第11話 アップルパイ
「うぐぐぅ~固い!」
リシェルは低くうめき声を漏らす。
シグルトの家の台所。リシェルはミーレの実を割るべく、一人奮闘していた。
明日はリシェルの誕生日。
今日は法院が休みで、シグルトもリシェルも家で過ごしていた。天気がよく、昼食後にシグルトは一緒に散歩へ出ようと言ってきた。
「先生……私、狙われてるかもしれないんですよね?」
のほほんと散歩に誘ってくる師に対し、半ば呆れながら尋ねる。
「だからって家に引きこもる必要なんてありませんよ。私の傍から離れなければ、何の心配も入らないんですから。実際そうだったでしょう?」
師の言葉通り、事件後もリシェルは師について、いつも通り法院に通った。それどころか、師に連れられて夜会のための装飾品を街に買いにも行った。
自分がいるから大丈夫、という言葉に押されて、なるべく師の傍を離れないように気を付けてはいたが、普段通りの生活を送っていたのだ。
「むしろ私といる時に襲ってきてくれれば、犯人を捕まえられるし、私も君に格好いいところを見せられるだろうし、一石二鳥なんですがね」
シグルトは少し残念そうに言った。
いつ何時、誰に襲われようとも、リシェルを守り切る自信があるのだろう。
その自信の根拠となっている、皆が畏怖する師の実力を見てみたいという気もするが、わざわざ危険な目にはあいたくない。
それに、今日はなんとしても家に居たい理由があった。
「私はいいです。お散歩は先生お一人でどうぞ」
そして、シグルトから離れたい理由も。
「そうですか。君が行かないなら私も行きません。君の傍を離れるわけにはいきませんからね」
事件以後、シグルトはリシェルを守るため、という理由で四六時中彼女を傍に置いて離さなかった。家でも風呂にまで付いてこようとしたので、さすがに怒って、入浴と就寝に関してはどうにか一人を守ったが、おかげでエリックの居場所もまったく調べられていない。
「大丈夫です。私、ちゃんと家にいますから。家なら安全って、先生が言ったんじゃないですか」
もともと、シグルトの家には防犯用に様々な術が施されているらしい。導師の家に侵入しようとする度胸のある泥棒や強盗はいないのか、それらは一度も発動したことがないので、一体どのような術がこの古い家にかかっているのか、リシェルも知らないのだが。
「私、ちょっと一人で勉強したいですし」
「勉強するなら私がみてあげます」
「先生がいるとむしろ進まないじゃないですか」
シグルトは教え方は下手ではないのだが、すぐに話を脱線させる癖があった。正直、一人で勉強するほうがはかどる。もっとも今日は勉強する気はない。
リシェルは駄目もとで付け加えた。
「身を守る魔法の勉強でしたら、喜んでお願いしますけど」
「君、最近冷たいですねぇ……」
案の定、シグルトは頷かない。
「昔は私の後にくっついて離れなかったのに……年頃の女の子って本当に難しい……」
ぶつぶつ言いながら、
「じゃあ、私はお茶の時間まで一人さびしく昼寝でもしてようかな」
渋々自分の部屋へと引き上げて行った。
リシェルはほっと胸を撫で下ろす。
ようやく一人になれた。
今日は例のアップルパイを焼いて、シグルトを驚かすつもりだった。
明日も法院は休みだが、夜会の準備で昼から慌ただしくなりそうだったので、今日のお茶の時間に出すことにしたのだ。
事件以後、シグルトが自分の傍からなかなか離れないので、練習する機会も作れず、いきなり本番になってしまったが、なんとかなるだろう。
そう思っていたが、甘かった。
ミーレの実が割れない。ここまで固いとは……木の棒でどんなに叩いても、全体重をのせてみても、殻にヒビひとつ入らない。
「リシェル様、何かお困りですか?」
台所に入ってきたセイラが、
「うん、これを砕いて粉末にしたいんだけど、すっごく固くて……全然割れないの」
「砕けばよろしいのですね?」
言うなり、セイラはほっそりした白い手に、ミーレの茶色い実を包み込み、握りしめた。
すぐにバキッと音がする。
セイラが手を開くと、粉砕された茶色の殻と白い実が、器にパラパラと落下していった。
「セイラって……何気に力強いよね」
見た目はとても
「そうでしょうか?」
セイラは無表情のまま首を傾げる。
彼女は愛想笑いというものをしない。いつも無表情。リシェルの知る限り誰に対してもそうで、主人であるシグルトすら例外ではない。
それはメイドとしては、もしかしたら失格なのかもしれない。だが、それがむしろリシェルを安心させていた。
彼女には笑顔で飾られた表の顔が存在しない。表が無いなら、きっと裏も無い。
四年前の信頼していた使用人たちの裏切りで、少し人間不信になっていたリシェルも、セイラに対しては不思議な安心感を感じていた。
ふと、師のことが頭をよぎる。いつも微笑んでいるシグルト。師にも自分の知らない裏の顔があるのだろうか。
……きっと、あるのだろう。
詳しくは語ろうとしない過去に、それが隠されているであろうことが最近の出来事でわかってきた。
でも、それはもう昔の話だ。この六年間で築かれた師への信頼は、そう簡単には覆らない。
リシェルはセイラに礼を言って、殻から出てきた実をさらに木の棒で叩いて細かく砕いた。固いのは殻だけで、中の実はクルミに似ており、簡単に潰すことができた。その粉末を皮をむいたリンゴの入った釜に入れ、じっくりと煮込む。そしてリンゴが煮崩れしないように、慎重にゆっくりとかき混ぜていく。
本と鼻を突き合わせ、慣れない手つきながら熱心に作業を進めていった。
セイラはしばらくの間その様子をじっと見ていたが、やがて静かに台所から立ち去った。
「よし、後は焼くだけ!」
悪戦苦闘しつつ、どうにか形になったパイの表面に溶いた卵を塗り、熱したオーブンに入れた。
後は待つだけなのだが、リシェルはその場を離れず、オーブンをじっと見守った。中は見えないが、やがて甘い香りが漂い始める。
「ふあ~よく寝た。おや、何やらいい匂いがしますねぇ。何か作ってるんですか?」
昼寝から起きたらしいシグルトが、匂いに誘われて、あくびをしながら台所に入って来た。
「あ、先生! 入っちゃだめです! 居間にいて下さい! 今お茶お持ちしますから!」
慌ててシグルトを外へ押し返す。
「う~ん、おいしそう!」
こんがり黄金色に焼けたアップルパイにリシェルは満足げに声をあげた。二人分切り分けてから、一口味見してみる。
「うん、成功!」
さくさくとしたパイ、ミーレの実の隠し味の効いたほのかな甘み、リンゴの酸味。今まで食したどのアップルパイよりも、おいしい。そう自信を持って言える。
初めて作ったのに、こんなにおいしく作れるなんて、案外お菓子作りの才能があるのかもしれない。
そんなことを考えながら、満面の笑顔でお茶のセットと共にトレイに乗せ、居間へと運ぶ。
シグルトはソファに腰掛けていた。
「おや、どうしたんです? ご機嫌ですね」
「先生、私から先生へプレゼントです」
言って、アップルパイをのせた皿をシグルトの前のテーブルの上に置いた。
一体どうしたんです、君が作ったんですか、すごくおいしそうですね――師の口からそんな言葉が出るのを待った。
だが、訪れたのは、沈黙。
「………」
見ればシグルトは、アップルパイを凝視したまま、動かない。
「先生?」
絶対に喜んでくれるはずだと思っていたのに、あまりの反応のなさに戸惑ってしまう。
「セイラに先生の好物だって聞いたんですけど……もしかして違いました?」
リシェルのしょんぼりした問いかけに、シグルトは我に返ったように笑顔を見せた。ただ、それもどこか無理に作った感が漂っていて。
「いえ……大好物ですよ。そうですか、セイラに……」
シグルトはアップルパイが載った皿を手前に引き寄せる。
「君がお菓子を作ってくれるのは初めてですね……いただきます」
フォークを取ると、一口すくう。
リシェルはシグルトがパイを口に運ぶのを、息を飲んで見守る。
「……」
シグルトは最初の一口を飲み下すと、しばらく何か考えるようにしていたが、
「この味……ミーレの実、ですか?」
「え? ええ? なんでわかったんですか?」
食べてもわからないって言ってたのに。リシェルは薬草屋の老婆を恨んだ。
「どうしてミーレの実を?」
「ふ、深い意味はないです! ただ、入れるとおいしいって本に書いてあって……それだけです!」
てっきりシグルトは意中の相手にうんぬんという話を知っていて、からかってくるものだと思い、必死で説明したが、
「そうですか……」
そう言って、また黙り込んでしまう。
いつもリシェルの料理を食べる時は、必ず何かしらの感想を言ってくれるのに、今日はなんだか様子がおかしい。
「あの……おいしくないですか」
傷つく覚悟で思い切って尋ねると、シグルトは首を振った。
「いえ、とてもおいしいですよ。食べたのは本当に久しぶりだなぁ。こんなにもおいしかったっけ……」
そう言うシグルトの目は、ここではないどこか遠くを見ているように思えた。
「好物なのに、ずっと召し上がってなかったんですか?」
「……ええ。とてもおいしいアップルパイを作れる人がいたんですが、その人がいなくなってからは、他のは食べる気がしなくてね」
ずきり、と胸が痛んだ。
(私が作ったのも、本当は食べたくないのかな?)
シグルトにここまで言わせるアップルパイを作れた人とは、一体誰なのだろう。師の様子はなんだかどこか寂しげで、何か事情がありそうだ。
「その人の作ってくれたパイにも、やっぱりミーレの実が入っていて……すごく懐かしくなりました」
意中の人にミーレの実を――
薬草屋の老婆の言葉が蘇る。
(もしかして、昔の恋人、とか?)
この六年間、シグルトに女の影など感じたことはなかった。でも、シグルトだってまだ若いし、リシェルが知らないだけでそういう話があってもおかしくないだろう。
なんだか、面白くない。
それがシグルトが期待した反応を返してくれなかったからなのか、一生懸命初めて作ったのに他人と比較されたような不快感のせいなのか、自分でもよくわからなかった。
「そうなんですか……先生はアップルパイが好きなんじゃなくて、その人が作ったアップルパイが好きだったんですね」
出た言葉は、少し棘を含んでいたかもしれない。
「あ、いえ、そういうわけでは……君の作ってくれたアップルパイは、昔私が食べていたのに負けないくらいおいしいですよ」
リシェルの気持ちを察したのか、シグルトが言うが、なんだか取り繕って言ってるだけのように聞こえた。
いつものシグルトだったら、迷いなく“世界一おいしい”と言ってくれるのに……
そう思ってしまってから、はたと気づく。
シグルトにとって、どんな時でも、自分が一番。それが当たり前だと思いこんでいる自分に。
(私、すっかり甘やかされてたんだなぁ……)
いつだって、シグルトはリシェルのことを一番に考えて、大事にしてくれた。
でも、それは決して当たり前のことではない。シグルトは親でも、兄弟でも……恋人でもないのだから。
(もう明日で成人なんだし、大人にならなきゃ……)
「ならよかったです。頑張って作った甲斐がありました」
にっこり笑って、機嫌を損ねていない、ということを態度で示す。
その様子に、シグルトも胸を撫で下ろしたようだ。
「でも、どうして急に私の好物を作ろうなんて思ったんです? しかも、ミーレの実なんて入れて……君もようやく恋に目覚めたのかな?」
シグルトが少し意地悪そうな笑みを浮かべながら言った。やはり、ミーレの実のおまじないは知っていたらしい。
「ち、違います! ただ、先生に何かお返しがしたかったんです」
「お返し?」
シグルトは不思議そうに首を傾げる。
「私、先生に拾ってもらって、ここに住まわせてもらって、弟子にしてもらって、勉強を教えてもらって……本当にもらってばっかりで……私も何か先生にお返しできないかなって、そう思ったんです」
「そんなことはなんでもないことです。前にも言ったけれど、君のおかげで私はそれまでの生き方を変えることができた。お返しをしなければならないのは、むしろ私のほうですよ」
リシェルは首を横に振った。
「先生がいなきゃ、私は十六歳の誕生日なんて、迎えられなかったはずです」
「……」
シグルトの紫の瞳がわずかに
「先生には本当に感謝してるんです。いつも生意気なこと言っちゃってるけど、本当です。だから、成人になるのを機に、何か先生にお返しがしたかったんです。でも、先生お金持ちだから何でも買えるだろうし、第一何が欲しいのかもよくわからないし、それでセイラに先生がアップルパイが好きでよく召し上がってたっていう話を聞いて、作ることにしたんです。あ、ミーレの実は入れるとおいしいって聞いたからです。ほんとにそれだけですから!」
最後にミーレの実を入れた理由を慌てて付け加えてから、リシェルは深く頭を下げた。
「先生、いままで、本当にありがとうございました。本当に、本当に感謝してます」
「私の欲しいもの……わかりませんでしたか」
シグルトの言葉に、頭を上げる。
なぜか苦笑する師の顔があった。
「君、鈍感だから魔道士には向いてないかもしれませんね」
「ええ!? なんでそうなるんです?」
弟子の気持ちを聞いて涙ぐむ師――そんな感動の場面になってもおかしくない状況で、思いがけないことを言われ、リシェルは面食らう。
「まあ、すぐにわかりますよ」
師は涙ぐむ様子もみせず、にやりと笑う。
「でも本当においしかった。よかったらこれからも時々、作ってくれますか?」
「はい!」
自分の感謝がちゃんと伝わったのかどうかは怪しかったが、とりあえずシグルトが喜んでくれたようなのでほっとする。
「お茶入れますね」
シグルトはいそいそとお茶の準備を始めた弟子を、微笑んで見ていた。
「リシェル」
「はい?」
「ありがとう」
師の言葉にリシェルは少し照れたような笑みを返した。
胸の奥からじんわり優しい温かさが湧いてくる。
師もきっと同じ温かさを感じてくれている。
そう思っていた。
夜。しんと静まり帰った家の中。
薄暗い廊下で、シグルトはその部屋の扉の前に立ちすくんでいた。
背後でぎしっと、床が軋み、あたりが明るくなる。
「ご主人様」
ランプを手に掲げたセイラが、主を呼ぶ。
シグルトは振り返らない。
「セイラ、君がアップルパイのこと、リシェルに教えたんですね?」
「はい。何か不都合がございましたでしょうか?」
セイラは感情の
「いや……責めてるわけじゃない」
シグルトの口元に苦笑が浮かんだ。
「むしろ、久しぶりにアップルパイ、食べられてよかったですよ」
その手がそっと、目の前の扉に置かれる。
「後ろ暗い気持ちになってしまうのは、私の問題です……」
紫の瞳は、置かれた手、扉の向こう側を見ていた。
もう長いこと、この部屋には入っていない。
部屋は六年前のままにしてあり、入ればこの部屋の主のことを思い出してしまうからだ。
「私に、あの子に感謝される資格なんてない……」
呟く主を、セイラは何も言わずただ見つめていた。
「それでも私は、あの子を……」
シグルトは扉の上で手を握りしめる。
その手を緩め、振り返った顔には、いつもの笑顔があった。
「明日はあの子の成人の日です。正装する機会なんて今までなかったから、準備も不慣れでしょう。手伝ってやって下さいね」
セイラは黙って頭を下げる。
シグルトは扉からそっと離れ、数部屋先の自分の部屋へと戻って行った。
残されたメイドは、自分がこの家に戻ってから一度も開かれたことのない扉をしばし見つめた後、静かに立ち去った。
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