狩人と奴隷少女の日本ゾンビ列島紀行
亀の歩
第1章 奴隷の少女
第1話 奴隷の少女(イ)
折れた電柱が寝転んで黒い蛇のような線を垂れている。断ち切れた線に通る電気はない。地上に人影も光もなく、夜空には月と星だけがあった。黒い雲がかかる丸い月は、あばたづらの男が両目に手を置いてむせび泣いているように見えた。ひび割れたアスファルトには草が萌えて、その下から鈴虫の鳴き声が聞こえる。
俺の手元に明かりはない。区外で照明を持ち歩くとNPCを呼び寄せる。奴らの視力は人類よりも遥かに優秀だ。優秀なのは視力だけではない。嗅覚も聴覚も身体能力も凶暴性も、生きる上で必要な執念も、NPCは人類よりも遥かに――。
腰のベルトからぶら下げた小さなラジオに接続したイアフォンから、ノイズ混じりに流れてくる番組――『DJトキコの夕ドキ静岡!』のDJトキコが耳障りなアニメ声で伝えてくれた情報のなかに、この周辺のNPC発生警報はなかった。ゾンビ・ファンガス胞子の飛散情報もなかった。本日の静岡で観測された瞬間最大放射線値は一〇マイクロシーベルト以下だった。これも、ひとまずは安心できる数字だろう。
南海トラフ大震災だ。
あれに揺さぶられた御前崎の原発は案の定、汚いクシャミを連発した。それ以降、東海地方は放射能汚染区域が点在している。毎日毎日、天気予報の先に公表される放射性物質拡散情報に耳を傾けるのが、ゾンビきのこと放射線で壊滅した日本で生きる俺たちの日常になった。今日の放射能数値が一番高かったのは東京で時間帯によっては三〇マイクロシーベルト以上の数値だった。NPC発生騒動時、東京湾内に展開した在日米軍の第七艦隊は最終的にゾンビ・ファンガスに乗っ取られた空母を自らの手で轟沈させた。その混乱で撒き散らされた戦術核の影響が東京に残っている。
DJトキコの有益だったり無益だったりするトークの間に流れた最初の音楽は、
「――東京には人間がひとりも住んでいない筈だろ。なら一体誰が東京で放射能値を測定しているんだろうな?」
俺は道の脇にあったコンビニの駐車場へ、ワイヤーを張り巡らせながら呟いた。これに掛かるとワイヤーの防犯ブザーが反応して、俺に侵入者を知らせる仕組みだ。廃コンビニは正面はガラス張り(全部割れている――)で正面の視野を大きく確保できるから、接近してくるNPCの確認がしやすい。コンビニの後ろは阿部川が流れていた。NPCは水のなかを移動しない。泳げないわけではないと思う。この安全確認は所詮は気休めだ。このワイヤーを張って作った簡易警報装置も気休めていどの効果しかないだろう。NPCに白兵戦等可能な距離にまで接近されると、人間側の対応策は無きに等しい――。
ワイヤーを張り終えてコンビニの廃墟へ入った。倒れた棚と商品の残骸が散乱し埃が厚く積もっている。この店は何年か前に略奪されたあとだ。東海地方に点在する指定居住区外にある廃屋はたいていがこうなっている。過去の遺産を拾い集めて生活している奴らは多い。俺だってそのなかのひとりだ。倒れた商品棚をひっくり返すと積もった埃が舞い上がった。棚の下に飴玉の袋がひとつある。
ゾンビ・ファンガスの胞子に汚染されていない食料なら貴重だ。
オイル・ライターの火を近づけると、裏にあった製造年月日は二〇一六年四月だった。
日本でヒト寄生型ゾンビ・ファンガスが発生したのは二〇一七年の初頭。この飴玉の袋は取っておく。他に缶詰だとか珈琲の粉だとか強い酒が見つかればもっといい。タバコは難しい。あれは賞味期限が案外短い。気を良くした俺は、オイル・ライターの火を照明にして店内をしばらく物色したが、他は便所のドアの近くで生理用品のパッケージをいくつかを見つけだけだった。
俺にこいつは必要ない――。
物色を終えた俺は放射線・胞子の双方測量機で大気中の放射能と胞子を確認した。検出された放射線はなしだ。検出されたゾンビ・ファンガス胞子もない。俺は耐胞子スポーツタマスクを外して、レジの裏側に屈み込んだ。ここなら火を使っても外から見え辛いだろう。床に旧日本円札が何枚か落ちていた。その昔は有り難がったものの上へ、背負っていたレミントンM24SWS――ライフル銃と背嚢を下ろす。
安倍川上流の調査依頼を受けた俺が静岡居住区を出てから今日で三日目だ。
腰が疲労で鈍く痛む他に特別な問題はない。
背嚢から携帯コンロを取り出して火をつけた。その上に置いた鍋へ水筒の水を入れて沸騰させたところで、袋のインスタント麺を放り込んだ。ここで見つけたものではない。これは元々携帯食として俺の背嚢のなかにあったものだ。
今日の夕食が煮えるのを見つめていると、表からローター音が聞こえてきた。ミュータント・NPCの呼ぶ鳥の群が、バード・ストライクを頻発させる日本の上空で航空機を飛ばすのは危険だ。
危険を強行するのは緊急事態ということ――。
俺はレッグ・ホルスターにあったスチール・フレームの拳銃――S&WのM686を手にコンビニの外を窺った。月の明かりを頼りにして遠く北に見えるのは数機のヘリコプターだ。夜間双眼鏡を通して目を凝らすと、そのうちの2機にはローターの上に特徴的な丸いレーダーがついている。
「二機はロシアのMi-28Nだ。他の4機は――馬鹿でかい輸送ヘリだな。あれはMi-26なのか?」
俺は呟いた。六個編成のヘリコプター部隊は地上の何かを追っているような動きをしている。日本皇国軍とロシア極東軍の交戦がまた始まったのだろうか。先日締結されたらしい日本皇国軍とロシア極東軍の甲府休戦協定はもう破られたのか。ロシア人の条約破りはお家芸のようなものだから驚くには値しないが――何にしろ、北陸方面を占領下に置いているロシア極東軍の部隊が日本皇国軍の支配地域――東海地方まで顔を出しているのは間違いない。
ロシアの奴らが何を考えているのかわからん。
日本皇国軍も同様だ。
俺にとっては日本皇国軍もロシア極東軍も、関わると大損しかこちらへよこさないクズの寄せ集めに過ぎない。
ともあれ、金にならないトラブルは御免被る。
俺は廃棄されたコンビニへ戻って携帯コンロの火を消し、鍋の中身を――茹で上がる寸前だったインスタント麺を床へぶちまけた。
こんな貧相な一食でも今日この頃は高くつく――。
「――今夜は夕めし抜き」
独りごちながら、熱くなった小鍋をタオルでくるんで背嚢へ入れたところで、ヘリのローター音に車のエンジン音が交っていた。地上をでかい車で走っている奴らがいる。音から察するに車列を作っているようだ。
「シャガ、シャガシャガシャガ――」
遠い北。地上からの銃声。この音はブローニングM2機関銃だ。接近してくる車列は古き良き傑作銃を銃座につけているらしい。装甲車両なのだろう。
上からのローター音に「ブババババ!」と銃声が交じった。
攻撃ヘリの鼻づらについていた三〇ミリ機関砲の射撃音。コンビニの表を警戒していると軍用トラックが蛇行しながら通り過ぎていった。その直後、俺の視界の外から軍用トラックが派手に衝突する音が聞こえた。どうも道の脇にある廃屋のひとつに突っ込んだような音だ。攻撃ヘリはロケット弾を使う気配がない。理由は知らんがこれは助かった。数打ちゃ当たる方式が売りのロシア製対地ロケット弾が気まぐれを起こして俺のほうへ突っ込んで来たら、辞世の句を考える間も無く吹っ飛んでしまう。しかし、今、気軽に表へ飛び出すと上から下から大口径弾の放火を浴びてお陀仏なのは間違いない。
背嚢とライフル銃を背負った俺はコンビニの裏手から脱出して河原へ降りた。
安倍川の暗い河原を南に歩いて面倒をやり過ごせばいい――。
そう考えながら河原に降りたところで、ボン、頭上で音が鳴る。
上空にいたヘリが煙を吹いて不審な動きを見せていた。どう見ても撃墜されたヘリは、地上の俺へ目掛けて落ちてくる。
「殺す気かよ!」
俺は息を潜めて降りた土手を今度は慌てて駆け上がると、近くのブロック塀を乗り越えて廃屋の裏庭へ飛び込んだ。今は草むらのようになった裏庭だ。全身に熱風を感じたときは諦めた。耳から音が消えた。屋根瓦や何かの破片がバラバラ落ちてくる。俺は裏庭に伏せたまま頭を抱えた。耳鳴りは収まらない。だが、どうやら俺は生きている。落下物の危険がなくなってから顔を上げると河原のほうで黒煙が噴き上がっていた。地上の奴らが対空火器を使ってヘリを撃墜したらしい。使ったのはスティンガー・ミサイルか、それに似た何かだろう。
不必要なものを持ち歩くとは、また随分と用心深いな。
俺は怪訝に思ったが、ともあれこれで河原を進む道は断たれた。
墜落したヘリが誘爆する危険もある。
俺は半分以上崩れた廃屋の外周伝いに進んで、崩れたブロック塀の陰から表の道の様子を窺った。表のブロック塀には「今井」と苗字だけの表札がついていた。
アメリカ軍の軍用トラック――FMTVが横転して対面にある廃屋へ突っ込んでいる。あれは日本皇国軍が使用している大型の軍用トラックだ。この車両は荷台部分が四角い箱型――バン・ボディだった。これは
日本皇国軍は表向き、健全な皇国民の育成と保護の為と謳っている。実際は複合企業体が経営する
今夜は月の光がひどく鋭い。
「随分と器用な死に方だよな――」
俺は声を出さずに笑った。
移動を開始できるか。
この場に留まって奴らをやり過ごるか――。
判断に迷って南へ視線を送っていると、今度は爆発音が連続した。味方を撃ち落とされて頭に血が上った攻撃ヘリが、ロケット砲を北から来る車列に降らせている。
ようやく俺は状況を把握した。
ロシアと皇国軍の支配地域境界線上にいた貧乏人ども――奴隷をロシア極東軍と日本皇国軍が取り合っているらしい。皇国軍が輸送している奴隷を横取りしようと躍起になっていたロシア極東軍は、商品の破損を恐れて対地ロケット砲を今まで使わなかったのだろう。俺は崩れたブロック塀に身を隠したまま天災のようなヘリの群れが過ぎ去るのを辛抱強く待った。派手にロケット砲を撒き散らしたロシア極東軍は皇国軍が輸送していた奴隷の奪還を諦めたと俺は考えたのだ。
予想通りだった。
味方をやられた腹いせを終えた攻撃ヘリは、生き残った輸送ヘリ三機と一緒に北の山の向こうへ消えていった。甲府から北はロシア極東軍の支配地域だ。その直後、ロケット砲の爆撃があった地点で自動小銃の発砲音が鳴り始めた。ロケット弾の雨あられで頓挫したストライカー装甲車の周囲で何人かの皇国兵が自動小銃を撃ちまくっていた。道の脇から人影が次々飛び出てくる。全身の筋肉が異常に発達して、並みの人間の倍以上は幅のある人影だ。NPCの群れだった。区外で景気よく花火の音を鳴らすと奴らはああして駆け寄ってくる。
NPC相手の夜間戦闘は人間側が圧倒的不利だ。夜間は奴らの急所――NPCを操っているゾンビ・ファンガスの命令系統が集中している頭部を正確に狙い辛い。皇国兵のひとりが突っ込んできたNPCに首根っこを掴まれた。NPCはそのまま片手で皇国兵を振り回し地面へ彼を叩きつけた。
ぐるん、ぐるん、ぐしゃん。
ぐるぐる、べきっ――。
その付近にいた皇国兵が叫び声を上げながら、お仲間もろともNPCを撃ち殺した。
至近距離で弾を喰らったNPCは動くのをやめた。路面へ叩きつけられた皇国兵も、立ち上がる気配がない。味方もろとも敵を撃ち殺して、まだ何か大声で喚き散らしていた皇国兵は後ろからきたNPCのタックルを受けた。押し倒された皇国兵はNPCの手で背中のほうへ身体を二つに折られた。折れた場所から中身が迸るのが遠目にもわかる。
ロケット弾で破壊された何台かのFMTVが噴き上げる炎が背景だった。
皇国軍の奴隷狩り部隊が大騒ぎをしてくれるお蔭で、その南にいる俺に気づいたNPCはいないようだ。ロケット弾で耕された付近は死体が散乱している。この周辺に潜伏していたNPCはしばらくの間そこから動かないだろう。NPCによって死体は餌だからだ。身体能力が高くても知能は低いNPCは食料の生産を自分では行わないが、その代わりに食えるものなら何だって食って養分にする。
俺は廃屋に突っ込んで動きを止めた皇国軍のFMTVへ目を向けた。アメリカ政府のバックアップを受けている日本皇国軍は高価な重火器や車両を使っている。皇国軍が持っている一番のお宝は洋モクと洋酒だ。居住区で一番賑やかな駅前でも舶来の高級嗜好品は入手が難しい。欲に駆られた俺は廃屋の玄関に忍び寄った。FMTVが頭を突っ込んだ廃屋の玄関は倒れて開いている。オイル・ライターを片手に、廃屋のなかから横転したFMTVの正面へ回り込むと、フロントガラス越しに運転席が確認できた。運転席で血まみれになった皇国兵が持っていた自動小銃は、FN-SCARだ。状態によりけりだが居住区の火砲店へ持ち込めば、少なくとも十万円以上の値段で買い取ってもらえる高価な銃だ。しかし、日本皇国軍の持ち物をパクったのがバレた場合はかなり面倒なことになる。これを俺自身が使うことも考えた。もっとも、俺はこの銃が好きではない。汎用目的で開発されたこの銃はサプレッサーを装着しないと発砲音が大きい。あれやこれやと欲張って銃の各部についた余計なギミックも多い。破損した場合、部品の調達に逐一高くつく。それに、五カンマ五六ミリNATO弾はNPC相手だと少々威力不足だ。だが、FN-SCARは似たような形状の七カンマ六二ミリNATO弾を使えるモデルだってある。
ここにあるのは、さてどちらかな。
大雑把に口径の違いはバレルの長さでわかる。
バレルの長い銃はたいてい口径も大きいものだ。
しかし、どうにも暗くて判別が難しい――。
俺は少し考えた後、内側が血に塗れたフロントガラスの脇から見えていたFN-SCARの取得を諦めた。オイル・ライターの灯りだけでは、それ以上、運転席のなかの様子がわからない。横転して上部になったドアは崩れ落ちてきた建物の天井が邪魔で開きそうになかった。フロント・ガラスを叩き割ったところで、なかの奴らが生きていたら、それはそれで面倒が起こりそうだ。この車が積んでいた荷は、おそらく皇国軍が捕らえてきた奴隷だろう。
居住区で奴隷を売れば、かなりいい金になるだろうが――。
しかし、三〇ミリ機関砲の砲弾を尻からしこたま食らった軍用トラックの荷台にいた人間が生きているとは思えない。無傷の奴隷を見つけたところで、徒歩で独りの俺は持ち運びに難儀する。諦めた俺は廃屋の外へ出た。
まだ北から銃声が聞こえていた。
おそらく、この界隈でうろついていたNPCが結集しつつある。
モタモタしていられない。
「時間があれば――」
溜息を吐きながら道へ出ると、横転したFMTVの後ろから何かが緩慢な動きで這い出てくるのが見えた。
俺はレッグ・ホルスターからリボルバーを引き抜いた。
「――動くな」
俺は銃口を向けて、よろよろと立ち上がった人影に声を掛けた。
人影は俺の胸元くらいの背丈だ。手足は白く細い。筋肉で膨れ上がってミミズのような血管が走るNPC特有の四肢とは明らかに違う。人影は紺色の着古したワンピースに、ケバだったベージュ色の、これも古びたカーディガンを羽織っていた。足元は赤茶色のトレッキング・シューズだ。靴だけは新しい。
振り向いた人影が俺を見て、
「!」
驚きで瞳と唇を開いた。
ボリュームのある髪は長く、前髪も顔を隠すほど長い。
癖のある髪質なのか、あるいはロクに風呂へ入っていないのか。
少女の黒髪は所々ピョンピョンと跳ねている。
月明りの下で見るとその色は黒より藍のほうに近かった。
「女か?」
俺は訊いた。
身体だけを見ると、少年と勘違いするような年齢。
人影は十四歳前後の少女だった。
白い頬に血がついている。
着ている衣服も血で汚れていた。
誰かの血なのか、自分が流している血なのかわからない。
「動くな、両手は上だ。そのままゆっくり膝をつけ」
俺は銃口を向けまままま少女へ歩み寄った。
少女は目を見開いたまま身を固めている。
「聞こえなかったのか?」
俺は少女の足を蹴飛ばすようにして払った。
「――!」
少女は尻餅をついても悲鳴を上げなかった。
「おかしな真似をしたらすぐに撃つ。大人しくしていればすぐには撃たん」
腰を落とした俺は少女の胸倉を掴み銃口を見せた。
少女は小さく頷いた。
その瞳に映った満月が怯えで揺らいでいる。
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