春 運命の出会い
一話 奉職
<一>
前髪は無造作に伸ばしたままで、後ろ髪を高くひとつに結う。それをぐるぐるとねじり上げ、ひとつに纏めて葛巾(かっきん)を被せる。付与された上衣に胴巻(ベルト)をつけ、身分を示す宝珠(ほうじゅ)を下げて横刀を差す。
銅鏡を覗くと、初々しい男児の姿が映っている。
「こんなもんかな」
そう呟き、部屋を出た。
一年間通った医学所(医学校)は禁苑(きんえん)の南東にある、麒麟殿(きりんでん)の中にあった。
ここは十(とお)の国の学問の中心地で、様々な教育機関が集結している。貴族の子弟が通う国学(こくがく)や太学(たいがく)、また算学(さんがく)などの専門職の育成課程、官吏向けの講義など、ほぼ全てがこの場で実施されている。
この国の知識は全てこの地で醸成されている、と言っても過言ではない。
そこで勉学に励むことが出来るのは、限られた家に与えられた特権のひとつだった。
剣の師匠である子舜に頼み込み、子家の名で推薦状を貰い、ここに来ることができた。
あとは、自分の努力次第。寝る間を惜しんで猛勉強したお陰で、どうにか及第できた。一年の汗と涙の末、掴んだ医工(いこう)の職。今日はその、初出仕の日だ。
―やっと、一歩目だ…。
少し高鳴る胸に手を当てて、子釉は朱雀門(すざくもん)を仰ぎ見た。
十の国は天の御子である皇帝を頂く、巨大帝国。
その都は大陸の中原、北に白河(はくが)という大河が流れ、緑濃い山々に囲まれた肥沃な大地が広がる平原にある。
四方を城壁が囲み、碁盤の目のように整然と街路が張り巡らされた巨大な街。この要塞都市(都城)は百万人ともいわれる民を抱え、大陸にその名を轟かせていた。
その都の北側の高台に、日に照らされ白く輝く巨大な建造物がある。高い城壁に囲まれたこの国の心臓部、宮城と皇城だ。北側半面を占める宮城(きゅうじょう)は皇帝の住まう宮殿。その手前、南半面には官公庁が軒を連ねる皇城(こうじょう)がある。
この国の政は皇帝を頂点(トップ)とした中央集権体制で、皇帝の下に三省六部と呼ばれる省庁が置かれ、広大な国土を統治していた。
皇帝の詔(みことのり)を以って政令を発布する中書省(ちゅうしょしょう)、それを審議する門下省(もんかしょう)。そしてもう一つが尚書省(しょうしょしょう)で、これら三省が中心となり国政を司る。
尚書省は政令の最高実務機関でその配下に吏(り)、戸(こ)、兵(ひょう)、礼(れい)、刑(けい)、工(こう)という部が職掌ごとに設けられ、尚書六部と呼ばれた。更にその下位に付随する九寺五監(きゅうじごげん)と言われる役所のひとつ、太常寺(たいじょうじ)が子釉の配属先だ。
太常寺は皇城の一番南、朱雀門を入ったすぐ右手の区画にある。ここは祭祀、教育の実務を担う部門である。そのなかの一つ、太医署(たいいしょ)は皇城内最大の医療機関であり、ここの奉医局(ほういきょく)で子釉は今日から奉職する。
医局で子釉を出迎えたのは、父とは既知の人物であり、上長となる徐長だった。
「徐長(じょちょう)様、この度はどうぞ、宜しくお願いいたします」
「―よく来た」
事情を知っているだけあって、その言葉は良し悪しの、どちらの意味も含んでいるように子釉の耳に響いた。
「官舎に入る、と聞いたが」
「はい。皇城に近いですし、楽かなと」
皇城からそう遠くない宣陽坊(せんようぼう)という坊(区画)に、独身者向けの寮施設がある。
鴻臚客館(こうろきゃくかん)という外国使節団を迎え入れる宿泊施設もある坊だった。実家は西市に程近い坊にあるが、出仕と同時に出ることにした。
「家はどうしているのか?」
「三童子達が引き続き、してくれています」
「仕送りするのか」
「はい。薬の処方だけでは幾何にもならないので」
医工は官職ではない。流外官(りゅうがいかん)といって、いわば臨時の雇用者の扱いだが、給金は庶民からすれば恐ろしく高額だった。科挙などの官職採用試験を秀才たちが必死になって受験するのは、流内官(りゅうないかん)と呼ばれる正式な官位を得ることで、一族の未来が一気に明るいものに転じるからだ。
「よかったのか?医工で」
「いいのです、気楽な医工で」
「気楽、とは失敬だな」
すみません、と子釉は苦笑いをする。
「とはいえ、みっちり働いてもらうからな」
「はい。ご指導ご鞭撻のほど、何卒」
そういって頭を下げる子釉の真新しい白い上衣は、眩しい程に新年の陽の光を映していた。
<二>
「…疲れたぁ」
ポロリと漏れた本音に、子釉は思わず肩をゆらした。
誰も聞いていないから、いっか。
そう言い聞かせて、ひとりまた、肩を落とす。
こんな日もある。
何をやっても、上手く行かない。
今日はそんな日だった。
「あ〜」
“新人”という免罪符はいつまで有効なのか?
一年、もしくは一か月、いや、半年か?
官吏の採用は基本、年初一括採用となっている。即戦力採用であれば別だが、まったくの素人を登用するのは通常の仕組みの上では年に一回だ。
父の手伝いとはいえ、子釉はそれなりに実務経験は豊富だった。
それでも、官庁に入って規定通りに動き、官吏の“お作法”を学び、人並みの戦力として頭数に入るには一か月程度では到底無理な気がしていた。
―もうちょっと、出来ると思っていたのになぁ…。
徐々に慣れてきたとはいえ、やはり半月では使い物にはならない。自分の度合(ペース)が出来るまで、もう少しかかりそうだ。
机に積み上げられた書(本)を見て、溜息をついた。
これらを全部覚えるのに、あと何日必要なのだろう。考えただけで背中がずん、と重くなる。
―こうしてても始まらない。行くか。
顔上げると席を立ち、部屋を出た。
気分が乗らない時の対処法を、子釉はちゃんと持っている。
一番は、食べること。
九寺と呼ばれる役所の一つに尚書省の礼部が管轄する光禄寺(こうろくじ)がある。
その中に「膳食」という祭祀時の供物を用意する太官署(たいかんしょ)という部署がある。ここは朝議の参加者に皇帝から振る舞われる「廊下食」と呼ばれる昼餉の調理提供も担っていた。そのおこぼれに下級官吏も与る事が出来る。それが光禄寺の一角にある、官吏用食堂だ。
「こんにちは~」
膳処(食堂)に入ると、良い香りが漂っている。この分だと、今日の羹は鶏との予想。
「おお、坊」
大きな身体で包丁を持つ膳処の厨師(料理人)とは、この数日間で既知の間柄となった。
「今日は何ですか?」
「鶏の羹と野菜があるぞ」
「両方頂きます」
「たくさん食えよ」
はい、と笑顔で返し、渡された椀を両手に持って、席を探す。
膳処の片隅に空席を見つけ座る。残り物とはいえ、朝議に出席するのは五品以上の超高級官僚(エリート)達だ。彼らに振る舞われるのは国内の名品珍品で作られる最高級の食事だ。これを彼らは朝堂の廊下で拝す。その席に参列する事自体が、この国で出世を夢見る者の憧れとなっていた。
―今日も、美味しい…。
ふぅ、と鼻から息を吐く。滋味溢れる羹は、それだけで子釉を幸せにしてくれる。
美味しいは正義だ。幸せな時間に、肩の疲れはどこかに消えていった。
舌鼓を打った後、子釉は太常寺の医局に戻ってきた。
勤務は昼までだったが、覚えきれない仕事を冊子(ノート)にまとめたかった。卓上で巻子を広げて読みながら、自分用の備忘録に書き写す。今日教わったことでも、二刻(四時間)経つと記憶は薄れていた。
―確認しないと、危ないかも。
子釉は手が空いていそうな人を探そうと、当たりを見回した。薬棚を整理している人は多分、医正だろう。医工のひとつ上の階級、かつ流内官で、患者の診察をする職だ。近くに行って声をかけてみる。
「すみません」
「何だね」
「お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何だね」
「湿布の扱いなのですが…」
子釉は記憶に残っている手順を話した。
医正は手を動かしながら、頷いた。
「この季節はそれで大丈夫だ」
「季節で変わるのですか?」
「天気が変われば、対応も変えねばならないだろう」
「確かに…」
「手順は守るべきだが、調整は必要だ。湿布一つとっても、量も濃度も、適量を見極めなければ。相手は人間という生き物なんだから」
「はい…」
「言われたことだけしていても、役には立たん」
「はい…」
「頭でっかちでは最善の処置はできんよ。頭を使いなさい」
「…はい」
痛いところを突かれて、声が小さくなる。
ここ最近はひたすら作業を暗記することだけを考えていて、手順ばかり追っていた。処置そのものの意味まで、意識していなかった。
「新人だったな」
「はい。子釉と申します」
「何かあれば、また聞け」
「ありがとうございます」
礼をして、元の部屋に戻った。
椅子に腰掛け、子釉は天井を仰いだ。
頭を後ろから殴られたような衝撃だった。
ここに来てからというもの、作業の意味を考えずに、ひたすら規定(ルール)を頭に詰め込んでいた。
それでは駄目に決まっている。そんな事、わかっているはずなのに。
自分に足りないものが、これほどあるとは。半ば呆然としながら、背もたれに寄り掛かり、頭を預けた。
「駄目だ…、頭が足りないよ…」
覚えること、考えること、どちらも今の自分には容量超え(キャパオーバー)に思えて、思わず弱音が出る。
「もう一つ頭が欲しい…。いや、手も必要…」
勉強は苦手では無いと思っていたが、実務はそれと比べ物にならない程、頭を使う。そして身体も。
休日まであと二日。子釉は窓から外の景色を眺め、ひとつ大きな息を吐くと、筆を握りなおして再び紙面に向かった。
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