第4話 愚かな世界

 夕方、ようやく世の中が紫色に包まれ始めた頃、僕は布団のなかで激しい空腹感に襲われていた。すぐにでも外に飛び出して狩りをし、獲物の血肉を口いっぱいに頬張りたい、僕はそんな欲望をじっと堪えていた。


 小さい男の子は僕の布団の横でスヤスヤと眠っている。僕は化け物になって100年以上もの間、老若男女問わず人間を獲物として狩り、喰らってきた。目の前にいる男の子は僕にとって格好の獲物だったが、この子を喰らう気にはなれなかった。これは、僕の中に人間らしい心が残っているからではない。どんな動物でも同じ群れの中にいる個体を狩りの対象などにはしない。互いに守り合い、互いの命をつなぐことこそが「群れ」の意味なのだ。


 ただ、僕がこの群れの中に留まれるはずもない。男の子を起こさないようにそっと布団を出て、そのまま玄関へ向かった。母親は何処かへ食糧の調達にでも行ったのだろうか。家中にその姿はなかった。玄関の戸を開けると、すでに外は暗闇に包まれている。「さあ…、狩りに出かけるとするか…」 僕は足早に母子の家を後にした。ほんの僅かだが、名残惜しさを感じていた。


 この時代、僕が最も嫌いだったのは、派手な帽子を被り細い刀を腰に差して偉そうにしている人間の男だ。あいつは他の人間に恐れられているらしく、この時代の街中を跋扈していた。もちろん僕から見ればあいつもただの「獲物」でしかない。あいつは街中でよく酒を飲んでふんぞり返って歩き、時々、足元をふらつかせながら、道端で小便をする。小便をするとき、あいつは人目がつかない場所を探す。路地裏、建物の裏、背の高い塀。そのすべては、僕にとって絶好の「狩り場」でもあった。


 午后9時を過ぎたころ、僕は町なかの廃屋に身を潜めていた。この場所は、酒が飲める料理屋からほど近く、辺りには「人目がつかない暗闇」も多い。しばらくすると、「ザッ、ザッ、」と人の足音が近づいてくるのを察知した僕は、廃屋の窓をそっと開けて獲物の姿を探した。「…あいつだ…」 そこには僕が嫌いなあいつが一人でこちらに向かってくる姿があった。幸運なことに、すでに千鳥足である。


 窓からあいつの姿を目で追う。僕が潜む廃屋の前をあいつが通り過ぎたとき、僕は素早く窓から飛び出し、あいつの後を追った。五分ほど歩くと、案の定あいつはきょろきょろと周囲を見回し、小便をする場所を探し始めた。


 あいつが小便の場所に選んだのは路地裏の電柱の陰だった。僕は少し街灯の明かりが気になったが、辺りに人の気配がなかったので、ここを「狩り場」にしようと決めた。足音を消し、気配を消し、背後からゆっくりとあいつに近づく。


 用を足し終えたあいつが振り返った瞬間、僕は目にも止まらぬ速さであいつの喉笛を食いちぎった。何が起こったのか理解する暇もなく、あいつは喉から血を吹き出しながら絶命した。普段、僕は必ず獲物を自分の根城へ持ち帰ってから食事を始めるのだが、今日は空腹感が限界に達していたので、このままこの場所で食事を始めることにした。



 ほんの数分で食事を終えた僕は、すっかり眠くなってしまった。昨日疲れも出たのだろう。すぐに根城へ戻ろうとした次の瞬間、「ウーーー、ウーーー」と、けたたましいサイレンが辺りに鳴り響いた。またあの熱い炎の塊が空から降ってくる合図だ。僕は、また吹っ飛ばされては敵わないので、ひとまずさっきの廃屋の床下に身を隠すことにした。色々なところから、ドーン、ドーンという轟音と人間の悲鳴が聞こえる。この炎の塊に焼かれるのは人間だが、これを降らせているのも人間らしい。まったく人間とは不思議な動物だ。


 身を潜めていると、はるか遠くから聞き覚えのある声を聴いた気がした。僕はその声の方に五感を凝らした。「この声は…、あの男の子だ!」 僕は床下から這い出し、あちらこちらから炎が上がる街を横目に見ながら大急ぎであの家へ向かった。


 数分であの母子の家に着くと、燃えさかる家の前で、あの母親が男の子を抱きかかえながら呆然と立っていた。抱きかかえられた男の子に目をやると、男の子の右半身は真っ黒に焼け焦げていて、すでに息はなかった。母親は男の子を抱きかかえたまま、すっとそのままそこに座り込み、男の子に優しく頬ずりした。僕が母親の手をとろうとした瞬間、家の屋根が燃え落ち、その火の粉が母親を包み込んでしまった。すぐに辺り一面火の海となり、その業火のなか、母親はずっと男の子に頬ずりを繰り返していたが、しばらくすると二人の姿は炎の中に消え、見えなくなった。


 化け物である僕に心があったならばだが、僕の心の中はとても大きな喪失感でいっぱいになった。これはもちろん、たとえ一時でも群れの一員だった者が死んだことが悲しいからだ。決して僕に人間らしさが残っているからではない。僕は、化け物なのだから。


 この日から僕は、こんな愚かな世界をつくり出した人間を心から軽蔑するようになった。


 



 


 



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ハウンドドッグ:狩る者(ある殺人鬼の告白2) 高ノ宮 数麻(たかのみや かずま) @kt-tk

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