第12話 誕生日
「あ、あの……先生?」
「はい?」
「あんまり見られると、落ち着かないんですけど……」
リシェルの誕生日当日。夜会へと向かう馬車の中。
正面に座った師は、馬車が走り始めてからずっと自分を見つめてくる。一瞬たりとも目を離すまいとするかのように、頬杖までついて、じっくりと。
どうにも居心地が悪く、ついにリシェルは言った。
「仕方ないでしょう? あんまりにも君が可愛らしいんで、目が離れなくなっちゃったんですよ」
シグルトは微笑んで目を細めた。
リシェルは、シグルトに贈られた白いドレスを着ていた。腰から裾に向かって広がるドレスは、リシェルの上半身の
長い髪は半分だけ結い上げ、残りは下ろしたまま、ダイヤモンドが輝く髪飾りを付けている。最初はすべて結い上げるつもりだったのだが、シグルトが下ろしている方がいいと言ったので、そのままにした。 普段はしない化粧も、セイラに施してもらった。白い肌に赤く紅を挿した唇が艶やかだ。
昼過ぎから準備を始め――といってもすべてセイラに任せきりで、ただ立ったり座ったりしているだけだったが――すべて終わって、自分の姿を鏡で見た時は、別人になったようで気分も高揚した。だが、慣れない正装は動きにくく、夜会できちんと振舞えるかどうか、時間が近づくにつれ、だんだんと不安の方が大きくなってきた。
シグルトも、今日はいつものローブ姿ではなく、黒の礼服に身を包んでいる。裾の長めの上着をさらりと着こなし、タイを締めていた。普段は隠されている手足の長さや、細身ながら引き締まった体形がよくわかる。いつもと雰囲気が違う師も、落ち着かない原因の一つだ。
「家でもその格好でいてくれればいいのに」
「嫌ですよ。落ち着かない」
「それもそうですね……私も自制できなくなりそうだ……」
一体何を自制しているというのか。突っ込むと危険な予感がしたので、師の呟きは、聞かなかったことにする。
「君、普段からローブばかり着てますけど、ドレスじゃなくても、もっと女の子らしい格好をすればいいのに。おしゃれは女性の特権でしょうに」
「おしゃれとか別に興味ないです」
リシェルが普段ローブを好んで着るのは、そうすれば自分の容姿がさほど奇異な目で見られないからだ。エテルネル法院の本拠地を擁する王都の人間は、シグルトやブランのように魔力によって髪や瞳の色が変わってしまった魔道士を比較的見慣れているため、さして驚きはしないが、地方からやってきた人間にはやはり好奇の目で見られる。ただでさえ、黒髪は珍しい。
だが魔道士だとわかる格好をしていれば、黒髪や薄紅色の瞳も、ああ魔力の影響による変色かと、周囲が勝手に納得してくれる。実際には、魔力の影響で黒髪になった例はないのだが、一般人にはわからない。
「君は変わってますね。君くらいの年頃は好きな人の気を引くために、みんな見た目のことばかり気にするものだと思ってましたが」
「好きな人なんていませんから」
嘘ではなかった。異性に対して、そういう気持ちを抱いたことがなかった。普段の生活で同年代の異性と接する機会がほぼ無かったせいもある。読み書き等の基本的な勉強はシグルトが教えてくれたため、学校には行かなかったし、法院では魔法が使えないのに導師の弟子をしていることで、パリスを筆頭に同世代の魔道士たちからは妬まれ、避けられていたからだ。
シグルトは複雑そうな表情を浮かべる。
「うーん、喜ぶべきか、悲しむべきか……」
「勉学一筋の弟子を持って喜ぶべきじゃないですか?」
「君が真面目なのは認めますけどね」
リシェルが年頃の少女なら誰もが夢中になるおしゃれや恋愛をしてこなかったのは、真面目な性格もあるが、もうひとつ理由がある。
昔の記憶がないことだ。
普通の人には皆、記憶があり、当たり前のこととして、自分が何者かを知っている。
だが、自分は自分が何者なのかを知らない。
自分の名前も、きっといたであろう家族のことも、忘れてしまっている。
もしかしたら生き別れた家族が、自分の本当の名を呼びながら、今でも探しているかもしれないのに。
たとえその可能性が限りなく低いとしても、そんな人間が恋やおしゃれに気持ちを向けるのは、なんだか不謹慎な気がしたのだ。
真面目に頑張っていれば、神様はきっと全てを思い出させてくれる。
でも、そのためにはもっと努力しなければいけない。
だから――――
「先生。私、魔法の勉強もきっと一生懸命やるって誓います。どんなに厳しい修行にだって耐えます。だから」
師の目をしっかりと見て、精一杯の気持ちをぶつけようとした。
だが、熱意を込めた言葉はあっさり遮られる。
「まあまあ、その話は後にしましょう」
「前に仰ってた大事な話の後、ということですか?」
「ええ」
「話って何なんです? 今日こそ話して下さるんですよね?」
シグルトが何を言ってこようとも、リシェルは魔道士を目指すつもりでいた。
薄紅色の瞳。
常人にはありえないその瞳には、必ず魔力の影響がある。それを解き明かせば、自分のことがわかるはずだ。
そのためには、どうしても魔道士となって、魔法を学ばなければならない。
「いや、ここじゃあちょっと……」
シグルトは苦笑いを浮かべる。
リシェルは疑わしそうに師をじっとり見た。
「ごまかす気じゃないですよね?」
「まさか。私はいつだって君に誠意を持って接してきたつもりですよ」
「あんまり伝わってないです、それ」
「じゃあ今日は精一杯伝えないといけませんね」
シグルトが言うと同時に、馬車が止まった。いつの間にかリンベルト伯爵邸に到着したらしい。
「魔道士になることばかり考えている君も、今日は違う世界もあるんだってことを知って、楽しんで欲しいな。お誕生日おめでとう、リシェル」
馬車の扉が外から開いた。
シグルトがさっと先に降り、恭しく片手を差し出してくる。
「さ、どうぞ。お姫様」
リシェルは照れながら、その手にそっと、自分の手を重ねた。
王都の一角にある、とある屋敷。
夕暮れ時のこの時間、いつもなら閉じられているはずのその門は開かれ、黒塗りの馬車が次々と吸い込まれていく。
屋敷の照明は最大限に灯され、庭までが明るく照らし出されていた。
リンベルト伯爵邸。今宵、この屋敷で夜会が催される。
開始時間よりかなり早く屋敷に到着した少年は、バルコニーの手すりにもたれ、ぼんやりと馬車から下りてくる人々を見下ろしていた。
やがて、開始時間も間近になって、一台の馬車が滑り込んできた。
屋敷の使用人が、すばやく近づいて、馬車のドアを開ける。
「来た」
少年が呟く。
馬車から白銀の髪の、礼服姿の男が現れる。男はすぐに振り返り、片手を差し出した。馬車の中からのばされたほっそりした白い手が、その手にのせられる。
男に手を引かれて、白いドレスをまとった、長い黒髪の少女が降り立った。
「ほら、あの女だよ」
「ほお、本当に黒髪ですな」
少年の脇に立つ、小太りの男――ロドムは感心したように声をあげた。
「では、あとは手はず通りに」
「……しくじるなよ」
少年の言葉に、媚びた笑いを浮かべ、ロドムはその場を離れた。
残された少年は、姿勢を崩さず、バルコニーの下を見下ろし続ける。
馬車から降りた少女は、物珍しそうにきょろきょろとあたりを見回していた。
そんな少女に、礼服の男が微笑みながら何かを話しかける。少女が恥ずかしげに顔を伏せた。
パリスはこみ上げてくる苛立ちに眉をひそめた。
もしも。
もしも、あそこに立っているのが、灰色の髪の少女であったなら。
おそらくこんな苛立ちは感じなかっただろう。
――――私は、私が正しいと思ったことをしているだけです。
あの時の彼女の言葉は今でも鮮明に覚えている。
凛とした彼女の横顔には、何にも屈しない強さがあった。
そして知った、彼女の実力。
負けた。勝てない。
生まれて初めてそう感じた。
悔しさは不思議となかった。
それほどまでに、アーシェの存在はパリスを圧倒した。
シグルトの横には彼女がいる。最強の魔道士の弟子として、彼女ほど相応しい人間はいない。
だが、パリスが目撃したその事件を機に、彼女は法院を去った。
そして――
シグルトが新たな弟子として連れてきたのは、自分と同い年の少女。
法院の魔道士たちはどんな天才かと注目したが、少女は前の弟子とはあらゆる点で正反対だった。
気が弱くて大人しく、いつも師の後ろに隠れるようについて歩き、さして賢いという話も聞かない。
何よりも、魔法が使えないということが、間もなく判明した。
その美貌以外、優れたところのない、平凡な娘。
周囲はシグルトが優秀な愛弟子を失って自暴自棄になり、身寄りのない少女を拾って囲い、慰めを得ているのだろうと噂した。
浮いた話一つなかったシグルト様も男だったということですな――
それにしてもあのような子供がご趣味とは――
それまで畏怖と敬意を持って呼ばれてきたシグルトの名。今はそこに
最強の魔道士として憧れ続けた存在がそのように
それでも、いつかシグルトも目を覚まし、後継ぎとすべき真の弟子を選ぶ日がやってくると思っていた。
そして、アーシェなき今、選ばれるのは自分しかいない、と。
彼女が去ってから、それまで以上の努力と修練を重ねてきた。同世代で、パリスに勝てる魔道士などいない。もはや確かめることはできないが、魔法の分野によっては、アーシェにも負けていないはずだ。
なのに。
シグルトはあのカラス娘――リシェル以外を弟子にする気はない、とはっきりと告げた。
何より許せなかったのは、シグルトのリシェルを見る目が、かつてアーシェを見ていた目と同じだということだ。
特別な存在にだけ注ぐ、特別な視線。
それが自分よりも劣っているはずの者に与えられる。
耐えられなかった。
アーシェがいないならば、自分にこそ、それは与えられるべきものなのに。
なぜシグルトはあのカラス娘に執着するのか?
あの娘の色香――そんなものがあるとは思えないが――に惑わされているというのなら、自分が目を覚まさせてやろう。
これは引いてはシグルトのためでもある。
魔法の使えない人間を導師の後継者として指名するなど、あってはならない。ますますシグルトに悪評がつく。
今や最強の魔道士として知られるシグルトの名に傷がつけば、エテルネル法院の権威も落ちるだろう。自分がやろうとしていることは、これからの魔道士界を救うことにも繋がるのだ。
「パリス!」
背後から呼びかけられ、思考が中断する。
振り返ると、濃紺のローブをまとった大男が歩み寄ってくる。
「ブラン様」
無視するわけにもいかず、パリスはバルコニーの手すりから身を離した。
「こんなところにいたのか。もう到着してるって聞いたから探してたんだぞ」
暑苦しい男の登場に、パリスはうんざりする。
師匠だからといって、何かと自分に構ってくるのはやめて欲しかった。
何かすごい術を伝授してくれるというのならば尊敬もするが、ブランは「お前は人間修行が先だ」などと言って、法院の外壁周辺を走らせたり、庭の掃除や魚釣りなど、到底魔道の修行になるとは思えないことばかりやらせようとする。ある時は、「街に行って困っている人を見つけて助けてこい」などと、無茶苦茶なことを言ってきた。
自分のシグルトへの強烈な憧れがなかったとしても、きっとこの師匠とは合わない。
シグルトに弟子入りを断られ、ブランに声を掛けられたので弟子になったが、ブランが導師でなかったら絶対になっていなかった。“シグルト導師の弟子”になれなくても、“導師の弟子”という地位だけは確保する必要があったから、仕方なく弟子入りしたのだ。
将来導師になるための足がかり。
パリスはブランのことを、そう思っていた。
「しかし、面子を見たが、魔道士はほとんどいないみたいだな。ローブ姿だと結構浮くな……」
ブランがパリスの貴族らしい正装を見てから、自分のローブに目をやり、困った風に言った。
「ですから、ブラン様は無理していらして頂かなくてもよかったんですよ」
パリスにとって、ブランまでこの夜会に来たのは計算外だった。
ロドムからシグルトとリシェルがリンベルト伯爵主催の夜会に出席すると聞いて、伯爵に頼んで、パリスも招待されるように手を回した。伯爵は最初難色を示した。伯爵は兼ねてより、シグルトと懇意になりたいと望んでおり、何度も茶会や夜会の招待をしては、断られてきた。だが、今回、他の魔道士を招待しない、ということを条件に出席の返事を取りつけたらしい。
おそらくシグルトは、リシェルの社交界へのお披露目にあたり、彼女を快く思わない魔道士たちの視線から彼女を守ろうと考えたのだろう。それもパリスを苛立たせた。
結局、伯爵はパリスの圧力に屈し、ユーメント公爵家の子息としてパリスを招待することにした。ただし、その師であるブランも招待する、という点は譲らなかった。弟子を招待して師を招待しないのは、礼を失するというわけだ。ブランとシグルトが懇意であることは、伯爵も知っており、ブランなら招待してもシグルトも怒らないだろうし、上手くすれば導師二人に取り入ることができる。本音はそんなところだろう。
どうせ来ない。そう考えていたのに、ブランは出席を決めた。
「まあ、弟子が行くなら、師匠として挨拶しておかないとな」
ブランは笑って言った。内心認めていない存在に師匠面をされるのは、迷惑以外の何者でもない。
シグルトの弟子になれていれば、こんな暑苦しいおせっかいな男に苛々させられる毎日を送ることもなかったのに……ますますリシェルへの恨みが膨らんでいく。
「さ、そろそろ始まるぞ。行こう」
「はい」
表面上は素直に返事をして、先に歩き出したブランの後へと続く。
一歩踏み出してから、一瞬だけテラスの下へ目をやる。
黒髪の少女は、彼女の師に手を引かれて、屋敷へ向けて歩いていた。
パリスはぎりっと歯噛みすると、師の背中を追った。
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