2031辛亥騒動

山田沙夜

第1話 古本屋 儘心堂

 名古屋市中区大須にある古本屋、「儘心堂じんしんどう」は、第二次世界大戦後間もなく建てられた長屋の生き残りで、「うなぎの寝床」といわれる奥へ深い縦長の家屋だ。

 儘心堂の外観は震度一でも崩れそうな古家だ。だが見た目より頑丈なのだろう。

 儘心堂周辺の家屋や店舗も意識的に古さを残している。新築や改築でも「古い家」をテーマにしているような造りになっている。なので儘心堂の古さは目立っていない。

 儘心堂の店主はまぎれもない老人だ。見たところ、九十歳近いのではないかと思う。


 間口が狭く奥行きのある儘心堂には、屋根裏部屋のような二階がある。窮屈そうな二階に、猫しか出入りできないような窓がある。

 一階が古本屋。店の奥にガラス戸がある。ガラス戸の向こう側に、風呂と台所と三畳ほどの居間が見えるが、猫を見たことはない。

 二階が寝室のようだが、それはわたしの勝手な想像だ。

 入り口は三枚のガラス戸で、入ってすぐは幅一メートルほどの三和土になっている。

 上がり端は腰かけるのにいいちょうどいい五〇センチほどの高さがある。腰かけるにはいいが、「よっこらしょ」と言いながら上がることになりそうだ。

 左側に六畳、四畳半、八畳と部屋が並ぶ。右側は奥まで三和土が続いている。


 儘心堂は奥へ行くほど本が古くなっていく。

 最深部ともいえるガラス戸の手前にある八畳間には、無造作に和本が積まれている。

 三〇〇年、四〇〇年を生き延びてきた和本もあり、痛みのひどいものがあれば、大切にされながら時代を経てきたものもある。それぞれが来し方を語っているようだ。

 その古い本の中に、わたしは享保年間ものと思われる「鈴鹿本草図」を見つけた。木版ではない。ただ一点、この一冊だけの手描き本だ。

 長い時間をかけて観察し特徴をつかんだ薬草の姿を、さらさらと短時間で描きあげたかのようだ。

 店主は、三重県菰野渓谷深くにあったという医草寺の僧侶の手によるものだという。

 僧侶が寺仕事の合間に野山を歩き、傍に見つける薬草を眺め、見つめ、描いたのだろう。薬草の周囲に、効能、干し方、望ましい乾燥具合、煎じ方などが書きつけてある。わたしには判読不能な文字があって、自分の勉強不足がひたすら情けなくなる。

 ひと眼で欲しいと思った。文巻ふまきをあつらえ、桐箱をしつらえ、手元に置き、晴れた休日に眺める。そんな至福を想像し、わくわくする。

「鈴鹿本草図」は、わたしの稼ぎを考えると、とても高価なものだ。

 それでも頑張ってお金をためて自分の所有物にできたら……と思わないでもないが、三〇〇年もの歴史を生きのびた本を、虫害、湿気、経年劣化から護り続けるのは荷が重すぎる。

 わたしはひっそりため息をつき、うなだれ、諦めた。


「鈴鹿本草図」見たさに儘心堂へ通うわたしを、店主は優しい無視で受けいれてくれる。

 店主の優しさに甘えたわたしは、どうどうと春画なども観ていた。


「龍拾体」という木版画の蛇腹折本を見つけたときは、思わず手を引っこめた。さあ観てごらん、とでも言うかのようにふいに現れたような気がしたのだ。

 龍は書き手の心情が込められているようで、わたしは畏れを感じる。

 この龍はどうだろう。観たい。

 龍拾体の厚みは一センチほど。

 書物だらけの八畳間には、龍拾体を広げて観られるだけの場所はない。蛇腹のひと山ひと山を慎重に繰りながら、戻りながら観ていく。

 昇り龍、降り龍、雲に絡む昇り龍と降り龍、とぐろを巻く龍、水平に進む龍は右向きと左向き、身体をうねらせる龍は左に進み、身体を緩く螺旋に巻く龍は右へ行く。そして頭が尾を追うように円になる龍。

「すてき……」

「だろ」

 店主が顔だけわたしに向けた言った。

 わたしは微笑んで大きく頷いた。


 この龍たちは愛嬌がある。この龍たちは人が好きだ。龍であることを楽しんでいる。


 わたしの脳裏に住み着いている龍は、高みをめざし、高みのものを追う厳しさに研ぎ澄まされていた。

 初めて観たときから、わたしはその龍と、それを描いた同級生に打ちのめされたのだ。

 せめてあこがれを抱かせるような龍だったらよかったのに。


 大須観音は桜の名所というわけではない。

 わたしは大須観音から東に徒歩三十分ほどの鶴舞公園で、学生時代の仲間たちとお花見をした。

 花見会を解散して、一人で散歩がてら大須観音南側界隈にある儘心堂まで歩いた。歩くのは苦にならない。

 大須へ向かう道々に咲く桜も満開で、わずかな風に花びらが舞っている。ほどよい曇り空の、歩くのにちょうどいい昼下がりだった。


 儘心堂入口の三枚のガラス戸には、経年劣化に黄ばんだタックのない白いカーテンが降りていた。

 休業の札はなく、告知の張り紙もない。

 試しに「こんにちは」と言いながらガラス戸を引いてみる。動かない。

 桟を軽くノックして、「こんにちは」と呼びかてみる。

 シン……としていて、カーテンの向こうに人気を感じられなかった。

 イヤな予感と不安で心臓あたりが冷たくふるえた。

「あ……あんた、トモちゃんの店によう来とるコだね。え……と、ツルちゃんだったかな」

「こんにちは……あの……」

 儘心堂でよく油を売っていたおじさんが声をかけてくれた。

 わたしの名まえは天野織羽おりは。それを聞いた儘心堂の店主は、「織羽と書くんか。そりゃ、鶴の恩返しだ」と言って、わたしをツルちゃんと呼びはじめた。

「トモちゃんなあ、入院してまったワ。心筋梗塞らしいて」

 里村精二と名乗ったおじさん、セイさんは、儘心堂の店主長谷友明さん、トモちゃんとは同い年で、八二歳だという。

「儘心堂のご主人、そんなに若かったんですか……」

「八二で若いちゅうんか。トモちゃんのこと、いくつだ思っとったんだ」

 わたしは苦笑いするしかなかった。

「まぁ、しょうないわ。トモちゃん、痩せとって、皺くちゃだったもんで、歳よりも年寄りに見えとったでかんわ」

 八二歳のセイさんは七十代に見える。ちょうどトモちゃんを病院に見舞った帰りだと言う。

 セイさんは、「わしは……トモちゃんは戻ってこれんと思っとる」と深くて長いため息をついた。「歳とって、痩せとったらかんて……」

「お見舞いに行きたいです。どちらの病院ですか?」

「あかんて。やめときゃあ。トモちゃんな、あんたのこと気に入っとたんだに。ほんだで今日も、もし店にツルちゃんが来とっても見舞いに来させたらかん、よけいな心配させたらかん、って言っとったでな。大丈夫だワ。すぐ退院して戻ってくるに」

 セイさんは五秒前と真逆の見解をのべたのだった。

 わたしは頷きながら「はい」と言うしかなかった。


 あちこちの藤棚の藤が咲きはじめたころ、儘心堂へ行ってみた。

 儘心堂のガラス戸にはやはりカーテンが降りている。

 ガラスにパウチした張り紙が猫模様のマスキングテープで止めてあった。


「長い間お世話になりました。

 懇意にしていただきありがとうございました。

 体調不良が続いており、閉店いたします。

 ありがとうございました。 儘心堂 長谷友明」


 わたしは凍りついた。ご主人は重篤なのかもしれない。セイさんに容態を訊ねてみようにも、セイさんの自宅も連絡先も知らなかった。

 ためしに儘心堂へ電話してみる。

 ガラス戸の向こうで昭和時代の黒電話が鳴っている。

 いつも三コール以内にトモさんの声が聞けたが、今日はトモさんを呼ぶ着信音が聞こえるだけだ。着信音を十回数えて、電話を切った。

 もう二度と会えないのだろうか。


『ツルちゃんのお金が貯まるまで鈴鹿本草図は取り置いといたるで。おれが生きとるうちに金を貯めやあよ』


 トモさんが元気になりますように。わたしはトモさんの笑顔を思い浮かべて必死に祈った。

 トモさん……ほんとはわたし、鈴鹿本草図を買うことができても、ちゃんと保存できないと思うんです。虫、湿気、火、経年劣化……それらから鈴鹿本草図を護りぬくことに自信はありません。現状維持さえできそうもない若輩者なんです。なので、自分のものにできないと思っているんです。


 そしてわたしは「鈴鹿本草図」の行く末が心配になった。


 鈴鹿本草図以外にも、儘心堂の奥には世に知られず眠っている古い本や巻物がたくさんあった。

 なんとかしなければ。

 ゆっくりと深呼吸を繰りかえし、自分をなだめて落ち着かせた。

 直属の上司谷垣裕一郎所長に連絡する。

 わたしの意に反して、両手が小刻みに震えて、足がガクガクしていた。

 頭の中は、鈴鹿本草図が虫に食い荒らされてボロボロになっていく妄想ばかりになっていった。


 わたしの職場は南舟なんしゅう記念博物館の収蔵物保全管理課だ。

 谷垣所長の反応は早く、迅速な行動と広い人脈のなせるわざで、トモさんの家族に連絡をとり、トモさんの了解を得て、儘心堂の書物、古い文献、美術品は南舟記念博物館収蔵庫に安座させることができた。その他古本一切は無事しかるべき所へ引きとられていった。

 わたしはトモさんが生きていて、しかも判断力が健在だったことに安心した。

 セイさんも「大丈夫だわ。すぐ退院して戻ってくるに」と言ったのだから。   

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