第13話 『タンジー』

「皆、さっきも言った通り、私高嶺華と不知火遍は実は正式なお付き合いをしています!」


違う


「へー、おめでとう!!」


「やるじゃん不知火!」


「華ー!お幸せにー!」


誰も彼も同じ目だ。


誰一人歓迎していない。


ーーーなんであいつが?


ーーー相応しくない


ーーー見る目がない


やめてくれ、そんな目で見ないでくれ。


そんなことは僕が一番分かっている。


そうだ。


太一。


太一だけには分かってほしい、誤解なんだ。


多くの人に誤解されたままでいい、たった一人の理解者がいればいい、僕は親しい友へ救いを求める。


「遍っち、お前…どこにいたんだよ」


助けを求めた友人の目は、裏切り物を見る目だった。


ーーーーーーーーー

ーーーーーーー

ーーーーー

ーーー


「っ…」


夜明けも迎えずに目が覚める。


昨日の朝が最悪の目覚めだと思っていたのに、たった今いとも簡単に更新された。


隣に目を向ければ、ややはだけた姿の義妹が、すぅすぅと寝息を立ててきた。


今のところ起きる様子もない。


綾音の寝付きの良さに関して、今ばかりはありがたいものだった。


誰かと話す気分ではない。


それにしても、ここまで現実に起きたことと酷似した夢を見ると、如何に自分にとってあの出来事が衝撃的なものであったか嫌でも分らされる。


深い眠りについているだろう綾音を起こさないように、ゆっくりとベッドから抜け出す。


少しずれてしまった布団を、綾音に掛け直し、既に宵闇になれた目で、部屋の時計を確認する。


時刻は深夜三時を過ぎたあたりだった。


起床時間にはあまりにも早いと呼べる時刻ではあったが、二度寝する気分には到底なれなかった。


机の位置まで移動し、椅子へと腰を下ろす。


机の上には、ここ数日で書き溜めた原稿用紙が束になって置かれている。


何もせずに夜明けを待つわけにもいかないと、物語を書き進めようかと筆を取る。


しかしどうにも筆を進める気分にはなれない僕は、五秒にも満たない内に手に取った筆を机に置く。


「…本でも読もうかな」


本棚にある本は認識できるが、タイトルまでは見えないため、適当に選んだ本を取り出す。


このままでは本のタイトルどころか本文すら見えないため、卓上のデスクライトを付ける。


あまり強い燈ではないが、それでも宵闇に慣れた瞳では一瞬眩んでしまう。


…。


何の因果なのであろうか。


明順応を終えた瞳で、手に取った小説を確認すると、『夢少女』と書かれた本であった。


先日のデートをきっかけに購入したものだ。


夢でみた少女のことを忘れたいがために、手に取った本の題目が『夢少女』であり、さらには彼女の思い出が強く染み付いたその本が今僕の手にあるのは、皮肉以外何物でもない。


読書する気すら萎えてしまった僕は、本すらも机の上に置いてしまった。


「…はぁ」


溜息を一つ吐き、天を仰ぐ。


こうなると何もする気が起きないが、何もしなければただただ昨日のことを思い出してしまう。


さらに気分が萎えて、思い出さないように他のことに没頭する気も起きなくなる。


悪循環だ。


目蓋の裏には、昨日の出来事が焼き付いている。


そもそも何故あんなことになったのか。


僕は高嶺華に別れを切り出した。


そして彼女は言った。


"そう。…分かった"


今になって思い返してみれば、彼女の"分かった"という一言は、きっと僕の別れ話に対してではなかったのだろう。


あの後、一体全体何故皆に関係を公にしたのか、いやそもそも僕は別れたはずだと問い詰めると彼女は答えた。


「私はあなたの別れ話なんて戯言、受け入れた覚えなんてないわよ。それに遍、あなたは私との約束を破った。その上、別れようなんてふざけたことを言った。それなのに私だけ、律儀に"約束"を守るなんて不公平だとは思わない?」


それにね、と彼女は続けた。


「私がここで貴方と交際をしていると宣言すれば、きっと有象無象供はそれを強く認識する。貴方がいくら別れたなんて口にしても、私が、そして周りが交際していると強く認識さえしていれば、貴方が私と別れるなんてありえもしない事実を作ることは不可能なのよ」


とはいえ、とさらに彼女は続けた。


「遍、貴方が口にした事は、到底赦される

ものではないわ。私の心も相当痛むのだけれどこれに関してはかなり厳しいお仕置きが必要ね。貴方が愛し愛され合うべき相手を骨の髄まで分らせないとね」


「い、いい加減にしておくれよ!一体僕の何が君をそこまで執着させているんだ!?」


我慢ならず、叫ぶ。


「何が?執着?分かってないね、分かってないよ遍。私と遍は運命の赤い糸で結ばれているの。ほら見えない?私には見えてるよ、私の心臓と貴方の心臓を結んでいる赤くて紅くて緋くて赫い、その血脈にも似た糸が。だからね、私達が結ばれるのは運命なの、定めなの、絶対なの。これほどまでに美しい愛に逆らうなんてもってのほかだよ」


恐ろしいことを言う。


「…例えばだ。君が何かに襲われているとしてそれを僕が助けた、君が何かに絶望しているとしてそれを僕が救った、君と僕が昔からの知り合いだとしてずっと一緒に育ってきた。僕らの出会いがこれらのようであれば確かに納得はするかもしれない。だけど違うじゃないか!!僕が小説を書いていて、君が偶々それを読んだ。僕らの始まりのそんな色気のないものだったじゃないか!そう、運命と呼ぶには程遠い…」


「偶々じゃないよ」


「またお決まりの運命ってやつかい?何度も返す言葉で申し訳ないけども僕にはそれが運命とは思えない」


「ああ…そっか。うん、そういうことか。何で気がつかなかったんだろう。そういえば話したことがなかったね、私と貴方が運命で結ばれているって根拠」


「聞いたところで僕と君との価値観は違う。僕が納得のいく回答は得られないと思うよ」


「それは聞いてからの話にしようよ。そもそも私たちの物語の始まりはあの日だと、遍は思っているのでしょう?それが間違いなんだよ」


あの日がどの日のなのかは、もはや説明不要だったが。


「間違い?何を言っているんだい?僕はあの日初めて君と言葉を交わしたし、それ以前に君に関わったこともないし、そもそもの話クラスも異なっていた」


「まだ気付かない?遍、小説家なんだからそろそろ気付いて欲しいんだけどなぁ…」


「僕はまだ小説家ではないし、それとこれとは関係のない話だろう」


「私が言いたいのはどんな物語も"プロローグ"が存在するってことなのよ」


「…プロローグ?」


「ほら聞かせてあげる。まずは私の事から話さなきゃね。あれはーーーーー」


そこから彼女から次々と告げられる信じられない事実の数々。


僕は目の前の女の子の恐ろしさを理解した。


彼女が話終えると、僕は言葉を失い彼女は満足そうな笑みを浮かべた。


「だから貴方と私は運命の赤い糸で結ばれていたの。それがやっと今、結ばれたのに離れ離れになるなんて死んでも嫌だよ」


「…華、違うよ。違うんだよ。君が思っているほど周りの人たちは、悪い人ばかりじゃあない。世界はそこまで悪意に満ちてなんかいないんだよ」


「嬉しい」


「…何がだい?」


「また" 華"って、私の名前を呼んでくれた。それが堪らなく嬉しいの」


「…兎に角、僕が言いたいのは君はもう少し他人を赦してあげるべきだ」


「赦す?何を?私怒ってなんかないよ?」


僕の言っていることがまるで分からないと、そんな表情を浮かべる。


「いや心の底では、君はまだ怒っているんだ。だからそんなにも他人に対して関心も価値も見出してないんだよ。本当に君と過ごしてきた友人や君に想いを伝えてきた人たちはそんなに悪い人たちなのかい?」


「ええ、まぁ、…そうね。心底どうでもいいとは思うわ」


「…小岩井さんとか、あんなに仲良さそうにしていたじゃあないか。今、こんなにも学校を休んでて心配だとか思わないのかい?」


「…私の前で、他の女の名前を出さないでくれるかなぁ?…本当に殺したくなる」


蛇に睨まれた蛙。


蛇は華、蛙は僕。


殺したくなるという言葉が嘘でも、冗談でも、聞き間違いでもないことを、気迫が語っている。


嗚呼、この女の子は本当に誰にも心を開いてなんかなかったのだ。


「華、君はおかしいよ、狂ってると言ってもいい。結局君だって、僕じゃなきゃ駄目な答えを持ち合わせてはいないじゃないか」


「…どういうこと?」


「君の興味を引く出会い方であれば、別に何でもよかったんだろ?僕が放課後、小説を書いていたのが気になったからという出会い方は、その内の一例でしかないんだよ」


「でも出会った。これを運命と呼ばず何て呼ぶのかな?」


「僕が言いたいのは、君にとって唯一になり得る存在は僕以外にもいるってことだ。運命とかそういう話をしているんじゃあないんだよ」


「うん、確かにこの世界のどこかにはいるかもね。でも保証は?」


「え?」


「その人に会えるっていう保証は?遍、私の話ちゃんと聞いてた?私はこの世界にいる運命の相手と出会うために学校なんてものに通っているのよ?そして私と貴方は出会った。だから貴方は、私の唯一なのよ」


話が平行線を辿り、一向に交わらない。


水掛け論。


「遍、私今日ね、結構傷付いたんだよ?愛する人から別れ話なんてもの聞かされて。心臓が引き裂かれそうな思いだったんだぁ。私は愛し愛され合いたいだけなのに、私の想いだけが一方通行。だからね、私頑張ろうと思うの」


「頑張るってなにをさ…」


「どんな手段を使ってでも、遍に私を愛させる。身体に、頭に、心に、貴方が愛するべき人間が誰なのか、徹底的に刻み込んであげる」


冷や汗が止まらない。


彼女の両腕が、喉元まで迫る。


これは知らない記憶だ。


なんだこれは。


「…っはぁ…っ」


また悪夢を見ていた。


記憶の復習とも言い換えてもよい。


気が付かない間に、昏睡の浅瀬に迷い込んでいたみたいだ。


時刻は五時四十六分。


夜の帳は、青白く染まり始めている。


それを眺めると、最低な夜でも明けないものはないと、少し救われた気分になる。


昨日は少し色々なことが起きすぎた。


それでも、昨日の今と比べれば、悩みは随分と単純明快なものになったのではないか。


途方も無い、答えもない、悩みに頭を抱えていた時よりも、道筋がはっきりした方が幾分か気分がマシだ。


高嶺華と別れる。


綾音を諦めさせる。


どちらも簡単なことには思えないけど、ふと気がつくことがある。


委細抜きにして考えてみると、三人の女性から想いを寄せられて、それらを全て押し除けた。


恋愛小説が好きな癖に、恋愛をしようとしない。


現実よりも空想が好きな奴。


この果ては何だ?


「…また難しい事考えてるか、その時はその時。今は今だ」


「なにがぁ〜?」


背後から腕が伸びてくる。


「綾音…」


「おはよぅ、おにいちゃん」


「おはよう。少しくっつき過ぎだと思うよ、綾音」


「ん〜?」


聞こえないフリをしつつ、腕を僕の前で組みより身体を密着させる。


「綾音」


名前を口にするだけだが、言霊に僕の想いを乗せる。


すると耳たぶから鋭い痛みが走る。


「痛っ」


「おにいちゃんの意地悪。あたしがおにいちゃんをどう想ってるか、もう知らない分からないとは言わせないよ」


吐息まで伝わる距離で囁かれる。


「嗚呼、知りたくなかったさ、分かりたくもなかったさ。綾音、どうしたら僕らは普通の兄妹になれるんだい?」


「それをあたしに聞いてどうするの?答えが得られるとでも思ってるの?逆に教えてよ、おにいちゃん。どうしたらあたしたち、普通の夫婦になれるの?」


綾音も同じだ、話し合いの着地点が見えない。


もどかしさに苛立ちを覚えそうだ。


「昨日でも分かったと思うけど、僕は綾音をそういう対象に見れないんだよ、大事な妹なんだ」


「あたしこそ、お兄ちゃんを"兄"だと思ったことなんてない。あたしはずっとお兄ちゃんを"そういう目"で見てきた」


確かに生まれながらの兄妹ではなかった。


だからこそ、僕は他の誰よりも"兄"になろうと努めていた。


なのにその結果が、無意味だったとそう言われたのが非道く哀しい。


どうしてこんなにも想いがすれ違うのだろう。


「…それに昨日上手くいかなかったのは、結局今まで通りだったから。だから今までとは違うことをすればいいだけ」


僕の前で組まれていた腕を解くと、喉、胸、臍と、一つずつ順番に撫でていく。


そしてその手は、さらに下へ…


「っ!綾音!」


不意な感覚に、思わず身を引く。


「クス、逃げないでよお兄ちゃん」


「こんなの兄妹でやることじゃない!」


「そうだよ、だからやるんだよ。兄妹を辞めたいから。気持ち良かった?」


とんでもない。


その逆だ、悍ましさしか感じない。


「…うーん、そうでもないみたいだね。ごめんねお兄ちゃん、あたしお兄ちゃん以外でこういうことしたことないからさ、下手くそだったよね」


「下手だとかそういう話じゃない。兄妹でこういうことやるのがおかしいって言っているんだよ」


「おかしくなんてないってば。おかしいのはお兄ちゃんの方だよ。あたしたち血、繋がってないんだよ?根本的な雄と雌であることから目逸らしすぎだよ」


「僕らは本能で生きる動物とは違う。理性のある人間だ。こんなことをするのはおかしいし、僕はしたくない」


「…ふふ、あはは」


「何がおかしいんだい?…」


「…お兄ちゃん、キスとか胸当てとかは反応しない癖に、少し触っただけでこんなにも性を意識してるんだもん。これでも反応しなければ流石に困ってたけど、思ってた以上の反応だったからお兄ちゃんの倫理観を壊せそうで嬉しいんだぁ」


僕に対して優位に立ったと言わんばかりに、綾音は余裕の笑みを浮かべる。


「僕の倫理観を壊す…だって…?綾音、自分で言っていることの意味が分かってるのかい…?」


「分かってるよ。お兄ちゃんの倫理観をドロドロに溶かして、グチャグチャにかき混ぜて、メチャクチャに仕立て上げて、あたしっていう存在を妹から恋人に上書きしてあげる」


溜息すら出ない。


息が詰まりそうだ。


辛抱強く説得を続けさえすれば、いつかいつの日か、分かってくれると覚悟をしていたつもりだった。


けれども所詮それは、今ここにいない僕が明日の僕に無責任に押し付けているだけ、格好つけて誓った張りぼての覚悟なんてものは甘ったれた戯言だということを、愚かな僕は漸く理解した。


そうだ。


結局僕は明日の自分を他人と決めつけ、面倒事を押しつけて、現実から目を逸らしていただけじゃあないか。


でもじゃあ、どうしたらいいっていうんだよ。


「…もしそれで僕が綾音を異性として見るようになっても、決してその想いは受け入れないからな」


これが僕にできる精一杯の抵抗。


他人である未来の僕に、無責任に責任を押し付けるだけ。


「そんな怖い顔しないでよお兄ちゃん。別に今すぐ襲おうなんて思ってないよ。お兄ちゃんに嫌われるのは本意じゃないしね」


僕だって本当であれば嫌いになんてなりたくない。


ただ仲の良い兄妹になりたいだけなのに、どうして。


「あーあ。珍しく早起きしたしシャワーでも浴びて来ようかな」


綾音は一つ伸びをすると、僕の背後にある部屋の扉へと歩き始める。


綾音が僕の隣を通り過ぎる。


頬に触れる柔らかな温もり。


「クス」


何が起きたか分からない僕を横目に、綾音は部屋を後にした。


「…嗚呼、そうか…」


頬に触れた感触を理解した途端、そこから急激に体温が奪われていく。


今はただ己の悲劇を嘆くしかなかった。


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文化祭二日目。


昨日と変わらず、否、昨日よりも学校へと行きたくないという気持ちが強まっていた。


しかしそれと同様に家に居たくない気持ちも強くなっていた。


居場所がない。


「行ってきます」


「行ってきまーす」


今日は日曜日だ。


本来ならば学校へ行かず、家で本を読むか小説を書くか、あるいは出掛けるか。


嗚呼、行きたくない。


「兄妹で朝から一緒に登校なんて随分と仲がいいのねぇ…?遍」


「…!」


重い気分により頭が自然と俯いて家を出た僕の頭先から、声がかかる。


そんな、まさか。


「おはよう」


彼女は静かに、綺麗な笑みを浮かべ朝の挨拶を掛けた。


僕は彼女に挨拶を返す前に、共に家を出た綾音の方へと視線を向ける。


「…なんであんたが?」


決して大きな声ではなく、ただの呟きなのにやけに鮮明に聞こえた。


加えて状況が理解できていない様な表情を浮かべる。


余裕、焦燥、当惑。


三者それぞれの感情が交錯する。


一秒にも一分にも思える沈黙の後、雁渡しが余裕な彼女から吹き抜ける。


酷く冷え込んだ風が肌身に染みる。


綾音はスンと一度鼻を強く鳴らす。


すると当惑して表情は、見る見るうちに憤怒、あるいは憎悪といった表情へと移り変わる。


「…ぁあ、ああ…。そうか…、そうか。お前だったんだ、お前だったんだ…お前が、お前がッッッ!」


「おはよう、はじめまして。妹ちゃん。私は貴女のお兄さんとお付き合いしている高嶺華っていうの、よろしくね」


出来過ぎた笑みを貼り付け、軽快に自己紹介をする。


信じられないと言った表情で今度は、僕に迫る。


「…どういうこと?…ねぇ、お兄ちゃん?別れたんじゃないの?別れたって、言ったよね?ねぇ!どういうことッッッ!!!?」


どういうことと言われても僕にも、理解し難い。


そもそもこんな強引な行動を取ってくるなんて思いもしなかったのだ。


こんな状況だ、いつかは僕の口からではなくて誰かの口から綾音に伝わるのは時間だと覚悟はしていたつもりだ。


しかしこんなにも早くそれが訪れるとは思ってもみなかった。


どうしてそんな油断をしていたのだろうか。


後悔が津波の様に押し寄せる。


「まぁまぁ、遍を責めないであげて、妹ちゃん」


昨日の余裕のない表情や、本音を吐露する時の表情とは違う、高嶺の花の高嶺華がそう応える。


「ふざけんな、お兄ちゃんの彼女面すんじゃねーよ、ブス」


綾音の煽りなんてまるで効いていないのか、よく出来た仮面には罅はおろか、傷一つさえ付いていないように見える。


「あはは、すごい嫌われちゃってるみたいだねぇ。多分昨日は喧嘩しちゃったから遍も別れたなんて誤解を生むような言い方を妹ちゃんにしちゃったんだね。でも無事仲直りしたし別れてなんかないよ」


「お前なんかには聞いてねぇよッッッ!…ねぇお兄ちゃん、嘘だよね?昨日別れたってそう言ったもんね?」


確かにそう言った。


それは事実だし、彼女の嘘なんて到底受け入れ難い。


しかし今朝の出来事が、今一番鮮明に脳裏に焼き付いていた僕は、高嶺華よりも先に綾音を諦めさせる方が容易なのではないかと、天秤が傾いた。


「ごめん綾音…昨日はそう言ったんだけど、あの後すぐに復縁…したんだ」


朝日が照らす高嶺華の影が、酷く歪に嗤ったような気がした。


これで、いい。


十年も可愛がってきた妹だ。


どちらが大切か比べるまでもない。


まずは適切に、綾音の気持ちにけじめをつけさせるのが先決だ。


「…嘘だよね…?お兄ちゃん…。違う…違う…お兄ちゃんはあたしに嘘なんかつかない…絶対あの女に脅されてるか…騙されてるんだよね?タチの悪いストーカー女なんだよね…そうだ、そうに決まってる…」


「酷いなぁ、そんな悪いことなんてするわけないじゃない。正真正銘、彼氏彼女の間柄なんだよ?」


「黙れッ!大体なんでお前がよりにもよってお兄ちゃんと付き合ってんだよ!?幾らでもそこら辺の男が寄って集ってきてんでしょ?!そいつらと付き合えばいいじゃないクソビッチ!!」


「わぁ…本当に酷い言葉使い。お兄さんとは似ても似つかないね。…まぁ、血が繋がってないみたいだしそれもそうかな」


火に油を注ぐ様をこれ以上見てられない。


「華。話は後で幾らでも聞くから、それ以上綾音を煽るのはやめてはくれないか?」


根本的な話、この状況を招いたのは華だ。


少し問い詰めたい気分にもなる。


「ごめんね!別に煽るつもりもなかったんだけど、そう捉えちゃったとしたら私が悪いね、あはは…」


余裕のある笑みから少し困ったような笑みへと変える華。


しかしそれも違和感のある仮面にしか、今は感じない。


「でも彼女としては、彼氏の妹ちゃんにもちゃんと認められて祝福されたいしさ。…だって私たち、結婚を前提にお付き合いしてるもんね?」


チキ、チキ、チキ。


何の音だ?


「…しね」


綾音は一歩ずつ前に出る。


一歩足を出すごとに次の一歩を踏み出すまでの間隔が早くなる。


加速度的に華へと近づく。


僕の背後から通り抜け、綾音を視界に捉えた時、先の音の正体を知った。


まずいっ!


「よせ!綾音!」


それを持つ右手を、正確には右手首を僕は素早く捕らえる。


さらに持ち替える手を塞ぐ為に左手首も捕らえる。


「離して!お兄ちゃんンッ!!こいつを殺すからさぁ!!!」


「そんなことさせられるわけないだろう!?」


「きゃあ!怖いよ、どうしてカッターなんて持ってるの?!妹ちゃん!」


「おまえみたいな泥棒猫を殺す為に決まってるでしょ!?こっちこいよ!!その喉笛切り裂いてやるッッッ!」


「わー怖い。まるで仔猫がにゃあにゃあ鳴いてるみたい…。…ふ、ふふふ、あはははははははははははははは」


ついに仮面が剥がれる音がした。


華の様子が変わるのを見ると、綾音の瞳孔はさらに強く広がる。


「駄目ね、駄目だ。やっぱり駄目だ。ずっと前から貴女のことは目につけてたけど、駄目ね。こんな害虫が何年も何年も遍の側に居たなんて考えるだけで吐きそう。殺す?あは、それはこっちの台詞よ。仲良くしたいだなんて一ミリも思ってないよ。むしろ大ッ嫌い」


より一層、綾音に力が入る。


普段運動していないとはいえ、歳の差がある、男女が差がある、なのにあと少しで抑えきれないほどの力があった。


「あんまり認めたくはないけどこれが同族嫌悪ってやつなのかな。好きな人を奪う存在がいれば躊躇うことなく殺せるところ。脅しでもなんでもない本当の殺意ってやつ。なおさら遍の側には置いておけないなぁ」


「お前とあたしがおんなじな訳ないだろッッ!クソッ死ねッッ!」


綾音は抑えてた手首のスナップを利かせ、カッターを華へと投擲した。


まずい!


決して速くはないが危険であることは変わりない。


しかし華は冷静に反応し、鞄で投擲されたカッターを防いだ。


勢いを失ったカッターは、鞄に刺さることなく、華の目の前へ落ちた。


「死ね?殺す?思い上がらないでよ。貴女だけが殺意を抱いてるなんて思わない事ね。逆に…」


目の前に落ちたカッターを、革靴の踵で踏み付ける。


パキッと破損音が鳴り、そのまま華はカッターを踏みにじる。


「殺される覚悟、あるの?」


暗く深い瞳で、綾音の激昂した瞳孔を覗き込む。


その殺意は、直接向けられていない僕にも鋭く伝わり、冷や汗が止まらない。


けれど綾音は決して怯んでる様子はなく、今もなお両腕には力が込められている。


「…ふぅん。分かったよ。私は別に今すぐ衝動に身を任せる程、愚かでもないし…、かといっていつまでもこの気持ちを抑えられるほど私の殺意も易くはないから。もう一つ然るべき準備しなきゃね」


華は脚を上げると、カッターだった二つの破片をつま先で弾いた。


「もし仮にただの妹だったのなら表面上だけは仲良くしてあげてもいいかなって思ってたけど、全然駄目。ある程度予想はしてたけど、反吐が出そう」


「そんなのこっちから願い下げだ!二度とお兄ちゃんに近づくな売女!!」


「煩いなぁ、思っていたよりずっと酷いね。まぁいいや。じゃあ遍、私やることあるから先に学校に行くね。また、後で」


いつになれば終わるのかと思っていた問答は、想定よりずっと早く終わるようだ。


華はもう一度出来過ぎた笑みを浮かべると、そのままスカートを翻し、僕らに背を向け遠ざかる。


それでも綾音の力は抜けることなく、未だ緊張感が抜けない状況だった。


「くそっ、クソッ、糞ッッッ!!」


想いの海に溺れていたところを、なんの考えもなしに目の前の舟に乗ったが、これが吉と出るか凶と出るか。


やがて華の姿が見えなくなるが、それでもまだ綾音は力は抜けなかった。


けれど華の姿が見えなくなって安堵したのは僕の方で、綾音を抑えることを続けられなくなってしまった。


「…はぁ、はぁ、はぁ。…ねぇお兄ちゃん。一つだけ聞かせて。お兄ちゃんにとってあの女は、…何?」


もう一度だけ、天秤にかけて考える。


やはり傾く方は同じだ。


「…彼女だ」


「…」


綾音はうんともすんとも返事はしない。


変わりに頬に一筋の涙がつたう。


「…赦さない」


それは華に向けた言葉なのか、あるいは僕に向けた言葉なのか。


昨日の晴天とは違う曇天の空模様は、今にも雨が溢れそうなほど、厚く暗く空を覆っていた。


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ーーーーー

ーーー


無言のまま、彩音と共に朝の通学路を歩く。


空模様と同じく、お互いの口は重く閉ざしたままだ。


さらには学舎に近づくにつれて足取りが重くなっていくのを感じる。


僕の学生生活には、もう平穏は訪れないのだろうか。


どうしたって悪いイメージが付き纏う。


僕はいつもの通り、あの教室に入れるのだろうか?


永遠に辿り着かなければいいのにと祈れば祈るほど、学舎はさらに早く近づいてくる。


いつもはあんなにも退屈な道のりだというのに。


嗚呼、どうしてこんなにも早く辿り着くのだろう。


足取りはいつもより遅いはずなのに、体感時間で言えばいつもの半分にも満たない時間で学舎の入口まで辿り着いてしまった。


僕の胸中など知らない綾音は、そのまま決して早くはない足取りを続ける。


一瞬躊躇ってしまった僕は、それに半歩遅れる形で付いていく。


お互いの最後の別れ道である下駄箱まで辿り着いても、結局綾音は一言も喋ることはなく、僕の傍を離れていった。


形だけ開いた僕の口からは、何も声などでなかった。


少しでも気持ちが軽くなるように、鬱を溜息に乗せて吐き出し、己の下駄箱へと向かう。


もう慣れた仕草で、己の下駄箱から上履きを取り出そうとする。


「痛っ…」


指先から不意な痛みを感じる。


手を返して、痛みの原因を見てみる。


痛みを感じる指先には赤い斑点がいくつかできている。


次はさらにその原因を見るために、下駄箱へと視線を向ける。


「…嗚呼、"もう"なのか…?」


僕の上履きには、踵部分に画鋲が丁寧に貼り付けられていた。


あれだけ大勢の想いを退けてきた高嶺の花の、こんな奴が彼氏だなんてよく思わない人もいるとは思っていた。


いずれかはどこかの誰かがやるんじゃあないかと思っていた。


けれどこんなにも早いなんて思いもしなかった。


僕は今度こそ、注意しながら上履きを取り出して、丁寧に画鋲を一つずつ剥がしていく。


ちゃんと靴の中まで細工が施されていないか確認して、もう一度確認して、さらにもう一度確認してから履く。


流石に、画鋲以外の細工は施されていないようだった。


安堵と悔しさが込み上げる。


「調子乗んなよ、隠キャ」


俯いた頭先からまた声が掛かる。


けれどさっきとは違う声、聞いたこともない声だった。


ゆっくりと、頭と視線を上げていく。


視界に映ったのは一人の男子生徒の姿だったが、すぐに曲がり角に消えていった。


誰かも分からない。


画鋲を仕掛けた犯人なのだろうか。


そんなことは最早どちらでも良いことだった。


「…ははは、情けないぞ」


目には見えない敵に、挑発をかます。


けれど本当に情けないのは僕の方だ。


彼女の隣に相応しくないから。


分かってるさ、自分でも分かっている。


周りもそう思っている。


指先に滲む血が、その証拠だ。


なのに


なのに何故、高嶺華は僕に執着するんだ。


起きてしまった事実は、鬱と不安を痛みと恐怖に変える。


教室に行くのがこんなにも怖いと思ったことはない。


教室へ向かう階段の一段一段踏み締めるたび、帰ってしまいたいと心が叫びを上げる。


それでもここで逃げ出したら、奴らの思い通りだろうと、逆の足を踏み出す。


その繰り返し。


心臓は早く脈打ち、過呼吸に近づいていく。


それでも何とか教室の前まで辿り着く。


教室の扉に手を触れる、手が震える。


「開けないの?」


不意な声に、心臓を撃ち抜かれる。


「…華」


「おはよう遍、ってさっきも挨拶したばっかだったね、えへへ。…入ろうよ、教室」


また悪い方向に話が進んでいく。


そんな二人して同時に教室に入れば、僕のことをよく思わない連中の目にどう写るのか。


そんなの考えるまでもなかった。


「行こうよ」


僕の判断が下されるのを待たずに、華は教室の扉を開ける。


僕らに視線が集まる。


祭り気分で賑やかになっていたクラスは、確かに一瞬凍りついた。


しかしそれはあくまで一瞬だけの話。


教室は直ぐに喧騒を取り戻す。


けれど空気と共に凍りついた僕の心臓は、未だ解けずにいた。


「ほら、行こうよ」


今度は静かに僕にそう囁く。


脅されるように教室を見渡すと、昨日とは異なり既に学校に来ていた太一を見つけた。


背後に退路はない、僕は太一の元へ行くことにした。


クラスメイトたちの間をすり抜けていく。


その間にも感じる意識的な無関心、誰も僕の様子を気にする様子はない、不自然なまでに。


空気がへばりつくようだ。


「おはよう、太一」


空気に釣られて僕の挨拶も不自然なものになる。


「…ああ」


太一は返事は、明らかに素っ気ないものだった。


危惧していたことが、夢に見ていたことが、現実に起こり得そうな予感。


「…あはは、今日はあんまり元気ないね。具合でも悪いのかい?」


「…別に。普通だよ」


「ど、どうしたの太一?今日は変だよ?」


「そっちこそ変だと思わないのかよ。ずっと俺っちに黙っててさ。俺っちが高嶺さんの話をするとき、どういうつもりで話聞いてたんだよ」


心がどんどん衰弱していく。


たった一人の親友すら、僕は今失いかけている。


「…ち、違う。そういうつもりじゃあなかったんだ。太一、僕の話を聞いてほしい」


「悪いけど多分今は遍っちの話聞いても信じられないわ。日を改めてくれ」


「たい…ち…。ごめん…」


太一の瞳が、あの日の小岩井さんの瞳と重なる。


ああ、そうか。


そうだったのか。


僕は親友の気持ちにさえ気がつかない、愚か者だったんだ。


そして漸く理解した、僕が孤立してしまったことを。


希望の見えない絶望の淵に今僕は立たされている。


高嶺の花との関係を公になった今の気分は、想像よりも遥かに最低なものだった。


帰ってしまいたい。


否、此処じゃないどこかであれば、何処でもいい。


さっさといなくなってしまいたい。


「…い、…らぬい、不知火!」


「は、はい!」


「いるならちゃんと返事しなさい。次、須佐島」


いつの間にか、担任による点呼が取られていた。


そんなことも気が付かないほど今は視野は狭く、声が遠く聞こえる。


五感が正常に働かない。


何も聞こえない、何も見えない、何も感じない。


自分が集中している時とは、似て非なる状況に陥っていた。


戻りたくても元に戻らない。


溺れそうだ。


「遍」


藁をもすがる思いで、その声を曖昧な感覚で拾い上げる。


「遍、大丈夫?」


「…え、ああ。大丈夫だよ」


もう彼女は僕に話しかけるのに躊躇いもない。


「遍、昨日は一緒に回れなかったからさ。今日は一緒に回りたいんだけど、いい?」


こんなものはお願いではなかった。


「…いいよ」


「やった。じゃあ点呼も終わったし行こっ!」


しなやかな手で僕の手を取り、先導していく。


どこへ向かってるのか、問うてみようかと思ったが、行き先がどこでも構わない今の自分であれば、それは愚問だと気づく。


黙って連れていかれるがまま。


やがて立ち入り禁止という札を掲げられたビニールテープで繋がれた三角コーナーを踏み越えていく。


昨日とは違う、屋上ではない。


そもそもどこへ連れていかれているのだ?


頭が段々と冷静さを取り戻していく。


「華、一体どこに向かってるんだい?」


「…」


先ほどまで愚問だと決め付けていた質問に、答えることはなかった。


足が止まる。


「…社会科教室?」


「入って」


「いや、でも」


「入って」


有無も言わせない迫力がある。


そもそも立ち入り禁止の教室に何の用があるのだというのか。


鍵すら開いてないだろうという予想は、すぐに間違ってたと知る。


扉を開けば、今日が祭りの日であることを忘れるような静寂が広がっている。


「ここになにがあるって…ッ!?」


突如として頸筋に形容し難い痛みがはしる。


痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い


「ぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアア嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼!!!!!!!!!!!!!!!」


なにがおきたの


わからない


いたい


いたいよ


「…フィクションにあるような簡単に人を気絶させる手段って現実的じゃないらしいよ。クロロホルムとか、コレとか」


これってなに?


わからない


まえがみえない


いきがくるしい


「スタンガンで気絶させるには高い電圧で長時間やんないとダメみたい。でも痛みと感電でしばらくは動けないでしょ。それで充分。それに気絶させたところで人一人運ぶのだって簡単じゃないし、ここまで来てくれないと」


どっちがうえ


どっちがした


どっちがみぎ


どっちがひだり


「こっちの方はもう準備できてるから安心して。あとは遍がこの椅子に座るだけ」


いきがつまりそう


いたい


たえられない


くるしい


「って言っても、まだ立てそうもないね。いいよ、私が座らせてあげる」


なにを


なにをされているのだ


これからなにをされるのだ


「んっ…しょ。確かに重たいけど持てないほどじゃないかも。遍はちょっと痩せすぎかな。よいしょっ…と」


あれ


ぼくはなにをされているんだ


いきをととのえろ


ととのえろ


「あとは手足に手錠するだけでよしっと。うん、これで動けないよね」


めのまえがみえてくる


はいにくうきがいってくる


いたみもすこしずつひいてきた


「おーい、遍。大丈夫?」


めのまえでてをふっている


痛みもひいてきた


状況がわかってきた


いや違う、なんだこの状況は


「少しずつ感覚取り戻してきたみたいね。別にこれはお仕置きでもなんでもないんだからこんなのでギブアップなんてやめてよね」


「…お仕置き?…ギブアップ?」


何を言っているんだ?


「なんで分からないみたいな顔してるの?言ったでしょ、昨日。厳しいお仕置きが必要だって。遍は今すごく痛そうにしてるけど、私が昨日負った心の痛みはそんなものじゃないからね。そんなのはお仕置きですらないから」


先ほどの痛みがまるで大したことのないと言った口振りだ。


とんでもない。


少なくても今のは今まで生きてきた中で最も痛かった記憶だ。


「さて、これから遍にはこれから幾つか罰を与えるから。ちゃんと、罪を、償ってね。それと同時に、またちゃんと私の事を"心の底の底"から愛せるよう更生させてあげる」


「い、一体、何をするつもりなんだ」


「まぁ折角の社会科教室だし、歴史の勉強しようか遍」


「歴史…?」


「そう歴史。それもかつて人間たちが発明してきた拷問の歴史」


「拷問だって…?正気か!?」


「正気だよ。まぁ続けるとね、人類の拷問の歴史は紀元前六世紀、古代ギリシャ時代から始まってるのよ。その人類最古の拷問器具とも呼ばれてるのが『ファラリスの牛』よ。これはね、牛を模した空洞の青銅の像の中に人を入れて、火で炙りつつけるんだって。これの恐ろしいところは熱を伝えやすい青銅による灼熱地獄と、空洞の中にいるから拷問を受けた人は煙による一酸化炭素中毒で楽に死ぬことも許されない」


恐怖が少しずつ体を支配する。


漸く、己が拘束され動けないとの恐ろしさを理解し始めた。


「…まぁ、ここにはその像もないし、火も起こせないんだけどね。拷問ってさ色々種類があって、有名なやつだと『鉄の処女』、あるいは『アイアンメイデン』なんかがあるよね。他にも痛いもの、苦しいもの、精神的におかしくなるもの。それらって本当に残酷で、残虐なものばかりだし、拷問後に身体が欠損するようなものも少なくないんだよね」


今朝とは違う、歪な笑顔を浮かべる。


「だから安心して。そういうのは模倣して拷問したりしないから。専用の道具もないしね」


「…じゃ、じゃあ一体どうするつもりなんだ」


「拷問自体は真似しないけど、エッセンスは取り入れる。『ファラリスの牛』だったら、火傷。『アイアンメイデン』だったら串刺し」


華はそう言うと、やおら何かを取り出す。


「それは…?」


「理科の授業で使ったでしょ?アルコールランプ。これでこの金属の棒を熱して、貴方の背中に焼印を押していく」


「なっ!?」


「この棒もそんなに太くないから、一点一点、何度も何度も、焼き付けていく。更生は後回しにするとして、先ずは謝罪からだよ。ごめんなさいって、二度と別れようなんて言いませんって、そう謝って。私は心の底からそう言ってると判断するまで繰り返すから」


にわかには信じ難いことを説明している間にも、アルコールランプには火が灯され、金属棒を熱していく。


「本当に正気じゃないぞ!?こんなのは犯罪だ!!」


「煩い。そんなことを言うなら、貴方こそ犯罪者だよ。私の心をズタズタに引き裂いてさ」


華は熱した金属棒を持って、動けない僕の背後へ回る。


そして僕の制服をたくし上げる。


「嘘だろ?!こんなのは狂気の沙汰だ!おかしいよ!!」


「…これはまだ始まりに過ぎないから。いっぱい、いっぱい謝ってね。それじゃあ始めるよ」


「ッッ!!ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああかああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼!!!!」




ーーーここは





ーーーココハ
















地獄だ

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