パズルの樹海(何故人は謎解きを求めるのか)

 時たま、ふらっとアプリをダウンロードしたり無料ゲームのサイトを訪れてデジタルなパズルゲームを楽しむことがある。解くのに時間を忘れてしまうし、それだけ楽しいのだ(この場合、ストーリーは関係無くてパズルだけが目的になる)。しかし、パズルを解いていてふと思ったが、何故人は頭を使うことが好きなのだろうか。私もそうだが、謎解きが好きな人というのは一定数いるのだ。推理小説の考察にしろ、パズルゲームのアプリにしろ謎解きが楽しいという気持ちは分かる。ただ、何故娯楽の為だけに頭を使うのか。それが未だに分からない。

 かくいう私は、謎だらけの物語ばかりを書いている。それも、ノーヒントで解けたら凄いと思われるもの(大抵作者が提示した答えと、読者が提示した答えは合わないことが多い為。補完やヒントがないと分からなかった、というケースがほとんど)であり、読者の中には「次はどんな謎が来るんだろう」と身構えている人もいた。ただ、合わない人はとことん合わないことも判明している(分かりやすい物語を好む人ほど合わないことは私自身も熟知しているし、考察が好きな人に向けて書いている面があるので、仕方ないのだが)。

 私が物語の中に謎を入れ始めた理由は、誰かに考察して欲しいという気持ちがあったから。周りからは「分かりやすい話を作れ」と言われても、この気持ちは一切揺るがない。ついでに、ニコ動で以前聴いた曲に憧れを持ったのも理由である。物語の中に沢山の謎を散りばめているが、解は数学の如く一つだけ。キャラクターの元ネタも一緒で、たくさんの要素を細かく組み合わせた上で描いているので、元ネタが一切分からないという人も多い(一つでも正解すれば健闘した部類に入ってしまう。私としては気に食わない結果だが)。分かりやすくするつもりはないが、考察の為のヒントは与える場合がある。というのが私の方針だ。

 昨今では分かりやすい話が多くを占めていると聞く。どうもこれは教科書が読めない子どもが増えたこととも関係があるようだった。私自身、この事実を嘆かわしいと思う。謎が解けなくなったら、私の作品は結果としてつまらなくなるからだ。あらゆるものが機械化され、AIが台頭するのはいいことではあるのだが、結構な頻度で機械に頼っているせいか考える機会も減っているように感じる。何より、行動に移すということも少なくなっているので、結果として頭を使うこともなくなってくるのだ。

 それでも私は謎だらけの作品を書こうと思っている。私の作品は秘密箱と同じだから。言いたいことは全て箱の中に仕舞ってあるのだ。

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