第14話 『スグリ』

高校2年 11月上旬


誰よりも早く学校に来る。


誰よりも早く教室に入る。


誰よりも早く入った教室で本を読む。


以前から繰り返していた特に意味を持たなかった習慣は、今や他人から悪意を受け取らないための防衛策となっていた。


授業と授業の間も、本を読む。


周りの声を無視することが、今僕にできる唯一の心の救済だった。


けれど流石に昼休みになれば、1人の無視できない存在がこちらへ向かってくる。


「遍。今日もお弁当作ってきたから一緒に食べよ?」


「…うん」


この瞬間だけは、周りの声も視線も無視できない。


嫌なものを見る目で僕を見る。


ふたりきりになりたいと、彼女は屋上へ行くことを望む。


僕も同じく、ふたりきりになりたかった。


「んー!いい天気だね遍!」


「うん、そうだね」


空を見上げれば見事な秋晴れが広がっていた。


風が少し冷たいが、その分日差しが心地よく感じる。


「でもちょっと風が冷たいし、日差しで食べよっか」


彼女も同じことを考えていたようだ。


「そうしよう」


僕が同意したのを見ると、彼女は布に包まれた二組の弁当箱を取り出し、中身を僕に見せるように開ける。


「じゃーん。今日は遍の好きなきんぴら作ってきたの!」


そのまま箸を取り出し、きんぴらを掬い上げる。


「はい、あーん」


僕は言われるがまま、雛鳥のように口を開き、好物を口に含む。


「…どう…かな?」


少々不安げな表情を浮かべる。


「うん、美味しいよ」


少し塩辛い気もするが十分美味しいと言えるものだった。


僕がそう答えると、彼女は不安げな表情から嬉しそうな表情へと綻んでいく、


「えへへ、良かった。遍の好きなものなのに口に合わなかったらどうしようって不安だったんだぁ。愛情もたっぷり詰まってるからいっぱい食べてね」


咀嚼が止まる。


順調に回していた歯車が、ギシギシと音を立て、途端に噛み合わなくなる。


「…どうしたの?」


再び不安げな表情で僕に尋ねる彼女。


しかし先とは違う、味に関する不安ではない。


きっと彼女の望む日常が壊れてしまうのではないかという恐れからの、不安。


その表情が、その目が、全身の痛みを思い出させる。


「い、いやなんでもないよ?」


歯車をすぐに修繕して、日常をまた回し始める。


全身がズキズキと痛む。


もう五日も前のことなのに、生傷のように痛みが走る。


余計なことを考えるな。


彼女が望む生活を営む。


もう、足掻くのは無駄なことだと充分、理解した。


それに彼女の愛を受け入れることに、なんの問題があるのだろうか。


…ない。


問題など無い。


考えるな、考えるな。


余計なことを考えれば、痛みが全身を苦しめる。


彼女の愛を素直に受け入れれば、痛くも無いし幸せじゃあないか。


余計なことを考えるな。


さっきは悪意から必死に守っていた心を、今度は声を上げなくなるように殴り続ける。


本心が分からなくなるまで殴り続ける。


もう本音なんて喋る必要はない。


人にも、己にも。


「ごちそうさまでした」


僕は高嶺華と日常を過ごす。


それだけだ。


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「ただいま」


前回の期末考査と同じく、放課後ふたりきりの教室で勉強をし、帰宅する頃にはすっかり夕飯の時刻となっていた。


革靴を脱ぎ、廊下に足を乗せたところでリビングから義母が顔を出してきた。


「おかえり、遍くん」


「…綾音は?」


「…」


義母は口を閉ざし、静かに首を横に振る。


今日で五日目。


あの日以来綾音は、部屋に篭っていた。


最早、生きているか定かではない状況だが、どうやら食事だけはちゃんと取っているらしい。


「…あの子本当にどうしちゃったのかしら」


義母はまだ事の顛末を知らない。


言うべきか言わないべきか正直分からなかった。


否、本当は言うべきなのかもしれない。


母親として娘を案ずる気持ちはよく分かるのだが、然りとて面と向かって「貴方の娘は近親愛願望の持ち主でした」と言える勇気はとてもじゃないけど持ち合わせてはいなかった。


それに僕も日常を維持するのにいっぱいいっぱいになってる。


やっとの思いで均衡を保っている。


自分以外に気を使う余裕を持ち合わせてはいない。


「…先にお風呂に入ってくるよ。夕飯は先に食べてて」


そんな器の小さい自分が情けなくて、家族とすら顔を合わせたくなくなる。


「…待ちなさい、遍くん。綾音も確かに心配だけど、あなたも最近少しおかしいわよ」


何日も連続して、夕飯を共にすることを避けてれば、あまりに不自然なのは少し考えれば分かることだった。


「…僕?僕は大丈夫だよ?」


嘘つきの笑顔を浮かべる。


けれど義母はただ悲しい顔をするだけだった。


「…遍くん。私そんなに頼りないかな。確かに私達は血の繋がりがないけど、私はあなたのことを本当の息子だ思ってる。遍くんは私のことを本当の母親のように信頼するのは難しい?」


「まさか。そんなこと…」


「…じゃあどうしてそんな、誤魔化したような笑いをするの?」


二の句が告げられなくなる。


義母は泣いていた。


例え家族だとしても、その笑顔が本物か偽物かなんて、判断をつけるのは難しいはず。


それなのに、僕の笑顔が嘘だと気付き、それを悲しんでいる。


きっと義母は本当の母親になろうと、相当な努力をしてきたのだろう。


「…ごめんなさい。先に夕飯を食べることにするよ。話はそこでもいいかい?」


「…分かったわ」


「荷物、置いてくるよ」


罪悪感に髪を引かれながら、自室のある二階へと登る。


階段を登りきってまず目に入ったのは、彩音の部屋の前の廊下に置かれているお盆と食器だった。


けれど僕は足を止めずにそのまま、自室へ入る。


「…なにしているんだろう」


自分でもおかしいのはわかる。


いつもの自分であれば、妹の異変の心配をし、荷物を置くより先に綾音の部屋に様子を伺いに行くというのに。


「駄目じゃない…、綾音ちゃんの心配しちゃあ」


「!?」


華が耳元で囁く。


慌てて振り返る。


けれど華の姿はどこにもなく、自室の扉がそこにあるだけだった。


「…はぁ」


あの"教育"以来、時折こうして華の幻が僕に警告してくる。


「分かっているさ…。君以外は愛さない」


そこに華はいないのに、僕は華に誓いの言葉を捧げる。


華も言っていた。


中途半端な愛情を注ぐから彩音も苦しむのだと。


綾音を真っ当な道に戻すなら綾音が諦めるまで徹底的に距離を置くべきと。


初めは納得できなかったが、今ではそれが本当に正しいやり方なのではないかと思い始めている。


近過ぎず遠過ぎないから近づきたくなる、近づけるかもしれないと思わせないほど遠くなればきっと綾音も…。


制服から部屋着へと着替え、自室を後にする。


今度は部屋から出る時は、一度も綾音の部屋を見ずに階段を降りた。


意図的に見なかった。


リビングへ足を運ぶと机の上には、煮物や焼魚といった二人分の食事が置いてあった。


家族は四人いるのに、その半数しかない。


「父さんは?」


「剛さん、仕事で遅くなるんですって」


ということは、恐らく僕の分と義母の分なのだろう。


綾音の分は、と聞くのは余りにも野暮というものだ。


「じゃあ食べようか…」


四人分の座席、誰がいつ決めたかも分からない決められたいつもの席に座る。


「いただきます」


「…いただきます」


いつもの半数の食卓は、いつもの半分以上に静寂なものだ。


否、ここに父がいても変わることはない。


不在が存在を強く認識させる。


綾音がどれだけ不知火家に必要か、今ならよく分かる。


義母も口を開かない。


これは元よりそうだということではなく、あくまで僕が口を開くのを待っている、そんな状態のように思える。


では話すと言っても、僕が一体なにを話せるというのだろうか。


義妹が、貴女の娘が僕を恋慕の対象として見てました。


或いは。


彼女が、交際相手が僕を…僕を。


僕を?




アイシテクレマシタ




悪寒が全身を包む。


少しでも彼女の事を悪く思えば、思考が固まり、その先が考えられなくなる。


心が悲鳴を上げているのは分かっている。


風でも吹けば、すぐに崩れてしまいそうなほど危険で歪な精神のバランス。


「遍くん…顔色悪いわよ…」


今にも心が壊れてしまいそうな最低な気分は、義母の口を開かせるほどの表情を写し出してしまった。


話せない。


話せるわけがない。


自分自身の心にさえ、話せないのに。


「その…さ。綾音が…」


そう考えていたら、口が勝手に言葉を選び始めた。


「どうやら僕の事を、好いていた…みたいなんだ。兄としてじゃなくて…その…」


ここから先は流石に言いにくいと口にブレーキがかかる。


それでも義母は察したようで、目を少し開いた後、空気が漏れるようなため息を吐いた。


「そっ…か。そっか。…そうだったのね。そう…なっちゃったのね」


義母としても複雑な心境なのだろう。


上手く言葉が見つからないと言った様子だった。


「僕が言ったのは、到底綾音の想いは受け入れられないといった旨だよ…」


「それっていつの話?」


「五日前、文化祭二日目の朝だ」


「…」


言葉を見つけるのが容易ではない、そういった様子だった。


当たり前の話だ。


義母の思いも、綾音の想いも、僕の憶いも、簡単なものじゃない。


僕らは皆、一言で表せられるような、そんな単純なものを、心の内に飼っていない。


何が正解で、何が間違いなのか。


そもそも正解も間違いもあるのか。


分かるはずもない。


「僕としては受け入れられないと綾音に伝えたんだ。元よりそんな気は持ち合わせてはいなかったし、僕には今…彼女が居るから」


「…そうよね。遍くんは何も悪くない、ただ…当たり前の事を言っただけ」


無理な笑みを浮かべる。


それだけで義母の胸中にどれだけ複雑なものが渦巻いているのかが分かる。


「…いつか私にも紹介してね、遍くんの彼女」


「うん…」


何の気兼ねもなく華を家に連れて来れる日がやってくるのだろうか。


何の希望も見出せない中で食べる夕食は、酷く薄味なものだった。


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いつもの通学路を歩き、いつも通っている羽紅高校に着く。


けれど今日はいつも通う学舎が目的地ではなく、その先。


羽紅駅での待ち合わせ。


歩くたびに駅の姿が大きくなり、間もなく到着する頃には待ち人を視認できる距離だった。


待ち人はどうやら誰かと話していたようだった。


その誰かも分からない男の人が去るまで待とうかと思ったが、あいにく集合時間を過ぎようとしていた。


仕方無しに僕は彼女に挨拶をすることにする。


「お待たせ、華」


「…ほらね」


彼女は一度僕を見ると、直ぐに話していた人に冷たい視線を向ける。


「…ちぇ、本当にいたのかよ。しかも…。見る目ないんだな」


男は明らかに悪意を僕らに向け、そのまま立ち去っていく。


「…知り合いかい?」


明らかに違うことはわかり切っているのに、そんな野暮な質問をする。


「違うよ、ナンパ」


つまらなさそうに吐き捨てる。


そのまま華は溜息を一つ吐いて、僕に体を向け直す。


「遅いよ遍。時間ギリギリに来るから貴方の愛する彼女がナンパされるんだよ?」


「ごめんよ、思ったより支度に手間がかかってしまってね」


途端に彼女が抱きついてくる。


「会いたかった」


熱の帯びた囁きが、肩を湿らす。


「…昨日別れてからまだ半日しか経ってないよ」


「半日"も"離れてたのよ?遍に会えない時間は1分でも1秒でも苦痛なのに、半日も会えないなんて気が狂いそう」


彼女の強い想いに僕は返す言葉を出せないでいた。


「ねぇ」


「?」


「嫉妬、…した?」


先程とはうって変わって酷く冷めた声で、囁く。


間違いない。


間違えてはいけない。


僕は"正解"を答えなければならない。


「…うん。華は誰の目から見ても魅力的だから、仕方ないとは思うけど」


「あいつらから魅力的に見えるかなんてどうでもいいの。…遍から見て私は魅力的?」


「うん。僕には勿体無いほどの自慢の彼女だよ」


「…もう。そうやって直ぐ自分のことを物差しで測るんだから」


華は少しだけ体を離して、薄桃色の唇を僕の唇に合わせる。


「…その癖、治してね」


大丈夫、しくじってない。


どうやら僕の回答は及第点のようだ。


「じゃーあ。早く行こっ。早くお家デートしよ!」


「今日はお家デートじゃなくて勉強会だからね」


「今日だけじゃなくて明日も!もう遍ったら。どうしてそんな色気の無いこと言うのっ?」


「ははは、明後日からテストだし、流石に無視できないよ」


「今週凄い勉強したし、今の遍なら今日明日やんなくても絶対いい点数とれるよ」


「流石にそれは過信しすぎだよ」


「むぅ、遍のいけず」


「…別に一日中、勉強だけするわけでもないんだろう?」


華は一度目を大きく開くと、向日葵のような笑顔を咲かせる。


「うん!早く行こう!」


僕はあまり慣れない仕草で券売機を操作する。


「華の家の最寄駅ってどこなんだい?」


「二つ隣の夜鳥町(よるとりまち)ってところ」


言われるがまま、二番目に安い切符を買う。


「そもそも、華の家は僕の家とは同じ方向どころか反対側、しかも電車を使うじゃあないか」


「あはは…。どうしても遍と一緒に帰りたかったから嘘ついちゃった。ごめんね?」


「いや、怒ってはないんだけれども…」


怒ってはない。


怒ってはないがそもそも出会いの時点からそんなにも想い寄られてるにも関わらず、その気配を一寸も感じ取れなかった己の鈍さに、呆れてものも言えない。


「最近は遍にお弁当作ってるから、どうしても朝早く出る遍に間に合わないんだよねぇ…」


不満が漏れる。


券売機からも切符が漏れる。


「ま、でもいいんだ。もう遍は四六時中私のモノだもんね」


「…そうだね」


改札機に切符を喰わせる。


別の口から不味いと吐き出される。


電車なんてものに乗るのは随分と久しい。


電光掲示板で次にやってくる電車の時刻を確認しようと上を眺めていると、左腕にスルリと蛇のように華の腕が絡みつく。


「なぁに?」


無意識の内に左にいる華を見やると、そんなことを聞いてくる。


出来れば人の目につく時はやめて欲しいと言おうとしたが、上手く言葉が舌に乗らない。


「…今日も可愛いなと思っただけさ。ナンパする彼の気持ちもよく分かるよ」


代わりに出てきたのは気障ったらしい台詞だった。


「えへへ、嬉しい。…私ね、実はあんまり人から可愛いとか言われるの好きじゃなかったんだ。昔からみんなそう言うの。まるで私の存在意義が可愛く在り続けることだけのように。私は人形なんかじゃない。…いつも思ってたの。もし私が可愛くなければ、この人達は同じ様に接していたのだろうかって、ね。私が思うに、答えはノーよ」


「…容姿抜きで接し方を決めるなんてことは無理な話だとは思うさ。容姿はその人の魅力の内の一つなのだから」


「それは付加価値であるべきであって、存在価値を決定付けるものであってはいけないの。けど残念ながら心の底で、そういったふざけた考えを持ってる人間が殆ど。本当に嫌になるよ、人は心が一番大事なのにね。そういう意味でも本当に世の中、下らない人間が多すぎる」


感情が昂ったのか蛇の様に絡んでいた腕があっという間に解かれる。


「だから私に"可愛い"とか言ってくる人間は、『嗚呼、この人は私の心より容姿を見てるんだな』って、凄く嫌悪感が湧いてくるの」


「…もしかして、僕がさっき言ったこと気に障ったかい?」


「ううん、違う違う。遍は特別。そもそも遍が私のことを可愛いって言ってくれたのは付き合い始めてからだし、私のことちゃんと見てくれてるってことも知ってる。それにやっぱり好きな人に可愛いって言ってもらえるのは、本当に嬉しくなるんだね」


華が頬が紅色に染まる。


「好きだよ、遍」


心の底から笑っている様な、そんな幸福に包まれた表情を浮かべる。


それを見て僕は僅かに、ほんの僅かに、心の内にも幸福が芽生えるのを感じる。


これは僕の中の誰の感情なんだ?


戸惑いを感じざるを得ない。


「?どうしたの遍」


僕の戸惑いが華にも伝わったのか、そんなことを聞いてくる。


この気持ちを素直に伝えるのは悪いことでないのではないか。


そう思い、言葉に表そうとする。


「華、僕ーーーーー」


しかしその声は、突如やってきた通過列車のけたたましい音に遮られる。


列車が通過するまで一度口を閉じる。


十秒もすれば、電車は通り過ぎていった。


「ごめん遍。なんて言ったの?」


もう一度面と向かって、言うには少し恥ずかしい台詞だ。


「僕、華と付き合えて良かったよ」


確かに苦しいこと、辛いことがあった。


随分と非道いこともされた。


けれどそれも全て彼女の想いの強さ故。


この一週間は本当に孤独と悪意が強く僕の心を折ろうとしていた。


それでも折れないでいたのは、少なくても僕の隣で、花が咲いたように笑う可憐な少女が居たから。


そもそも孤独になった原因は彼女なのだが、その原因の原因を作り出したのは僕だ。


ちょっと嫉妬心が強いだけ、ちょっと独占欲が強いだけ。


そこに目を瞑れば、見る人を魅了してやまない美しい少女。


僕の初恋だった相手。


人は誰しも短所の一つや二つはある。


もうどうしようもないのであれば、せめて肯定的に受け入れよう。


「ぁぁぁ…ああ…嗚呼!嬉しい…、嬉しい!!」


華は目を大きく開き、恍惚とした表情を浮かべる。


でも僕はこのまま、彼女に依存してしまって良いのだろうか?


もし彼女が僕に愛想を尽かしたら?


支えを失った心はどうなってしまうのか。


文字通り、身体に刻まれるほど彼女の愛を教えられたというのに、まだそれを信じ切れてない。


愚か過ぎて言葉が浮かばない。


ーーーーまもなく一番線に電車が到着いたします。


自己嫌悪に浸っている僕を、構内アナウンスが引き上げる。


「あっ…これに乗って二駅で着くからね」


「さっき言ってたばかりだから忘れるわけないだろう」


「えー?どうかな。遍、おっちょこちょいなところあるからなぁー?」


「そんな、…心外だ」


「そういうところも含めて、好きだから安心してね」


可憐な笑顔を浮かべる。


嗚呼、彼女はなんで美しいのだろうか。


彼女が僕にしてきた仕打ちなど、帳消しするほどに。


しかしその考えは、彼女の嫌う有象無象の考え方。


もしこれが彼女にバレてしまったら?


忍び寄る恐怖の程が、知らず知らずのうちに僕が彼女にどれだけ依存し始めているか、その様子を無様にも写し出していた。


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他所の家に上がるのは、初めてではないのだが、それでも片手で数える程度の回数の上、随分と久しい出来事だった。


「どうぞ」


どんな家なのか色々と想像はしてみたが、豪邸でも何でもなく団地の一角の部屋だった。


少し古めかしい玄関の扉を開けば、清潔な廊下が真っ直ぐと奥の部屋まで伸びていた。


「…他人の家の匂いだ」


思わずそんな感想を零すと、彼女はクスリと笑った。


「一番最初の感想がそれ?」


「嗚呼、いやごめん。凄く綺麗なお家だね」


「一応、彼氏が来るんだもん。頑張って掃除したんだよ?あっ、コレ使って」


そう言って彼女は、下駄箱にあったスリッパを僕に渡してくる。


「ありがとう」


先にスリッパに履き替えた家主の娘は、奥の部屋に先導するように歩き始めた。


廊下には多くの写真が飾られていた。


「これ全部、華?」


「そうだよー。うちは両親が溺愛しててね、よく記念に写真撮っては飾ってるの。ちょっと恥ずかしいな、えへへ…。ここがリビングだよ」


廊下を抜けると、他所の暮らしがそこに広がっていた。


「荷物はソファに置いていいよ。遍、まだお昼ご飯食べてない?」


「朝ご飯は食べたけれども、お昼ご飯はまだ食べていないよ」


「じゃあ先にお昼ご飯作ってあげるね!適当にくつろいでて!」


「適当に…か」


適当にと言われても、一体全体どう過ごせばいいのか、不器用な僕は思いつかない。


生憎、本当に勉強する気で来ているため、文庫本などは持ち合わせていない。


仕方なしにと、鞄の中で着替えなどに埋もれている参考書を手に取る。


「もうっ、くつろいでてって言ったのに」


少し僕を咎めるような口調で現れてきたのは、エプロン姿の華だった。


「くつろいでてって言われても、何をしたらいいのか分からないんだ」


自嘲気味に笑う。


「遍、本は?」


「持ってきてないさ。だって勉強するつもりで来たんだから」


「もー、変なところで真面目なんだから」


そう言うと、彼女は廊下の方へ歩いて行き、何処かの部屋に入ると直ぐに出てくる。


「いいよ、私がご飯作ってる間好きなの読んでて」


部屋から戻ってきた彼女が持ってきたのは、数冊の文庫本だった。


「これ華のかい?」


「ん?そうだけどどうしたの?」


渡された本はどれも、映画化やドラマ化して世間で話題になったようなものではなく、本屋を数時間散策して漸く見つけるようなものばかりだった。


「華、あんまり本読まないって言ってなかったかい?」


「んー?そんなこと言ったっけなぁ」


彼女は僕に背を向けたまま、そんな事を言う。


まぁさして気にするような事でもないかと、思い直し渡された本をいくつか吟味する。


正直どれも見たことない題名、作者の本だ。


『コウノトリの子供たち』


『雨降る日は君と』


『八月に幽囚』


取り敢えず、気になったものを手に取り、僕はそれを読むことにした。


目次を開くうちに聞こえてくるのは、コンロに火がつく音。


僕も何度も聞いている音なのに、随分と新鮮に感じる。


続けて、包丁が小気味よく何かを切る音が聞こえる。


それだけで彼女がどれだけ手馴れているのかが分かる。


僕もその音を背景に、読書を始めることにする。


二人だけしかいない空間で始める読書は、すんなりと集中の海へと潜り込んでいった。


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「ご馳走様でした。凄く美味しかったよ」


腹八分目ならぬ腹十分目に達し、これ以上食べられないと判断した。


「お粗末様でした。えへへお口にあってよかった」


少々味付けが濃かった気もする。


彼女は濃い味が好みなのだろうか。


僕が読書に夢中になっている間に、作られてきたのは、これでもかという程の種類の料理だった。


肉じゃが、角煮、おひたし、きんぴら、炊き込みご飯。


普段料理をしている僕は、否、普段料理していなくても大変手間のかかっているものというのは一目瞭然だった。


どう考えても僕の読書の時間で出来上がる程度のものじゃあない。


事前に準備してあったのは明らかだ。


「遍は、もう少し食べてくれると嬉しいんだけどなぁ」


当然食べきれない量の食事だったため、華は口を尖らせながら残った分をラップに包んでいた。


「確かに僕は少食なのかもしれないけれどもさ、それでもこれは中々普通の人でも食べきれないと思うんだけどなぁ」


「うーん、張り切り過ぎちゃって作り過ぎたのは認めるけど、少食すぎると心配になっちゃうよ」


「そんなに心配になる程、少食だって自覚は無かったなぁ」


「これから体力使うんだし、ちゃんと食べないとね」


体力を使うとは勉強のことを指しているのだろうか?


それならば彼女の意識も、先程とは打って変わって本格的に中間考査に向けられたことになる。


「あんまり食後の余韻に浸っていると日が暮れてしまいそうだ。勉強はここでやるのかい?」


ここ、とはリビングを指して訪ねたものだ。


「んーん。私の部屋でやろうよ」


頭の片隅で予測はしていたことだが、いざ年頃の女性の部屋へと招かれると、多少なりとも高揚するものを感じる。


ほんの少しだけ下半身に血流が加速するのを感じて、己のはしたなさを感じる。


幾らなんでもそれは節操がないと、羞恥心と困惑が入り乱れる。


何を考えているんだ僕は。


高揚した心は直ぐに冷静さを取り戻したが、身の方は落ち着きが戻らない。


次第に戸惑いの気持ちが強くなる。


「そ、そういえばご両親は居ないんだね」


今更聞く質問でもなければ、今の心境で聞く質問でもない。


自分の中で"それ"を強く意識してしまっている。


分かっているのに無理に意識を逸らそうとして、意識的な質問をしてしまった。


「だーかーらー、今日はお父さんもお母さんも仕事だって、先週言ったじゃない。夜まで帰ってこないよっ」


対する彼女の方はというと、期待に胸が膨らむといった様子。


それ程までに勉強会を楽しみにしているということになる。


「そ、そっか。夜になったらきちんと挨拶しなきゃね」


「私からはもう話してあるんだけどね、でもやっぱりそういうしっかりしてるとこも好きだよ」


好き。


付き合い始めてから幾度も伝えられてきた言葉だが、付き合い始めてから最も胸が高鳴るのを感じた。


否、出逢ってから最も、だ。


先程から、一度火がついた感情はより大きく燃え上がり、鎮火する様子がまるで無い。


「あー…、僕も好き…だ…よ」


好意を伝えるのに何故こんなにも照れ臭い感情が湧いてくるのか。


自分らしくない。


なんだこれは?


「…嬉しい。じゃあ荷物持って部屋…行こっか」


彼女の様子もなんだかおかしく見えてくる。


美しい花で魅了する何時もの彼女とは違う、花の奥、蜜の匂いで誘うような妖艶な気配。


彼女がおかしいのか?


「…うん」


違う、おかしいのは僕の方だ。


「じゃあ荷物持って、…こっちきて」


自らの異変を理解してても、僕は蜜蜂のように花へと誘われてしまう。


玄関からリビングを結ぶ廊下、その途中にある扉、そこまで歩いて華は止まる。


「ここが私の部屋だよ」


部屋の主が扉を開く。


再び気持ちが、大きく高揚する。


最早、冷静ではなくなってしまった頭では、ぬいぐるみが置いてある可愛らしい部屋などを妄想してしまう。


しかし目に飛び込んできたのは、シンプルという一言に尽きる部屋だった。


白い壁紙に黒い家具がある部屋。


モノクロな印象を与えられる部屋。


無機質な部屋とも言い換えて良いものだった。


内装を見て、僕の先程までの妄想が、如何に気色の悪いものだったかを理解し、自己嫌悪に陥る。


再び先ほどの高揚した気持ちは沈められる。


感情の山と谷が繰り返される。


「取り敢えず、荷物はそこに置いてベッドに腰掛けていいよ」


「え?いや僕は立ったままで良いというか…」


今こんな状態で彼女のベッドに座ったら恥ずかしさと罪悪感に押し潰されてしまいそうな気がする。


「言い訳ないでしょう、いいから座って。ね?」


「な、なんなら床で僕は大丈夫だからっ」


「く、ふふふ」


問答をしてる最中だというのに、突如として彼女は笑い出した。


「ど、どうしたの?」


「ふふ、ねぇ遍。今どんな気持ちかな?」


「ど…んな気持ちと、言われても…」


もう先程から感じている違和感は、身体にも明らかに影響が出ていた。


心拍数は異常なまでに高まり、呼吸は荒く、視界が狭い。


正直考えたくないが、僕の陰茎ももう肥大してしまっている。


答えに詰まっている僕の様子を見て、華は僕に対して距離を詰めてくる。


彼女から発せられる蜜の匂いが、今はひどく辛い。


彼女はそのままそっと耳元まで口を寄せる。


「興奮…してきた?」


残り僅かな理性が、必死に状況を理解しようとする。


この身体の異変と彼女は関係しているのか?


駄目だ、蜜の匂いに酔ってしまいそこから先が考えられない。


そんな僕の様子を満足気に眺めると、彼女は頰に手を寄せ、そのまま待ち合わせの時と同じように僕と唇を合わせにいく。


いつもと同じ柔らかな感触、いつもと違う気持ちの高揚、いつもと違うのはそれだけじゃなかった。


突如として、生暖かい呼気が流し込まれる。


突然の事に驚いた僕の後頭部をすかさず抑え、今度はドロッとした唾液が流し込まれる。


彼女の舌が触手のように口腔内で暴れまわり、僕の舌を捉えると執拗なまでに絡みつく。


その間にも何処かへと誘導するように彼女の柔らかな身体を強く押しつけてくる。


僕はそれを受け止めきれず、徐々に徐々に後退していく。


一歩、二歩、三歩。


やがて踵は何かに躓き、そこを支点にして彼女が僕に全体重を押し付けてくる。


支えきれない僕はそのまま後方へ倒れ込むと、背中に柔らかな衝撃が広がる。


彼女が上。


僕が下。


彼女から大量の唾液がもう一度、流し込まれる。


これでもかと流し込まれる。


終わりがない。


溺れてしまう。


堪えきれず、僕は彼女の唾液を嚥下する。


その様子を見て、目を細めた彼女は、舌を引っ込め唇を離す。


何本もの銀色の糸がひかれる。


「くふふ、くふふふ。しちゃったね、ディープキス」


「けほっ、けほっ、けほっ」


酸欠となり、呼気を多く取り入れようとした時、口の中に残っていた唾液が気管に入り込み、むせ込んでしまう。


ベッドに倒れ込んでいる僕に彼女は馬乗りの姿勢になる。


「ねぇ遍。この一週間どうだった?」


「けほっ、けほっ」


「辛かった?寂しかった?私が今までフってきた男たちに嫌がらせをされた?」


「けほっ…、はぁっはぁっ」


「周りの有象無象たちが貴方に悪意を向けているのは分かっていた。でも私はそれを分かってて止めようとしなかった。何故だかわかる?」


「はぁっ…はぁっ」


先程からの身体の異変に加え、酸欠によって、思考がまともにまとまらない。


「貴方に有象無象が如何に最低で汚い生き物かってことを教えてあげるため。私の気持ちを理解してもらうため」


僕の両腕は、彼女の両腕に強く抑えられる。


「正直に言うとね、私。今遍がクラスから孤立して凄く嬉しいんだぁ。私も昔、孤立してたって話はしたよね?だから孤独の辛さは私もよく知っている。そして孤独が愛に飢えを与えることもよく知っている」


獲物がかかった、そんな蜘蛛のような捕食者の目を僕に向ける。


「そしてついに孤独が私達を強く愛で結びつけた!心が繋がった!こんなに幸せなことってあるのかなぁ?こんなに心が満たされることがあっていいのかなぁ?!もう幸せ過ぎて怖いよ、あはははは!」


恐怖を感じるまでに美しい笑顔を浮かべる。


「それにもう遍が他の女に関わることもない。ふふ、あはは。心が繋がった。魂が繋がった、運命が繋がった!遍、あと私たちに足りない繋がりが何か分かる?」


「つな…がり?」


「肉体と血、だよ。この繋がりさえあれば私たちは完璧な存在になれる。共依存の番いになれる」


彼女は再び上体を倒し込み、僕の耳にそっと囁く。


「赤ちゃん、つくろっか」


馬鹿な僕は漸く、彼女がしようとしてることを理解した。


「あ、赤ちゃんってまさか本当にそんなことをするのか!?」


「するよ、セックス。そのためにご飯に精力剤とか興奮剤とか混ぜたんだから。遍もシたくて堪らないんじゃない?」


身体の異変の原因をさらっと述べられたが、それよりももっと重要なことがある。


「ま、待っておくれ!百歩譲って今性行為に及ぶとして、避妊はしなきゃ駄目だ!まだ高校生の僕にそんな責任負えない!」


「お金の心配なら必要ないよ。出産一時金っていう補償制度もあるみたいだし、本当にお金が足りなくなったら、私は学校辞めて働くよ」


「お金の話もそうだけど、このまま生まれてきた命が健やかに育つ環境を僕らまだ持ってないじゃあないか!そもそも付き合ってからまだ一ヶ月だ!」


「付き合い始めてからの日数なんて関係ないよ。大事なのはどれだけお互いがお互いを愛しているか、でしょ。それに一ヶ月で肉体関係持つのは妥当だよ」


彼女は僕の両腕と上半身から離れると、自らのセーターを脱ぎ去る。


季節に対して、薄着な格好になったがそれでも彼女は、それだけでなくその薄着な格好も脱ぎ去る。


彼女の上半身に残っている衣は、もはや下着のみになっていた。


彼女は僕の手を取ると、上体を引き起こすように引っ張る。


半ば無理矢理起こされる形になり、僕らは向かい合うような姿勢になる。


「最後は遍が外して」


そのまま僕の手を背中へと回す。


「お願いだ、華。避妊だけはしよう、僕は君を愛してる、逃げも隠れもしないから、それだけは…」


「大丈夫。子供ができればきっと遍も受け入れる。私たちは幸せな家族になれるよ」


傀儡人形のように僕の手を操り、彼女は下着のホックを外す。


重力に負けてそのまま下着が落ちていく。


初めて見る、女性のあられもない姿。


人生を左右しかねない状況だというのに、気持ちの昂りが抑えられない。


これも薬の影響だというのか。


「どうかな、私の身体。今まであんまり気にしなかったけど遍に出逢ってからは少しずつ気を使うようにはしてたんだよ?」


「凄く綺麗だと思うけど…けど」


「嬉しい…。じゃあ遍も脱ごっか。私だけだと恥ずかしいもん」


もう僕の主張は聞かないと言わんばかりに、彼女は僕の洋服のボタンを一つ一つ外していく。


「ほら、脱いで」


なんとか抗いたいというのに、彼女の言葉がどうしても簡単に頭に染み込んでしまう。


自分の気持ちをコントロール出来ていない。


理性が崩れていく音がする。


「こういうのは段階を踏んでやるものだよ…僕たちには早すぎる」


もはやこの台詞に中身などない。


覚えている知識を吐いているだけ。


しかしそれが彼女の逆鱗に触れてしまった。


「煩いなぁ…また"お仕置き"して欲しいの?」


僕の反抗の意志はここで失う。


嗚呼、逆らえない。


「ごめんなさい」


謝罪と共に、脱衣を済ませる。


残すはお互いの、下半身の衣類のみとなった。


「ほらやっぱり。肋骨が浮き出てるじゃない。痩せすぎも良くないよ」


僕の肋骨を一本一本確かめるように、脇腹を撫でていく。


そのまま臍を辿り、僕に残された最後の衣服にも手をかける。


「こっちも脱ごっか」


僕は彼女の言葉に従うしかない。


黙って脱ぐ僕の姿を見ると、彼女もそれに合わせるように残ったスカート、下着を脱ぐ。


これでお互い一糸纏わぬ姿になってしまった。


「ふふ、遍はもう準備万端だね。安心して私ももう大丈夫だから」


相手を気にする余裕がなかったからなのか、今になって漸く、彼女の頰や瞳が赤くなっている事に気がついた。


「まさか、華も…」


「うん、飲んでるよ興奮剤。お互い初めてだしなるべく気持ちを高めた方が失敗しないと思ってね」


華は腰を浮かし、僕の陰茎に手をかけると、彼女への入り口に先端を当てがう。


「ぁぁあ…やっと繋がるんだッ、やっと…やっと!」


背筋が凍るほどの笑顔を浮かべている。


駄目だもう後に引けない。


彼女はゆっくりと腰を下ろし始める。


「痛ッッッ」


「うっ…」


薬の影響で陰茎への血流が加速しているため、初めて感じる感触がより敏感に知覚される。


先端から根元へゆっくりと、ゆっくりと彼女が覆っていく。


快楽が背筋を貫く。


彼女と僕が完全に繋がるまでそう時間はかからなかった。


「これで…これ…で、私たちは肉体の繋がりが出来た。後は…血の繋がりだけ…」


血、と言われたからなのか鼻腔に錆びた鉄の臭いが届く。


気のせいかと思ったが、彼女の苦痛に歪む表情を見てから、結合部へと視線を移すと、それが気のせいでもなんでもなく、本当に流血していることに気付く。


噂では聞いたことがあるけれど、実際に目の当たりにすると自らがとんでもないことをしてしまった気分になる。


「…華、大丈夫かい?」


「うぅ…ごめん。思ったより痛くて暫く動けそうにないや。痛い…痛い!」


「そんなに無理しなくてもいいじゃないのか…日を改めよう」


「馬鹿な事を言わないで!ここまでしておいて日を改めるなんて有り得ない!あと少しだから…あと少しで動けるからッ…」


その言葉通りとは思えない様子で、僕を掴んでいる彼女の手は力み、痛みが伝播する。


そうして一分、二分、或いは五分かもしれない時間、お互いは動かず痛みに耐える時を過ごした。


痛みはまだ治らないといった様子だが、僕の腰にかかっている体重が少しずつ軽くなっていくのを感じる。


「…ごめん、待ったよね。今からッ…動くから…」


敏感になっている陰茎で感じる膣内の摩擦は、ほんの少しの動きだけで強烈な快楽をもたらしてきた。


今にも果ててしまいそうな程に。


それでも自分の中に僅かに生き残っている責任能力がそれを堰き止めている。


数センチ彼女が腰浮かせたところでピタリと止まり、再び重力の通りにゆっくりと腰を下ろし始める。


血が滲むほど爪が食い込んでしまった肩からはもう痛みなど感じず、ただただ一点から感じる快楽が脳を麻痺させていく。


彼女は腰を下ろし終わると間髪入れずに、腰を上げるしなやかな腰使いで、膣を上に擦り上げていく。


そのまま僕の陰茎が抜けてしまうのではないかというまでに引き上げると、今度は強く一度腰を下ろした。


パンッ


互いの肉体がシンバルのようにぶつかり合う音が、無機質な音に響き渡る。


「痛ッ…たい…」


苦痛に歪む彼女の顔は相変わらずで、目頭には涙すら浮かんでいる。


それでも彼女は腰を止める事なく、またしなやかな腰使いで、膣を引き上げる。


そして落とす。


パンッ


再び無機質な部屋に、淫らな音が響き渡る。


間髪入れず腰を引き上げる。


降ろす。


パンッ


淫らな音が鳴る。


引き上げる。


落とす。


パンッ


音が鳴るたびに快楽が、全身に衝撃となって駆け抜ける。


引き上げる。


落とす。


パンッ


引き上げる。


降ろす。


パンッ


引き上げる。


落とす。


パンッ


引き上げる。


落とす。


引き上げる。


落とす。


引き上げる。


落とす。


パンッ、パンッ、パンッ


三度続けて、淫らな音を響かせる。


視界は点滅し始め、今にも決壊してしまいそうなものを、上っ面だけの責任という防波堤で抑えるには限界が、近づいてきた。


引き上げる。


落とす


引き上げる。


落とす。


引き上げる。


落とす。


パンッ、パンッ、パンッ。


津波のように何度も何度も、快楽が押し寄せる。


丹田に力を込めて、果てまいと我慢するにも、限界がすぐそこまで来ていた。


「んッ!?」


丹田に力を入れることに注力していた僕はもう余裕がなく、彼女に唇を奪われたことに気付くのに数秒の時間を要した。


「ン…チュ…ッ…ハァ、ハァ。ン…ンンッ」


痛みに耐える中、必死に快楽を得ようと僕の口の中を貪欲に貪っていく。


腰の動きは止まらない。


苦痛と緊張でこれでもかと固く締まられた膣内を、愛液と血液が潤滑油となって、暴力的な快楽になる。


彼女の獣のような粗い呼吸が、僕の肺を激しく襲う。


息もできない。


苦しい。


気持ちがいい。


助けて。


もう我慢できない。


無責任。


パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ


何度も何度も、互いの性器が擦り合う。


もう駄目だ。


理性が殺される。


出るッッ


「ンンッッ!」


視界が飛ぶ。


弾ける。


目眩がする。


ホワイトアウト。


気持ちがいい。


多幸感が全身を包む。


嗚呼…やってしまった…


性欲を彼女の中に吐き出してしまった。


眠気が襲い掛かる。


嫌だ。


そんな責任僕には負えない。


でも気持ち良かった。


嗚呼、彼女はなんて、素敵なのだろう。


脳味噌が焼き切れる程の絶頂を迎え、同時にあってはならないことを起こしてしまった重責がのしかかり、僕は現実逃避するように、夢の世界へと身を投じた。

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