第16話 罠
リシェルは、ドレスの裾を翻し、エリックを追って広間の外へ出た。
だが、廊下には誰もいない。しんと静まり返った廊下を少し進んでみたが、彼の姿を見つけることはできなかった。
(先生を信用するなって……どういうこと?)
囁かれた言葉に、得体の知れない不安が広がる。
彼は、自分の知らない師の顔を知っているのだろうか。
シグルトは自分を恨んでいる人間がいるかもしれないと言っていた。
彼がその一人なのか。
一体、彼と師の間に何があるというのか。
それは、彼がカロンについて語ろうとしないことと関係があるのだろうか。
疑問だけが次から次に生まれ、頭の中を飛び交う。だが、こんなところで一人考えても答えが見つかるはずがない。
諦めて、広間に戻ろうと踵を返すと、すぐ目の前に背の高い男がいた。
「きゃっ」
驚いて声を上げてのけぞると、屋敷の使用人らしき男は丁寧に一礼した。
「驚かせて申し訳ございません。リシェル様ですね?」
どこかで聞いたことがあるような声だったが、気のせいだろうか。
「そうですけど……」
リシェルが頷くと、男は広間へ向かうのとは反対の廊下を手で示した。
「シグルト様がお呼びです。お二人でお話されたいそうで、客間をご用意してあります。どうぞこちらへ」
二人で話したい―――さっきの続きだろう。
リシェルはまた心臓の鼓動が早まるのを感じた。
エリックと踊っていたせいで、シグルトの気持ちにどう応えればいいのか、何も考えられていない。
しかも、エリックにあんなことを言われた後だ。どんな顔でシグルトに会えばいいのかもわからない。
シグルトがいつも読んでいる小説なら、こういう時ヒロインはどうするのだろう。
今さらだが、シグルトが言っていたように、恋愛小説くらい読んでおくべきだったと後悔した。
「わかりました」
波立つ気持ちを抑え、歩き出した男の背について行く。男は無言で、魔法による薄明かりで照らされた廊下を進んで行った。
途中幾度か角を曲がり、その度に広間から漏れる音楽と喧騒が次第に小さくなって、やがてほとんど聞こえなくなる。
男が立ち止まったのは、廊下の突き当たりにある扉の前だった。
「こちらのお部屋です」
男が扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりと扉を開く。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
目に飛び込んできたのは、緑の草木。
(え? 外?)
リシェルがそう思った瞬間、視界をまばゆい光が覆う。
そして、意識が途切れた。
「おかしいですね……」
人気のない廊下で、シグルトは眉を曇らせた。
「おい、シグルト。どうしたんだよ?」
リシェルが広間を出るのを見て、クライル王子への挨拶もそこそこに、人混みを掻き分け後を追ったシグルトに付いてきたブランが、怪訝そうに問う。
「シグルト様、いかがなされました?」
広間を出ていく二人が見えたのか、リンベルト伯爵が後から焦った様子で追いかけてきた。てっきり、またシグルトの機嫌を損ねてしまい、途中で帰ってしまうのかと思ったらしい。
「リシェルがいない……」
「いないって……屋敷のどっかにはいるだろ?」
「あの子が初めて来た場所を勝手に一人でうろつくはずがない」
「先に帰ったとか?」
「馬車を使ったなら私に連絡が来るはずです。あの格好で歩いて帰るわけもないし」
「まあ、確かに……」
二人の会話を聞いて伯爵が慌てて言った。
「リシェル様がいらっしゃらない? 屋敷内を捜させますか?」
シグルトはそれを無視し、しばらく腕組みをして考え込んでいる。
「……そういえば、君の弟子はずっと姿が見えないですけど、どうしたんです?」
「あ、ああ? パリスなら、お前とリシェルが踊ってる間に、気分が悪くなったからって帰ったぞ?」
「……そうですか」
友の疑念を察して、ブランが不快そうに眉間に皺を寄せる。
「おい、なんだよ? まさかパリスがリシェルになんかしたっていうのか? まだリシェルがいなくなったって決まったわけでもないのに、俺の弟子を疑うのか?」
シグルトは黙って答えない。ブランは苛立ち、弟子を庇おうと思いついた可能性を口にした。
「さっき踊ってた、あのエリックとかいう騎士と一緒にいるんじゃないのか?」
「……違うな」
全員が一斉に声の方を振り返った。
いつからいたのか、赤い騎士服をまとった、黒髪の男が腕を組み、壁にもたれて立っていた。
シグルトは驚いた様子も見せず、微笑む。
「やあ、エリックさん。先日はどうも。先ほども弟子の相手をして頂いたようで……」
「一人でぼーっとテラスに突っ立ってたから、また襲われないように、あんたの代わりについててやっただけだ」
「また?」
どういうことだとブランがシグルトに視線で問う。シグルトは肩をすくめた。
「ちょっと前にあの子を狙って攫おうとした輩がいましてね。それをこの方が救って下さったんですよ」
「な……! リシェルが誰かに狙われてるっていうのか!?」
リシェルがここにいないという事態の深刻さを悟って、それまで緊迫感のなかったブランの顔色が変わる。
「なんと! で、でも、リシェル様も導師様の弟子になられる程の優秀な魔道士。そうそう滅多なことは……だ、大丈夫でしょう?」
自身の屋敷で問題が起こったと認めたくない伯爵が上げた声に、答える者はいなかった。
しばしの重苦しい沈黙の後、口を開いたのはエリックだった。鋭い眼差しでシグルトを挑発的に見つめる。
「いずれにせよ、早く探した方がいいな。あいつはあんたが守るんだろ? 大魔道士様」
「ええ、もちろん。あの子は私が守ります。私からあの子を奪おうとする人間を、私は許しません。……絶対にね」
シグルトは微笑みを崩さず、エリックの眼力に怯むこともなく、彼をまっすぐに見返した。
二人の様子にブランは不穏なものを感じ、怪訝そうにエリックとシグルトを見比べる。
シグルトがそれまで無視していた伯爵に向き直った。
「伯爵、人に見られずに屋敷に出入りする方法はありますか?」
「え、ええ。それなら、裏の通用口を使えば……でも、あそこは魔道士に防犯用の術を掛けてもらっていて、屋敷の人間以外は入れないようになっているはずですが……」
「案内していただけますか」
「わかりました」
伯爵を先頭に、シグルトとブランが続く。少し後に、エリックがついて来た。
「ここです」
伯爵が立ち止まったのは、何度か角を曲がった廊下の突き当たりにある扉の前だった。
シグルトは、扉の前にしゃがみこむと、廊下の床をそっと撫でた。傍から見ると何ら変わったところのない、石の床。
「……なるほど。やられましたね」
「これは……!」
シグルトの肩越しに床を覗きこんだブランが、顔を歪めた。
「ど、どういうことです?」
シグルトの言葉の意味がわからず、伯爵が問う。
「先ほど伯爵が仰ったように、ここに防犯用の魔法陣が敷かれています。屋敷の人間以外が、そこの扉を使って外から侵入すると、術が発動し、侵入者は気絶する。これがついさっき発動した形跡があります。魔法陣に蓄えられた魔力がほとんど残っていないし、魔法陣自体消えかけている。あと少し来るのが遅かったら、この痕跡も消えてしまっているところでした」
「じゃ、じゃあ何者かがこの屋敷に侵入したと?」
「いえ。それならこの魔法陣を敷いた魔道士にすぐに伝わり、伯爵に報告がいくはずです。この魔法陣は、違う術式に書き換えられていたようです」
「書き換える?」
「屋敷内に既にいる部外者、外に出て行こうとする者に対しては効果がないという点を利用して、犯人は堂々とこの魔法陣に触れ、術式を書き換えたんです」
シグルトが床に手を
一般人には理解できぬその文様を見て、ブランが息を呑む。
「部外者の女性が踏むと術が発動するように書き換えられている。おそらく、書き換えを行った魔道士の他に男性の協力者がいるのでしょうね。その協力者がリシェルをこの魔法陣の上まで案内し、気絶させ、そのまま外へ出て連れ去った、というところでしょう」
「犯人はなぜそんな手の込んだことを?」
「私とブランに気取られないためでしょうね。近くで誰かが魔法を使えば、すぐに私たち魔道士は発生した魔力を感知し、術が使われたとわかります。しかし、魔法陣による魔法は、魔法陣が描かれた時点で術が完成・発生していて、単にその効果が条件が満たされるまでの間、先延ばしされているに過ぎない。犯人はその条件を書き換えただけで、新たに魔法を使ってはいないんです。つまり、私たちはこの魔法陣によってリシェルが倒れても、気付くことができないんですよ」
「は、はあ……」
伯爵は曖昧に頷いた。理解できていないのが表情にはっきりと出ている。
シグルトは意味ありげにブランを見た。
「正面口から堂々と入ってきて、こっそり魔法陣を書き換え、後は協力者に任せ、自分はさっさと屋敷を去る。いざとなれば自分は関係ないと、しらを切るつもりなのでしょう。これをやった人物はなかなか優秀ですよ。術者に気付かれることなく魔法陣を書き換えるなんて、並みの魔道士じゃできません。私や君なら簡単ですが。あとは、そう……」
「もういい。わかった」
ブランは遮り、顔を歪めて首を振った。
「あの馬鹿……!」
苛立ちもあらわに頭を掻きむしって、うなだれる。
「犯人の目星がついたらしいな。で、どうやって見つけるんだ?」
今まで少し離れてやり取りを見守っていたエリックが口を開いた。ブランが早口で応える。
「シグルト、すぐにお前の家に向かおう。リシェルの持ち物が何かあれば、探知の術で居場所を突き止められる」
「そんな悠長なことをしている時間はありません」
「じゃあどうするんだよ?」
シグルトは立ち上がると、黒髪の騎士を振り返った。
「エリックさん、協力してもらえませんか?」
「……」
「今も持っているんでしょう? アレ」
「……あんた、やっぱり俺のこと気づいてたんだな」
シグルトは答えず、黙って微笑んでいる。
「お前ら、何の話をしている?」
突如始まった会話を理解できず、ブランが訝しげに二人を交互に見やる。
エリックは一息吐き出すと、懐から何かを取り出し、シグルトに向けて放った。
シグルトが片手でそれを受け止める。
「恩に着ますよ」
シグルトの手の中には、小さなガラス玉が握られていた。細い金の鎖が付いており、ペンダントのようだ。透明なガラス玉の中には、装飾を施された細長い三角形の金属がふわふわと浮いていた。
「な……“魂の羅針盤”?」
声を上げたのはブランだった。
「それ、リシェルのだっていうのか?」
「ええ」
「嘘だろ? だってリシェルは……というか、なんでこんなものあいつが持ってるんだよ?」
信じられないといった表情を浮かべ、動揺するブランに、シグルトは苦笑した。
「まあ、今はそんなことはいいじゃないですか。それより、どうします? 君も来ますか?」
問われて、ブランの顔が険しく引き締まる。
「ああ。弟子の不始末は師匠がつける。当然だ」
「では、行きましょうか」
シグルトはくるりと伯爵へ向き直ると、義務的に謝意を述べる。
「伯爵。今夜はお招きいただきありがとうございました。残念ですが、私たちはこれで」
それからエリックに再び向け、受け取ったガラス玉を軽く振ってみせた。
「では、これ、ちょっとお借りしますよ」
「……」
「そんな怖い顔しなくても、ちゃんと返しますよ」
シグルトは困ったように笑った。その人の良さそうな顔を、エリックは無言で睨みつける。
その様子にシグルトは、ただ肩をすくめると、ブランを促して、屋敷の外へと出て行った。
エリックと伯爵だけがその場に残される。
「もう何がなんやら……」
呆然と二人を見送った伯爵は、エリックに言った。
「君は行かなくていいのか? リシェル様の友人なのだろう?」
エリックは伯爵に背を向ける。
「……クライル王子の護衛の任があるので。それに、彼女とは別に友人というわけではありませんし」
先程までシグルトに向け放っていた敵意を消し、淡々と、感情の抜けた声で答えると、そのまま緋色のマントを
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