第9話 二つ名

 

「……なるほど。初めから君を狙ってた、か」


 リシェルから話を聞き終えると、シグルトは眉をしかめた。


 家に戻ると、居間でセイラの入れてくれたお茶を飲みながら、リシェルは襲われた時のことをシグルトに話した。


 エリックがカロンの出身だということは黙っておいた。それを知ればシグルトは、リシェルのために彼と連絡を取ろうとしてくれるだろう。だが、エリックはなぜか師を嫌っているようだ。シグルトが間に入ると彼は協力してくれないのではないか。そんな不安があった。だから、カロンのことは、自分が直接エリックと会って話したかった。


 それに、エリックに六年前何があったのか、自分の力で確かめろと言われたことも引っ掛かっていた。


 リシェルが知る六年前の事件の内容は、すべてシグルトから聞かされたものだ。もちろん師のことは信じているが、それが全て正しいわけではないのかもしれない。そう思い始めていた。現に、カロンに生き残りはいないと言われていたが、こうして目の前に現れた。


 エリックはクライル王子直属の騎士団に入るようだし、きっとこれからも王都にいるはずだ。師に頼らずとも、居場所もすぐ調べられるだろう。しばらくしたらお礼の名目で訪ねてみるつもりだった。


 シグルトは組んだ手の上にあごをのせ、しばらく考え込んでいる。リシェルはおそらく彼が考えているであろうことを口に出した。

 

「先生、四年前と同じ目的、でしょうか?」


「……その可能性もありますね」


 四年前にも、リシェルは誘拐されそうになったことがある。犯人は、シグルトの家に住み込みで働いていた中年の夫婦とその息子だった。リシェルを引き取ると同時に、シグルトが雇った使用人たち。


 あの時のことを思い出して、リシェルは身震いした。


 あの日、リシェルは風邪を引いてた。シグルトは心配して仕事を休もうとしたが、その日はたまたま国王と六導師の会議があり、どうしても行かざるおえなかった。


 寝込んでいたリシェルが熱を出し始めると、使用人夫婦は、近くの医者に行こうと言って、リシェルを馬車に乗せた。息子が御者を務め、走り出した馬車に揺られて、リシェルはいつの間にか眠っていた。


 目が覚めた時には、見知らぬ部屋のベットの上。口には猿ぐつわを噛まされ、体は固いロープで縛られていた。


 あの時、横たわる自分を見つめていた彼らの目を、リシェルは一生忘れられない。


 二年間、一緒に暮らし、いつだって優しかった彼らが自分に向ける、感情のこもらない、冷たい目。信じていた人たちの裏切り。ただひたすら悲しかった。涙がこぼれた。


 彼らはリシェルを乱暴に扱うことこそしなかったけれど、一言も話さず、義務的に食事を与え、物を見るような目で彼女を見た。


 どうして、と尋ねても、答えはなかった。

 リシェルにとって、不安と、恐怖と、悲しみしか抱けないその時間は、永遠に思えた。


 しかし、この誘拐事件はあっけなく終わる。

 熱にうなされ眠っていたリシェルが目を覚ました時、そこには自分を覗きこむシグルトの優しい顔と、彼によって気絶させられ、床に横たわる犯人たちの姿があった。


 それが彼らを見た最後だった。

 彼らは、多額の借金を抱えており、身の金目的でリシェルを誘拐した。今は警備隊に引き渡され、牢の中だ。仮にも導師の弟子を誘拐しようとした彼らの罪は重く、そう簡単には牢屋から出ることはできない。シグルトはそう説明し、安心しなさいと微笑んだ。


 そして、次の日にはセイラという新しい使用人を連れてきた。


 たった一日の出来事。

 でも、リシェルにとって、忘れらない心の傷だった。普段見えている顔の下に潜む、思いもよらない裏の顔。そういう人間の怖さを知ってしまったのだ。 


「でも、ただの金目的の不届き者が、君が魔法を使えない、ということを知っていた……というのは気になりますね」

 

 落ち着いて思い出すと、犯人たちが魔法を使われる心配はないと言われたから大丈夫、というような会話をしていた気がする。彼らは誰かからリシェルが魔法を使えないということを聞いて知っていたのだ。


「そんなことを知っているのは、法院の魔道士だけでしょう」


 プライドの高い、エテルネル法院の魔道士たち。彼らにとって、魔法が使えない者が導師の一番弟子をしていることは、法院の恥だ。その彼らが、安易にそれを部外者に漏らすとは考え難かった。


「とにかく、君はしばらく一人で家から出ないこと。出る時は、私かセイラと一緒に。いいですね?」


「……はい」


 リシェルは素直に同意した。ミーレの実はもう手に入れたし、狙われている可能性がある以上、一人で外出するのも怖かった。エリックを訪ねるのは、彼の居場所を調べてから時期を見計らえばいい。


 不安げなリシェルに、シグルトは安心させようとするかのように微笑んだ。


「大丈夫ですよ。君は私が絶対に守りますから」


 その言葉の力強さに、リシェルの心が軽くなる。


(大丈夫。私には先生が……最強の魔道士がついてるんだから)


 実はシグルトがどれほど強い魔道士なのかは、リシェルにはよくわからない。


 なにしろ、シグルトがリシェルの前で今まで使った魔法は、うっかりつけたかすり傷の治癒か、水を湯に変える、くらいなのだ。それくらいは下級魔道士でもできる。


 誘拐事件の時も、目が覚めた時には犯人たちは気絶していて、シグルトが何かの魔法を使ったということは推察できたが、実際にそれを目にしてはいないのだ。


 なかなか魔法を教えてくれないので、もしかして本当は大した魔法が使えなくて、それがばれるのが怖いのでは……と疑ったことすらある。


 大魔道士とは思えぬ、日頃の怠惰な言動が、その疑いを強めた。


 だが、師の実力に対する周囲の評価は驚く程高かった。


 ブランも「あいつには絶対勝てない」と言っていたことがあるし、神童と言われるパリスに“大陸一の魔道士”と熱烈に崇拝されている。


 魔道士ではない、このヴァーリス王国の人々にも、その実力は知れ渡っており、

 “第2次統一戦争の英雄”

 “ヴァーリスの守護者”

 “伝説の大魔道士ガルディアの生まれ変わり”

 などなど、様々に呼ばれているらしい。そのほとんどは、好意的な、彼を讃えるものばかり。さすがに、師が相当の実力者であるらしい、ということは認めざるおえない。


 ふと、リシェルはエリックの言葉を思い出した。躊躇ためらいながらも、気になって確認する。


「あの、エリックさんが言ってた“紫眼の悪魔”って……先生のことですか?」


 言った途端、シグルトの表情がくもり、リシェルは後悔した。


「……ええ。隣国との戦争が激しかった頃、そんな二つ名で呼ばれたことがあります」


 戦争でついた二つ名。

 それは、自分の知らない師の過去を表しているように思えた。

 シグルトは自嘲気味に笑う。


「私が誰かから恨みを買っている……という彼の推測は、当っているのかもしれません」


「そんな……先生を恨む人なんて、いるんですか?」


 リシェルにはどうしても信じられない。

 いつも穏やかで、声を荒げることもなければ、金や物に執着することもなく、一緒に長い間暮らしてきて、誰かと争っているのを見たこともない。


「前にも言ったでしょう? 私は、君と出会う前、導師になるまでに、酷いことをたくさんしてきたんです」


 そう言うシグルトの瞳は暗く、悲しげで――胸が締め付けられた。


「あの日、君と出会った日も、私はまた一つ、取り返しのつかない罪を重ねた。その重さに耐えかねて、もう死んでしまいたい、とすら思いました。それでも生きようと思えたのは、君のおかげです」


「私?」


「無邪気に眠る、幼い君の寝顔を見て、とても安らかな気持ちになれたんです。何も遅くはない。今からだって、やり直せる。奪って、壊して……今までの罪が消えるわけではないけれど、せめてこれからはこの子に恥じないような人間になろう。身勝手に使ってきた自分の力を、大切な人を守るため、幸せにするために使おうと、そう決意できた。君と出会って、私は生まれ変わろうと思えたんです」


 シグルトは微笑んだ。柔らかく、優しく。今この瞬間も、リシェルの傍で本当に安らぎを感じているかのように。


「そんな、私、何も……」


「そうです。君は何もしていない。そして何も知らない。私の重ねた罪のこと、この汚れた世界のこと……君という存在は完全に無垢で、その無垢さを守りたい、そう思いました。そして、君となら全てをやり直せる、と……」


 シグルトの紫の瞳がじっと見つめてくる。

 いつもと変わらぬ、穏やかな優しさをたたえた瞳。でも、その奥に常とは違う、何か熱のようなものを感じて、リシェルは戸惑った。


 自然と鼓動が少し速くなった。師の瞳に、この熱を感じることはたまにあった。何かを待ち焦がれているような、切望しているような、そんな熱を持った瞳。


 この瞳に見つめられると、なんとも落ち着かない気持ちになる。


「わ、私、先生に拾って頂いた時のこと、よく覚えてます」


 居心地の悪さをごまかそうと、とりあえず口を開く。このまま黙ってこの瞳を見つめ返していたら、吸い込まれてしまうような気がした。 


 リシェルにとって、記憶の始まりである、シグルトとの出会い。頭の中でその時のことを呼び起こす。


「目を開いたら、先生がいて――」


 灰色の空を背景に、シグルトは苦しげに顔を歪めて自分をのぞきこんで――――

 

(あれ?)


 頭に浮かんだ映像に、違和感を覚える。

 苦しげに顔を歪めて?

 違う。

 あの時シグルトは、心配そうな表情で自分を見下ろしていた。だとすれば、今浮かんだ映像は一体何なのか?


 別の時に見た記憶だろうか。

 でも、あんな苦しそうな表情のシグルト、見たことがない。

 まるで、今にも泣き出してしまいそうな――――


「リシェル? どうしました?」


 シグルトの声にはっと我に返る。急に黙り込んでしまったリシェルを、師は怪訝けげんそうに見ていた。


「いえ、なんでもありません。ちょっと疲れてて……」


「無理もありませんね。あんなことがあったんですから……もう休んだ方がいい」


「すみません……お先に失礼します」


 疲れているというのは本当だった。いつもより少し遠くまで出掛けたし、襲われた時の動揺こそ収まったが、体力的にも精神的に消耗している。リシェルは立ち上がり、居間のドアへ向かった。


「リシェル」

 

 呼びかけられて振り返ると、ソファに座ったままのシグルトが一見無邪気な笑顔で言った。


「今日一緒に寝ますか?」


「え、ええ!? ね、寝ませんよ!」


 急に何を言い出すのだ、この師匠は。


「そうですか。小さい頃は、怖いことがあると、よく私のベッドにもぐり込んで来たのに……残念です」


 シグルトはわざとらしく肩をすくめた。

 確かに四年前の誘拐事件の時は、怖くてしばらくの間、シグルトのベットで一緒に寝ていた記憶がある。


「そ、それは小さい頃の話ですから!」


 自分はもう子供ではない。数日後には成人を迎える。いくら親代わりとはいえ、シグルトはまだ若い男で、一緒に寝るなんて世の中の常識としてあり得ないだろう。


「ほんの数年前の話なんですけどねぇ。私はいつでも大歓迎ですよ」


「行きませんって!」


 昔を思い出し、頬を赤らめて否定するリシェルに、シグルトは少し意地悪げにくすりと笑う。


「おや? 顔が赤いね? ただ一緒に寝ようって言っただけなのに、なんか想像しました?」


 からかうような師の言葉に、昼間書店で立ち読みしたローラの小説を思い出してしまう。主人公と恋人である教師は二人きりで見つめあい―――


「し、してません! 寝ます! おやすみなさい!」


 リシェルは思い出してしまったきわどい文章が頭の中で映像を結ぶ前に、それだけ一方的に言って、逃げるように急いで居間を出て行った。


 シグルトは弟子を微笑みながら見送る。

 階段を駆け上がっていく音が消えてから、テーブルの上にある、今日弟子に買ってきてもらった小説を手に取った。


「さて、そろそろ動き出す頃ですかね」


 そう呟いて、本を開いた。

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