全て失ったのだとしても

 この世の中、沢山の人が生きているが、日本で「幸せ」に暮らしている人は少ないなと感じている。少なくとも、Twitterにいる人の大多数は「幸せ」ではないと感じる。

 私もその「幸せとは感じられない人たち」の一人だと思っているが、不幸の度合いを比べても意味はない。というか、人生長いからそんなことに熱量を注ぐくらいなら楽しいことしかしたくない。

 一度でいいから今までの記憶を全てリセットして生きてみたいな、と思っている。幸せな記憶だけで満たして、痛みを感じたことさえない人間になれたらな、とも思う。私には傷が多すぎるし、理解者も一人を除いて殆どいない。沢山のモノに囲まれていても寂しいのは変わらないし、思い通りに行かないことへの憤りともどかしさも変わらない。

 何故だか記憶喪失を救いだとは感じられない人たちがいる。壊れてどこまでも堕ちていけることを救いとは感じられない人もいる。無理矢理光差す方向に引っ張り上げることを救いという人もいる。それが嫌だった。

 相方曰く「発狂でさえ救い、はパワーワード」だと言う。いや、私の感想やねんソレ。パワーワードでも何でもないねん。寧ろYouTuberみたいに「ソレってあなたの感想ですよね」って言って欲しかった。

 「死は救いか?」とは度々論じられているテーマだと感じるが、私からしてみれば魂は不滅で、死んでも尚苦しんでいる人はいるということくらいしかわからない。コレが正しいのかすら実は分かっていない。

 人生は世界が進んでいくにつれて永くなっていったから、今は「大人も遊ぶ」時代になった。一昔前ならいい歳したオッさんがアイマスをするなんて考えられなかっただろう。私がこっそりすみっコぐらしの映画を見に行っても何も言わないし、母がポケモンをやっていても何も言われない。そういう意味ではいい時代になったと感じる。

 結局のところ、マイナスに振り切れていようが笑えていて温もりを感じられたら、それが一番の幸せなのかもしれない。私は生まれて23年経って漸く甘やかしてくれる人を見つけられたが、それまではお世辞にもいい人生とはいえなかったように思う。まだまだ望むものを全て手に入れた訳ではないが、以前と比べたらかなり幸せになれた。

 世界の全てが自分を中心に回っているわけではない、自分中心に回しているだけなのだ。きっと私もまた天庭の住人なのだろう。そう思うだけで楽になれる。

 傲慢というのは枷だと思う。そのプライドのせいで幸せになれないなら、そんなモン壊してしまえばいいのにと思う。

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