追いつく時間は……

(新年早々こっぴどく叱られたのでテン下げでしたが、相方に秋葉原へ連れてって貰ったので無事治りました。お騒がせして申し訳ありません)



 この頃、日本では沢山のモノが高くなっている。ぼったくりだけならまだしも、概念的なモノの基準まで高くなっているのだ。「当たり前」や「普通」の基準でさえ、今追いつくことは容易ではなく、私のような者は人一倍苦しみ抜いて漸く追いつける、といった具合に。

 母から見た「当たり前」は、私のソレとは大きくズレていて、私は理解するのも一苦労だった。そもそも、私は年齢を経るにつれて新しい世界を知るようになったこともあり(バイトも含めて。というかコレが一番デカい。働かなければ知ることが出来なかったから)、「普通」という概念が一体何なのか次第に分からなくなっていった(同時に自分の長所と短所を知ることが出来るようになったのも大きいかもしれない)。

 母が言う「普通」「当たり前」は私にとっては非常に不利なもので(そもそも私自身、得意なことが少ないというのもあるが)、何故ここまで「普通」「当たり前」に拘るのか分からない。元から変人な私から見たら、「もう少し楽しく生きればいいのに」「感情出せばいいのに」とも思う(逆にあそこまで我慢出来る理由も知りたい)。

 高いレベルを求めて一体どうするつもりなのだろうか。私に対して「苦しめ」とは言わないで欲しい(厳密には「普通の苦しみを味わえ」だが、意味は大体同じ)。嫌いなことまでしなければいけない人生なら、生きる意味はない(好きなことで苦しむ分にはまだいいが)。

 耐えることが苦手で敏感な人間(私がモノに当たる理由。当たるモノはちゃんと選んでいる)というのは世の中少ないもので、そういう人達が楽しく暮らせるようなシステムは存在しない(そもそもシステムにそんなことを求めるのも野暮ではあるが)。お陰で自由に出来ず(母がいうには「自由過ぎる」)、家にも居場所がなかった(家出をした理由)。

 そもそも、興味がないものは一年経って一つ身につけばいい方で、それを一年で十個覚えろというのはプレッシャーをかけているに等しい。子どもというのは自分の思い通りには生きてくれないもので、愛情に応えてくれる、育ててくれた分返してくれる、というのは「求めるモノが一致した時に限って」発動する条件であるといえる。子どもを個人として見做せば、確かに危ないことはあるが、それ以上に対等に接することが出来るのではないだろうか。今はまだバイトの身だが、仕事を得られたら……。

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