独り善がりな赤の世界

南沢甲

独り善がりな赤の世界

平凡。私の一番嫌いな言葉だ。同時に、私を表すのに一番似合う言葉でもある。

 思えば私は今まで自分を平凡だと思いもしなかった。個性の尊重を重視する教育を受けてきた私にとって、平凡なんて言葉は最も縁のない言葉だと思い込んでいたのだ。そんな私に現実を見せたのは、美術科高校一年生の時だった。

 最初の授業はデッサンだった。忘れるわけがない。受験で何度もやってきたことだったから、誰よりも上手い自信があった。意気揚々と目の前の胸像を睨みながら鉛筆を手に取った。が、隣の女生徒のスケッチブックを覗き込んだ時、それがすべて私の自意識過剰な思い込みであることを突き付けられた。

 結局私はその時間、デッサンを完成させることができなかった。未完成のデッサンを見て先生は、そんなに考えすぎなくていいのよ、と私に語り掛けた。それ以来、一年以上絵を描き続けたが、自分を満足させるような絵を描き上げることは一度もなかった。


 非凡は謙遜が大好きだ。

彼らは平凡な顔をして平凡な自分に近づいてくる。そして隠し持っていた才能という名のナイフで私を深く突き刺してくるのだ。

「上手だね」

「私あなたの絵、好きかも」

 はいはい、と私は軽くあしらった。君たちの方が何倍も人を惹きつける絵を描いているというのに。私はその度に苛立ちを覚えた。彼らの才能を目の前にすると自分のすべてが無に思えてきた。


 私は赤が大好きだった。燃えるようなその色はすべてを焼き尽くすかのように私の心も突き動かした。

赤い絵が描きたい。この世の人間全員が身の毛がよだつような赤い絵を。幼少期からそう考えるようになり、色鉛筆も水彩絵の具も白よりも先に赤が無くなった。もっとたくさんの色を使いましょうと小学校の時の先生には言われたが、先生は何もわかっていないと、聞くふりをしながら私は次に描く絵のことを考えていた。中学の時も同じだった。しかし美術部の顧問は違った。自分を信じて描き続けなさいと彼女は言った。今思えばあれもただおだてていただけだったのだろう。彼女の言葉があって今の私がある。思い上がり蝋で作った羽で飛ぼうとした愚か者のように、私は今、地へと落ちている。

 

 落ちた先は、底が見えない。


井の中の蛙、大海を知る。そして波に呑まれ、無残にも死んでいくのだ。


 夕日が教室中を赤く染める。丸めて折りたたまれたチューブから小指の爪のサイズにも満たない赤い絵の具が、ぷつんと情けない音を立ててパレットに落ちた。

「赤い絵の具がなくなっているじゃないか。君の描きたい絵に不可欠なものだろう?」声が聞こえる。

 イマジナリーフレンド、もう一人の自分。勘違いしないでほしいのが私は精神病患者でも解離性同一障害でもない。自らを俯瞰で見るための意識の現れのようなものだ。暴走しそうな自分に冷静さを取り戻させてくれる大切な友人である。

「貧困学生に無理を言わないでくれよ。生きるので必死なんだ」

「ふん。普段から死にたそうな顔してる癖に」

 友人は鼻で笑った。

「こんな駄作に無駄遣いはできないよ」

友人はやれやれと肩を竦め私に聞いた。

「……君は本当に自虐が好きだな。君は少なからずここに来るまでに努力もしたし、才能があるからここにいるはずだ。なぜそこまで自分を卑下するんだい?」

「そう考えていて何度も地に落とされてきたからさ。突き落とされるぐらいなら最初から泥水に沈んでいたいからね」

「泥水?」

「ああ。自らの平凡をその身に沁み渡らせるんだ。苦く苦しいがこれが本来自分のあるべき姿だと自覚できる。それにな」

「何かいいことでもあるのか?」

「……一滴の砂糖水がとても甘く感じるのさ」


 私が泥水に足を踏み入れたのは去年の文化祭のときだった。廊下や教室に授業中に描いた絵が飾られ、私の描いた絵も廊下の片隅にひっそりと佇んでいた。全く目立ちもしない、両隣の絵を引き立てるためだけに描かれたかのような絵を目の前に、私は暴れ出したくなった。

この絵と共に爆発四散してしまいたい! 今すぐに自分の存在を消し去って、私という人間が生まれ落ちたという事実さえなかったことに! なぜ私は非凡な奴らと同じ舞台の上に立てているのだ! これは私に与えられた罰だ! 今まで傲慢に生きてきた自分に対する神からの無期懲役の終身刑だ!

ただただ私は憤慨した。自分の不才に。


理想の赤には程遠いそれはあまりにも非力で、私はすぐにその場から立ち去った。



 平凡な人間の感情を揺さぶるような作品。それこそが本当に素晴らしいと言える絵だ。私はそう信じている。


 

だからこそ、彼の絵を初めて見たときは言い様もない衝撃に打ちのめされたのだ。

繊細で豪快なタッチで、それでもどこか遊び心のあるその絵画はまるで人々の魂を吸い取らんとしてそこに存在しているようだった。

目に飛び込んだのは一面の蒼。深海のような、晴天の空のような蒼は深く、拒絶するようで私を優しく包み込んだ。


それは入学し半年ほどたったころ、教室に飾られていた。他人の作品を見ることを避け続けていた私だったが、その絵だけは私をその場に縛り付けた。私はそこから一歩も動けなかった。

「天城さん、……天城さん!」

 誰かが私の名前を呼ぶのに気が付いた。振り返ると一人の少女。見たことがある。確か何度か授業を共にしたことがあったはずだ。

「……だよね?」

 彼女は不安そうに私に尋ねた。肯定の意で私は頷く。

「ずっとここで突っ立ってるから……大丈夫?」

 その言葉で私はこの絵の前で何分も立ち尽くしていたことに気が付いた。

「大丈夫。ありがとう」

 彼女はほっとした顔をして、そして私の見ていた絵を覗き込んだ。

「わあ、すごい。これって一年の人の絵?」

「そうなのか?」

「ほら。名前と学年が書いてある。文化祭に出すのかな? 

まだ早いけど」

 彼女の示した方には展示用の紙が貼られている。それを見

て、私は思わず笑ってしまった。

「もしかして授業よく一緒になるあの人? ほら、男子って

少ないし」

そこに書かれていた名前は一目で男性だとわかるもので、

授業の時に何度かこんなタッチの絵を見た覚えはある。確かにこんな名前の生徒だった。

「彼、絵上手だもんね。よく残って絵描いてるし。一年でこんな作品描けるのもわかる気がする」

 彼女は感心したようにうんうんと何度も頷きながら言った。

「彼には才能があるんだな。絵の才能も、努力の才能も」

 するとじっと絵を見つめていた彼女の目が私を捕らえた。

「あなたもあると思うけど? 私、天城さんの絵、好きだよ」

 チッ、と小さな破裂音が私の口元から漏れた。彼女は聞こ

えていなかったようだが。

「私は嘘は嫌いなんだ」

「まさか今のが嘘だとでも思ったの?」

 彼女は声を尖らせた。

「すまないね」

 捨て台詞を吐き私は数分ぶりに足を動かした。

「ねえ」

 彼女の声色はまた柔らかくなった。

「一緒に帰らない?」

「いい」

 私は考える間もなく答えた。ドアの先で彼女は出ていく私を見つめていた。

 

 

それから授業で初めて彼の姿をはっきりと見た。どこにでもいるような、言ってしまえば無個性な、線の細い少年だった。

 彼があの青を創り出していると思うと私は身震いした。飄々とした彼が類稀な才能を持っていることに恐怖を覚えていたのだ。


彼の存在は私をより一層深く泥水に沈めさせ、同時に憧憬という名の砂糖水を私の沈む泥水に注いだのだ。劣等感にも似たそれは、なぜだが甘い味がした。


 私が一生描かないような、描けないような絵を彼はいともたやすく描き上げてしまう。

「いともたやすく? 君は何を言っているんだ」

「私にはそう見えるんだよ。筆が彼の脳をコピーするように動いているのさ」

「君には心底呆れるよ。ついに魔法にまで夢を見出したか」

 友人はため息をつき私に詰め寄った。

「君の筆が君の脳をコピーしないのは、君の努力不足じゃないのか?」

 友達なんていらない。私の友人は、私の本当に望む言葉を言ってくれる。



 授業がある度に私は彼の姿を目で追った。呆けているのか、遠いところを見ているかと思えば、筆を持てばその目つきは瞬く間に鋭く変わった。彼は、不思議な人だった。


 ある日、私は彼の絵を描くところに遭遇した。使用する教室が偶然にも同じだったのだ。

 その時私は目を疑った。ツンときつい油の匂いのする彼のキャンバスは、赤く色が塗られていた。

「……どういうことだ」

 私が心の中でつぶやくと、友人はすかさず答えた。

「まさか彼も赤い絵を描くとはね。いや、今までも描いていたのかもしれない。君がただ青い絵しか興味がなく、それしか目に入っていなかった可能性も捨てきれない」

「そんなことはない。彼の絵は全部見たさ。……見れるものはな」

「その行動力を君はほかに使えんのか」

「それから何か学べるかもしれんだろ!」

「見て君は本当に学んで、成長したか? まずは自分の実力をつけるためにも……」

「どうかしました?」

 友人の声に気を取られ話題の中心である彼が振り返ったことに気が付かなかった。目が合う。彼の深藍の瞳が私を捕らえ離さない。思えば、彼の瞳を見たのはこれが初めてだ。

「あ、ああ。いや、私、君の絵が好きで……」

「そう? ありがとう」

 向き直り作業を進めようとした彼がぴたりと動きを止める。

「そういえば何度か授業とかで一緒になったことあったよね。学祭でも出展してなかったっけ」

 思わず息をのんだ。

「知っているの」

「知ってるというか、ほら、番号も近いし」

 私は身震いして言葉を詰まらせた。

 非凡にも平凡の姿が見えていた! 嗚呼、この気持ちに名はあるのだろうか。砂糖水が途切れることなく泥水の中に注ぎ込まれていく。困った。このままではこの泥水が意味を成さなくなってしまう。

「そうか、君に覚えて貰えていたなんて嬉しいよ」

「そんな大層なことでもないでしょ。生徒数もそこまで多い学校じゃないし」

「それでも嬉しいものは嬉しいんだよ」

 声が震えてしまうのをこらえて私はそう言った。

「そうなのか……」

 心底不思議そうに彼は首を傾げた。ああ、非凡のこんなところが嫌いなんだ。でも、今はそんなことを考える余裕さえなかった。

 彼の描いていた絵を見る。そこにあったのは、私の理想の赤の世界。

「いつもの色じゃない」

 私が口の中でつぶやいたはずの声は、彼の鼓膜にまで届いてしまったらしい。

「ん? ああ、やっぱり青が好きだけど、たまには別も色の絵も描いてみようかなって」

 軽く彼は答えた。

「私、赤い絵を描くのも見るのも好きだから。君の赤い絵が見れてちょっと嬉しいんだ」

 すると彼は振り返った。

「君の絵、そういえばちゃんと見たことなかったな。今も描いてるの?」

「うん。まあ、大したもんじゃないけど。まだ未完成だし」

 へえ、と言った彼は続けてここにあるの? と尋ねた。

「ここで描いてるからね。……見る?」

 自分でもなぜそんなことを言ったかわからない。きっと思考が砂糖水に浸されてドロドロに溶けてしまっていたのだろう。

 彼は無言で腰を上げた。

「これ」

 彼はじっと指で差されたキャンバスを見つめていた。風の音がはっきり聞こえるほど教室の中は静まり返っている。

 ふっ、と彼は小さく息を吐くと、姿勢を正した。

「ふうん。いいんじゃない?」

 彼の感情のない声が、私を泥水の底まで沈めこんだ。


 

日は落ち、外はすっかり暗くなっていた。ボロボロになった汚らしい赤のキャンバスが、私の傍らに落ちている。

 新しい白いキャンバスは、一つの色も与えられることなく何時間もイーゼルの上に置かれている。

 その前で私は筆も持たずたたずんでいた。

なんとか息を整え、キャンバスに一歩近づく。震える手で、手探りでつかんだのは描くための筆ではなく、カッターナイフだった。こんなにも私は絵を描くことを許されていないのか。

「このっ……!」

 私は思わずナイフをキャンバスに向かって振り下ろした。しかし振り下ろされたその手は布地の既でのところで止まった。錆びた光は鈍く光る。そして同時に左掌に痛みを感じた。強く手を握り締めていたらしく、爪が掌に食い込んで傷を作っている。

 動脈血だろうか。私の中を流れる血がこんなにも綺麗だとは思っていなかった。


 赤い絵が描きたい。この世の人間全員が身の毛がよだつような赤い絵を。

 彼の描く赤が頭にこびりつき離れない。私が一生掛けて描きたかった、一生描けないであろう赤がそこにはあった。一体何の絵の具を、どんな筆を使っているんだ。彼はどう生きてきた。あの赤色を彼は自らの頭の中で生み出したというのか。赤は燃え上がり私を包み込むと同時に焼き殺してしまった。まるで鮮血のような赤――。


 あるじゃないか。絵の具なら、ここに。


 

さあ、最高傑作を作ろう! 嗚呼、これが衝動というものか! 今まで感じたことのない感情だ!  あれこそ平凡な人間の感情を揺さぶるような作品、彼はやはり天才だった! 意識が朦朧としてくる。だが手は止まらない。目の前のキャンパスは鮮やかな緋色に染められていく。きっと私は悦びで笑っているだろう。しあわせだ。ああ。ふかい泥水のなかでも、しあわせになれる方法はあったんだ。


 薄れていく意識の中、絵は完成した。狂気をはらんだ鮮やかな赤は私の理想の赤そのもので、私は静かに目を閉じた。友人は何も言わない。初めて私の満足する絵が描けたんだ。今、この瞬間ぐらい幸せに浸らせてくれ。


 筆の落ちた軽い音を合図に、私は意識を手放した。

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