第35話

八並修は目を開けた時、体中に痛みがあった。それでも自分の意識がはっきりしているのに少し戸惑った。というのは、自分が事故にあったのは脳裏にはっきりとした映像に残っていて、その瞬間の間隔を覚えていたからである。痛みより快感の快さが残っていた。でも、そんなことより違うことに疑問を抱いた。天井の白い色を見て、また鼻を突く嫌な臭いに、

(ここは、何処?)

と思った。体を動かそうとしたが、寝返りが打つことが出来ない。余りの痛みの激しさが、もうそれ以上動こうとする試みを止めさせた。しかし、それでも体を動かそうとしている自分に、俺はまだ、

(生きているようだ。運がいいんだろうか?

という気持ちを持った。

修の瞳は微かに開いていた。夢の中にいるような感覚があった。でも、痛みに確かな苦痛を感じていた。今までに見たことがない部屋だった。白い天井。白い壁。それに冷たい感触のベッドのシーツ。むっ、この臭い。

(病院か?)

自分の怪我がどんな状態なのが、分からない。だが、相当ひどいことはよくわかる。自分の意識がはっきりしていると思ったのだが、そう思っているだけなのかもしれない。みんな苦痛からくる夢なのかもしれない。白い何か・・・これはなんだろう?事故に会い、自分が助かって欲しいから、ここが病院だと思うのかもしれない。ひょっとして死んでしまったのかもしれない。しきりに動かそうとしていた力は、腕なのか足なのか、身体全身なのか分からないが、なかなか動かない。そんなに強い力ではないが、あれこれやっているうちに、痛みが抜けたのか、身体全体が楽になった。

気付かなかったことだが、息をするのがいつもより苦しい。体の何処かがおかしい。変だ。胸・・・肺が痛む。胃・・・どこが変だとはっきりと言えなかった。だが、この痛さ・・・まだ生きているようだ。それならそれでいい。

八並修はゆっくり呼吸をした。すると息を吐くときはそうでもないが、息を吸うとき苦しいことは苦しいが、次第に落ち着き今の状況を受け入れると、落ち着きが出て来た。

あと二年だった。いや、あと一年ともう少しだった。もう少しだったのに、こんなことになってしまった。仕送りが出来なくなる・・・修は今それ以上考えることが出来なかった。ただ、朝美の顔が、彼女が東京へ行ったころの朝美ではなくて、もっと幼いころの朝美の顔が思い浮かんで来た。

修は痛みに抵抗するのを止め、全身の力を抜き、ゆったり目をつぶった。眠ろうとするのではない。自分の世界に、自分の好きな時間に行くのである。遠い、遠い昔、はっきりと指定出来ない時間へ修は戻って行く。

みんな、いた。由紀子、健次、春美、そしてもう少ししてこっちに戻って来る朝美もいた。そこでは不思議なことに、朝美以外小さくはなかった。

そして、修は笑った。理由はない。ただ、久し振りに笑ったせいか顔が強張り変な感じだった。無理もなかった。これまで・・・長い間、心の底から笑ったことがなかったような気がする。気持ち良かった。体中に溜まっていた毒が、この瞬間全てが無くなって行くような気がした。

「元気か?」

修から声を掛けた。誰かに向かって言ったのではないが、由紀子が最初に近づいて来た。

「今日は、お父さん」

「うん。久し振りだね」

「そうね、寂しかったわ」

「すまない」

「いいのよ。お父さん」

由紀子が笑ってくれた。修はほっとした。

「親父!」

健次だった。

「健次・・・元気か!」

「あ、あぁ」

健次は照れ臭そうに笑った。

修は頷いた。

春美は赤ん坊を抱いていた。生まれて、まだ間がないのか白い産着に包まれていた。

「・・・」

修は言葉が出ず、春美に目で、お前の赤ちゃんかと尋ねた。

「私の赤ちゃんよ」

春美は修に抱くように進めた。

修は照れながらも恐る恐るゆっくり近づいていった。春美の胸には今まで見たことがない生き物が抱かれていた。小さな目を開け小さな口を動かしていた。でも、言葉は聞こえてこなかった。

春美から渡された赤ん坊を、修は抱いた。赤ん坊は軽かった。余りに軽かったので、危うく落としてしまいそうになった。春美の赤ん坊はびっくりして目をまるくしていた。

「お父さん」

その声は朝美だった。

修はその声のする方に振り向いた。と同時に、彼は目を開けたのだった。


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