第36話

一度修が目を開けた時、何度呼びかけても一言も答えてはくれなかった。苦しそうな目ではなく、夢を見ているような焦点のはっきりしない目をしていた。その後二時間くらいはまた気を失っているような状態だった。そして、今、修は再び目を開けた。

修は焦点の定まった目で由紀子を見ていた。

由紀子は医者から、生命が助かったのは運が良かったと思いますと言われても、不安でならなかった。自分の目を見てくれた時、この人は生きているという実感を味わった。由紀子の名を呼ばなかったが、

「あぁ!」

という溜息と、ここしばらく見たことがなかった夫の安堵の表情に、由紀子はほっとした。そして、彼女は照れ臭そうに微笑んだ。

(この人は、こんな時でも私の名を呼ばなかった。名前を呼ばれて記憶二度ばかりしかないかな?)

「ちょっと電話をして来ます」

と言うと、由紀子は病室を出た。病室を出る時、振り返り修を見たが、表情に変化はなく病室の白い天井を見ていた。

公衆電話前に来ると、由紀子を待合室の時計を見た。午前六時五十分だった。

(こんな時間に掛けていいんだろうか?迷惑ではないのか?)

彼女は受話器を取るのを躊躇した。だけど、彼女は受話器を取った。そうせずにはいられなかったのである。

昭平の父、毅一が出た。

春美は昭平に付き添われ病院に行ったという。今度こそ本当に生まれると思うということだった。半月遅れている。いくらなんでももうそろそろだろう、と由紀子は健次を生んだ時のことを思い浮かべ、ほっとし、軽い笑みが浮かんだ。

(何を言えばいい?)

と戸惑った。由紀子はこんな時に言っていいものかどうか迷ったが、事情だけは説明した。

どうやら春美が二度目の強い陣痛を起こした時、こっちに電話をしたようだった。

「それで家の方に電話をしても、誰も出なかったんですね。でも、命が助かって良かった」

と、毅一はいった。

この後由紀子は病院に電話をし、涼子を呼び出した。向こうのお母さんも気が気でないはず。

「こんな時に申し訳ありません」

と最初に誤り、深く頭を下げた。

「命が助かったのだから、春美に知らせるのは今すぐでなくていいと思います。子供が生まれ、春美が落ち着いてから知らせて下さい。主人のことがありますから行けませんが、宜しくお願いします」

由紀子はこう言った。自分が以外に落ち着いているのに驚いた。修の命が助かったからなのだろう。

「分かりました。良かったですね。春美さん、さっき分娩室に入りました。生まれたら、お知らせします」

受話器を置くと、由紀子はほっとした。春美は何事もなく元気な子供を産んでくれるような気がした。そうあって欲しいと思った。あの人の命が助かったんだから、

(きっと・・・)

と彼女は体が踊り出しそうな喜びを感じていた。

由紀子は自分の体に微かな痛みを感じた。遠い昔味わった痛みだった。

「良かった」

と由紀子は呟いた。

由紀子は病室に戻った。修は意識を完全に取り戻していた。

修は由紀子の姿を確認すると、

「ウサギは?」

と訊いて来た。由紀子は、

「分かっています。ちゃんと餌をやっておきますよ」

と修に耳元でささやいた。

「あんなにたくさんいたのが、もう四匹になりましたね」

由紀子は微笑んだ。修が自分の笑顔に応えるとは思わなかったが、彼女はそれを期待した。

「四羽・・・」

修はこういうと黙ってしまった。


健次は電話をして、一時間くらいして病院に来た。千佳子も一緒だった。

由紀子の目は自然と千賀子のお腹に捉えた。少し目立ってはきていた。

病室で、

「親父は・・・」

と言ったきり黙り、後は修を見つめていた。修はまた眠りについていた。

千佳子は少し離れた所に立っていた。手を前で組み、顔を下に向けていた。時々何かを言いたそうに顔を上げた。

由紀子は千佳子の側に行った。

「来てくれたの?」

「はい」

千佳子は小さな声で答えた。

「有難う」

由紀子は心からそう言った。健次が同じに来いと言ったのか、千佳子が自分から行くと言ったのか、分からない。気になるが、由紀子から聞いて真相を明らかにするようなことではない。驚くことは、同じに行くことを健次か許したことである。半ば堂々と同じに来たのは、俺たちは結婚するぞという意思表示なのだろうか?

由紀子は今余りあれこれ考えたくなかった。

健次は病室の窓の外を見ていた。まだ夜の闇の暗さは残っていたが、その闇は消えはじめ、空は明るくなりはじめていた。朝の太陽はまだ病院の窓からは見えなかった。しかし、ほっとするような安堵与える輝きは東の空から輝きはじめていた。

修はまだ眠っていた。《ように見えたが、彼は夢の中に立っていた》痛々しい白い包帯さえ無ければ、家でいる寝顔とそれほど違わない。四十七歳。この人に当てはまるとは思わないが、働き盛りである。たまたま事故に合い、しばらくは動けないだろう。命は助かったが、この人は歩けるようになるのだろうか?今見る姿は余りに痛々しかった。由紀子にはその姿を見るまでは不安であり、心細くなってしまう。


八並修は夢の中にいた。

真っ暗だった。

(心地いい・・・)

しかし、不快な何かが存在しているのに気付いた。

(・・・)

「だれ!」

真っ暗の中に、黒い何かがいるように感じた。

「こっちを向け!」

その黒い存在の感覚に覚えがあった。

「お前は・・・」

その瞬間、黒い何かは真っ暗な闇に同化してしまった。


こんな気持ちからなのかもしれないが、健次の何とたくましく見えることか。由紀子の見る健次はまだ子供である。今その子供の中に、それを感じた。

「命が助かって良かったですね」

千佳子が声を掛けてきた。

「本当に」

由紀子は千佳子を見つめ、笑みを作った。千佳子と目が合った。すぐに千佳子の方から逸らした。


その日の夕方、由紀子は朝美を寮で捕えた。

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