線引き

西丘サキ

第1話

 人の手配は珍しくもないから何とも思わなかったが、まさか産婦人科にも同行するとは思わなかった。「不手際」を知らされ、その処理の一連に関わることになってようやく半年が経つ。とりあえず、彼女が騒ぎ立てることもなく、情報が外に漏れだすこともなくて良かった。女性向けBtoC事業を展開している有名企業社長の火遊びなんて恰好の素材だし、炎上すれば急成長を終えて安定期に入ろうとしているわが社の舵取りの大きな障害になる。

 検診自体はつつがなく終わった。後遺症もないし、母体は何も問題なさそうですね。そんなようなことを医者は言った。問題ない状態でなければ困る。面倒事の処理は慣れてしまったが、いい加減彼女のことばかりに関わっていられない。私はただの秘書で、社長のサポートが仕事だ。

 診察室から用意してもらっていた個室に戻ると、医者ともう少し話したいことがある、と言って社長はまた出て行く。

「すみませんけど、ここで待機していてください」

「かしこまりました。村山さんとこちらでお待ちしております」

 社長は役職で呼ばれることを好まず、近しい人間がいやに畏まった尊称で呼ばれることも好まない。だから彼女のことも、私は「村山さん」と呼ぶ。社長の前でだけ。社長が電話か何かで中座したとき、私は彼女を「村山様」と呼ぶ。その方が、名前やさん付けで呼ぶよりも円滑になると感じたからだ。親しみを持ってもらうための秘密は、馴れ馴れしくすることに限らない。

 よろしくお願いします、と社長は医者のもとに向かった。

 ただただ待つ時間。何もしないでいることは苦ではないし、私と彼女がわざわざ話すこともない。彼女は同僚でもないし、友人や身内でもない。彼女は単なる社長の愛人にすぎず、その意味で殊更に言葉を交わす必要はなかった。彼女は本来であれば結びつくはずのない、外部の人間でしかない。仲良くしてもしょうがないし、仲良くするべきではない。

「あの……」

「いかがしました、村山様」

 最近は慣れてきているようだが、私が「村山様」と呼ぶたびに、彼女は嬉しいような居心地の悪いような顔を見せる。人に見られるような仕事をしているのだから、一回りほど年上の人間に丁寧に扱われることなんてしょっちゅうだろうに、と思う。

 そう思ったところで、子どもの頃読んだケータイ小説を思い出した。青春時代の恋愛話のほかに、ハーレクインの現代日本版みたいなジャンルがあった。それと彼女の状況が近い。ありふれた庶民の女の子が、押しも押されもせぬ成功者の男性に目をかけられ、寵愛を受ける。私の尊称が、ただのラグジュアリーサービスでは感じ取れない、彼女の地位が高まっていることのはっきりとした端的な表現になっているのだろう。今やその夢見心地の世界がゆっくりと醒めつつあるとしても。

「彼、私のことで最近何か話してたりしました?」

「いえ、特に何もおっしゃっていませんね」

 もったいぶることもなく、率直に私は答える。実際に、移動中に車の中で彼女との場をセッティングするように指示する以外、彼女の話題が出ることはなかった。それに何か覚えていたとして、彼女の耳に入れておくように私が判断することはないだろう。

「どんな小さなことでもいいんだけど、何かありませんか?」

「……いえ、やはりとりわけ何か口にしていた、ということはありませんね」

 追いすがるような彼女に、少し考えるふりをして否定した。第一、秘書に愛人のことをいちいち相談する社長がそんなにいるだろうか。少なくとも、わが社の社長は違う。

「そっか……やっぱり最近いろんなことがあって、彼が本当はどう思ってるのか知りたくて、秘書さんなら何かわからないかなって思ったけど……」

「社長の真意はわかりかねますが、こうして経過観察に同行されている以上、村山様を気にかけていらっしゃることは事実でしょう」

 当たり障りのない返答を心がける。正直、気に入っていることはわかるが、どこまで気持ちを込めているのかはわからない。彼女が面倒なことを言い出した時、社長がどんな対応をするのかは読めなかった。

「確かにこうして一緒にいてくれるし、気にしてくれてるけど、なんていうか……ほんとはどうなんだろう、ほんとはもうイヤになってないかなって不安で……」

「村山様のお気持ちはお察ししますが、社長のお気持ちは私にはわかりかねます」

「そうですよね……わかってはいるんだけど……彼との子ども、欲しかったなぁ」

 無理に決まってるでしょ、と思う。数年前にある経営者がそこそこ名の知れた芸能人を妊娠させて騒ぎになっていたことを、彼女は知らないのか。それに、彼女の立ち位置では要らぬ憶測しか呼ばないし、わが社の印象のマイナスになる。

 彼女が次の言葉を待っている風でもなかったし、私も彼女とおしゃべりがしたいわけではないから、2人ともそのまま黙っていた。

「ねえ、秘書さんって、いつも彼と一緒にいますよね」

唐突に彼女が口を開く。どういう意味だろう。

「仕事ですから。社長に同行しながらスケジュールの管理や調整、ちょっとした対応なら私が代わりにやりますし、適当な人がいなければ通訳みたいなこともします」

「へえ、いろいろやってるんですね」

 あなたが喜んだプレゼントやレストラン、シティホテルもだいたい私が手配しましたよ、という言葉は喉に来る前に飲み込んだ。さすがに野暮だし、性格が悪い。

「それじゃあ、彼からそんなにいろいろ任されるようになった秘訣ってなんですか?」

 彼女は話をどこに持っていく気だろう。私としては、それが仕事だから、それができるので雇ってもらったから、としか単に言いようがない。自分の出来ばかり言いたくもないから、周りの引き立てを理由にする。

「ただ上司や前任者から引き継ぎをしっかりしてもらっただけですよ」

「本当に?彼に気に入ってもらうために特にしたこととかないんですか?メイクとか服を彼の好みにするとか、そういうのでもいいんですけど」

 彼女は会社員を何だと思っているのだろう。確かに客観的に見て私も人並みに悪くない容姿かもしれないが、同じように人並みの秘書としての経験がある。容姿や媚だけで採用され評価されていないことは自信を持って言える。それに彼女は確か大学生で、年齢的に少なくとも周りが就活をしているはずだ。それなのにこの言葉。媚を売るだけで済むなら、誰でも希望通りに働けている。

 私は、人知れず妊娠し、人知れず堕胎して何もなかったように過ごさなければならない彼女に少しだけ持っていた同情心が消え去っていくのをはっきり感じた。

「私はあくまで会社員ですので、社長が私のことをどう評価するのかも私の会社員として、部下としての働きが満足できるものかどうかに左右されます」

 あなたとは違う。

「確かに、社長みたいな方がいなければ秘書なんて必要ないでしょうけど、だからといって社長に気に入られることが他より必要とも限りませんよ。会社員としての生き方はそれだけではありませんから」

 社長みたいな人間がいなければ私がいない、ということは本心だった。だからこそ、誰かの名前がなくてもいいように、誰かに頼らなくても存在できるようにしてきたつもりだ。ひとに気に入ってもらうことにつとめ、ひとに引き上げられることでようやく存在できる、なんていうことにならないように。

 ふと、私は自分が保っていた距離感を踏み越えてしまったことを察する。出過ぎたまねをした。表情に出てはいないだろうか。語気に出てはいないだろうか。距離感を、位置づけを、変えてしまってはいないだろうか。そうして私は気づく。私は、それまでの境界線を踏み越えて彼女と同じ括りになってしまうことを恐れていた。

「ふーん、そっか…いろいろあるんだ。違うやり方で彼の気を引けたらと思ったけど、そうすると秘書さんも大変そうですね」

「お心遣いありがとうございます」

 彼女はいつもどおりの受け答えをする。ぱっと見た感じ気分を害した様子もない。私も平静を保つように意識しながら、いつもどおりの受け答えをする。

 そしてまた待つだけの時間が始まる。だが、私はもうただ待つだけではいられなかった。恐れと不安、ゆらめき立った自分自身の感情を抑え処理し、ともすれば仕事に関することを外れ余計な深みにはまり込みそうな思考を統制することに苦心する。加えて彼女の様子が気になって仕方ない。一瞬の表情、一瞬の仕草が、境界を踏み越えて距離感を変えてしまった私への感情がこぼれたものなのではないか。そんな不安に流されないよう、彼女の方を見ないように、彼女に意識を向けないように努めながら自分を落ち着かせていた。

 ようやく、ようやく社長が戻ってきた。時間がかかったことを詫びる社長に、私は普段と同じように対応する。自分の行動と言葉から、自分が平静を取り戻していることを把握し安心する。

 取り立ててやり取りをすることもなく、すぐに出発する運びとなった。診察室を出て、バックヤード側にある職員用エレベーターを使い駐車場へと向かう。運転手はすでにエレベーターホールの出入り口近くまで車を回してきていた。彼女や気を引きたい女性と関わる時に使う、コンパクトな高級外車。後部座席の扉を開け、運転手が社長と、続いて彼女を促す。乗り込む前に社長が、今日はもういいよ、上がってくださいと私に言う。かしこまりました、私は端的に答えた。確かに今日はこれからの予定がなく、執務室に戻る用事もない。もう夕方だし、夜は彼女と2人で過ごすのだろう。様子を察した彼女がお疲れ様です、と明るく言葉をかける。お疲れ様でした、失礼いたします、と答えて私は礼をする。

 全員が車に乗り込んだところで私は車に礼をし、走り出した車が駐車場を出て行くまでそのままでいた。顔を上げ、私は秘書室に勤怠報告を入れる。帰る前に翌日の予定を確認しながら、私は彼女のことを考えていた。


 かたや愛人、かたや秘書。

 単なる括り方の、位置づけや距離感の違いだとしても、私たちに引かれている線はまったく違う。

 だけど、私も受け入れているそれは、誰による線引きだろう。言われなければ意識もしないそれに、私は思い悩むことがあっただろうか。悩むふりではなく、誰かの悩みでもなく、自分へと深々と潜り込む問いとして。

 ふと湧いた思いを消すように、私は考える。

 彼女の手配は、あといつまで指示されるだろうか。

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