきたな…」


室外機の上に乗せた灰皿に、煙草を押しつけ火を消す。


寒さに身を縮ませながら室内戻ると、何の気の迷いか数年ぶり書き足したノートが開かれているのが目に入る。


「こんなものまだ持ってるって荻原さんにばれたら大変だ」


事件から7年。


風化とまではいかないが、あの時の苦しかった思いは少しずつ小さくなっていた。


それもこれも、恋人である萩原紗凪のお陰だと改めて思う。


彼女はとても強い人だ。


僕にはない、とても強い芯を持った人。


憧れにも似た感情が湧くが、一番は彼女といると少しでも自分が真っ当に近づけるような、そんな気がするのだ。


卒業式の日、命の恩人だと、格好つけて礼を言ったのは良いものの、すぐに同じキャンパスで再開した時は、なんとも恥ずかしさにも似た感情が湧いた。


高校の時にポツリポツリと吐いた事情を知っていた彼女は、何かと僕のことを気にかけてくれた。


なぜ自分にそう気にかけてくれるのか、当時の僕は全く分からなかった。


あの事件で失ったもの、傷ついたもの、壊れたもの、それは決して簡単に戻るものじゃあないが、それでも前に進もうとそう思えさせてくれたのは、紛れもなく彼女のお陰だ。


高校の頃の担任の先生の言う通り、大学に入学した僕は、小説を書けなくなってはいたが、それでも何度も旅に出かけた。


美しい景色や人、出会いがたくさんあった。


心が躍るようなものもあったが、結局筆を取れば同じことだった。


「まだ書けないのか?」


「うん、いざ筆を取ると頭が真っ白になるんだ。なにも物語が浮かばない」


「そっ…か。まぁ焦ることないよ。今は心の赴くままに生きてみよう」


「心の赴くまま…」


強く寛容な彼女を見ている日々。


すると、今まで何も浮かばなかった白紙の頭に一つ、物語が思いついた。


別になんてことはない物語。


さして面白いとも思わない。


けれど、数年ぶりに物語が頭に描かれた。


彼女をモチーフにした強い女性が主人公の物語。


面白くないはずなのに、筆が止まらない。


今まで塞ぎ込んでたものが溢れるように、物語が延々と綴られていく。


気がつけば僕は、三日三晩寝食忘れて、物語を書き完結させた。


完結させた瞬間、空腹と睡眠不足で倒れたのは、今ではいい思い出だ。


開いていたノートを閉じ、幾つかの"未開封の封筒"を共に仕舞われていた箱の中に入れる。





ピンポーン





普段であれば受信料の徴収か、あるいは宗教の勧誘か。


生憎だが、ドアモニターのない安アパートじゃ、来訪者の顔を知ることはできない。


「…はい」


「あけて」


音質の悪いインターホンからは、聴き慣れた女性の声が聞こえた。


「…?おかしいな、萩原さん鍵忘れたのかな?」


いや、いつまでもこんな呼び方をしたらいつ愛想を尽かされるかわからない。


「紗凪。…紗凪。今日こそちゃんと言おう」


僕の心を救ってくれた恩人。


僕にもう一度愛を教えてくれた恋人。


ちゃんと気持ちを伝えよう。


感謝の気持ちを、そして愛してると。


玄関の鍵を開ける。


ガチャリ


扉がゆっくりと開かれていく。


言えるのだろうか。


違う、言わなくちゃ。


いつまでもありもしない呪いに囚われてちゃあ駄目だ。


紗凪。


君となら僕は強く生きていける。


扉が開かれる。















「ただいま、…遍」

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