論外なご馳走〜日本にとっての豪華とそのロマン〜
私達日本人がご馳走と聞いて思い浮かべるのは一体なんだろう。高級な珍味だろうか。それとも、見たこともない或いは滅多に食べられない食べ物だろうか。どちらにも当てはまるものもあるにはあるのだろうが、私がそれを食べたことは人生でまだ一度しかない。
私にとってのご馳走は、器に美しく盛られた大トロである。以前、母方の祖母の家で振舞われたあの刺身達はとても美味しく、腹に空きスペースさえ有れば幾らでもイケると思った程だった。脂と赤身のコントラストが舌でハーモニーを奏で、そこに醤油を少しだけ加えると口の中でこの上なくハッピーな気分が味わえる。触感のバランスが良く、肉が柔らかいのも一因だろう。この時ばかりは、この言葉を口にせずにはいられなかった。
「こんなに美味しいお刺身が食べられるなんて私は幸せ者だな」
が、この認識は別視点から見ると間違っていたことが判明するのだった。
というのも、ネットサーフィンを何気なくしていたある日のこと。とあるウェブページにはこんなことが書かれていたのだ。
「魚の生食は食中毒のリスクがあることもあり、危険だとされています。それ故、海外では刺身が野蛮な料理だと見做されるのです」
これには、私自身ちょっと待てよと言いたくなってしまった。刺身が、日本人ならば誰だろうとノリノリで食べる卵かけご飯と同じレベルのゲテモノだとされているのだ。日本では生食が当たり前(焼いても食べられるが、以前フライパンで温めようとしたら母から止められたことがある)の刺身が、海外(主にアメリカやヨーロッパ)では受け入れられないなんて、とこの時は思った。
古の昔から四方を海に囲まれている(といっても内陸の県自体はちゃんとあるが)日本において、魚の生食は様々なファクターが重なり(といっても流石に海の近く限定だろうが)、当たり前レベルで浸透していた。家畜となる動物がいなかったのは言わずもがな。海水からは豊富な塩が取れ(その為、塩が特産品となっている地域では塩自体が年貢という扱いになっていた)、米からは酢(酒粕からも作れる)が作れるというのもあり、殺菌についてはパーフェクトな条件が整っていた。しばらく後の時代(戦国時代)にたまり醤油が登場。江戸時代になると本格的に醤油が作られ始め、魚の生臭さを抑えることができるようになった。そして現代に至る。外国人の大半はこの歴史を知らないだろう。とても勿体ないと思った。
それどころか、フランスの料理学校であっても刺身の作り方は教えないというのだ。その為か、刺身の作り方やらなんやらを知ったとある料理研究家はかなり驚いていた。まあ、あちらでは逆にステーキやらなんやらの肉料理が発達してきたのもあり、そちらの方が豪華だと言われているので仕方がないのだろうが。けれども、二〇一三年(私自身は進撃の巨人が放送された年だと覚えている)十二月に和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたことで、和食自体は世界中でこれまで以上に注目されるようになった。これのおかげで恐らくは、刺身を愛好する人も増えていることだろう。
もしも、アメリカ人が事前知識なしで刺身を食べたら最初こそ嫌がることは容易に想像できる。それでもその味に感動したら、刺身が好きになるのだろうか。私はアメリカ人ではないので分からないが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます