野口雨情考

夏頼

君不去(きみさらず)

 雨が上がり、雨情は夕焼けに染まった河川敷の土手を歩いている。


「しゃ~ぼ~ん玉、とぉんだぁ」


 その音程はひどいもので、すれ違う者の大半が顔をしかめていた。誰が、彼を華やかなりし大正の有名童謡作家、野口雨情だと思うだろうか。


「おい、お前さん子供はいるかね。あぁ、いるのか結構なことだなぁ」

「地蔵様よ、地蔵様よぉ…なぜなんだい」

「やあやあ、君はいくつだい。七歳か!良かったなぁ。七つまでは神のうち、っとぉ」

「おや、これは狐様、お役目ご苦労様でございます。油揚げはないのでご勘弁」

「…泣いてはいけないよ、坊や。早くおっかさんのところへお帰りなさい」


 周りの迷惑を顧みず、さりとて酔っているわけでもない彼は、手当たり次第に声をかけて、夕日に続いているかのような土手道を歩いていくのだ。


 雨情は昨夜、歓喜の絶頂にあった。娘が生まれたということだ。

 雨情は今朝、不幸のどん底にあった。娘が死んだのだ。


 誰が悪いわけでもない。この時代は多くの子供が生まれては死んでいった。

 彼は生まれてくる娘のために産着を用意した。気が早いが、成長した時のためにきれいな服も買ったのだ。そして、みつ、という、とても美しい名前も。


 彼は一か月たっても落ち込んだままだった。

 

「あなた、申し訳ありません、私の体が弱いばっかりに…」

「君のせいじゃない。みつはそういう運命だったんだ」


 雨情は妻にそういった。彼は心底、妻の所為ではないと考えている。日頃自分の仕事を手伝ってくれる大切な妻で、最愛の女性だ。ただ、そういう存在がもう一人増えていたはずなのに、手に入れるその直前に失ってしまった。その喪失感はまだ埋められていない。


 彼は未完成の動揺を口ずさむ。


 シャボン玉飛んだ

 屋根まで飛んだ

 屋根まで飛んで

 

「…こわれて、きえた」


 六年がたった。雨情は童謡作家の仕事が手につかず、教師として村で音楽を教えていた。彼を慕う青年が訪れては教えを請い、また、共に童謡を創作するのだ。

 雨情たちは村の公会堂を借り、そこで子供たちに音楽を教えていた。小さな村だが、いつもにぎやかな子供の歌が聞こえる点では、どこの町より活気づいていた村だった。


 その日は、雨情の娘の命日だった。生きていれば数え年で七歳になっていたはずだ。

 村の子供たちが雨情の弟子たちと共に童謡を歌っていた。小さな公会堂で子供たちが跳ね回り、自由にシャボン玉を飛ばしながら歌っている。


 シャボン玉飛んだ

 屋根まで飛んだ

 屋根まで飛んで


「こわれて消えた!」


 子供たちが歌い終えたとき、間の悪いことに雨情本人が公会堂に入ってきた。

弟子たちは、この童謡が、最初は雨情が無邪気に遊ぶ子供たちの姿を見て歌詞を作ったこと知っている。そして、彼の子供が亡くなった時、シャボン玉とわが子を重ね合わせてしまったことも知っていたのだ。


「先生、すみません。子供たちがあの歌が大好きなもので…」


 弟子たちは師を気遣うが、今の雨情にそれを受け入れる余裕はない。目を固く閉じ、眉をしかめてわが子を思い始めた雨情に、弟子たちはかける言葉をなくす。


「あ、先生だ!雨情先生、あの童謡の続きはないの」

「僕たち、歌がうまくなったでしょう。もっともっと歌いたい」


 雨情は傷ついた心で、それでも自分を慕う子供や弟子たちのために童謡の続きを歌う。しかし、その心のままに歌詞を紡いでしまうのだ。


 シャボン玉消えた

 飛ばずに消えた


「先生!」


 弟子が雨情を止めるが、彼の口は止まらない。


 産まれてすぐに

 こわれて消えた


「あぁ、壊れたのだ。あの子も、私も」


 雨情と弟子たちはうなだれるが、子供たちは喜び、雨情の前で無邪気に合唱するのであった。


 弟子たちは数人の子供たちの合唱にしては何か違和感を感じていた。声の数が明らかに多いと思ったのだ。

 見ると村の子供たちの前に、白い服を着た小さな子供たちがたくさんいることに気づいた。


「先生、先生、あの白い服の子供たち、どこの子でしょう?とても楽しそうに歌っているなぁ」

「何のことだい、どこにいるんだね、その子たちは。まぁいい。すまないが今日は帰らせてもらうよ。子供たちをよろしく頼む」

「…先生。あの童謡は、あそこで終わりなんですか。いや終わらないでください。先生のためにも、楽しく歌っているあの子達のためにも」

「…すまない。私にはできないのだ」


 雨情は涙を流した。


「先生、童謡は子供たちの力です。歌はあの子たちを幸せにします。だから、先生がいつもおっしゃっているように魂を込めて歌詞をつくるのでしょう。このままでは意味を知ったとき、あの子たちが…」

「すまない、すまない…」


 雨情は逃げるように公会堂を後にした。

 その後も弟子たちは、村の子供たちや白い服を着た子供たちと歌い続ける。子供たちは言葉の意味を知らずに。大人は知っているにも関わらず。

 白い服の子供たちは、歌うと満足したらしく、足早に外へかけていった。まだ、足りないね、まだ、会えないね、との言葉を残して。


 あぁ、雨情の童謡はこんなにも素晴らしいのに、人の心を揺り動かすのに。この童謡はまだ完成をしていない。なんともったいないことだろう。私は「ふぁん」として残念でならないのだ。夕日の土手で初めて見たその時から私は彼の童謡の虜なのだ。


 木更津の伝承をもとにした、証城寺の狸囃子という童謡は私のお気に入りでもある。


 證 證 證城寺

 證城寺の庭は

 ツ ツ 月夜だ

 皆出て 來い來い來い

 己等の友達ァ

 ぽんぽこ ぽんの ぽん


 なんとリズムがよいのだろう。この歌を雨情が子供たちの前で歌っているとき、私もつい口ずさんでしまう。目の前の子供たちも歌いながら踊りだしている。その子たちの目の輝きといったら!

 しかし、木更津が君不去(きみさらず)として、大切な人との別れを意味しているという説は雨情のことを考え、私もつらくなる。



 幾日が過ぎ、夕焼けの土手を雨情とその妻が歩いている。あぁ、あまりにも美しい夕焼けに私は思わずあの童謡を歌う。


 烏 なぜ啼くの

 烏は山に


 私の口ずさんだ童謡に妻が気付いたのか、続きを歌いだす。


 可愛七つの

 子があるからよ


 雨情が妻につられて一緒に歌いだす。私もそれに唱和する。


 可愛 可愛と

 烏は啼くの

 可愛 可愛と

 啼くんだよ

 山の古巣へ

 行って見て御覧

 丸い眼をした

 いい子だよ


 何と美しい歌だろう。なんと親の愛に満ちた歌だろう。やはりこの人の童謡は人を動かす力があるのだ。なればこそ、シャボン玉の歌を完成させてほしい。

 二人は手をつないで夕日に照らされた家路を歩いていった。



 その翌日、公会堂に弟子たちが集まって相談をしている。弟子たちも私と同じ意見のようだ。雨情に何としてでもあの童謡を悲しいものにしないように、作り変えたいらしい。


 雨情が公会堂にきた。弟子たちは彼を取り囲み、説得を試みるがうまくはいかない。


「先生、先生は過去に生きておられるのですか。過去で終わったのですか」

「お前たち…」

「私たちは待っています。村の子供もです。ここが私たちの家なのです」

「お願いです」

「お願いです!」


 うなだれる雨情に対し、弟子たちはその師の童謡を歌い始める。


 あの町 この町

 日が暮れる 日が暮れる

 今きたこの道

 かえりゃんせ かえりゃんせ


 村の子供たちが歓声を上げて入ってくる。どうやら久しぶりに来た雨情をみて喜んでいるらしい。弟子たちが歌っているのを見て、僕も!あたいも!といって歌いだす。


 お家がだんだん

 遠くなる 遠くなる

 今きたこの道

 かえりゃんせ かえりゃんせ


 雨情は顔を上げて涙を浮かべた弟子たちと、笑顔の子供たちを見つめている。妻が部屋に入ってきて雨情に寄り添った。


「あなた、童謡を子供たちのために、それを教える人たちのために。歌ってください。歌詞を作ってください。天国にいる私たちの子にも伝わるように」


 雨情は妻の手を取り、みんなで歌いだす。


 お空に夕の

 星が出る 星が出る

 今きたこの道

 かえりゃんせ かえりゃんせ


 全員が笑顔で歌っていくなか、大人たちは再び白い服の子供たちをみる。


「どこの子たちでしょうね」

「坊やたち、どこからきたんだい?」


 白い服の子供たちは何も言わない。歌いたいときに出てくるのだ。一緒に歌いたい人の前にでてくるのだ。それが未練でもあるし、仏様の慈悲でもあるのだろう。そして彼らを見るためには迷いを持ってはいけないのだ。


 白い服の子供たちは一番歌いたい歌をつぶやいた。

 「シャボン玉」と。

 よほど思いが強かったのだろう。

 村の子供たちも一緒に、期待するように雨情を見ている。


 雨情は目を瞑りしばし考え

 

「風、風吹くな」


 とつぶやく。子供たちに向けたその顔は限りなく優しい。

 よぉし、シャボン玉だ、と雨情がいった瞬間、子供たちがワァーと歓声を上げる。


 シャボン玉飛んだ

 屋根まで飛んだ

 屋根まで飛んで

 こわれて消えた


 シャボン玉消えた

 飛ばずに消えた

 産まれてすぐに

 こわれて消えた


 雨情が続く歌詞を大声で先導する


 風、風、吹くなシャボン玉飛ばそ


 妻、弟子たち、そして子供たちが大声で歌う。


 風、風、吹くなシャボン玉飛ばそ!


 あぁ、これで足りた。私の未練もなくなったのだ。

 私は雨情とその妻の前に立って彼らの顔を見る。

 向こうも私を見てくれた。

 

 やっと伝えることができるのだ。


「大好きだよ、お父さん、お母さん」



 時代は昭和となり、弟子の一人が子供たちに童謡を教えている。

 先生となった弟子に、子供たちは、この歌、ちょっと寂しいね、という。

 弟子は、この歌が優しい歌で、大好きな先生のうたなんだよ、という。

 それは子供に強く元気で育ってほしいという願いなんだ、ともいう。


 雨上がりの夕焼けを見ながら弟子は土手を歩く。

 その時、耳に恩師夫婦と小さな女の子の歌声が聞こえてくるような気がした。

 弟子は頭をふってそんなことはあるまい、と苦笑する。

 そして続きの童謡を口ずさみながら家に向かうのだった。


 風、風、吹くな

 シャボン玉飛ばそ



野口雨情考 完

 

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