(2)

「いや、出迎えできなくてすまない。改めて、よく来てくれたね」


 阿賀那と娘の麻耶葉、夫、そして養父となる統星彦との対面は次の日には叶った。


 統星彦は濡れ羽色の髪を長く垂らし、顎に短い髭を生やした青年である。髭のせいか、実際の歳よりは老けて見えるが、商売上わざとそうしているのだろう。代々の大地主にして高利貸しの生業を継いで、まだ日が浅いのだ。理由はハッキリとしていて、先代――つまり、統星彦の父親――がポックリと逝ってしまったからだという。


 本来であれば阿賀那たちの姑にあたる統星彦の母親も、若くして急死していた。だというのに統星彦の父親は後添を迎えなかったので、彼はずっと一人息子なのであった。周囲が統星彦に早く子を作れとせっつくのは、そういうわけなのである。またしても両の親のように統星彦がポックリと逝ってしまえば、家業はどうなると、周囲の人間はそう言いたいのだ。


 阿賀那からすれば大きなお世話にも映るが、しかし統星彦のもとにいる下働きの面々からすれば、そういった不幸は避けたいのだろう。統星彦の体は、彼のものであるが、彼だけのものでもないと、そういうわけなのである。


 統星彦は商売人らしく物腰柔らかで柔和な人物だった。大地主で高利貸しとくれば、ありがちに業突張りの意地悪な人相を思い浮かべてしまうが、統星彦はどうも良くも悪くも「お坊ちゃん」でもあるようだ。


 一方の娘の麻耶葉は、優しげな目をした養父を前にかちこちに固まってしまっている。阿賀那はそれを見てちょっとおかしくなると同時に、人見知りをする程度には麻耶葉に自我が芽生えているのだと思うと、その様子が妙に愛おしい。


 ぎこちなく頭を下げて名乗りをした麻耶葉を、統星彦は如才なく褒めるので、彼女はすっかり照れてしまっていた。


「娘ともども、どうぞよろしくおねがいいたします」


 改めて三つ指をついて頭を下げれば、統星彦は鷹揚に微笑わらって「気楽に」と告げる。


「私たちは夫婦めおとになったのだから、そんな他人行儀にされてはこちらが悲しい。まだ慣れないことも多いだろうが、そういうときはうちの女中に言いつければいいから」


 阿賀那はまだ年若いどころか、幼顔の女中・テルの顔を思い浮かべる。第二夫人である戯瑠子との遭遇を思い返せば、少々頼りない気はするが、阿賀那よりは屋敷のことに精通しているだろうことは事実だ。少し話してみた感じを見ても、彼女が悪い人間ではないというのはよくわかる。


「ああそれと、よければでいいのだけれど、結樋のところへ顔を出してはくれないだろうか」

「結樋様のところへ?」


 さる高家の姫君だったという第一夫人の結樋の名が、思わぬところで出たので、阿賀那は思わずオウム返しに問うてしまった。


 しかし統星彦はさして気にした風でもなく、口元に微笑みを浮かべたまま泰然とうなずく。


「結樋は臥せっていることも多くてね。なかなか外には出られないのだ。しかし貴女と話せば気晴らしになるだろう。それに妻同士で仲良くして欲しいという、私のわがままな願いでもある」


 最後は少しおどけた様子で統星彦は〆る。


 新妻である阿賀那に、その頼みを断るには荷が重い。統星彦がそれをわからないはずもないだろう。つまりはこれはほとんど命令と同じだった。


 しかしまあ、「お願い」と称しているだけ亭主関白な男よりはマシだろうと阿賀那は自身を慰める。それに統星彦から直々に会って欲しい、仲良くして欲しいと言われたのであれば、第一夫人の結樋も阿賀那を無碍には扱わないだろう。そこまで考えれば、あながち悪い「お願い」であるとも言い切れなかった。


「私でよろしければそれくらいのことはいたします。けれども私に話相手なんて務まるのでしょうか」

「結樋はさる高家の姫君だったが、身分の差は気にかけない、優しいひとだ。そう心配することはない」

「そうでございましたか」

「それと、ここだけの話にして欲しいのだが……」


 統星彦がちらりと麻耶葉に視線をやったので、阿賀那は娘を立たせて外で待っていた女中のテルに世話を頼んだ。すでに優しいテルがお気に入りらしい麻耶葉は、阿賀那が彼女と遊んでおいてと言うと、喜んで駆けて行った。


「結樋は何度も流産を繰り返している。実は、ここのところ体調がすぐれないのも半年前に子が流れてしまったからなのだ。……そういうわけであるから、結樋の前では申し訳ないが子の話はしないで欲しい」


 統星彦の言葉に、阿賀那は少し困ったことになったと思った。


 既に子のある阿賀那が統星彦の家に迎え入れられたのは、彼女ならば主人たる統星彦の子を生せると考えられたからに他ならない。となれば逆説的に統星彦の第一夫人・結樋も、第二夫人の戯瑠子も、彼の子を産むという事業が捗々しくないのであろう。それくらいは教養のない阿賀那にだってわかる。


 であるからして、統星彦の行いはちょっとすれば無神経であろう。子を亡くしたばかりの女のもとへ、子を持つ女――しかも同じ妻を引き合わせようと言うのだから。


 だが、統星彦にはそれをわかっているのか、あるいはわかっていながら、なにかしら別の意図があってそうしようとしているのかまでは、阿賀那にはわからない。


 一度統星彦の顔を見る。黒い瞳には商売人らしい隙のなさが見えて、阿賀那は少しだけ夫に対しいけすかなさを感じた。


 しかし阿賀那に否やを唱える気はない。阿賀那が子連れで嫁ぐことを許してくれた借りもある。娘の麻耶葉の将来を思えば、統星彦の勘気を買うような言動は慎みたかった。


「はいわかりました」


 だから阿賀那は都合のいい女になると決めた。ずっと実家の世話になるわけにもいかなかったし、統星彦の家から追い出されることも避けたい。だから阿賀那個人がイヤだとかなんだとか、わがままを言っている場合ではないのだ。


 しかし問題は第一夫人の結樋である。統星彦は「優しい女」と形容したが、阿賀那はハナからその評価をアテにはしていなかった。男から見た女と、女から見た女が違うことは、往々にしてあることである。夫たる統星彦の前では気のいい態度を取っていても、裏ではどうだかわからない。


 前の嫁ぎ先では散々といじめられた経験のある阿賀那は、半信半疑といった様子を押し隠しながら、結樋の部屋を訪れた。無論、既に女中のテルから第一夫人の結樋付きの女中への交渉は済ませての話だ。


「結樋様付きの侍女のイナさんは、ちょっと気難しいところがありますが、悪い人ではないですよ。あたしも色々とお世話になっていますから……」


 女中のテルはそうは言ったが、その言葉には含みがある。


「イナさんは結樋様が生まれたときからお世話をされているんだそうです。だからここに嫁いで来るときにも一緒に来たんだそうですよ」


 つまりは第一夫人侍女のイナは、結樋の熱烈な庇護者である可能性がある。そんな彼女が結樋の代わりとでも言うべき新たな妻の阿賀那をよく思わないだろうことは、だれにだって想像がつくだろう。阿賀那だって、もちろんそうだ。


 ああ、気が重い。女中のテルに先導されて、結樋の居室へと到着した阿賀那は、重いため息をつきたくて仕方なかった。けれども夫である統星彦から請け負ってしまったのだから、しらんぷりをしてしまうわけにもいかない。それは恐らく結樋の方も同じに違いなかった。


 テルが中に声をかけると、障子がすっと開いた。すぐに畳みに敷いた布団から、上半身だけを起こしている結樋の姿が目に入る。部屋は妙に暗い。今しがた気がついたが、この屋敷はどこもかしこも影が濃く感じられる。じめじめとした暗さが、どこの部屋に行ってもついて回ってくるのだ。


 結樋は美しかった。まさしく姫君と呼ぶにふさわしい、線の細い佳人である。


 しかしその顔は明らかにやつれていたし、肌の色は健康的な色白さというよりも、不健康に青白く見える。統星彦によれば半年は臥せっているらしいので、それは仕方のないことかもしれなかったが、阿賀那はそのあまりの幸薄い容貌に、一瞬だけひるんだ。


「ごめんなさいね。床から出られなくて」

「いえ、仕方のないことです」


 結樋は鈴を転がすような麗しい声をしていたが、蚊の鳴くような、ひどく小さな声しか出せないようだった。


 そんな結樋のそばには、侍女のイナが険しい顔をして控えている。その深く刻まれた皺を見れば、阿賀那の祖母よりも年上かもしれない。


 ああ、やはり望まれない訪問者なのだな、私は。阿賀那はそう思ったのだが、のちのちにそれは的外れであることがわかる。


 結樋は見た目に違わず長いことおしゃべりをするのは、大変な苦労のようだった。そういうわけで自己紹介もそこそこに阿賀那は結樋の居室から辞すことになる。


 けれどもテルの後を行く阿賀那を追って、やはり険しい顔をしたままのイナが阿賀那の背中に声をかけた。日が当たっているはずの廊下はやはり妙に暗くて、影はさらに湿った黒色をしていた。


「阿賀那様、戯瑠子様にはお気をつけなされ」


 老女の侍女・イナはしわがれた声で静かに告げる。その意図が理解できない阿賀那は、単純に第一夫人の結樋と第二夫人の戯瑠子は仲が悪いのかと思った。しかし、イナが言いたいのは、そういうことではなかった。


「戯瑠子様付きの女中どもは旦那様のご厚意に乗っかり、未だ屋敷におりまするが、近づかぬのがよろしいかと」

「それは――」

「だれも阿賀那様には申していないようで」


 結樋の侍女であるイナは、ちらりと阿賀那の背後に視線をやる。そこには女中のテルがいるはずだった。阿賀那がその視線を追ってテルを振り返れば、彼女はまるで戯瑠子と相対したときのように顔を青くしていた。イナはそれを見ても眉ひとつ動かさない。


「戯瑠子様は一年前に亡くなられました。――ですから、屋敷で戯瑠子様を見かけても近づかぬのがよろしいかと」


 淡々と言い放たれたその言葉を、阿賀那が理解するには少し時間が必要だった。

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