第15話 忠告

 何を言われたのか、一瞬わからなかった。

 あまりに突然で、予想もしていなかった言葉を、すぐには理解できない。

 今、彼はなんと言った?


「私と、結婚して欲しいんです」


 けっこん――?

 “けっこん”て、何だっけ?

 ああ、男女が夫婦になる、あの――結婚――――


 頭の中でシグルトの声が、ゆっくりと、ようやく言葉として意味を成していく。


(結婚? 私と先生が?)


 冗談ですよね――言いかけて、シグルトの真剣な眼差しに息をのむ。


「心底驚いてる……って顔してますね」


 硬直しているリシェルを見て、シグルトは表情を緩め、困ったように眉を下げ笑った。


「私としては、気持ちを精一杯示してきたつもりなんですが……どうやら君には伝わってなかったみたいですね」


「……私に気があるようなことを言うのは……私をからかって……冗談だと思ってました……」


 どうにか絞り出した声は少し掠れていて、いつもより小さかった。

 シグルトは本気で言っている。結婚して欲しい、リシェルに自分の妻になって欲しい、と。

 やっと状況を理解すると、急に心臓の鼓動が早まり出す。


「まあ、私は君よりずっと年上だし、親代わりみたいなものですから、君が私をそういう対象として見てこなかったもわかりますが……それにしても君は鈍い方だと思いますよ」


「すみません……」


 他に適当な言葉が見つからず、別に責められているわけではないと知りつつも、とりあえず謝る。

 シグルトは少し恥ずかしそうに笑いながら続けた。

 

「私もね、最初はただ君の後見人に、親代わりになろう、そう思ってたんですよ。……でもね、君と一緒に暮らすうちに、君と過ごす時間が私にとってかけがえのないものになっていった。君とずっと一緒にいれたら……そう願うようになったんです」


 シグルトの言葉を聞きながら、動揺する頭の片隅で考えた。


 彼がリシェルに対して、まるで師弟関係以上の関係を望んでいるかのような言動をするようになったのは、いつからだったろう。


 多分、四年前の誘拐事件以降からだった気がする。君、私のお嫁さんになればいいのに――なんてことを、たまに言うようになったのは。とはいってもそれは、笑い混じりのもので、リシェルが子供の頃は、無邪気な戯れの延長線上、年頃になってからは、単なるからかい、冗談にすぎない――――と思っていた。


「子供だった君が成長してどんどん綺麗になっていくのを見て、その気持ちは日を追うごとに強くなっていった。いい年をして、まだ成人も迎えていない少女にそんな気持ちを持つなんて……自分でも信じられなかったけれど、認めざるおえなかった。私は君に恋してるんだってね」


 自嘲混じりに語る口調は穏やかだが、その紫の瞳には、時折感じていた、あの“熱”が宿っている。彼の静かで柔らかな雰囲気の中で、瞳だけがちぐはぐに熱情を示していた。


「君が子供のうちはいい。けれど、君が大人になったら、自分の元を離れてしまうんじゃないか、誰か他の男に取られてしまうんじゃないか……そう思ったら気が気じゃなかった。だから、君が成人したら、真っ先に妻になって欲しい……そう言おうと思ってたんです」


 シグルトは片手を持ち上げ、そっとリシェルの頬を撫でた。触れられた箇所から頬が一気に熱くなる。

 

「リシェル。愛しています。この世界で一番……いや、唯一、君だけを」


 それは今まで聞いたことがない、甘やかな響きだった。月光花の青白い光で照らされるシグルトの熱を孕んだ瞳と、彼の口から紡がれる言葉が、リシェルの思考をしびれさせる。

 シグルトはささやくように続けた。


「君はどうですか? 君にとって私はどういう存在なんだろう?」


「せ、先生は……私の恩人で……」


「君が私に恩を感じてくれていて、感謝してくれているってことはわかっていますよ。でも、それだけですか?」


 シグルトは、じっとリシェルの瞳を覗きこんでくる。多分、探しているのだ。そこに自分と同じ“熱”があるのかを。


(私にとって、先生は――――)


 混乱し、言うべき言葉が見つからないまま、それでも何かを言わなければならないという一心で、とりあえず口を開く。


「私にとって、先生は――――」


「シグルト!」


 突然、ブランの大きな声が響いた。

 ローブをまとった大男が、テラスの入り口からずかずかと大股で二人へと歩み寄ってくる。

 シグルトがさっとリシェルの頬から手を離すと、腹の底からため息をつく。


「……ほんと、絶妙なタイミングでやってきますね、君は」


「は?」


「いえ、なんでも。そんな大声を出して、何かありましたか?」


「向こうでクライル王子がお呼びだ」

 

 ブランは親指で自分の背後を指した。


「クライル王子? 彼も来ているんですか?」


「ああ。さっき遅れて到着した。お前が来ているのを知って、呼んでるぞ」


「……まったく、あの馬鹿王子は……」


 シグルトは忌々しげにつぶやくと、リシェルを振り返る。


「リシェル、君はここで待っていて下さい。すぐに戻りますから」


 まだぼんやりしているリシェルをテラスに残し、シグルトはブランと共に、再び会場内へと戻る。


「リシェル連れて行かなくていいのか?」


「少し酔ってるんで休ませたいんです。それにあの王子の視界にはなるべく彼女を入れたくないんでね」


 友の答えに、ブランは彼の溺愛する愛らしい弟子をちらっと振り返り、納得したように頷いた。


「まあ……そのほうがいいな」






 テラスに一人取り残されたリシェルは、再び眼下に広がる青白い光を放つ庭に目を落とした。だが、先ほどあれほど興奮して見ていたその美しい光景も、今は何の感動も呼び起こさない。


 景色を楽しむ余裕などなかった。

 シグルトの告白に、心臓がばくばくと音を立てていた。酔いは覚めたはずなのに、顔の火照りが収まらない。


 私の妻になってくれませんか――結婚して欲しいんです―― 


 シグルトに言われた言葉が何度も頭の中で繰り返される。


 愛しています――――


(先生……ずっと……そんな風に想っててくれたの……?)


 今までの自分にまるで気があるような言動も、ただふざけているだけだと思っていた。自分をからかって遊んでいるのだ、と。


 なぜなら、リシェルとシグルトの関係は、そんな感情が入り込むことのない、いわば家族のような関係だと思っていたからだ。初めて出会った時からシグルトは自分よりずっとずっと大人で、自分を守ってくれる保護者であり、異性として意識したことなどなかった。当然、シグルトだってそうだと思っていた。


 だからこそ、法院の魔道士たちが自分たちの関係を勘ぐり、噂していることを知った時、自分のせいでシグルトの名誉が傷つけられたことにショックを受けたのだ。


(私にとって、先生は……)


 記憶を失って目覚めてから、ずっと側にいてくれた人。

 側にいるのが当たり前すぎて、シグルトが自分にとってどういう存在かなんて、きちんと考えたこともなかった。


 恩人……師匠……家族のような存在……

 思いつく言葉を頭の中で並べてみる。


 好きか嫌いかでいえば、


「好きに決まってる……」


 口に出して言ってみると、“好き”という甘い言葉の響きに、ますます顔が熱くなってくる。

 

(先生のことは好き……)


 でも、それが果たして恋愛感情といえるのかどうか。

 初恋と自覚できる経験もないリシェルにはわからなかった。


「恋って何……?」

 

「……いつまでもそんなところでぼーっとしてると、風邪引くぞ」


 突然の背後からの声に、再び心臓が跳ね上がる。


「エリックさん……!」


 振り返れば、テラスの壁にもたれ、腕を組んだエリックの姿があった。


 この間会った時とは違い、白と赤を基調とした見たことのない騎士服をまとっている。以前来ていた騎士服よりも、都会的で洗練された雰囲気があり、彼の怜悧な顔立ちによく似合っていた。


 やはりさっき見たと思ったのは、見間違いではなかったのだ。

 

(さっきの、聞こえてなかったよね?)


 動揺し、うわずった声で問う。


「ど、どうしてここに?」


「クライル王子の護衛」


 エリックは短く答え、つかつかとリシェルに歩み寄ってくる。

 相変わらずの仏頂面だ。


「熱でもあるのか?」


 月光花の青白い光だけで、リシェルの顔の赤さに気付いたとは思えないのだが、エリックが問う。


「大丈夫です。初めてお酒飲んだら酔っちゃって……」


 酒などとっくに抜けていたが、咄嗟に言い繕った。


「……保護者はどうした?」


「保護者?」


「シグルト・アルフェレス」


 不意打ちで出てきたシグルトの名に、またもや心臓が反応する。


「お、王子様に呼ばれて、行っちゃいました」


「そうか」


 エリックの黒い瞳がじっと見つめてくる。

 なんだか、シグルトの告白によって動揺している心を見透かされているようで、ひどく居心地が悪かった。

 その場を離れたくなったが、思い出す。


(そうだ、カロン……!) 

 

「先日はありがとうございました。私、エリックさんにお聞きしたいことが……」


「カロンのことか?」


 予想していたかのように、エリックが言った。頷くリシェルに、騎士は無表情を崩さず告げる。


「悪いが、カロンについて、俺は何も話してやる気はない」


「え?」 


「俺が何を話したところで、今のお前は何も信じないだろうからな」


「ど、どういうことですか?」


 まさか、こんなにべもなく突き放されるとは思いもしなかった。

 シグルトを嫌っているらしいということはわかっていたが、もしかして弟子である自分も嫌われてしまったのだろうか。


 エリックは問いに答えることなく、唐突にリシェルの腕を強引に掴んだ。


「それより、一曲付き合え」


 あまりにもぶっきらぼうな誘いに、リシェルはすぐには何のことを言われているのかわからなかった。


「え、ええ!?」


 何がなんだかわからないまま、掴まれた腕を振りほどくこともできず、リシェルは広間へと引っ張られて行った。


  





「やあ、シグルト。久しぶり~」


 気の抜けた、能天気な声がシグルト達を迎えた。

 着飾った若い婦人たちに囲まれた若い男が、にこにこと上機嫌で手を振ってくる。


 少しくせのある、色素の薄い柔らかな茶髪がふわふわと揺れる。人懐っこそうなたれ目から覗く緑色の瞳が、酒に酔っているのか、とろんとしていた。


「クライル王子。ご無沙汰しておりました。殿下におかれましては、お変わりないようで……」


 シグルトは青年の前で背を正し、改まった口調で頭を下げた。 


「堅苦しい挨拶はいいよ~」


 クライルと呼ばれた男は、ぱたぱたと手を振った。その仕草が見るからに軽薄な印象を与える。それからきょろきょろと周りと見渡す。


「あれれ? 今日は君、弟子を連れてきてるって聞いたんだけど?」


「少し酔ったようでしたので、テラスで休ませております」


「ふ~ん……あ、もしかしてあの黒髪の子? 珍しいね。すっごく可愛い子なんだって? 後で紹介してよ」


 クライルがシグルトの背後、テラスに立つ少女の後ろ姿に視線をやりながら言った。


「それは構いませんが……」


 気乗りしないシグルトの返事に、クライルはにやにやと笑った。


「あれ? もしかして僕に会わすの心配? 大丈夫だよ~。君の弟子になんか間違っても手を出せないよ。師匠が怖いからね~」


「あれは私の大事な弟子ですので、ご配慮いただければ幸いです」


「へ~、君の愛人だって噂、本当なの?」


「そんな噂、よくご存じですね」


 ブランが呆れたように言った。まだ法院内だけで留まっている噂だと思っていた。クライルは何が誇らしいのか、胸を張る。


「ふふ、僕はゴシップには詳しいよ~。で、どうなの?」


「ご想像にお任せします」


 にっこりと微笑んで答えるシグルトに、クライルは目を丸くした。


「へぇ、意外。今回ははっきり否定しないんだねぇ」


 ごほん、とブランがわざとらしく咳をした。それに気付いているのかいないのか、クライルはのんびりした口調で続ける。


「それはそうとさ、君の大事な花に悪い虫がついちゃったみたいだよ~」


 シグルトはクライルの視線を追って後ろを振り返る。

 リシェルが赤い騎士服をまとった若い男に、引きずられるように腕を引かれ、広間へ出てくるところだった。






「あ、あの、エリックさん!?」


 呼びかけてもエリックは止まらず、そのまま広間の中央まで連れて行かれてしまった。

 ようやく立ち止まったかと思うと、くるりと振り返り、片手で強引にリシェルの腰を引きよせる。


「ひゃっ!?」


 リシェルが間の抜けた声を上げたと同時に、新しい曲が広間に流れだす。先ほどシグルトと踊ったよりも、かなりテンポの速い曲だった。一応習ったことはあるが、難しくて覚えきれなかった曲だ。


「わ、私、こんな難しい曲踊れなっ……!」


 抗議の声もお構いなしに、エリックはステップを踏み出す。そのまま突っ立っていたら足を踏まれてしまう。リシェルは反射的に足を動かした。


 黒髪の男女の組み合わせは目立つらしく、周囲の人々が自分たちに注目しているのがわかる。

 こんな衆人環視の中、転んで恥をかきたくない。

 必死で昔の記憶を手繰り寄せ、動く。


(ん? あれ?)


 ステップを踏むというよりも、ただ迫ってくるエリックの足を避けるように動いていただけなのだが、次第にエリックの足の動きを覚え、合わせて動けるようになっていった。

 意識せずとも足が動き出し、ステップがどんどん軽くなっていく。


(私、踊れてる!)


 繋いだ腕の下をくぐり、くるりと回転すれば、ドレスの裾が弧を描いて軽やかに広がる。

 

(なんか、気持ちいいかも……!)


 苦手意識のあるダンスで、爽快感を得られたのは初めてだった。


「踊れてるじゃないか」


 無表情だったエリックがうっすら口角を上げ、笑みを浮かべた。


(違う。私が踊れてるんじゃない……この人が踊らせてくれているんだ……!) 


「エリックさんがお上手だからです」


 テンポの速い曲と、難易度の高いダンスを踊れているという嬉しさがもたらす高揚感で、リシェルはにっこり笑った。

 エリックの目が驚いたように、大きく見開かれる。漆黒の瞳に、リシェルの笑顔が映っていた。

 だがすぐに、リシェルの顔からふいと目を背ける。


 だが、逸らされた視線はすぐにある一点を見つめて止まった。


「エリックさん?」


 リシェルは気付かなかった。

 エリックがまっすぐに見ていたもの――――自分たちをじっと見つめる紫の瞳に。

 






「エリックも意外にやるなぁ」


 クライルは感心したように、黒髪の男女の踊りに見入っている。長身の美形の騎士と、可憐な美少女が寄り添って踊る姿は、シャンデリアが煌めく光の中、物語の一場面のようだった。


「王子、あの騎士をご存じで?」


 ブランが問う。


「ああ、僕の新設騎士団の一員さ。腕が立つらしいからアーデン騎士団から引っ張って来たんだ。今は主に僕の護衛役をしてもらってるよ~」


「いきなり王子の護衛役とは大抜擢ですね。そんなに強いんですか?」


「いや~まだわかんない。ただ、あの容姿でしょ? あいつを傍に置いておくと、女の子たちがどんどん寄ってきてくれるんだよね~。黒髪で無口でミステリアス~とか言われてさ」


「それで……ですか?」


「うん」


 クライルの無邪気な笑顔に、ブランは頭を抱えた。一応、自分は宮廷の権力争いで、この王子の味方についているわけだが、会う度、判断を間違えたかと思う。

 ふとブランは先ほどからシグルトが一言も話さないことに気付いた。


「おい、シグルト――」


 呼びかけて、固まる。

 シグルトは、微動だにせず、じっと踊るリシェルとエリックを見つめていた。

 その紫の瞳に殺意にも似た冷たさを見て、ブランは冷や汗をかいた。

 周囲の気温が一気に下がったような気がする。 

 やがて、シグルトが口の端を吊り上げた。


「なるほど……宣戦布告というわけですか」


 その顔にあるのは、いつもの穏やかな微笑みとは明らかに種類の違う、見たものに危機感を与える笑顔だった。

 

「シグルトこわ~。エリック、あいつ大丈夫かなぁ……」


 部下を案ずる言葉とは裏腹に、クライルは他人事のように呟いた。


 




 曲も終盤に近付く。エリックとの息はぴたりと合い、頭で考えずとも体が勝手に動き、完璧に踊れていた。


 純粋に、楽しい。

 エリックも相変わらず仏頂面ではあるが、心なしか表情が幾分柔らかい。

 彼も楽しいと感じてくれているのだろうか。


 リシェルは、エリックとの距離が少し縮まった気がして、もう一度尋ねてみることにした。


「エリックさん、カロンのことですけど――」


「何も教えるつもりはない」


 返ってきたのは、先ほどと同じ、素っ気ない返事。


「だが、一つだけ忠告しておいてやる」


 落胆するリシェルに突然、エリックが顔を寄せてきた。

 ふわりと黒髪がリシェルの頬を撫でる。

 耳元で囁かれる、低い美声。


「――――あいつを信じるな。お前が思っているような奴じゃない――――」


(え?)


 何の事を言われたのか、わからなかった。


「それってどういう――」


 言っている途中で、曲が終わった。

 同時に、エリックがリシェルから手を離す。一歩下がって一礼すると、もうリシェルに一瞥いちべつもくれずに、さっと踵を返してしまう。


「あ、ちょっと待っ――」


 リシェルの制止も聞かず、踊りを見物していた人垣の中へとすたすた行ってしまった。

 慌ててドレスの裾を持ち上げ、追いかけながら、先ほど囁かれた言葉の意味を考える。


(あいつ……あいつって?)


 考えても、一人しか思いつかない。


(先生……?)

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