空言日和

南沢甲

空言日和

ラジオから流れる断続的な歌謡曲と、たわしがカップを擦る音が喫茶店に響く。丁度最後の皿を洗い終わったところで、戸口の鈴がなった。唸るように扉が開き、光が差し込む。もう三時になったかと、古屋茂吉は顔を上げた。

「いらっしゃい。ひよこさん」

 草色の着物を着た女性、朝日和子は、紫陽花模様の日傘を立て、上着を腕に掛けた。軽く布地を払って会釈を返す。

「いらっしゃいましたよ。古屋さん」

端正な笑みを向けると、窓に隣する席に歩を進める。ここまでがいつものお決まりである。古屋は水切りかごに皿を並べ終わると、頭髪を整えながら、彼女の席へ向かう。

朝日は両ひざに乗せた手提げから、原稿用紙と万年筆を並び終えた頃だった。足音に気付いて体を向ける。その表情には微かな笑みが浮かんでいた。不穏な予感がしながらも、古屋は品書きを差し出した。

「ご注文はお決まりですか」

 朝日は品書きを一瞥すると、静かに閉じて机に置いた。

「古屋さん。『いつもの』、頂けますか?」

「あえっ?」

思いがけぬ言葉に変な返事をしてしまった。ずれた丸眼鏡を慌てて直す。『いつもの』、とは行きつけの店で使うといわれている、あの決め台詞のことだろう。

「……承りました」

 古屋は何故か上機嫌な朝日を尻目に品書きを受け取り、厨房へ向かった。彼女がこの喫茶店に通い始めてからすでに一月が過ぎている。都度に同じ注文をする訳ではないが、おおよその目星はついていた。

 一番手前の麻袋を取り出し、豆をミルに流し込む。幾度と繰り返した調理であるが、金具を回す腕が震える。自分の淹れた珈琲が彼女の体の一部となり、一生寄り添う事となるのだから。俺は今ひよこさんを淹れているのだ。

 水滴をふき取り、予め沸かしておいた白湯を丹念に注ぐ。慣れれば五分程度で出来上がる。

「お待たせしました。中挽きの珈琲です」

 朝日は書き物をする手を止めて、口元を覆った。

「あら、まだ古屋さんは頭抱えている頃合いだと思っていましたけれど」

 原稿を濡らさない様に、なるべく遠い所にカップを置いた。

「常連さんの趣味は、なるべく把握していますから。ご所望の品はこちらでしたか?」

「ふふ、天晴な商人魂ですね。まあ私はただ古屋さんに何を頂けるのか興味が湧いただけですから、答えはありません。ありがたく頂きます」

 白い指が持ち手に触れる。口元に寄せられるカップが今に触れようという所で、ぴたりと止まった。

「すみません、お砂糖を頂けますか?」

「もう入っています。麦芽糖を三杯」

「お見事」

 カップが唇に当てられ、嵩を減らした容器は静かに皿へ戻された。原稿に目を落とすと、今日も古屋には到底知りえない様な文字が隊列を成している。古屋は安堵して、袖の紙を握った。朝日との会話のきっかけを計画した用紙である。椅子を引き取り、机の隣に座った。

「あっ……あの、ひよこさん。その原稿用紙、いつも何を書いていらっしゃるんですか?」

「ああ、これはですね。お仕事ですよ」

 左手に持った筆を見つめながら言う。少し原稿を見た後、思いついたように朝日は辺りを見渡し、机の角で目が留まった。なぞる様に木目に触れる。

「この机は、随分年季が入っていますね」

「え、そう……ですね。父から譲り受けた物ですから、もう三十年位は使っています。それが、どうかしたんですか?」

 朝日は古屋に視線を移した。古屋は手汗を前掛けで拭う。

「ふふ、その位だと思いました。実は、その頃に作られた家具には面白い話がありまして、貴方は生を受ける前のお話ですからご存じないでしょうけれど、その頃にこの辺りで大きな地震があったのです」

 人差し指を立てて高々と話す。彼女は得意げな時に天井を指すクセがある。古屋は黙って傾聴する。

「その為大きな図書館が崩れてしまいました。立て直すにもお金がかかりますから、町中から徴収しようと試みましたが、誰も彼も自分の事で手一杯、相手にされませんでした」

 一呼吸おいて、指をカップに移す。

「それどころか、壊れた家具を取り換えるために図書館の壁の板を盗みだす輩が後を絶たず、ついに一片もなくなってしまったそうです。だからこの町中の家具の木目を合わせれば、立派な図書館が建つのだとか」

 カップを持ち上げて、また珈琲を啜った。顔を向けて、古屋に微笑む。朝日の意図が掴めず呆然とした。

「それは、ええと……はい。面白い話ですけど。なぜ、今その話を……? あ、もしかして、建築業を営んでいらっしゃるとか」

 額の脂汗を手巾で拭き取る。もし、ひよこさんに話を逸らされているのだとしたら、俺は多分立ち直れない。こんなことになるなら先んじて遺書を書いておけば良かった。

「ふ、ふふっ、そうですか。古屋さんには、私が大工さんに見えますか」

 朝日は目じりにしわを寄せた。古屋は慌てて頭を下げる。

「い、いえその……話の意図がわからなかったものですから」

 恐々というと、古屋とは対照的に、朝日はおもむろにカップに手を添えた。上目に映るその手が微かに揺れる。

「うふふ、意図なんてありませんよ。だって、今のお話は全部作り話ですもの」

「はあ、……ってえェッ!?」

 音を立てて椅子が倒れる。机上の珈琲が倒れないかと目を走らせると、元から手に取っていた。彼女には俺の反応も織り込み済みである。

「なッ、はっ、ど、どういうことですか?」

「地震や図書館は、全部私の嘘だという事です」

 ひよこさんは変わらぬ調子で語る。

「では何故……そのような嘘をつく必要が」

 逆光にくすんだ彼女は、慈しむ様な眼差しを原稿に向けた後、俺を見た。人差し指を天井に向ける。

「私のお仕事は嘘をつく事だからです。その様なお話が本当にあれば、面白いじゃありませんか」

「私は物書きをしています」

 古屋は堂々たる彼女を見て、何故か至極合点がいった。何かを作る人とは、こういう人なのだと思った。椅子を直して身を乗り出す。

「へぇ……。それは素敵ですね。職を持つ女性というだけで稀なのに、物書きだなんて!」古屋は踵を浮かせて、息を荒くした。朝日は虚ろ気に窓外の時計塔を見る。

「いえ、私は褒められるほど大層な人間ではありません」

 つられて時計塔を見ると、ひよこさんと随分話し込んでいる。もしやこれは、時間を憂慮しているという暗示ではないだろうか? 女性は気遣いの出来る男が好き。古屋は引き際を見定めた。

「では、そろそろ戻ります。お仕事頑張ってください。ひよこさん」

「お心遣いありがとうございます。古屋さん」

 朝日に別れを告げて、盆を下げる。寂とした店内には足音だけが響いていた。朝日から遠ざかるごとに緩やかになる鼓動に、古屋は一つの確信を得た。

俺は彼女に恋をしている。

              *

 その日の月は寝入るには明るすぎた。歩路の鈴虫も祭りの様にうるさくて、何より自分の心臓の音が煩わしい。古屋はは跳ねるように飛び起きて、枕元の眼鏡を手繰り、書机へ向かう。

今日の昼間からひよこさんの事が頭から離れない。このままではいずれ明け暮れ彼女を焦がれ続け、仕事も手に付かなくなってしまう。そうなれば店を回すことはできなくなるので、彼女に会えなくなる。それではあまりに悲劇的だ。

だから古屋は、恋文を書くことを決意した。

電球を灯し、帳簿入れから小指程の鉛筆を取り出す。とりあえずと頭語を書いた時点で、自分の不用意さに気が付いた。朝日の達筆を見た事も相まって、摘まんで書いた文字は、とても他人に見せる程度ではない。しかし古屋は朝日と違い高価な文房具は持ち合わせていなかった。

「……ええい! 筆でいい!」

小筆を取り出し、一心不乱に硯を研ぐ。下手に考えれば臆してしまう。ただ夜の高揚感に身を預け、思いを書き綴るのだ。

古屋は焦りに襲われていた。朝日の左手に指輪はない。しかし冷静に考えて、彼女の器量を持ってして見合いに事欠くことなどあるはずがない。

明日も同じ日が来るとは限らないのだ。機は今だ! 命を燃やし、その炭で愛を綴ってやろう!

 古屋は書いた。富士の木々を尽くし切らんとばかりに紙を費やし、墨汁と見分けがつかぬ程右手は黒ずんだ。空が白むころには、ついに十枚に及ぶ恋文が完成していた。

            *

古屋は窓外の時計塔を眺めながら、本日四杯目になる目覚ましの珈琲をちびちびと飲んでいた。短針は今に三時にかかろうとしている。ふいに、とつりと水滴が窓を叩いた。それは歪に線を引いて木縁を濡らす。空を覗くと厚い雨雲が流れてきている。次第に領土を広める灰色は、やがて町に五月雨を送った。僥倖であると古屋は思った。

もともと女給の喫茶店に客を取られ、客足の疲れた店である。数少ない常連も、雨に降られた日などは滅多に来ない。

雨に電波を遮られ、さざめくように歌うラジオの電源を落とす。汚さぬようにとしまっておいた戸棚から、自立するほどに肥えた封筒を取り出した。

雨足にせかされて、床掃除でもと構えたところで、澄んだ鈴の音が心臓を刺した。

 古屋は慌てて封筒を後ろ手に隠す。

「い、いらっしゃい。ひよこさん」

朝日は傘を立てかけて、会釈をする。湿気で髪先がうねっていた。心臓に押し出されるように、冷や汗が頬を伝う。

「いらっしゃいました。古屋さん」

 そう言うと、彼女は珈琲を注文して、いつもの窓際の席に座った。雨音に耳を傾けるように、静かに執筆道具を並べていく。どうやら気づかれてはいないらしい。古屋は封筒を袖に隠し、豆を淹れた。

 数分後厨房にて、盆にのせた珈琲は『神奈川沖浪裏』のごとく荒れていた。それは正に古屋の心を映す鏡である。胸に手をやり、多少凪いだ所で、朝日の席へと向かった。

 卓上に皿を置くと、朝日の筆が止まる。

「……あの、ひよこさん。お仕事の邪魔をしてすみません。今、少しお時間を頂いても構いませんか?」

 朝日は左手を万年筆から離し、膝に置いた。

「はい。どのようなご用件ですか?」

「……じ、実は俺、思い人が出来まして」

 床の木目を見ながら、汗でずれた眼鏡を直す。ひよこさんは目を見開いて、叩く様に手を合わせた。

「まあっ! おめでとうございます」

 顔を上げてひよこさんと目を合わせると、雨があがったかと不意に錯覚する程、心の落ち着きを感じた。

「それで……その、昨晩恋文を認めまして」袖から封筒を取り出し、広げて手渡す。「叶うなら、ひよこ先生に添削をしていただければ。と思っています」

 朝日は息を飲み、受け取った紙束をパラパラとめくる。その頬がすこし紅潮していた。

「これはこれは、お見事ですね。一晩でこれ程の大作を書きあげるとは。……ですが、思いの丈を伝える上で、文の出来は関係がない様に思います。このままお渡ししてもよろしいのではないですか?」

 机で紙束をそろえる。古屋は盆を強く握った。

「で、ではッ、是非感想だけでも」思わず上擦った声を上げる。朝日は目を開き、口角を上げた。

「ふふっ、よろしい! では掛けたまえ古屋クン」

 古屋は安堵して、向かいの席に座る。朝日は自分の原稿を脇に寄せ、指を立てた。

「ふふ、ですが気を付けてください。暮夜の文には魔物が宿りますから」

 言葉の意味を捕え切れず、古屋は首をかしげたが、構わず朝日は恋文を読み始めた。決して達筆とは呼べない筆時であるが、読める程度であったことは幸いだ。

 古屋が腿をさすりながら、湯気から朝日の反応を覗き見ると、真剣に書いた恋文を、朝日は楽しげに読んでいる。

古屋は手を止め、口端を結んだ。予想外の反応だが、しかし概ね計画通りであった。この恋文は九頁目までは思いを綴り、最後に宛先を明かすという、不意うちを狙った構成になっている。何故なら女性はそういう類が好きだから。手応えを得て、古屋は眼鏡をかけ直した。


 不意に朝日の表情が陰ったのは、丁度半分ほど読み進めた頃である。

 読む速度は明確に遅くなり、口元の笑みも消えていた。気に障る事を書いてしまったなら、直ぐにでも謝ろうかと口を開いたが、ただ音もなく噤んだ。朝日のしわが寄る程紙を強く握る手に、邪魔立てを許さぬ気迫を感じたからだ。

 頁をめくるごとに足先の冷えを感じ、対照的に止めどなくあふれる汗が、古屋の髪を濡らした。

 雨滴が紙を叩く音がして、古屋は顔を上げた。藍色に滲む文字を見て、ひよこさんの目が濡れている事に気が付いた。

「すッ、すみません! あのっ――――」

 古屋は慌てて立ち上がり謝辞の言葉を探したが、弁明の機会もなく、朝日は背を向け戸口へ駆ける。伸ばした右手が空を掴んだ。ノブを離したひよこさんと、戸の隙間で目が合った。およそ彼女に似つかわしくない蝋燭の様な細い声、しかし確かに聞き取れた。

「ごめんなさい」

 彼女は傘もささずに、雨の中へ消えていった。


 残された古屋は、薄暗い店内で静かに腰を落とした。冷めきった珈琲を見て、後悔の念が胃に湧き出る。乱雑に並ぶ紙束を破いて、目を瞑った。

どれ程時間がたっただろうか、何度か客が来た気がするが、頭を抱える古屋を見ては、障らぬようにと皆戸を閉めた。思い立って目を開けると、時刻は日付をまたいでいた。

眼鏡をかけて辺りを見渡すと、卓上の万年筆が月明かりを反射した。汚さぬように、ひよこさんの忘れ物を、一つ一つ片付ける。これらを受け取りに来た時、俺は彼女になんと言えばいいのだろう。

椅子から立ち上がり、彼女がよく着ている若草色の上着を手に取った。畳むために広げると、裏地に縫われた名前が目に入った。驚いて手から上着を落としそうになり、慌てて指先に力を込める。

『佐倉和子』

俺は彼女の事を何も知らなかったのだ。

             *

 悲し気なひよこさんの表情を見るのは、今日で二度目になる。彼女が初めてこの店に来た時も、物憂げな表情で街頭を眺めていた。その時は仕事道具を持たずに、凛とした菊人形の様にそこに座っていた。

一月前、『佐倉』名義で二人分の席を予約していた彼女は、店を開けた直後に入店し、昼の繁盛が過ぎた後にも、ただひたすらに街頭を眺めていた。俺は食器を片付け終わると、机を拭きながら彼女に問いた。

「誰かを待っているんですか? もう随分とそうしていますけど」彼女は窓から目を離し、頭を下げた。

「すみません。ご迷惑ですよね」

 彼女は荷物を抱えて立ち上がろうとする。無礼な話だが、俺はその動作で初めて、彼女が精巧な人形では無いのだと理解した。

「いっ、いえいえ! この店の椅子が埋まる事など滅多にありませんから。どうぞ、お気になさらず」

 俺は慌てて制止する。彼女はまた頭を下げた。

「もう少しだけ、お言葉に甘えさせて頂きます」

 彼女が座り直したことを確認して、俺は厨房に戻り、読みかけていた本を開く。しばらく経ち、今に最後まで読み終えるというところで、間が悪くラジオが六時を知らせた。本にしおりを挟んで、彼女の席へ向かうと、昼過ぎと寸分たがわぬ姿勢で斜陽に押された時計塔の影を眺めていた。その所在無げな背がひどく印象に残っている。

「あの、そろそろ店仕舞いになります。ええと……佐倉様」

 彼女は緩やかに振り向いた。夕陽に染まる頬が艶めかしい。

「すみません、長く居座ってしまって」彼女は手提げを持って立ち上がった。財布を取り出し、勘定を数える。「……因みに、佐倉というのは予約を入れた友人の名前で、私は朝日と申します」そう言って丁度の代金を支払った。

「あっ、すみません。はやとちりをしてしまって」

 俺が勘定を受け取ると、彼女は微笑んで店を後にした。

その日からひよこさんは毎日この店に来るようになった。

            *

 古屋は夜通し朝日に思いを巡らせていた。踵を揺らして、破かれた紙切れを見る。幸い明日は日曜日で、考える時間は充分にあった。

 頭を抱えて思案にふけっていると、気が付けば月が沈んでいた。紙切れをくずかごに掃いて、顔を洗いに洗面台に立つと、自分の醜さに笑えて来た。

 深いくまのできた目は赤く腫れあがり、伸びっぱなしの髭の上には不格好な顔が乗っている。古屋は冷水で顔を洗って、身なりを整えた。ひよこさんはもう来ないかもしれない。しかしもし彼女が来た時に、罪悪感を覚えるような事は避けたかったからだ。

 眼鏡を洗い視界が幾分か開けると、少し気持ちに余裕を感じた。古屋は朝日の忘れ物を一つにまとめると、厨房へ歩を進め、一晩放置されていた珈琲を流し捨てる。ラジオの電源を入れて、休日の仕事である在庫の整理を始めた。

 棚を目録に通りに並び替え、最後の袋を測り終わった頃には、通りの人通りも増えていた。品の補充をするために手帳を手提げに入れ、市場に向かう。古屋の手が戸に掛かるのと、外側から戸を叩かれたのはほとんど同時だった。

 思わず腕が固まり、一歩後退る。戸を見直して唾を呑んだ。相手に追加の動きはない。古屋は息を吐いて、手提げを固く握った。意を決して戸を開ける。

「……ひよこさん」

そこには朝日が立っていた。化粧で誤魔化してはいるがその面相には泣いた様な跡が微かに残っている。朝日は手提げから封筒を差し出した。

「昨日は訳も語らずいきなり飛び出してしまい、すみませんでした。こちらはその代金です」

頭を下げる朝日に、古屋は忙しく手を振った。

「そんなっ、口もつけていないのに頂けませんよ」

 尚も朝日は動かない。古屋は指を組んで膝を曲げた。

「…………あ、あのそれよりも、ひよこさんのお名前について、お伺いしたい事があるんですけど」

 朝日は体を強張らせて、古屋を見た。封筒をしまうと、自分の影でも見るように視線を下げる。

「では、お店の中でお話します」


鈴の音が鳴り終わると、外の喧騒は膜を張ったような雑音に変わった。

古屋が気まずさから、飲み物を問うと、朝日は静かに首を横に振った。そうして朝日の向かい、窓際の席へと座る。他人行儀な朝日を見て、彼女と会うのは今日が最後だろうという予感が古屋を刺した。

古屋は手を握りしめて、本題を切り出した。

「……あの、ひよこさんの苗字は……佐倉というんですか? たしか以前は、朝日だって仰っていましたけど」

 朝日は目をそらして、固く結んでいた口をほどく。

「朝日という名は私の旧姓でして、今は夫の姓が実名です」

 やはり出戻りではなかったのか。予想していたことだが、朝日の言葉を聞いて、密かに期待していた自分に気が付いた。

「それではどうして……俺にうそをついたんですか?」

 朝日は緩やかに窓外を見た。その焦点はどこにも合っていない様に思えた。しかし意外に、窓に映る朝日はとても穏やかな表情をしていた。

「……この町では、誰も私を知らないんです。夫だって、互いが趣味も知らずに結婚したきり、仕事一筋で顔を合わせる時間もありません」

「私、自分の名前が気に入っていたんです。朝日和子でアサヒヨコ……って、けれど親元を離れて、知人もいない土地で、その上なんだか大切なお友達までいなくなってしまった様で…………私は、きっと、寂しかったんです」

「……ふふっ、おかしいですよね」朝日はそういって昨日の荷物を手に取ると、古屋に微笑んで立ち上がった。それは生け花の様に綺麗で、どこか虚しさを含んでいた。

 古屋は朝日に手を伸ばす。今度はその手を離さなかった。

「貴方はそうやって笑う人じゃない」

 朝日は背を向けたまま足を止めた。

「俺は、貴方の事を知っています。貴方の好きな飲み物も、笑う時に目尻にしわができる事も、それに、得意げな時に人差し指を立てる事だって! それと、あと、猫舌だから匙で冷ましてから飲む事だって知ってます!! ええとつまりその……だから」朝日が振り返る。古屋と目線がつながった。

「――だからまた、いらしてください。ひよこさん」

 古屋は手を離した。涙でぼやけた視界に、光に照らされた朝日が鮮明に映った。

「是非にまたいらっしゃいます。古屋さん」

 そう言って朝日は笑った。

             *

「じゃあこの紅茶とゆで卵! それと何か頼む? キャラメル? じゃあそれも一つ、あっやっぱり二つお願いしまーす!」 

古屋は若い女がまくしたてる注文を慌てて書き込んだ。絶え間なく掛けられる催促の声に、朝から店内を走り回っていた。

つい先週発売された、巷で話題騒然のとある小説に登場する喫茶店を一目見ようと、古今東西から客が押し寄せているのだ。結果満席になっている店の外にまで長蛇の列ができている。

「うぁッ! 豆が底を尽きた! 茶葉は、卵は!?」

 しかしその対応ができるかは別の話である。

あの日から二年間、ひよこさんは一度も顔を出してはくれなかった。しかしこうも人気になると様子を見に来てくれるかもしれない。

しかし休日にその小説を買ってみると、なんと作者名は『朝日和子』であった! 本という物は作者の自己表現であるから、それに共感したお客さんが募るという事は、つまりひよこさんが来てくれたようなものじゃないか!

 中を覗くと相も変わらず難しい言葉が並んでいたが、古屋は最初の頁に指をかけた。

さて、彼女はどんな嘘をついてくれるのか。

今日は空言日和である。

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