「バカ」という概念はどこから来たのか

 口が悪いのか、それとも相手を見下しているのか、はたまた思考を停止しているのかは分からないが、(キレた時や相手への悪口などで)「バカ」と気安く口にする者がいる。ただ、何をもってその言葉を口に出来るのかは分からない。というより、明確に線引き出来るほどこの言葉は具体性を伴っていない。

 そもそも、「バカ」という言葉自体はある種の記号であるといえるのだが、その根拠は一体何なのか。それは相手のことを見ていないことにある。人間は誰しも目に見えない、もしくは知覚出来ない部分を持っている。世界の見え方だって一人ひとり違うし、感覚も一人ひとり違うので「普通」という枠で括れるものではない。その中で目立った部分しか見えていないから、その人を「バカ」だと見做せてしまうのだ。例え、その人が会ったことのない人であっても。今はネット全盛の時代であるから、顔が見えない状態でも「バカ」と漏らせるようになってしまった。私はとても悲しい。

 このエッセイを書いている私自身は「バカ」と何度も言われてきた。悪口、見下し、その他様々な意味で言われたが、一番多いのは叱られた時だろうか。だからこそ、「バカ」の意味を足りない頭で精一杯考えたのだ。堂々巡りの末にたどり着いた結論としては、明確な基準などなく「バカ」と言う側は気に入らないからそう言っているということ。例えば、テストなどの学校の勉強では赤点ばかりなのに、好きなことなら簡単に覚えられてしまう人。僅かな言葉や絵などから想像して物語を書く人。(記憶の中から引っ張り出せる人もいる)飽きっぽいが、記憶力が高いので正確かつ緻密な絵を描ける人。世の中には素晴らしい才能を持つ人がいるのに、何故「バカ」の一言で片付けられるのか分からない。

 ところで、ひと昔前は「おバカタレント」というものが流行っていた。日本における「バカ」という言葉は、ある意味個人に付与されるブービー賞のようなものでもあるのだろうか。最下位とはいえ、れっきとした賞だから本人は誇っていいだろう。同時に劣等感も刷り込まれるだろうが。こうして見ると、「おバカ」も一つの個性として捉えられている(ように見える)。それだけ日本の社会が「おバカ」に対して寛容になってきたのだろう。尤も、ただのおバカではいつかは飽きられてしまう。何かしらの魅力を持つ者にこそ、人は寄って来るのだから。そう考えると、真に「バカ」な人というのは何処にでもいて、実は何処にもいないのではないか。それとも、意識が高い人の悪癖から生まれた概念なのか。明確な基準のない言葉は難しい。

 人を平等に扱う、もしくはヒトが社会を構築しなければ「バカ」という言葉は存在しなかった筈。結局のところ、「バカ」とは社会があり、格差があるから存在する概念なのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る