第47話 シグルトの過去

(先生が……アーシェを、殺した――――?)


 心臓が不吉に跳ねた。

 導師に逆らい、殺されたという話をクライルから聞いてはいたが、まさか手を下したのがシグルトだというのか。

 パリスが青ざめた。


「ディナ様! アーシェの話は彼女には――!」


「何? やっぱりみんなアーシェのことはリシェルに黙ってるわけ? まあ、シグルト本人は言わないわよね。せっかくうまいこと、この子を騙してるのに、自分がどれだけ非情な人間かってばれちゃうもの。で、あなたみたいなシグルトのご機嫌取りたちも、あいつに忖度そんたくしてるってわけね」


 ディナは憎々しげに吐き捨てる。


「まったくどいつもこいつも……法院の連中はみんなシグルトの顔色を伺って、アーシェのこと、まるで存在してなかったみたいに振る舞って……アーシェは何も悪くなかったのに」


「一体……何があったんですか?」


 リシェルの問う声は微かに震えていた。

 知りたい。

 6年前にアーシェに……シグルトに何があったのかを。


「パリス。あなた、6年前の事件、目の前で見てたんでしょ? 教えてあげなさいよ」


「………」


「この子には、前の弟子がどうなったか知る権利があるわよ」


「パリス……」


「……」


 リシェルに請うように見上げられ、パリスの青い瞳が揺れた。


「あなたが言わないならいいわよ。私が――」


「いえ、僕が」


 意を決したように、パリスは口を開いた。ディナがいる以上、もうリシェルに隠し通すのは無理だと判断したようだった。


「6年前、ある事件が起こって、シグルト様の前の弟子――アーシェは法院を追われた。当時、僕はまだ魔術学院の学生だったけど、たまたまその事件を目撃してたんだ」


 今も記憶に鮮明に残るあの事件。

 パリスが誰かにこのことを話すのは、事件直後の聞き取り調査以来だった。


「あの日、僕は学院の授業を終えて、家に帰ろうとしてた。そしたら、急に正門の辺りで、子供が騒ぐ声がしたんだ。行ってみると、ルゼル導師がいて、その部下の魔道士たちが一人の子供を取り押さえてた。そいつは放せって言って、すごい暴れてた」


 黒髪の、恐ろしく整った顔の少年――

 成長した彼が今、すぐ近くにいることについては、パリスはあえて触れなかった。


「ルゼル導師には前から黒い噂があった。人攫いから人間を買ったり、身寄りのない子供をさらったりしては、魔道実験に使ってるって。もちろん違法だけど、あの人ならやってるだろうって、みんな思ってた。この子供もそのために捕まったんだってすぐわかったよ。でも――」


「誰も何も言えなかった。導師には逆らえないから」


 ディナが口を挟む。


「けど、アーシェは違った」


 パリスは頷いた。


「アーシェは無理やり子供を連れていこうとするルゼル導師を止めようとしたんだ。怒ったルゼル導師は、アーシェに攻撃した。アーシェも応戦して、純粋な魔力の押し合い、力比べになった。そして、ルゼル導師はアーシェに――負けた」


「導師が、負けた?」


 魔道士の頂点たる導師。

 その導師に、アーシェは勝ったというのか。当時、彼女の師であるシグルトはまだ導師ではなく、彼女は法院に所属する一魔道士に過ぎなかったはずだ。


「そうだ。アーシェは無傷だったのに、ルゼル導師は怪我まで負って……ルゼル導師の完敗だった。そして、アーシェは捕まっていた子供を連れて逃げた。導師クラスの魔道士しか使えない、“空間移動”の術を使って。アーシェは既にもう、導師並みの実力があったんだ」


 最高位の魔道士さえ退けるその力。そして、

 ――私は私が正しいと思ったことをしているだけです。

 そう言い放ったアーシェの凛とした姿。

 それは、魔術学院で神童と称えられ、いい気になっていた少年を圧倒した。

 パリスは息を吐いた。


「天才だったんだよ、本当に……」


「でも、恥をかかされたルゼルは激怒した」


 ディナが話を引き継いだ。


「そして、アーシェの師であり、当時オルアン導師の弟子だったシグルトに、逃げたアーシェを見つけ出し、殺すよう命じた」


(先生……)


 弟子の不始末は、師匠が責任を負う。

 法院の掟からすれば、それは当然の命令だったのかもしれない。

 でも、その命を受けたとき、シグルトは一体どんな気持ちだったのだろう。可愛がって、将来を期待していたであろう弟子を、自らの手で殺せと言われた、その気持ちは。


「オルアン導師も、うちのお爺ちゃんもなんとかアーシェを助けようとしたけど……導師に逆らって怪我を負わせたんじゃ、もう庇いようがなかった」


 語るディナの声は暗かった。

 彼女自身も、アーシェを助けようと奔走したのだろう。でも、何もできなかった。その後悔が声に滲んでいた。

 リシェルは、黄緑の髪の少年を思い出す。あの気位の高そうな導師なら、自分に恥をかかせたアーシェを絶対に許さないだろう。シグルトに対する何かと突っかかるような態度も、いまだに事件のことを根に持っているからに違いない。


「アーシェは半年間姿をくらませてた。でも、そのうちカロンで潜伏している反乱軍と共にいるらしいという情報が入ったの。アーシェ程の魔道士が反乱軍に合流したとなれば一大事よ。法院と国王は、アーシェと反乱軍の抹殺を望んだ」


 導師並みの実力を持つ魔道士が、反乱軍に加われば、国王にとって大きな脅威になる。アーシェを消したい法院と国王の思惑が一致したのだろう。


「そして、カロンの反乱軍討伐に、魔道士部隊を率いて加わったシグルトは、国王の命に従ってカロンの村を焼き払った」


 リシェルは息を飲んだ。


(やっぱり先生は、カロンを――)


「国王側の話では、カロンは住民のほとんどが反乱軍に加担してるから、村ごと焼き払えってことだったけど……潜伏していた反乱軍を一人残らず始末するための口実でしょうね。実際には大半の村人は無関係だったと思う。それはあいつもわかってたはずよ」


 厳格な国王ジュリアスは、反逆者を決して許さない。8年前にもあった反乱軍への大粛清では、誰一人生き残らなかったと聞く。


「そして、あいつはアーシェを――殺した。5年間、技を教え、一緒に暮らし、任務を共にしてきた弟子を」


 ディナは目を伏せた。その脳裏に、アーシェの笑顔が浮かぶ。


「正しい行動をした弟子を、あいつは自分の立場を守るため、手にかけたのよ。しかも、遺体すら残さず灰にした。私はアーシェの……死に顔さえ見ることができなかった」


 カロンでの任務からシグルトが帰ってきた時。

 ――この人でなし! 悪魔! アーシェを返してよ!

 他の魔道士に両脇を抑え込まれながらも、泣き叫び、食って掛かる自分に、あの男は一瞥いちべつもくれなかった。何の表情も浮かべず、部下の魔道士たちを引き連れ、白いローブを翻して、ただ通りすぎて行った。


「ディナ様……法院の命には誰も逆らえません。逆らえば、自分が追われることになる。シグルト様だって仕方なく……」


 パリスの言葉を、ディナは鼻で笑い飛ばした。


「は! 誰も逆らえない? あなたの大好きな大魔道士シグルト様の実力はみんな知ってるわよ。 あいつの力ならルゼルを黙らせることだってできたはず。法院を敵に回しても、アーシェを守れるだけの力が、あいつにはあった。なのに……そうはしなかった……」


 ディナは唇を噛んだ。

 もしも。

 もしもシグルトがアーシェを守ってくれていたなら。

 アーシェは救われたはずだ。命も……心も。


「アーシェを殺したあいつは、戻ってきてすぐに導師に就任した。アーシェには導師なんてなりたくないとか言ってたらしいけど、結局あいつは弟子を殺して出世を選んだ」


 弟子を殺して出世を選ぶ。

 それはリシェルの知るシグルトからは、到底想像できない行動だ。

 私にとって地位だの名誉だの、そんなもの何の意味もない――

 出立前にシグルトが小説から引用し、言った言葉。

 リシェルには、師は自らの地位も名誉も、むしろ疎ましいとすら感じているように思えた。


「なのに導師になった途端、昔の活躍はどこへやら、必要最低限のやっつけ仕事しかしないわ、可愛い女の子を側に侍らせるわ……本当に腐ってるわね」


 シグルトが導師になったのは、カロンでの任務を終えた後――リシェルを引き取った直後だ。ディナの言う通り、その頃にはもうシグルトは仕事に何の情熱もなく、国で最も高名な魔道士とは思えぬ、リシェルの知る怠惰な師だった。


「リシェル。あいつはあなたに、アーシェのことについて何も言わなかったの?」


「私から聞いたときは……ただ、アーシェは自分から弟子を辞めた……としか……」


 リシェルの言葉に、パリスが思い出したように言った。


「ディナ様、アーシェはあの事件の数日前から、突然魔道士をやめると言い出して、ずっとシグルト様ともめてたって噂がありますけど……何かご存じですか?」


「アーシェが魔道士をやめようとしてたのは事実よ。シグルトがそれを引き留めて、もめてたのも本当。アーシェは私にも詳しい理由は言わなかったけど……でも……」


 ディナの声が、瞳が、不意に切なさを帯びた。


「きっともう……あいつの側にいるのが限界だったのね……」


「え?」


 ディナはどこか誤魔化すように声を張った。


「シグルトがそれだけ嫌な奴だったってことよ!」


 リシェルは自分のローブの裾を握りしめた。


「先生が……アーシェを……」


 自分の弟子を、手にかけた。

 リシェルはどう受け止めていいかわからなかった。

 夢の中で、幼い頃の自分に優しく語りかけていたアーシェ。

 彼女を、シグルトが殺した。

 その事実は、彼が顔も覚えていない自分の家族を殺したかもしれないということよりも、リシェルの心に重くのしかかった。

 夢でしか知らないアーシェを、勝手に家族のように感じていたのかもしれない。

 思い詰めた顔で黙り込むリシェルに、少しでも希望を持たせようとしたのだろうか。パリスが言った。


「ブラン様は以前こう仰ってた。シグルト様がアーシェを殺したなんてやっぱり信じられない。あれはアーシェの自殺だったんじゃないかって。アーシェは師と対決するのを避けて、自分で自分に火をつけたのかもしれないって……」


「お人好しのブラン様らしいわね。けど……アーシェが焼身自殺? 自殺するのに、何だってそんな苦しむ方法選ぶのよ? 大魔道士ガルディアじゃあるまいし」


 ディナはブランの説を一蹴する。

 大魔道士ガルディア。

 史上最強の魔道士にして、エテルネル法院の創設者。魔法を体系化し、一つの技術として確立した魔道の祖。

 最も偉大なる魔道士は、しかし晩年狂気に取り付かれた。彼の6人の弟子に遺言を残した後、突然自らの身体に火を放ち、焼け死んだのだ。彼が“狂気の大天才”と言われる所以ゆえんだ。

 その遺灰は今も、天の塔の最下層にある彼の墓地に安置されている。


「アーシェは、シグルトに殺されたのよ」


 ディナは、親指の爪をギリッと噛んだ。瞳に憎悪の炎が揺れる。


「シグルトもルゼルも許さない……私が導師になったら、あいつら法院から追い出してやるんだから……!」


 ディナにとって、アーシェは本当に大切な友達だったのだ。だから、6年経った今でも、彼女を死に追いやった二人の導師を許すことができないのだろう。


「ね? あいつがどんな奴かわかったでしょ? リシェル。悪いこと言わないからうちにいらっしゃい。あなたは騙されてるだけよ」


「……」


 本当にそうなのか。

 シグルトの優しい笑顔。

 その下には、自分の立場を守るためならば、正義を貫いた弟子を手にかけることも厭わない、非情さが隠されているのだろうか。

 答えないリシェルにディナは語気を強めた。


「あいつと関わるとろくなことがないわよ。親も弟子も処刑されるなんて、あいつ絶対呪われてるし!」


「先生の……親?」


「どういうことですか?」


 思いがけない話に、リシェルは戸惑い、パリスも初耳だったのか声を上げる。


「ああ、さすがのシグルト信者のパリスも知らないか。20年以上昔の話だし、やっぱりシグルトのご機嫌伺って、誰も話題にしないしね。あいつの親も、法院に処刑されてるのよ。父親も母親もね」


「どうして?」


「禁術に手を出したから」


「禁術?」


「大魔道士ガルディアが定めた、使用を禁じられた術のことだ」


 首を傾げるリシェルに、パリスが説明する。


「大地震の発生、集団洗脳、人間と魔物の合成、悪魔の召喚、死者の蘇生……他にもいくつかあるけど、それらを目的とする一切の術の使用、及び研究をガルディアは禁じた。違反者は死罪に処される」


 リシェルは想像する。禁術……そのどれもが、人道に反する、ひどく恐ろしいものに思えた。ガルディアが使用を禁じたのも最もだ。


「まあ、禁術には桁違いの魔力が必要で、実際に使えるのはガルディアくらいなものだったらしいけど……でも、彼の死後も、生け贄を使って必要な魔力を補い、禁術を使おうとする奴らはいてね。そういう奴らが現れる度、法院は厳しく処断してきたのよ」


 ディナが続ける。


「シグルトの両親は、もともとお爺ちゃんの弟子で、二人とも優秀な魔道士だったのよ。いくつも強力な攻撃魔法を編み出した。でも、ほとんどが残虐すぎて結局使われてない。人間を一瞬でどろどろに溶かす術とか、生きたまま肉体を腐敗させる術とか……まあ、夫婦揃ってちょっと頭がイカれてたらしいわ。やばい魔道実験をいくつもしてたって噂もある。で、ついに何かの禁術に手を出した。それが成功したのか、研究段階で終わったのか……詳細は一切公表されてないけど、とにかく彼らは処刑された。……うちのお爺ちゃんにね」


「ガーム導師に?」


 導師会議で、シグルトのすぐ隣に座る老人を思い起こす。あの穏やかにシグルトに語りかけていた彼が、シグルトの両親を殺したというのか。


「法的な裁きだったとはいえ、自分の親を殺した人間と仲良く隣り合って、平然と会議してるあたり、あいつもまともじゃないわよね。親も親なら、子供も子供ってとこかしら」


 ガームの隣で、淡々と議事進行をこなしていたシグルト。その横顔には、憎しみも悲しみも何も感じられなかった。もう過去のことは乗り越えたのか。それとも、表に出さないだけで、内心複雑な感情が渦巻いていたのか――

 ディナはふと思い出したように付け足した。


「そういえば、こんな噂もあったわね。シグルトの親は自分たちの子供にも、何かの人体実験をしてて、それでシグルトはあそこまでの魔力を手にしたんじゃないかって……」


 私は父も母も魔道士でしたから、幼い頃から術を学んで、魔道士になるべく育てられました。他の選択肢なんてなかった――

 以前のシグルトの言葉が思い出された。師が自分の両親について語ったのは、あの時のたった一度だけだ。

 禁忌を犯し、処刑された両親。シグルトは彼らにどういう思いを抱いていたのだろう。


「まあ、これはさすがにあいつへの妬みから出たデマでしょうけど。どんな人体実験しようと、一時的ならともかく、恒常的に魔力を強化する方法なんて有り得ないんだから……まあ、そんな話はともかく」


 ディナはリシェルに向き直ると、力一杯主張した。


「シグルト、あいつは魔力も家庭環境も人格も、全部まともじゃないのよ!」


 逃がすまいとするかのように、再びリシェルの両肩を掴み、正面から向き合う。


「リシェル。私はあなたを助けたいの。アーシェみたいになって欲しくないのよ。あいつにとってアーシェは結局、自分の評価を高めるための優秀な弟子ってだけでしかなかった。だから、邪魔になったらあっさり殺した。あなたも今はあいつに気に入られて、大事にされてるのかもしれない。でも、多分あいつ、あなたのことはお気に入りの可愛いお人形程度にしか思ってないわよ。不要になれば、すぐ切り捨てられる。……アーシェみたいに」


 ディナの瞳には、真摯さがあった。単にシグルトを嫌っているからではない。本気でリシェルを心配しているのが伝わってくる。このままシグルトといれば、いつかリシェルが不幸になる、と。


「ディナ様。シグルト様は彼女のことを決してそんな風には――」


「あいつは! そういう冷たい人間なのよ!」


 パリスの擁護も、ディナは聞き入れない。

 冷たい人間――シグルト自身も自分のことをそう言っていた。

 君にだけは嫌われたくないから優しい振りをしているだけで、本当は冷たくて、酷い人間なんです――

 シグルトはこの6年間いつだって、リシェルに優しかった。

 それもただの優しい振りだったのか。

 愛している。

 そう言ってくれたのも、ディナが言う通り、ただお気に入りの人形を愛でる程度の気持ちだったのか。

 もしも、法院からリシェルを殺せと言われたなら。

 シグルトは……自分を殺すだろうか。


(違う……先生はそんな人じゃない……)


 だが――

 シグルトはカロンの村を焼き払い、弟子であるアーシェを殺し、そのことをずっとリシェルに隠していた。

 シグルトを信じる。

 そう言い切るには、師が隠していた事実は重すぎた。

 もしかしたら、まだ何かリシェルに隠していることがあるのではないか。

 師を信じたいと思っても、疑念は消えてくれない。


(先生に会いたい……会って確かめたい……)


 会って――――できることなら、もう一度シグルトを信じたかった。


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