第三首 -弍の句- チーズケーキ

 得体の知れない熱が、わちしの体から抜けようとしない。咽が痛いわけでも、寒気がするわけでも、頭痛が走るわけでもないというのに。……いや、しかし痛みでこそないが、頭はややくらくらとする。まるで、元旦に呑むお屠蘇、あれを無闇に口に含んでしまったような"酔い"に近い。

「ちょっと書庫蔵に行ってくる。おれが戻るまで布団被ってじっとしとけよ?」

 そうみさとはわちしに声をかけると、炬燵に体のほとんどを預けたわちしの傍に、屋敷にある掛け布団と毛布をありったけ持ってきては、わちしの手の届くところに、段々に置いていく。

 わちしの体を布団の山で覆うことなく、ただひたすらに傍らに積んでいくみさとの姿は、「休め。」とわざわざ言葉にせぬ、彼の優しさを感じさせた。

 いや、そもそもみさとが持ってきたものが、掛け布団であることが、もう上手い話だったのやもしれぬ。

 そう────。

 なにせ、敷き・・布団では、なかったのだから。

 無理を強いる・・・・・・布団では、なかったのだから。


 また幾度目か熱を持つ頬に違和感を覚えつつ、しかし、この面貌を誰にも見られたくないという思いに駈られ、頭許に置かれた布団を手繰り寄せ、すがりつくようにわちしはこの赤面を隠すのだった。


///


 おれが書庫蔵から戻ると、若紫は眠りに落ちていた。幾枚かの布団に包まれる彼女の寝姿は、犯しがたいほどに無垢な清廉さを醸し出していた。

 発熱して眠り落ちてる若紫を起こすのは、些か野暮ってものかな。

 書庫蔵から持ってきたのは、一冊の薬膳料理本。とはいっても、素人にも解るレベルの簡単なレシピが載っているものだ。

「発熱……発熱……っと」

 目次で"発熱症状"と銘打たれた範囲のページ付近に指を滑り込ませ手にした本をパラパラと捲る。


 若紫に、漢方を含めた現代の医薬品を飲ませることには一抹の不安があった。

 薬も過ぎれば毒になる。

 若紫の体に現代の薬への耐性がなかった場合、インスタントに市販のものを飲ませても、反って悪化させてしまう可能性があるのだ。

 料理の師匠たるおれは、万が一にも、弟子に毒を飲ませてしまう、なんてことになるわけにはいかない。……まぁ、とはいえあくまでこれは、おれの沽券に関わるという、たったそれだけの話。


 実際のところは、若紫が病状を悪化させることなく、純粋に早く治ってほしいと本心から思っているだけだ。


 これまで若紫は、おれが振る舞った料理と、おれの知らないところでじいさんが彼女に食わせていた料理とを、ことごとく美味しく平らげてるし、アレルギーの心配はこの際気に留めなくてもいいだろう。


 それ故、今回の若紫の発熱の治癒に選んだのが、薬膳なのだ。


 若紫自身、現代の料理を口にすることに躊躇いがない上に、食べてもらって、そのあと大人しくしておいてくれれば、あとは薬膳で体内に取り込んだ栄養素と自己免疫力が勝手に若紫の体を治してくれる。

 こういう場合、下手に薬を使うより、食事を工夫する方が安全面を考えても、リスクの面を考えても、なにかと利点が多いのだ。


「……ん、どうやら乳製品が効くみたいだな」


 発熱時に摂るものの代表例として、"牛乳"が筆頭に記されていた。

 確かにおれも、プリンとかヨーグルトとか、風邪を引いたときは食べるからな。効き目があるのは間違いないだろう。

「ただなぁ……、プリンは時間かかるし、ヨーグルトもだけど、あのどろどろの食感……、若紫の口に合うかな……」

 そう。まだおれは、若紫にその手の食感のものを食べてもらった試しがない。

 チョコレートをつまみ食いしたときのような、固形物が蕩けて生まれる食感ではなく、元来液状のものを固形に近付けることで生まれる食感。これらは似て非なるものだ。


 この間のバレンタインチョコ……、そういえば若紫の評判はよかったな。

「となると、あれに食感が似てて乳製品をメインに使う料理、か……。できれば甘いものの方がいいかぁー」

 これだけ条件が並べば、さすがのおれのレパートリーの中でも、思い浮かばせられる料理は一つだけに絞られた。


 ……ただまぁ、今日作るあれは腹持ちが良すぎる。

 時間帯だけを鑑みるなら、若紫の口に放られるのはおやつの時間辺りになる。

 だけどあれの場合、おやつとかデザートとかって呼ぶより、間食と呼んだ方がしっくりくること請け合いの代物に成り果てるんだろうな。


「い……、意外と値段張ったなぁ……」

 思い立ったが吉日のスタンスで動くおれは、思い浮かんだ直後、すぐに自転車に飛び乗り買い出しに出掛けた。

 そしていましがた、じいさんの家改め、若紫との家に帰ってきて、先月と今月の食材調達分のレシートを並べてみているのだけれど……。

 バレンタインチョコに関しては、板チョコを大量買いしただけで、他には特に買い漁る材料はなかった。

 ところが、今回の場合、実際に使う分量は少ないのだが、材料の種類が豊富なのだ。

 気のせいではないと思うのだが、若紫に料理を教え始めてから、財布の中が寒くなることが増えてきている……。

「ま、これで若紫の調子が良くなれば、一事が万事快調ってことになるか」

 ひとつ、短く嘆息を漏らし、おれは買い物袋から食材を取り出す。


 さて、始めるとするかな、今日の料理を。


 まずは、クリームチーズ100グラムをボールの中で、ゴムべらで練っていく。柔らかくなるまでひたすら練り続けるのだが……、うん、クリームといえど、さすがはチーズ。既になかなかの重さがあっておれの腕に十分負荷をかけてきている。

 まだまだ序の口だから、こんなところで音を上げるわけにはいかないんだけど。


 クリームチーズが柔らかくなったら、ここに50グラムの無糖ヨーグルトを加え、レモン果汁大さじ半分を入れ足し、次は泡立て機を使い、混ぜ込んでいく。

 さーて、こっちがよく混ざったら次は別のボールの出番だ。


 卵黄一個分とグラニュー糖15グラムをよく混ぜる。白っぽさが出てきたら、薄力粉20グラムを篩にかけながら加えていき、更に混ぜる。

 混ざりきったら、このボールの中身を、クリームチーズを練りに練ったさっきのボールの中に投入し、そこに、練り黒胡麻30グラムを追加し、また混ぜる。


 それなりに混ぜ合わせたら、また別のボールに卵白一個分とグラニュー糖20グラムを入れ、メレンゲを作る。

「メレンゲ作る前に、使わなくなったボールを洗っといて正解だった……。ボールって洗い物として放置しとくにしては、ちょっと場所とるんだよなー」

 ……メレンゲ作りに到達するまでに、己が腕力を削がれに削がれたおれは、この行程からは電動泡立て機に委ねることにした。


 独特の機械音が、おれの掌を中心にこの家の空気をわずかに振動させる────。


///


「ん……、んっ。」

 聴き慣れない金属音に、わちしは起こされた。

 起こされ……た……?!

「あなや!わちしとしたことが、寝てしまっておった……っ!」

 ハッとした、というにしてはやや小ぶりな声量ではあったが、思ったことがそのまま口をついて出てしまった。

 わちし自身、眠るつもりはなかった故、炬燵とみさとが用意してくれた布団の暖かさにかまけ、挙げ句、その夢心地に浸るまま本当に夢の中に入っていたというのは、些か以上にわちしの羞恥心を加速させる。

 けれど、わちしを起こしたこの音は、みさとがまたなにか美味いものを作っている証拠であろう。

 それを今日も堪能できるかと思うと、いまから楽しみで仕方がない。


 ……あぁ、このような心持ちで、みさとの手料理に勝るものなど、そもそもわちしに作れるのだろうか。


 わちしは、長年あの書庫蔵に居ながら、料理本なるものに触れることなど一度たりともなかったのだ。


 初めてここに顕れてより……、いや、わちしが『物語の登場人物でしかない』と知ってより、なにかを知る意欲なぞ根こそぎ消え失せた。


 わちしは、源氏様を慕う若紫。

 それ以上でも以下でもない。

 この現代《よ》の書物を読み耽ようと、この世の叡智に触れようと、全ては"源氏物語"なる紫式部が紡ぎし箱庭に生きる"道化"に過ぎぬ。


 こんなわちしでも、まだ、みさとの弟子を名乗って良いものなのだろうか。


 ……わちしの、このみさとへの気持ちは、わちし自身、もう気付いている。


 ────わちしの物語に沿うならば、本来源氏様に向くるべき想ひおもいを、いまはもう、みさとの方へとかぶかせ、いささか、細流いさゝがわの如く、注ぎ込んでしまっておるのじゃ。


 されどわちし若紫は、これでも良いのだろうか。

 この想ひを抱く"わちし"は、それでも、"若紫"で在り続けられるのだろうか。……赦されるのであろうか。


 わちしには、もう、『正しさ』が分からぬ。

 料理の師であり、いまや想ひ人おもいびととなったみさとに『優しく在りたい。』と思うことが、"若紫わちし"として、正しいのか、間違っているのか。


 ……────どうやらわちし一人では、考えがまとまりそうもない。


 ──いつの間にか、わちしを起こしたあの音は耳に届かなくなっていて、代わりに、深みのある甘い薫りがわちしの鼻をくすぐってきている。


 あぁ……、この積年の思い、今宵みさとに打ち明けてみるとするか。


 みさとなら、どんな答えを、わちしに寄越してくりゃるのであろうぞ……。


///


 オーブンを覗くと、生地がほどよく固まっているのが窺える。

 ……そろそろ焼き上がりそうだし、若紫を起こそうかな。

 座敷の炬燵で眠る座敷わらしというのも珍妙な光景だが、久々に手の込んだ料理をしたわけだし、せっかくなら出来立てを食べてもらいたい。

「おーい、若紫ー。おやつできたぞー。これ食って元気になれー」

 ……もうとっくに十七時を過ぎてるからおやつというより夕飯みたいなもんだが、おやつのつもりで作ってたし、ここは一貫してみた。

「みさとから、声届く前に、起きておる。なんの薫りか、このまろやかさは。」

「チーズケーキだよ。じいさんにも作ったことないから若紫としちゃ初めて食べることになるかもな」

 てか起きてたのかよ。それでもこっちに来なかったなんて……、若紫にしては珍しいこともあるもんだ。

「ちぃづけぃーき?」

 ガトーショコラのときといい、別におれの発音が悪いわけではないはずだ……。

「そうそう、チーズケーキ。発熱にはこれがいいんだと。お前、この前のガトーショコラはけっこう気に入ってただろ?だからそれに寄せてみたんだよ」


 「ふむふむ……。」と普段よりあからさまに声音が穏やかな若紫をて、さすがにいつもとは違うことを察した。

「みさとやい、しかし何故なにゆえ、これは黒い?」

「あー、黒胡麻入れたんだよ。なんか、今日の若紫はちょっとイライラしてたみたいだったからな、ストレス緩和には胡麻が効くんだと」

 参考にした料理本を雑に捲りながら、若紫の問いに応答する。

 これには驚いたのか、若紫は一瞬目を見開くと、いつもと同じく、詠うように言葉を紡ぐ。

「なにからなにまで、気の回る。……されど深い恩を感じてなお、わちしはみさとに、返せるものなし。合わせる顔も、そろそろ尽きる。」

 「なぁ……、みさと。」と言葉を連ね、彼女は問いを投げるのだった。


「"若紫わちし"はお前、"三木みさと"という一人の男に、恋焦がれても、良いのかえ?」


「……────えっ」


 チーズケーキに焦げ目がつくより前からあった、今日の若紫の挙動と発言の違和感に、おれはここで真正面から向き合うこととなった────。



 ────第参首 -さんの句- ニ續ク。

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