僕の知らない何か

あるくむしさん

救済

 前後不覚、という言葉が1番に当てはまる言葉だった。たった今まで、全身にビル風を浴びて居たと言うのに、ある時から一切、何も感じる事もなく、地も天も、前後左右も、全てがその場から失われていた。


「私たちに目を向ければ良いよ。そうすれば君のその、無色透明な未来だって色気付くはずさ。え、急に何かって?まあまあ、とりあえず落ち着きたまえよ。私は君が捨てようとしたその未来を拾ってあげようと思ったんだ。ああ、そうそう。色気付くったって、もちろん明るさなんかは保証しないよ。君にとっての将来の明るさは、君にしかわからないからね。太陽そのものから見た明るさと、吸血鬼のような存在から見た明るさは大きく違うだろう?なに、そういう話じゃないって?まあそれはなんでも良いよ。とにかく、君の将来が良いものであると保証は出来ないけれど、確実に楽しませることはできるよって話だ。今、君がその命を捨てない限りは、私は君を見捨てたりしない。なに、君も今不安だろう。私に誓って、それだけは約束してあげよう。なにせ急な話だけれどね、どうやら君は急いでいる様子だから、すぐにお返事貰いたいのだけれど、どうだろうか。」


 突然僕に話しかけて来たそいつは、暗闇の中から手を伸ばしてこちらに向けた。顔も、その姿すら見えない、怪しい誘惑だった。けれどもその時の僕にとっては、ただ一つの、差し伸べられた手だったのだ。今となって考えたとしても、その手を取るべきだったのか、振り切って逃げ去るべきだったのか、見て見ぬ振りをして生きていくべきだったのか、それは僕には答えのつくものではなかった。彼女、あるいは彼のような存在に我々のような物の考えが追いつくわけではない。ただ一つ、確実に言えるのは、かの方の言っていた事に間違いはなく、その手を取った僕のその先の人生を、確かに色付けるものではあったのだ。


「そう、それでいいよ。少なくとも今の状態ではその行動が最善の選択だろう。まあ、過程は30点と言ったところだろうね。ああ、答え合わせは今じゃなくて良いだろう?そう焦らないでくれよ。今私が言及せずとも、近い将来自分で気付くだろうからさ。事を急いたって何一つ良いことはないからね。まあ、このお返事を急かした私が言えたことではないのだろうけれど」


 今思えば、確かにその通りだった。僕は今でもこの時間を、一言一句一字たりとも間違いなく思い起こすことができる。ここの記述も、間違いなく当時のままだ。


 そして改めてこの時のことを思い出した時、僕はどうしようもない後悔の念に囚われてしまう。僕はその時、確認すべきだったのだ。そいつにではなく、自分の目、感覚でだ。その差し伸べられた手がどこから現れたのか、今何が起こっていて、僕は今何を見せられ、どこに連れていかれるのかを。


「なんでそんなことがわかるのかって?そうだねえ、なんでだろうか。知っていることに対してどうして知っているの?と聞かれても、知っているからとしか答えられないなぁ。今仮に私が君に、どうして歩き方を知っているの?と聞いたら答えられるかい?まあおそらくその問いに対して私は答えられるだろうとは思うけれど、君は答えられないだろう?つまりはそういう事さ。今語るには少し長すぎるから少しだけ割愛してしまおうよ。そうだね、強いて言うならば私はこの世界の支配者が知らない何かだよ。みんなが知らない何かだ。故に私は何でも知っている、なんていう大口は叩けやしないけど、少なくとも君の知らない事は知っている。ああ、無知の知とはちょっと違うかな。君が知らない何かを私は知っているというだけの話だ。ああ、支配者はそのまま支配者だよ。この世界を支配している奴だ。この世界の創造主と呼んでもいいかもしれない。まあその話はまた出会えた時にしておこうよ。なんならこの先、自分で調べてもらっても構わない。ここの人間はあまり知らないかもしれないが、探せばどこかに文献を残してあるかもしれない。ああ、いやはや、長々と話してしまってすまなかったね。こんなにお喋りしたのは実に地球時間で言う数年ぶりなんだよ。まあとにかく、君は私に、私たちに目を向けることを約束してくれた。今はそれだけで良いのだよ。さあ、今日は疲れただろう。いやいや、口に出さなくても良いよ。君の顔がそう訴えている。じゃあ、おやすみ、また近いうちに会おう。数年もしないうちに様子を見にくるよ。その時の君の顔がどうなっているか、楽しみにしているよ」

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