第10話 知らない瞳


 一面に咲く、薄紅色の小さく、可愛らしい花。心地いい風が花々を一つの方向へとそよがせる。

 薄紅色の花畑の中に、埋もれるようにいる少女の姿を見つけて、少年はほっと一息ついた。


「エレナ!」


 呼び声に、しゃがみこんでいた少女が立ち上がり、振り返る。艶やかな、長い黒髪が花々と同じく風にそよぐ。

 

「ここにいたのか……心配したんだぞ」


 駆け寄った少年は、自分より大分背の低い少女の頭をくしゃっと撫でてやる。されるがままになっている少女の手には、編み上げられた花冠があった。


「これ……アーシェに……」


 少女は、手にした花冠に目を落としながら、蚊の鳴くように小さな声で言った。


「アーシェのために作ったのか?」


 少年の言葉に、少女は黙ってこくんと頷く。


「エレナはアーシェが好きなんだなぁ」


 少年は、まるで自分のことを好きだと言われたかのように、嬉しそうに微笑む。


「アーシェ……私、大好き……」


 少女は特に表情は変えず、その大きな黒い瞳で、少年を見上げる。


「エリックも、アーシェ、好き……」


 少年の頬がかぁっと赤くなった。


「あ、いや、俺はだな……あんな気の強い女はだな、男友達みたいなもんでさっ」


「アーシェのこと……みんな大好き……」


 突然しどろもどろになった少年に、少女は構わず続ける。


「あ、うん、そうだな。あいつ、みんなに慕われてるよな」


 少年はどこかほっとしたようにいい、それから笑った。


「しかし、なんで花冠なんだ? あいつがそれしてたらちょっと笑えるな」


 少年の笑顔につられることもなく、少女は真面目な顔のまま答える。


「アーシェは……聖女様……」


「まあ、確かにそんな風に言ってる奴もいるけどな……母性も色気もない、凶暴な聖女様もいたもんだよな」


「悪かったわね。母性も色気もない凶暴な女で」


 突然背後からかかった声に、少年は顔を引きらせて振り返った――――








 目が覚めた。

 ゆっくりと寝台から身を起こす。

 また、夢を見た。彼女に会ってしまったせいか、今日の夢はとりわけ鮮明だった気がする。


 自分の人生の中で、唯一幸せだった頃の夢。夢の中の自分は、この幸せがいつまでも続くと信じて疑っていない。

 多分、彼女も。

 あれが束の間の幸せだと知っていたのは、一人だけだ。


 突然ドアがノックされた。部屋の主の返事を待たず即座に開かれる。


「エリック、あの娘と接触したそうだな」


 扉から現れた男は、ずかずかと遠慮なく、椅子一脚と寝台しかない殺風景な部屋に足を踏み入れてきた。部屋の主がいる寝台の傍まで来ると睨みつけてくる。

 上半身だけ起こして寝台に座るエリックは、面倒くさそうにため息をつくと、片手で頭をがしがしと乱暴に掻いた。


「別に問題ないだろ」


「大ありだ」


「襲われてたんだ。助けないわけにいかないだろう」


 エリックは顔を上へ向けた。

 男の深い緑色の瞳が鋭く自分を見下ろしていた。ただし、右目だけ。左の目は黒い眼帯で覆われている。その眼帯と、浅黒い肌に彫りの深い顔立ちのせいで、まるで海賊のようだ。緑色の長い髪は後ろで束ね、左肩の上に垂らしていた。


「それはいい。あの娘にはどのみち近づく予定だったしな。問題なのはシグルトと接触したってことだ」


 眼帯の男は苛立たしげに眉を寄せる。


「前にも言ったろう。あいつは鋭い。見かけに騙されるな。お前のことだって、もしかしたら……」


「ああ、気づいてただろうな。あれは」


 エリックは口元に薄く笑いを浮かべた。


 あの時――リシェルを挟んで、シグルトと対峙した時。

 シグルトの全身から立ち上った、殺気に近い、明らかな敵意。笑顔こそ崩さなかったが、彼はそれを隠そうとはしていなかった。


 彼はおそらく気付いたのだ。

 目の前にいる男が、六年前のあの時の少年だ、ということに。


 眼帯の男は、物分かりの悪い子供を前にした時のように、ため息をついた。


「……わかってるのか? あいつに気付かれたら、俺たちの計画は潰される。今度こそ、終わりだ」


「へえ、エテルネルの導師なんて大したことないんじゃなかったのか?  日頃大口叩いてるあんたでもあいつが怖いんだな」


 エリックは馬鹿にしたように言った。 


「ああ、怖いさ」


 挑発で口にした言葉は、あっさり肯定された。


「シグルトは導師の中でも別格だ。あいつの強さは……普通じゃない」


 男の言葉に、エリックはゆっくりと頭を横に振った。


「わかってるさ……俺だって、あいつの力は目の前で見たんだから」


 黒い閃光。

 白い雪。

 飛び散る赤い血。

 頭の中を駆け巡った光景に、エリックはシーツを強く握りしめた。


「で、どうだった?」


 頭上から問いが降ってくる。


「何が?」


「あの娘だよ。確かめたいから尾行していたんだろう?」


 エリックはシーツを握りしめる自分の手へと視線を落とした。


「よく……わからない……それほど話したわけじゃないし……本当に何も覚えてないみたいだった……」


「記憶がない、か。完全に消えたか、それともシグルトに封印されているだけか……それによってあの娘の利用価値が大いに変わってくるな」


 エリックがきっと男を睨みあげた。男は口元に薄く笑いを浮かべる。


「気に障ったか? だがな、俺はお前と違って、あの娘のことは単なる道具としか思ってないんだ。お前だって俺の目的は承知の上だろう?」


「……あんたの話が正しいなら、あんただってあの子に情があってもよさそうなもんだけどな」


「情なんて甘っちょろいこと言ってたら、この戦争には勝てない」


 男は肩をすくめた。

  

「情はないが、襲ってきた奴らについては今調査中だ。あれは“紫眼の悪魔”に対する切り札になるかもしれない、大切な“道具”だからな」


 エリックの刺すような視線を避けるように身を翻すと、来た時と同様、ずかずかと扉へ向かい、


「とにかく、勝手な行動は慎めよ」


 最後に釘を刺して部屋から出ていく。


 男の足音が遠ざかると、エリックは後ろへ倒れ込んだ。寝台に身を沈め、ゆっくり目を閉じる。


 浮かんでくるのは、薄紅色の瞳。

 自分を知らない瞳。

 自分の知らない瞳。


「エレナ……」


 小さな呟きが虚空に溶けて消えた。

 










「はあ? 失敗したあ?」


 目の前の少年の呆れ声に、居並んだ三人の男たちはびくりと肩をすくませた。せぎずの男と小柄な男、それに中年の男が一人。


「も、申し訳ございません。邪魔が入りまして……次は必ず……!」


 真ん中に立つ、商人風の中年の男が揉み手をしながら少年の顔色を伺う。


「ちょっと勘弁してよ。二回目なんて、向こうも警戒してるだろ」


 男たちよりはるかに年下の少年は、ビロードの張られた豪奢な椅子にふんぞりかえって言った。膝の上には、いかにも貴族が好みそうな毛足の長い、白い優美な猫が丸くなっている。その体を撫でる、優しい手つきとは裏腹に、少年は彼らに冷たい侮蔑の眼差しを向けていた。


「まさか、こんな使えない奴らだとは思わなかったよ」


「ど、どうかお許しを! 次は、次こそは必ず!!」


 中年の男は突き出た腹を揺らしながら、必死でぺこぺこと頭を下げる。


「……次って、いつを狙うんだよ。あの女、いつもシグルト様にべったりで、なかなか一人になんかならないよ。法院内にはお前たちは入れないし」


 椅子の肘置きに肘を立て、頬杖を付きながらじっとりとにらんでくる少年に、男はびた笑顔を作る。


「もちろん、ちゃんと考えておりますよ。今度、リンベルト伯爵邸で夜会がもよおされるそうで、それに二人で出席するようです。そこを狙います。人が多い所では油断するでしょうし、かならず機会はあるかと……」


「ふ~ん……夜会ねぇ……」


 少年は青い目で、まるでその力量を推し量るかのように男をじっと見つめる。

 男は冷や汗が浮き出てくるのを感じた。

 

「わかった。……次はしくじるなよ、ロドム」


「もちろんでございます!」


 ロドムと呼ばれた男は、激しく頷く。

 少年はその少女と見まごう程美しい顔立ちに、小悪魔のように妖しげな笑みを浮かべた。


「成功したら父上に、お前の商会にうちの領地のワインの占売権を与えてくれるよう頼んでやるからさ」


「あ、ありがとうございます! 必ずやご期待に添ってみせます」


「もう下がっていいよ」


 唾を飛ばさんばかりの勢いで身を乗り出してきたロドムを、少年は手で追い払うようにしてうとましげに言った。


「失礼致します」


 三人の男たちは、ぺこぺこと頭を下げながら、部屋を出た。


 王城にほど近い、大きな屋敷。その内装の豪華さは、王城にも引けを取らない。主の権勢の程が伺えた。


 そのまま放り出されれば確実に迷ってしまう程、広い屋敷内を使用人に案内され、外に出ると、男たちの顔に安堵が浮かんだ。


「しかしロドム様、あのお坊ちゃんの我がままには困ったもんですね……」 


 痩せぎずの男が漏らすと、ロドムが渋い顔をする。


「仕方あるまい。父親が我が商会の一番のお得意様なんだ」


「あの顔だから、女だったらまだ可愛げもあったのに……」


「あのう……」


 一番小柄な男が恐る恐る口を開く。


「今回の件、本当に大丈夫でしょうか? そこいらの娘をさらうのとは訳が違うじゃないですか。導師の弟子ですよ。ばれたらタダじゃ済まないんじゃ……」


「当たり前だ。下手をすれば首が飛ぶ」


「ひっ」


 尋ねた男の顔が青ざめる。


「だが成功すれば格別の報酬を頂ける。だからお前たち、絶対にしくじるなよ」


 ロドムは部下二人を睨みつけた後、待たせていた馬車に乗り込もうと近づく。


「待って、ロドムさん」


 突然、後ろから若い男の声がした。

 ロドムが振り返ると、さっきまで誰もいなかったはずの場所に、ローブ姿の男が立っていた。

 深くフードを下ろし、顔はほとんど見えない。

 

「あなた様はもしや……?」


 ロドムは目を見張った。

 目の前の男がまとうのは、限られた人間しか着用を許されぬ、銀の装飾が美しい、濃紺のローブ。


「もし君のところに近々入荷する予定があったら、売ってほしいものがあるんだ」


 フードの下から覗く、形のよい、赤い唇の両端がにいっと吊り上がった。


「黒髪の、可愛い女の子」

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