第10話 猿の社(イ)

 ベッドの枕元で目覚まし時計が鳴り続けている。俺は苛立ち紛れにその野郎をぶっ叩いて停止させた。カーテンの間から差し込む朝陽を浴びたその野郎は朝五時半の顔を見せていた。

 俺の実家は遠州灘の砂丘からずっと北上したところの、おそろしく中途半端な田舎町にあった。少し北へ行くとそこはもう明石山脈に連なる低い山中で、職場まで通うのに自動車を使っても一時間半も時間がかかる辺鄙な場所だった。職場からもう少し近い場所に住みたい。だけど、部屋を借りて田舎では必須に近い自動車まで維持すると毎月の収支はパンク寸前になる。不器用な俺の営業成績は毎月一番下だ。歩合制の給料だと節約しても節約しても生活費が足りない。

 社会人の一年目で挑戦をした。その一年で結局、俺の一人暮らしは挫折した。そもそも、俺の職場は実家から通えない距離ではない。だから、無理にアパートを借りてまで自活する必要は最初からなかった。

 地方にあるポンコツ私立大学の経済学部を卒業後、

「よぅし、ここで自立をしてやるぞ!」

 そう宣言して出ていった実家へ、一年ですごすごと戻ってきた俺を見て、親父とお袋は大笑いをした。

 俺だって苦笑いだった――。

「これ、一時期は蔑まれていた、パラサイト・シングルってやつか?」

 俺は苦笑いで呟いた。

 でも、そこまで俺の年齢はいっていないだろ。

 俺はそう考えて俺はそれを言い訳にした。

「ああ、今日も目覚めちまった。寝たまま死んでりゃあ気楽なんだけどな。くっだらねェ本日の、はじまり、はじまりってわけだ――」

 俺は自分の立場を徹底的に腐しながら、ひとつあくびをして、ベッドから床へ足を下ろした。すると対面に白い素足あった。俺のものよりずっと華奢で綺麗な足だ。女の子の足だ。見惚れていると、二つのはだかの足がぱたぱた地団太を踏んだ。寝ぼけた顔を無理に引き上げると、純白のネグリジェを着たリサがいた。金刺繍で可憐な花柄のついた高級そうなネグリジェだった。朝陽のスポットライトに包まれたリサは天使そのものだ。実際、天使の輪っかと天使の羽もついていた。

 うん、間違いなくこれは天使の姿だよな――。

「――?」

 リサが不満気な美貌と頭の上の輪っかを傾けた。

 天使の羽がはたはた動く。

 俺は呟くように言った。

「今からどこへ行くのかって?」

「?」

「そりゃあ平日の朝だからな。社会人なら出勤をするだろ?」

「?」

「どうしてそんな嫌そうな顔をしてまで会社へ行くのかって――?」

「?」

「リサは本当にしつこい性格だよな――確かに、営業なんて俺好みの仕事じゃないよ。はっきり言えば大嫌いだ。所長はクズだし、同僚はアホばかりだし、自動車の整備員は田舎のヤンキー揃いでガラが悪いし、愛想笑いで頭を下げながら傲慢極まるお客様の懐へ手を突っ込むなんてのは何度やっても吐き気しかしない。そもそも、俺が同じ事をやられたら怒り狂うだろうしな。己の欲せざるところは無理にでも他人へ施せだ。それが営業の本質なんだよ。いや、今の世の中は全体がそういう傾向なんだろ。最近じゃ、俺の顔面にある表情は愛想笑いだけで固定されそうだぜ――」

「!」

「『そんな嫌な仕事ならすぐにでも辞めちまえ!』とか言われてもな。そうもいかない。俺の最終学歴は三流の私大卒だ。大学の四年間は遊んでいたようなものだから資格だって運転免許証ていどしか持ってない。何の実績もない俺が今あの営業所をドロップ・アウトしたら、そのあとの潰しは絶対に利かないんだ。日本の社会構造ってのはそういう仕組みにできているんだよ。だから、リサ、そこをすぐに退いてくれ。だらだらしていると会社に遅刻をしちゃうだろ――」

 俺がベッドから腰を上げると、

「!?」

 くっわっとまなじりを裂いた天使は修羅へ昇華した。

 まあ、これは当然の反応だろう。

 天上におわすお方の恩寵を受けた大天使のリサが、クソまみれの地べたをのたうち回って生きるしかない人間畜生風情の腐った諦観ていかんを容認するわけがないのだ。

 俺のみぞおちへ怒りの拳が突き刺さる。

 それは裁きの日に下される鉄槌のような威力の正拳突きだった。


「――げっふおぉっ!」

 俺は膝から崩れ落ちた。

「――おっげええぇえっ!」

 俺はその場で吐いた。

 俺の胃から飛び出して布団の上に広がったものから顔を上げると、

「ああ、リサ――」

 そこにリサがいた。

 ネグリジェではない。

 白いパジャマ姿のリサが右拳を突き出した姿勢のまま憮然と俺を見下ろしている。完全に打ちのめし地を這った相手へ尚も警戒心を残す。これが武人の心構え――残心というものだ。夢のなかでどこかへ――おそらくは危険な場所へ誘導されていた俺を止めたのはリサだった。やっぱり俺のリサは俺の大天使なのだ。まあ、迷える小羊に導きを与えるその御手は、ありえないほどまで乱暴だけどね。

 導き手というか握り固めたその拳だよな――。

「ぐっ――」

 俺が立ち上がろうとすると視界がぐらりと歪んだ。

 それと同じくらい顔を歪めながら、

「くっそ、リサ。やっぱり、今晩の夕めしに何かおかしなものが入っていたな?」

 と、俺は呻いて訊いた。

「!」

 眉間の厳しいリサは力強く頷いた。

「まんまと一服を盛られたってわけか。あれだけ警戒をしていたのに、くっそ――!」

 俺は視線を巡らせた。場所は俺が布団をかぶったときと同じ屋敷の寝室だった。しかし、梁のむき出しになった天井や部屋を仕切るふすまや欄間、縁側の障子戸が弱い行燈の光で様々な色合いに輝いている。

 ふすまに描かれていた鶴の一羽がぱっと飛び立つ。

 俺の耳には羽音まで聞こえた。

 目を強くしばたいた俺は枕元へ視線を送った。

「俺の銃はそのまま、枕元にある――」

 俺のレッグ・ホルスターとリボルバーはそこにあった。

 俺のS&W M629、六カンマ五インチ、ステンレス・ジュピターも俺のリサもだ。

 頼れる相棒だけは幻覚に歪んだ世界でいつものクールな表情を見せている。

 なあ、お前らもこれで理解できただろ?

 この非情な世界で生き残るために必要なのは銃と運なんだぜ――。

「――どして、おめェらは猿神様のお呼びかけに応えないだ。こンの罰当たりどもめェ!」

 怒鳴り声だ。その怒鳴り声の主がふすまを蹴破って部屋に乱入した。手にライフル銃を持った権蔵だった。怒りに狂った髭面が焼けた鉄のようになっている。立て続けだ。二発の銃声が鳴った。俺の耳にそれは遠く聞こえた。遠かったが、それは両方とも俺の手元からだった。右手に戻ってきた相棒――S&W M686が笑ったような錯覚を俺は受けた。

「――おい、このド素人。次があったら俺から銃は必ず取り上げておけよな」

 俺は何とか立ち上がって仰向けに倒れた権蔵へ歩み寄った。俺のリボルバーが放った銃弾の一発は心臓へ、もう一発は黒い髭面を――目の下あたりを撃ち抜いていた。二発目は権蔵の眉間をぶち抜いてやる予定だった。俺の身体を巡る薬物の影響で距離が近くても狙いはいまひとつだ。

 だが、まあ――。

「――まあ、あんたにはもう永遠にこの次が無いよな」

 俺は倒れた権蔵から銃口を外した。

 俺が早乙女権蔵を殺した。

 俺の足元には権蔵だった死体が転がっているだけだ。

「リサ、天乃河たちはどこへ行ったんだ?」

 俺が振り向くと、リサは片膝をついた姿勢でSG553を構えている。天使の瞳に迷いは無い。リサは人間を殺すのが大嫌いだ。心の優しい女の子なのだ。手癖はひどく悪いが、たぶん、リサは心の優しい子だ。それでも俺の天使は自分の身を守ることまで放棄しているわけではない。

 俺はへらへら笑った。

 ムッと不機嫌な様子で歩み寄ってきたリサが踵を上げて俺の耳をぎゅっとつねった。

 次に、手招きをする仕草を見せた。

 最後に屋敷の玄関のほうをビッシと指差した。

「――ああ、天乃河たちは何かに呼ばれて屋敷から出て行ったのか?」

 俺はぼんやりとした声で訊いた。

「!」

 リサが強く頷くとくるくる癖のある黒髪が宙を舞う。ふわりと女の子の匂いがした。それは足元にある権蔵が流した血の匂いよりもずっとビビットな匂いだった。

 少なくとも俺の鼻にとっては――。

 ぼんやりとしている俺へ背を向けたリサがパジャマを脱いだ。

 これは珍しい。

 リサのほうからえっちのお誘いかよ?

 俺は幼くて白い背にゆるゆるとかかった黒い髪や、その間から覗く下着の白い線を眺めながら、へらへらしていた。ああ、俺に盛られた薬はまだ効いているらしい。もちろん、それはえっちのお誘いではなかった。リサは下着を脱がない。自分の枕元にあったTシャツを着た。例によってファンシーなワンちゃんがプリントされた可愛いTシャツだ。リサはその上に組合の作業服を着た。深緑色の無骨なデザインのものだ。そして、リサは最後にガンベルトを腰にぎゅっと巻いた。

「!」

 戦争の準備を終えたリサが振り返って顎を斜めにしゃくった。

「ああ、四十秒で支度しな、か?」

 俺はそれを解読して呟いた。

 リサの顎の先は俺の布団の枕元だ。

 そこに俺の着替えがある。

「ああ、そうだよな、お前の言う通りだ。身支度を整える必要があるぜ。これはどう見ても非常事態だしな――」

 俺は自分自身へ視線を送った。小豆色のジャージ姿だった。俺はこのジャージを寝巻代わりに使っている。普段の俺はとにかくジャージが多い。理由はこれが一番、動きやすくて楽な服装だからだ。

「リサ、その前にだ――」

 俺は着替える前に枕元のピッチャーを手にとった。ピッチャーの中身は水だ。それに直接口をつけてがぶがぶ飲んだ。俺は水で膨らんだ腹をさすりながら部屋の隅っこに移動して、「おげぇえ――」と口のなかに手を突っ込んで水ゲロを吐いた。

 涙が出る。

 鼻水もちょっと出た。

 ま、簡単な胃洗浄だよな――。

「――うん、どうにかこれで落ちついた。ああ、まだ視界がひしゃげるぜ。夕めしに何が入ってたんだ。集落がロシアから手に入れた向精神薬か。だが変な味――薬物の味はしなかった――変な笑いがまだ出る。妙にハッピーな気分。何を見ても色がついた形が踊ってる。LSDだとか、MDMAエクスタシーだとか、メスカリンだとか――とにかく、俺たちが盛られたのはハッピーな幻覚を呼ぶ薬物だろうな――」

 俺はぶつぶつ言いながら衣服を変えた。

「!?」

 俺の前にきたリサがざっと腰を落とした。

 右拳を引いている――。

 俺は右の手のひらを見せて殺気立つリサを制して、

「――ああ、いい。俺の意識はそこそこまで回復した。だから、お目覚めのリサちゃんパンチはもういらんぞ――早乙女夫妻が用意した夕めしの味噌汁に入ってたのは乾物のきのこだったよな?」

 俺は盛られた薬物の影響で時系列が滅茶苦茶になった記憶を辿った。

「!」

 リサが強く頷いて見せた。

「――ああ、あの味噌汁に入っていたのは毒きのこだったか。幻覚性の成分を持つものだとマジック・マッシュルームが有名だよな。日本の山中でも似たようなものは簡単に調達できるんだよ。ベニテングダケだとかオオワライダケあたりだ――山間部ではあるていどの毒抜きして、あれを食う地方もあるって聞くからな。くそっ、冗談じゃないぜ。だが、あの味噌汁はかなり旨かったな。毒きのこってあんなに濃いダシが出て旨いものなんだな――」

 俺はひとしきり呻いた。今晩の味噌汁をリサは全部残していた。その匂いを嗅ぎながら首を捻って何かしきりに警戒をしている様子だったのだ。

 リサはきのこが嫌いなのか?

 あのときの俺はそのていどで済ましてしまった。

 先に夕めしを終えた宍戸たちは平気そうだったし――。

「!」

 リサが屋敷の玄関の方角をまた指差した。

「まだ、表に誰か――天乃河たちがいるのか?」

 俺はリボルバーの弾を込め直した。

 畳に落ちた空薬莢は二発分だ


 リサと俺が屋敷の玄関をこそっと窺うと、

「三久保さん、猿神様がお社でお待ちですよ。急いで急いで」

 上がり框で友里さんが三久保を急かしていた。

「あえ、今から行くのは、箱(※貸しスタジオのこと)でなくてお社なのお?」

 三久保はそんなことを愚図愚図と言っている。

「ええ、神社ですよ、裏山の月日神社――」

 友里さんが言った。この友里さんも緩慢な動きと表情だった。彼女もおそらく薬物を摂取しているのだろう。

「それはおかしいな。今から行くのは貸しスタジオじゃないのお。今夜はバンドの練習があった筈だぜ?」

 三久保が緩慢な動作で首を捻った。

「いえ、違います。三久保さん、武器はもういらないですよ。そこに置いてください――」

 友里さんが三久保の肩から下がっていたSG553を取り上げたところで、

「――やあ、こんばんわ、友里さん」

 俺は土間にあった靴を履きながら声をかけた。

「あっ、えっ、黒神さん――?」

 友里さんが俺を凝視した。

 俺は顔を上げて愛想笑いを見せた。

 リサも自分のブーツの靴紐を結びながら友里さんを見やった。

「――あっ、あぁあーッ!」

 悲鳴を上げた友里さんは三久保を突き飛ばして背中を見せた。友里さんは手にした銃を土間へ捨てていった。俺はリボルバーで友里さんの背中を二発分撃った。玄関口から出たあたりだ。友里さんはうつぶせに倒れた。そのまま動かない。

「――ああ、リサ、気を悪くしたか?」

 俺は視線を送らずに訊いた。

 リサは怒っている。

 横から伝わる空気でわかった。

 暗く淀んだ土間の空気が天使の怒りで震えていた。

「リサ、俺を責めるな。あの女を逃がしたら、俺たちがまだ正気で動いていることを集落の連中に知られるからな――」

 俺はリボルバーを片手に立ち上がった。

 丸めた俺の背にリサの怒りが刺さっていた。

「あのな、リサ。俺だって気分は良くないんだ。後ろから人間を撃つのは慣れているよ。だが、その相手が女となると多少はな――」

 俺はリボルバーへまた弾を込めた。シリンダーから抜いた空薬莢は二発分だ。土間に落としたその空薬莢は音を鳴らさなかった。タクティカル・グローブをつけていない。熱の残る薬莢が指を焼く。俺はその痛みに耐えた。

 リサは返事をしなかった。

 俺はリボルバーをレッグ・ホルスターへ納めて、

「おい、三久保、大丈夫か?」

 三久保の胸倉を掴んで引き起こした。

「あえ、黒神さん。離してくれよ、急いでいるんだ。俺は今からスタジオに行くぜ。礼音と春奈が待ってるから。あっ、今日は宍戸が友達を連れてくるらしいんだ。姫野っていうやつだよ。あと春奈や秋妃も学校の友達をつれてくるって。女子高の女子高生だよ。フレッシュなおまんこで今日の客席は埋まるんだぜ。嫌でも気合が入るだろ。まあ、春奈や秋妃だって同じ女子高生なんだけどさあ、あっははっ――」

 これが三久保の返答だった。

 うーん、これはまだ薬で駄目っぽいよね――。

「三久保、しっかりしろ!」

 俺はビンタをバシバシくれてやった。

 往復ビンタだ。

「あぶっ、あぶえっ、あひんっ――」

 三久保が気の抜けた悲鳴を上げた。

 どうもこれでは――。

「――俺も薬でヘロヘロだからビンタにキレがねェ。リサ、ここは頼むぞ。殺すつもりでやってくれ」

 俺は三久保の背後へ回った。

「!」

 深く頷いたリサが三久保のみぞおちへ正拳突きを叩き込んだ。

 ボッグン!

 リサの聖なる鉄槌が三久保の腹へめり込む。

 三久保を羽交い絞めにしている俺の腹にまでその衝撃が伝わってきた。

 へえ、これはすごいな。

 俺はこんなに強烈なものを毎度毎度、リサから叩き込まれていたんだね――。

「ぐえっ、はぁあ!」

 三久保の悲鳴だ。

 俺が手を離すと、

「おっ、ふぅぐええっ、ぐええ――」

 崩れ落ちた三久保が土間で転げまわった。

 ゲロをまき散らしている。

 汚い。

 その上、死にそうだ。

 リサと俺は三久保の断末魔を無言で眺めていた。

 しばらくそうしていると、

「――あえあえ、黒神さんとリサちゃん?」

 三久保が顔を上げた。

 涙と鼻水が垂れ流しだ。

 口の脇に吐いたもののカスがぶら下がっていた。

 汚い。

 目と記憶が汚れる。

 こんなもの見たくない。

 俺は目を逸らした。

 リサも目を逸らしていた。

「おっ、俺はどうして、こんなところでゲロまみれになってるんだ。酒を飲んだ覚えはないんだけど――」

 三久保が呻いた。

「薬だよ。俺たちは早乙女夫妻に幻覚剤を飲まされた。どうも、早乙女夫妻が作った今日の夕めしに混ぜてあったらしいな」

 俺は言った。

「ああ、ピンク色の夜が波打ってるう、これって薬のせいかあ、ああ、ヘヴィにサイケデリックだぜ――デデデーン、デデデーン、デデデーンデーン――」

 鼻水を垂らした三久保はまだへらへらしている。

「――ほら、水だ。ガブ飲みしろ」

 俺は屋敷の玄関口にあった花瓶を持ってきて三久保に手渡した。

 これは花瓶の水だ。

 でも三久保は薬でへろへろだからわかりゃしないだろ。

 案の定、

「ああ、黒神さん、ありあと――」

 へらへら笑いながら、三久保は花瓶の水をごくごく飲み干して一息ついた。

 その三久保を後ろから引き起こした俺は、

「よし、リサ、三久保にもう一発くれてやれ」

 爆撃要請だ。

 天使の鉄拳に躊躇ためらいはない。

 リサが三久保のみぞおちに右拳をズドーンと突き刺した。

「ぐっえっはあっ! ぐえぇ、おえ、おえぇえぇえ、ぐぽっ――!」

 三久保が土間に落ちて花瓶の水を口から噴きながらのたうち回った。

「三久保、胃のなかのものはすべて吐いてしまえ。俺たちが夕めし食ってからまだ四時間以内だ。胃の内容物は腸まで落ちていない。薬の成分が胃に残っているんだ。吐けば多かれ少なかれの薬物が抜ける。胃の粘膜から血中に溶けだした薬の成分が消えるには、まだ時間が必要だろうが――」

 事後に俺は考えを伝えた。

 すると、ゴロゴロ転がっていた三久保が動きを止めた。

 おやおや、これは死んでしまったのかな?

 リサと俺は同時に顔を傾けた。

「――げっふ、げっふん!」

 咳き込んで生存を表明した三久保が、

「くっ、黒神さん、今晩の夕めしの何にこの毒が入ってたんだ。あの鹿肉のソテーか?」

「いや、きのこの味噌汁だ。おそらくこの毒もきのこそのものだ。リサは匂いで異常を察知して、きのこの味噌汁だけを食べなかった。油断をしたぜ。俺のリサはいつでも正しいんだ――」

 俺は苦笑いでリサへ目を向けた。

「!」

 リサがおもむろに頷いて見せた。

 ものすごいドヤ顔だ。

 三久保が両脚を笑わせながら立ち上がって、

「すっ、すごいな、リサちゃん。この毒の匂いがわかったのか。まっ、まるで番犬だぜ――」

「!?」

 くっわっと表情を変えたリサが三久保の腹へ二連撃をぶち込んだ。

 正拳突きと鉤突きだった。

「ごっふぇあ!」

 三久保が土間に崩れ落ちた。リサはワンちゃんが大好きだ。しかし、彼女自身を犬っころ呼ばわりするとこのようにしてブチ切れる。

 土間で苦悶する三久保へ踵を振り下ろしてとどめを刺そうとしたリサを、

「おい、三久保を痛めつけるのはもういいから――」

 俺は後ろから抱きすくめた。

 顔を真っ赤にしたリサは身を捩ってぱたぱた暴れた。

 ここでどうしても三久保を殺したいらしい。

「しかし、何がどうなっているんだ。早乙女夫妻は俺たちをどこへつれていこうとしていたんだろうな。天乃河らの姿が見えないが――」

 俺はリサの後頭部へ呟いた。

 動きを止めたリサが身を捩って俺を見上げた。

「――ああっ、そうだ、礼音たちは!」

 三久保が跳ね起きた。

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