第37話 夢

 一筋の光すらない闇の中。

 ゆったりと前へと歩みを進める。

 一寸先も見えぬ暗黒を進むことに、恐れはなかった。

 一体何を恐れる必要があろうか。

 人の限界を超える力を手にした、この自分に。


 突然、足首を何かに掴まれた。

 視線を落とせば、地に這いつくばった、ローブ姿の男が片手で自分の足首を握りしめ、見上げていた。

 男の片腕は何処かへちぎれ飛んだのか既になく、憎悪を宿した眼も、一つしかない。片方は無残に潰れていた。頭から流れる血のせいで、男の顔面は真っ赤に染まっている。


「ゆる……さん……」


 敵であるその男は苦しげに呻く。

 それを見ても、哀れみも怒りも、湧いては来ない。

 感じたのは、触れられているという不快感のみ。

 犯罪者ごときに。


 ほんの僅か―――軽く手を振った。

 途端、男の口からごぼっと血が噴き零れる。

 適当に力を放ったので、どこに当たったかはわからないが、内臓のどれかが破裂したはずだ。

 足首を捕えた手から、力が抜け、男は地に突っ伏し、動かなくなった。 


「この……化け物が……」


 小さな呟きを残して。


「お互い様でしょうよ」


 ――――いや、違う。

 言ってしまってから、否定する。

 同じ魔力を持って生まれた者とはいえ、自分とこの男の間には、圧倒的な力の差がある。もはや何度生まれ変わったとしても、覆すことは叶わぬ程の。

 高揚感に、思わず笑みがこぼれた。

 悪魔と蔑まれることのない、人間として認めてもらえる居場所を求め、それを得た後望んだのは、結局は化け物と恐れられるような、さらなる力だった。


 足首に絡む手を振り払い、再び歩き出す。

 気づけば周囲が少し、ほの明るくなっていた。

 視界に飛び込んできたのは、見渡す限り続く、地に伏した者たちの姿。

 彼らの髪は普通の人間ではあり得ぬ、様々な色を有し、凄惨なその光景に奇妙な華やぎを添えていた。

 物言わぬ彼ら――――死体を時に踏みつけながら、なおも歩き続ける。


 動いているのは、生きているのは、自分だけ。

 無音の空間。勝者の証。

 幾度も勝ち得てきたそれに、初めの頃程の感動はない。

 彼らを裁くことが、居場所を得るための代償として課せられた、自らの使命であり、そして彼らは弱いから自分に処断された。

 ただ、それだけのことだ。


 ……せ……んせ……


 突然、耳に届いた、か細い少女の声。

 はっと我に返り、足を止める。

 どくん、と心臓が不吉に跳ねた。


(……私は……何を……?)


 頬を伝い落ちた冷や汗を追うように、顔を下へと向ける。

 いつの間にか、累々と転がっていた死体は消え、踏みしめる地面は白い雪で覆われていた。

 足元に横たわり、苦痛に顔を歪めて、じっと自分を見上げる少女。

 そのローブの胸元はべったりと血で濡れている。

 いつも強気に輝いていた灰色の瞳からは、光が失われつつあった。


(……私は……この子を……)


 ――――殺せ! お前の手で! アーシェを!


 耳をつんざく、甲高い少年の声。


 ――――アーシェを見つけたら、一緒に他の国へ逃げろ。なんだって協力するから。


 ただ一人、そう言ってくれた友の声。

 だが、結局自分は――――

 目の前にある現実に、身体が震えた。


 ……せん……せ……おねがい……


 今にも絶えそうな息とともに吐き出される、最後の言葉。

 その手がそっと、縋るように自分へと伸ばされる。

 甲には血に染まった包帯が巻かれていた。

 戦いによって、ぼろぼろに擦り切れ、かろうじて少女の手に巻きついていたそれは、するりと剥がれ落ちていく。

 包帯の下、そこにあったのは――――――

 その瞬間、すべてを悟った。


 ……せん、せい……私、ずっと……


(私は……! 私は、なんてことを……!)


 差し出された手を取ろうと、身を屈めた瞬間――――

 ごうっと、少女の身体が炎に包まれた。

 赤い炎はあっという間にその身体を、黒い物体へと変えていく。

 ただ呆然とその様を見つめる。


 ――――自業自得だろう? 全部お前のせいだ――――


 ねっとりと絡みつくような、笑いを含んだ男の声。


 そう……言われずともわかっている。

 自分のせいだ。何もかも、すべて――――


 踊り狂う炎から、灰燼かいじんがひらひらと舞い上がる。

 空中へと散り広がる、かつて弟子であったもの。

 絶望に、叫びそうになった。


 そうだ。もう一度、この生を終わらせてしまおう。

 いや、もっと早くそうすべきだったのだ。

 そうすれば彼女が、こんなことになることもなかった。

 こんな呪われた命、今すぐにでも――――


 失意と決意に突き動かされて、燃え盛る炎へと手を伸ばした。

 愚かな自分をからかうように、指先を熱い炎がちろちろと舐める。

 すべてを終わらせるべく、一歩を踏み出そうとした、その時。


 ――――駄目。


 突然、後ろからローブを引っ張られた。

 振り返った先にいたのは、黒髪の幼い少女。


 ――――アーシェの願いを、叶えてあげて。


 感情の籠もらぬ、その声と表情。


 ――――それは、あなたにしか出来ないこと。


 ……そうだ。まだ終わっていない。

 まだ……終わらせるわけにはいかないのだ。

 なさねばならないことがある。

 たとえ、どんな手段を使ってでも。


 炎になぶられていた手で、ローブを掴む少女の小さな手を取り、きつく握りしめる。

 自分を見上げる少女の大きな黒い瞳。

 その色が、ゆっくりと淡い薄紅色へと変化していった――――――






「朝……ですか」


 寝台の上、シグルトは疲れを感じながら、身を起こした。

 久々に見た、長い悪夢だった。

 おぼろけな遥か遠い過去と、未だ鮮明な近い過去。

 耐えがたい現実と、こうあれという願望。

 すべてが入り混じった、脈絡のない、夢らしい夢。夢は魂に刻まれた記憶と意識の現れというが、まさに自分の罪の意識を具現したような夢だった。

 こんな夢を見てしまったのも、彼女が側にいないせいか。


(リシェル……)


 愛しい黒髪の少女を想う。

 今すぐに抱き締め、そのぬくもりを感じたかった。そうしなければ、過去の悪夢に囚われ、狂ってしまいそうだ。

 だが、今は愛弟子は王都から遠く離れた場所。

 セイラから連絡がない以上、無事でいるのは間違いないが、それでも心配だった。

 その大きな原因は、憎悪に燃える、黒い瞳。


 大丈夫。どうせ彼には何もできない。“向こう”の動きは把握しているし、手は打った。

 そう自身に言い聞かせる。


 それでも不安を感じるのは彼が真実を知っているからか。

 だが、彼が何を言ったところできっとリシェルは信じない。あの男はあまり口が達者なようでもなかったし、自分にはこの6年間で築いてきた彼女からの信頼があるのだ。仮にリシェルが信じても、何とでも言いくるめてみせる。嘘を重ねることになるだろうが、今更だ。彼女との平穏な日々を守れるなら、どんな卑怯な手段も厭わない。


 ただ、一抹の不安がよぎる。

 彼の“能力ちから”が、この6年でどこまで開花しているか。


(まさか私の封印が破られることはないでしょうが……)


 リシェルに施した魔力の封印術。ブランにほんの一部だが、壊されたそれを補修しなかったことを悔いる。魔力の封印が完全に解除されれば……彼女の記憶も戻るかもしれない。


(……あの子があんまりにも嬉しそうだったから……我ながら甘かったですね)


 これ以上、彼女から何かを奪うことに対する罪悪感が、再度封印を施すことを躊躇わせた。


(あと少し……)


 あと少しの辛抱で、可愛い弟子は自分の元に帰ってくる。任務で多少戦いの怖さを体験すれば、魔道士を目指すという考えも改めてくれるかもしれない。無論その身の安全は何としても守るが、大切な弟子を今回の任務に行かせたのにはそういう打算もあった。魔道士の道を――――過去を諦めれば、きっと求婚を受け入れてくれるはずだ。彼女には自分のもと以外、他に行く場所などないのだから。あったとしても、行かせはしないが。


 ……いや、彼女はいずれ自ら望んで、自分を求めてくれるはずだ。

 確信があった。 

 彼女だって、自分自身では気づいていないだけで、絶対に――――


「会いたいと……君も私と同じように想ってくれているといいんですけどね……」


 期待を込めて呟き、寝台を降りる。もう行かねばならない。

 面倒なことこの上ない。正直ずっと弟子を想って過ごしていたいが、さすがにあの男からの呼び出しは無視できない。行かないわけにはいかないのだ。夢見は最悪だったが、おかげで寝坊せずに済んで助かった。

 シグルトはクローゼットから濃紺のローブを引っ張り出すと、城へ上がるべく、準備を始めた。







 


 王都を出て6日目。

 クライル王子率いるラティール騎士団は、ミレーレという、このあたりで最も大きな街に到着した。ここまでくれば、もうアンテスタに入るまで1日とかからない。


 ミレーレに向かうまでの道中、ザックスとダートンは相変わらず、リシェルに優しく、親切で、何かと世話を焼いてくれた。移動中の退屈を紛らわすかのように話してくれる話も、やはり面白かったし、楽しかった。でも、彼らの話に笑いながらも、リシェルはどこか心の奥底にざらついた気持ちを抱えていた。

 もし、自分がシグルトの弟子ではなかったとしたら――――彼らは今と同じように、リシェルによくしてくれただろうか。

 自分でも底意地の悪い考えだとは思う。でも、リシェルは彼らの優しさの裏に、少なからず計算があることを知ってしまったのだ。


 法院の魔道士は、みんな冷たい目で睨んできた。

 逆に法院の外の人間は、あの夜会の時のようにちやほやしたり、とても好意的に接してくる。

 全部、自分がシグルトの弟子だから。


 他人が自分を見る時、そこにいるのは“リシェル”ではなく、あくまで“シグルトの弟子”なのだ。

 自分のことを、シグルトの存在を前提として見ないのは、シグルト本人だけなのかもしれない。


(先生、今頃何してるんだろう……?)


 セイラは無口で話相手にはならないだろうし、一人淋しがってはいないだろうか。それに、朝はちゃんと起きれているのか。導師会議に遅刻して、またルゼルに嫌味を言われているのではないか。

 無性に師に会いたくなった。自分をただの“リシェル”として見てくれる唯一の人に。


「……おい、聞いてるのか?」


 不機嫌そうな声に、リシェルは我に返った。


「あ、ごめん」


 テーブルを挟んで、目の前に座るパリスに謝る。テーブルの上には数冊の魔道書が置かれていた。今、リシェルはパリスから魔法の集中授業の最中だった。

 2人は今日の宿泊先の宿で、リシェルにあてがわれた部屋にいた。さして広くもなく、置かれた家具も寝台とテーブルと椅子2脚だけの、小ざっぱりした部屋。パリスは部屋が狭い、寝台が固いと文句を言っていたが、個室を与えられるだけ贅沢だ。騎士と魔道士以外の一般兵は、大部屋に詰め込まれ、寝台が足りないので床で雑魚寝している。


 今はちょうど昼食を終え、午後になったばかりだ。本来ならば、アンテスタを目指してひたすら行軍している時間だが、昨夜この街に到着したクライルは高らかに宣言した。

 いい加減移動ばっかりも飽きたし、明日は1日休みにする、と。

 今この瞬間にも盗賊団の被害を受けている人々がいるかもしれないのに、そんな悠長なことが許されるのかと疑問に思ったが、大将の発表に兵たちは大喜びだった。


 突然できた休日に、リシェルも街を見て回れるかもしれないと期待したが、パリスは無情にも「今日は1日特訓だ」と告げた。パリス曰く、「お前みたいな半人前の魔道士に休みはない」そうだ。王都を出発して以来、少しでも任務に貢献すべく、パリスから治癒魔法を教えてもらっているリシェルだが、その習得には苦戦していたから、文句は言えなかった。

 そして午前中からこの部屋で、パリスからみっちり授業と訓練を受け、間に昼食を挟んで、今に至る。


「……なんか、お前、ここのとこ、ぼーっとしてるな」


「そう……かな?」


 誤魔化すように首を傾げるが、パリスには全部お見通しのようで、少し声を落として言った。


「……あんまり気にするな。お前を利用してやろうって人間は、多分この先も五万といる。いちいちへこんでたらキリがない」


 それから、幾分偉そうに続ける。


「それもこれも、シグルト様がお前なんかには勿体ないお気持ちを向けて下さってるからこそだ。ありがたく思えよ」


「……うん、先生にはすごく感謝してる」


 リシェルは微笑んだ。きっとパリスはパリスなりに、元気づけようとしてくれているのだろう。

 仮にシグルトの弟子でないとしたら、自分には何があるだろう。きっと何もない。自分が本当はどこの誰かなのかすらわからないのだ。一体誰がそんな正体不明の人間を受け入れてくれる?

 そんなことをくよくよ考えてしまっていたが、パリスの言う通り、それは贅沢な悩みなのだ。

 現実には、自分はシグルトの弟子で、シグルトは――――自分を特別大切に想ってくれている。

 ふと気付くと、パリスは物問いたげにリシェルを見ている。


「何?」


 パリスはリシェルから視線を脇へと逸らすと、歯切れ悪く言った。


「あの……お、お前さ、シグルト様のことは、その、どう想って――――」


 だが、パリスが言い終わらぬうちに、部屋の扉を叩く音がした。

 リシェルが立ち上がり、扉を開くと、そこに立っていたのはにこにこと笑顔を浮かべたクライルだった。


「リシェルちゃ~ん、今暇? せっかくだしさ、ちょっと街に遊びに行かない?」


「え?」


「デートしよう、デート!」


「でも……」


 ちらり、とパリスの方へ目をやれば、彼は首を振る。

 シグルトにはパリスの側を離れるな、と言われている。今まで宿泊した町や村でも、パリスが許可しなかったので、結局リシェルはずっと宿にいて、外へ出ることはなかった。


「この街にはね、と~ってもおいしいケーキ屋さんがあるんだよ。だから、一緒に行こ。ね?」


 ……正直、初めて王都以外の場所へ来たのだ。外へ出て、色々見てみたいという気持ちはある。

 リシェルが返事を躊躇っていると、クライルは小さく囁いた。


「アーシェのこと、教えてあげるからさ」


「!!」


 そうだ。アーシェ。そもそも彼女のことを知りたくて、クライルとデートの約束をしたのだ。


「わかりました。ご一緒させていただきます」


「お前、勉強は!?」


「今日はお休みだよ~。勉強なんてして疲れてどうするのさ~。今日は寝るもしくは遊ぶ。これ、団長命令ね」


 パリスの制止を、クライルはのほほんとした“命令”で封じ込める。 


「なら、僕も行きます」


 間髪いれずにパリスが立ち上がった。クライルはあらかさまに不満げな顔を見せる。


「え~、何? パリスは誘ってないよ? デートについてくる気? 無粋な奴だなぁ」


「申し訳ありませんが、僕はシグルト様にこいつのこと、頼まれているんで」


 パリスはリシェルを軽く睨みながら言う。その目には、勝手に行動するな、お前に何かあったら怒られるのは僕なんだからな、という無言の非難があった。


「も~、パリスは昔からシグルト好きだよね~」


 クライルは口を尖らせれば、パリスも言い返す。


「殿下は昔から女性好きでしたよね」


 貴族として礼儀作法を叩きこまれて育ったはずのパリスだが、クライルに対しては遠慮がない。そういえば、パリスの実家であるユーメント公爵家は王家とは縁戚筋。クライルの父である前国王と、パリスの父ユーメント公爵は従兄弟同士だと以前聞いたことがある。この二人は昔馴染みなのだろう。


「も~仕方ないな~。でも、あくまで僕とリシェルちゃんのデートなんだから、邪魔しないでよね!」


 結局、3人揃って部屋を出た。

 





「……で、君もついてくるんだ?」


「それが俺の仕事ですから」


 まるで主の外出を知っていたかのように、宿の玄関で待ちかまえていた黒髪の騎士は、主の疎ましげな視線も物ともせず、その後を当然のように付いて来る。


「ほんと君って仕事熱心だよね~。僕のこと好きなんじゃないかって疑いたくなるくらい、四六時中僕に張り付いてさ~。護衛の鑑だよ」


「お誉め頂き光栄です」


 主の皮肉もさらりとかわす。クライルはわざとらしく続けた。


「あ、間違えた。護衛というか、“監視役”の鑑か~」


「……」


 今度はエリックは応えなかった。部下の様子に主はにっと笑うと、


「さ、僕について来て~」


 リシェルとパリス、エリックの3人の先頭を切って揚々と歩き出した。

 リシェルはすぐ横を歩く、長身の騎士に少し緊張していた。王都を出発してかなり日が経つが、こうして近づくのは初めてだ。何度か話しかけようと試みたのだが、いつ見ても彼は忙しそうだった。他の騎士たちと何かを話しあっていたり、兵たちに指示を飛ばしたり……どうやら、エリックは単純にクライルの護衛役というばかりでなく、騎士団において重要な役目を担っているようだった。副団長である年配の騎士が、彼に何事か相談するように話しかけているのを幾度も目にした。……その横で団長であるクライルが眠そうにあくびを繰り返すのも。


 なぜか先程からずっと、パリスがエリックのことをうろんげな目で見ているのが気になったが、ようやく忙しい彼と話せる機会が出来たのだ。自分でもよくわからなかったが、何か彼と話さなければと落ち着かない気持ちになっていたリシェルは、早速口を開く。


「あの、この間の練習試合見ました。エリックさんてとってもお強いんですね」


 以前襲われ、助けてもらった時は、彼がロドムの手下を倒すところを見てはいなかったから、先日の試合を見て、初めて彼が噂通りの強さなのだと実感し、リシェルは心から感心していた。


「別にお前たち魔道士からしたら、あれくらい大したことじゃないだろう」


 謙遜でも卑下でもなく、淡々と返される。リシェルは首を振った。


「そんなことないです! 私なんてまだ攻撃魔法が使えないし、本当にすごいなって思いました」


 言った途端、パリスの青い目がぎろりとリシェルを睨む。しまったと気づいてももう遅い。何バラしてるんだよこの馬鹿、とパリスが口を開く前に、


「お前、そういうことはぺらぺら他人に話すな」


 意外にもエリックが少し顔をしかめて、注意をした。


「うちの団員にはヴァ―リスに滅ぼされた国の出身者も多い。前みたいに襲われたくなかったら、魔法が使えないことは誰にも言わないことだな」


 敗戦国の出身者と、自分が襲われることに何の関係があるのか。リシェルが首を傾げると、エリックは幾分視線を冷ややかにした。


「……お前自身はともかく、お前の師匠を恨んでる人間が少なからずいるってことだ」


「先生を?」


 胸の内でじわりと何か嫌なものが染み出す。

 紫眼の悪魔。戦争でついた師の二つ名。その話をした時の、シグルトの悲しそうな顔が浮かぶ。

 パリスは不満げに鼻を鳴らした。


「まったくお門違いもいいところだ。国同士の戦争なんだ。シグルト様個人を恨んだって仕方ないのに」


「その通りだな。だが、国なんて漠然としたものを恨むより、国王や、目の前で大切なものを奪っていった非情な人間へ憎しみを向ける方が簡単だろう?」


 非情な人間。

 それはおそらく、エリック自身のシグルトへの認識。彼を含めて、師のことをそう思っている人間がいる。リシェルにはその事実が、まるで自分自身がそういう人間だと思われているかのように辛かった。

 いつだってシグルトはリシェルに優しかった。大切にしてくれた。非情なんかでは、絶対にない。たとえ昔シグルトが、人から責められるような、酷いことをしたのだとしても、それはきっと仕方なくしていたことなのだ。だから、昔の話をした時、あんなに悲しそうな顔をしていたに違いない。

 パリスは顔をしかめた。


「あんた、やっぱり……」


「さ、着いたよ~」


 少し重くなった空気を吹き飛ばすような、クライルの能天気な声が響く。

 クライルに案内されたのは、宿からほど近い場所にある、ケーキ屋だった。

 水色に塗装された壁に、ドアや窓枠は白木で組まれ、至る所、隙間なく可愛らしい花を植えた植木鉢が置かれている。入口の前には、満面の笑顔を浮かべ、頭に大きなリボンを巻き付けた、リシェル程の背丈のある木彫りのウサギの人形が「いらっしゃいませ」と書かれた看板を掲げ持っていた。なかなか大きな店だが、一見して女性が好みそうな外装である。店内で飲食もできるようで、テラスに用意されたテーブルと椅子で一組の母子が笑いあってケーキを食べていた。


「ここ……ですか?」


 ここに入るのか――――内心の戸惑いを隠しきれず、問うパリスの顔は引き攣っていた。


「……なんなんだ……あのウサギは……」


 エリックの口からぼそっと漏れた呟きから、表情こそ動かさないものの、彼もパリスと同じ想いなのだとリシェルは察した。確かに、男の人がこの店に入るのは少し抵抗があるかもしれない。目の前ではしゃぐこの国の王子は別なようだが。


「そう! ここのケーキ、すっごくおいしいんだよ~」


「あの、殿……クライル様はこちらの街にいらしたことがあるんですか?」


 リシェルは殿下と言いそうになって、慌てて名前で呼び直した。王都ではもうクライルの顔は知れ渡っているようだが、むやみに王子と知られるのはよくないだろう。


「うん、僕、子供の頃、この街に住んでたからね。昔この店にはたまに来てたんだ。母さんと」


 母さん。普段、姉と叔父のことを姉上、叔父上と畏まって呼ぶ彼から出た言葉が、ますます彼を王子ではなく普通の街の青年のように感じさせる。


「さ、早く入ろ~」


 クライルはリシェルの手を掴むと、店の扉を開いた。取りつけられたベルが、カランコロンと可愛らしい音を立てて、新しい客を歓迎する。

 残された騎士と魔道士は、一瞬お互いに目を見合わせたが、エリックは仕える主を、パリスは崇拝する魔道士に託された弟子を追って、自らの任を果たすべく、渋々その扉をくぐった。


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