アトラスティへの説得
目が覚める。どうやら、寝る時間を一時間早めたことで、期待通り一時間早く目を覚ますことが出来たらしい。
二段ベッドの上の段から降り、一度伸びをしてから寝ぼけ
ホブ・ゴブリン三体を含むゴブリンの
「見習わなければなりませんね」
少し
まだ眠っている二人を起こさないよう、
寮の廊下を進み、入口から外へ出る。入口前の小部屋を横目で見てみたが、寮長のサラナスはまだ来ていなかった。
朝の
屋内修練場の扉を開ける。玄関には、既に誰かいるのか靴がワンセット
屋内修練場のルールとして、靴を脱いで使用するというものがあるため、この靴の持ち主同様、それに
扉を開けた途端、フォウという空気を斬り裂く音が鼓膜を揺らす。ピリッと電気を肌に感じるような引き締まった空気が場内を満たしており、その空間を作り出す紫髪の少年が、再び振り上げた木剣を目で追うのがギリギリの速さで振り下ろす。
あまりに
呆けている場合ではないと意識を取り戻し、扉を潜ってヒリつく空間へと身を乗り出す。
「おはようございます、エニアスさん。こんなに朝早くから鍛錬をなさっていたのですね」
どのくらいの時間続けているのかは分からないが、額にはじんわりと汗が
一瞬、視線がこちらに向いたような気がしたが、エニアスさんはすぐにリズムを崩さず、
だとしても、仕方ないという納得感はある。私は以前、エニアスさんに剣で勝ったことがある。しかし、当時の私と今の私を比べれば、間違いなく当時の私の方が強いだろう。推測ではなく、断言出来る。何せ、唯勇流を使っていなかったのだから。
エニアスさんに勝ったことで、少しは私の存在を認めて貰えたと思っていたが、共に貴族学院に通う中でエニアスさんとの関わりは無かった。
この人は、初めて会った時から私のことに興味を示さなかった。別に、そのことに腹立たしく思った、などということはない。今までにない関わり方をされて、逆に嬉しかったくらいだ。それと同時に、振り向かせてやりたい、という思いも生まれた。
エニアスさんとの試合に勝った時は、これで無視出来ないだろうと期待したのだが、彼は礼儀作法とばかりに一礼をして去ってしまった。それ以降も、パーティなどで顔を合わせることがあれば話しかけたが、まともに応じてくれたことは無かった。
そして学院に入り、唯勇流を使い始めれば、彼は最下級の
この関係は、冒険者学園に入ってからも変わらなかった。貴族学院では爵位の差など、様々な要因があって関われなかった可能性も考えたが、爵位の要素が薄くなる冒険者学園に入って尚同じ対応ということは、せめてもの救いをと挙げていた要因は全て関係なかったということだ。
見たところ、誰に対しても同じように接しているため、私だけ特別無視されているという訳では無い。ただ、それらが分かるにつれて、少しずつ「ちょっとはこちらを見てくれても……」という気持ちが湧いてくる。まるで、こちらばかりが意識しているようで、
「……不躾ながら、一つあなたにお願いしたいことがあります。私に、唯勇流を教えてください。あなたであれば、私でもいつか、お姉様のように──」
「断る」
素振りの最中、視線も向けられず、
「もちろん、タダでとは言いません。望むことがあるのであれば、私で叶えられることはどのようなことでも──」
「断ると言っただろう」
再び、遮られる。今度は、素振りを止めて、睨むようにこちらに視線を向けてきている。邪魔をしたことに、腹を立てさせてしまっただろうか。
「他者に
「っ、そんなことは……っ! 他の方が仰ることを聞き入れることも、時には必要です!」
予想だにしていなかった言葉に、つい反論をしてしまう。しかし、相反する意見であることは確かで、聞き逃すことは出来なかった。
「話を聞くことと、
「私はっ、決して傀儡などでは……!」
「どこが違う。学院連中の言う通りに唯勇流を使い続け、自分の意見すら言わない。あいつらの人形と何ら変わりは無い」
「それは、方々への配慮をした上のことで……!」
「何が配慮だ。見たくない現実から逃げるための理由付けでしかないだろう」
胸が、苦しい。どうしてだろう。エニアスさんの言葉には同意出来ない。違うと言い切れる。なのに、どうして? どうして、私の口は、頭は、魂は、言い切ってくれないの?
「あんたが配慮した相手は、そんなことを望んでいるのか? あんたがただ、自分のためにしているだけじゃないのか? 逃げる方弁にしているだけじゃないのか?」
まるで、剣を突き付けるかのように、エニアスさんが質問を立て続けに投げ掛けてくる。右手に持った木剣は、決してこちらに向いていないのに、真剣を首筋に宛てがわれているかのごとくだ。
涙が、目尻に溜まる。普段滅多に無いのに、腹が立つ。腹が立つのに、何も言い返せなくて、胸がきゅってなって、息が苦しくなる。本当は分かっている。エニアスさんの言っていることが正しいのだと。
いや、ここ数日はずっとそうだった。プロティアさんに、エニアスさん。鋭さにこそ違いはあれど、二人とも私に現実を突き付けて来ていたのだ。ただ、プロティアさんは私のことを気に掛けてか、傷付かないよう優しく仕向けてくれていた。エニアスさんは、そうじゃなかった。言葉すら彼の体の一部とも言える剣であり、今、私を貫かんとしている。
「……俺に勝ったあんたはもういない。だから、俺はもうあんたに興味は無い。二度と話し掛けるな」
そう言うと、エニアスさんは倉庫に木剣を仕舞い、屋内修練場から出て行った。
千人は優に入れる修練場の中、私独りだけが立ち、床に丸い雫を増やしていた。
♢
時の流れとは早いもので、あれやこれやとしている内に週末になってしまった。
アトラと二人でフェルメウス家へ訪れたはいいものの、ここ数日アトラの表情がよろしくない。本人は
「平気ですか?」
「……っ、え、えぇ」
話し掛けるが、反応がいつもより一秒以上遅い。心配にはなるが、本人が気にすることを嫌がりそうだから、今はそっとしておく。
「そんじゃ、行きましょうか」
「ええ」
門番に伝え、庭の中に入る。
二人でメリエリさんに挨拶をし、フォギプトス達が待っているいつもの部屋まで案内してもらう。もう覚えているのだが、一応客人という扱いであるため、案内という形で邸宅内を移動しないと少々問題になりかねないのだそうだ。
「そういや、フォギプトスさんと会う時はいつもあの部屋だけど、あそこってフォギプトスさんの自室なの?」
「いえ、応接間です。一応書斎はあるのですが、あの部屋の方が広くて作業しやすいそうです」
「なるほど」
テーブルも広いし、書類を広げて作業を行うこともあるだろうから便利なのだろう。
そんなことを話していると、例の応接間へと着いた。メリエリさんが三度ノックをし、中からフォギプトスの入れという返答が来る。その返答を受け、メリエリさんは扉を開けて横に退く。中へ入るよう手で促されたため、それに従ってボク達二人は応接間へと入る。
いつもの机に視線を向けると、フェルメウス家のトップ三人、父親で領主のフォギプトス、その妻でありアトラの母親であるセイネリス、姉であるラプロトスティと並んで座っていた。表情からして、談笑していたのだろう。こちらに視線を向けたラプロトスティさんが、パァっと目を輝かせる。
「アトラ〜! おかえりぃ!」
そう言いながら、飲んでいたワインをコースターの上に置いて、ドレス姿にも拘わらずとても軽やかな身のこなしでアトラに近付き、抱き着いた。相変わらずのシスコンである。
「た、ただ今戻りました……お姉様、苦しいです」
「ごめんよぉ、嬉しくてさ」
その言葉は紛うことなき本心で、顔はこれ以上ないほどニッコニコの笑顔で満たされていた。
「ラプ、少し落ち着け」
「はぁい」
フォギプトスに言われ、ラプロトスティさんがアトラから離れる。席に戻るかと思ったが、アトラの後ろに回って肩に両手を置いたまま、停止した。フォギプトスが何か言うこともないので、このまま放置でいいということだろう。
「プロティア、早速で申し訳ないが、本題に入ってくれ」
「分かりました……アトラ。今日こうしてフェルメウス家に着いて来てもらったのは、他でもない、アトラのこれからのことを話すためです」
「……唯勇流を使い続けるかどうか、ではないのですか?」
「主立ってはそうなんだけど、この選択でアトラのこれからが大きく変わることは確かだからね」
「……今日まで、何度も申し上げて来ましたが、私は意思を曲げるつもりはありません。唯勇流を使い続けます」
「フェルメウス家とラプのため、か?」
「っ! な、何故それを……」
フォギプトスの言葉に驚きを見せるが、すぐに何かに思い至ったのか、ハッとした表情でこちらに睨みを向ける。まあ、ボクが伝えたということはすぐに分かることだろう。顔の前で手を合わせ、縮こまるように小さく頭を下げて、謝罪の意を示す。片目だけ開けて表情を確認するが、むぅと唇を尖らせて半目を向けられている。
数秒続いたが、溜息を零して視線が外された。許されたかは分からないが、とりあえず最低限保留にはなったみたいだ。
アトラの本心を聞いたあの日以降、ボクは二度程フェルメウス家を訪ねていた。もちろん、今度はちゃんとアポを取った上で。その中で、アトラが唯勇流を使い続ける理由や、本心はある程度伝えている。何故そのようなことをしたかと言うと、今日の作戦を練るためだ。
視線を鋭くしたアトラが、再び家族に向き直る。ただ、いつもの覇気は感じなかった。
「ええ。お父様の言う通りですわ」
「そうか」
応接間を、数秒間の沈黙が包む。それを割ったのは、フォギプトスだった。
「……お前は、私達を軽く見すぎだ」
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