母強し ~子連れの新妻第三夫人、奮闘す~
やなぎ怜
(1)
今年で六つになる娘の
ここまで案内してくれた村人は「ではこれまで」と関わり合いにあるのは御免とばかりにそそくさと帰って行った。親切には違いないが、ちょっとちぐはぐなその態度に、娘の麻耶葉は不思議そうな顔をしていた。
「今日からここに住むの?」
年の割には大人びている娘の麻耶葉が、手を引く母にそう問うた。
「そうよ。この屋敷の主さんがあなたのおっとう(父)になるの」
「わあ。どんなひとかしら?」
娘の麻耶葉には父親の記憶はない。阿賀那の腹にいるときに、麻耶葉の父親は遠いところへ逝ってしまった。以来、父なし子としてからかわれたり、白い目で見られることもあった娘のことを思うと、阿賀那は胸がキューッと痛くなった。
幸いにも阿賀那が再嫁した相手――
統星彦にはまだ子はいないという。阿賀那のもとへ、高利貸しで大地主の統星彦との縁談が舞い込んだのは、実はそういった理由があった。阿賀那ならば間違いなく子ができるというお墨つき――つまり、麻耶葉の存在――があるためだった。
統星彦には既にふたりの妻がいる。さる高家の姫君であった第一夫人と、妓女であった第二夫人のふたりだ。しかしどちらもまだ子がいない。だから経産婦でコブつきの阿賀那を第三夫人に迎え、いざというときは麻耶葉を家つき娘として婿を取らせるつもりなのだ。
統星彦の気が変わらなければ、娘の麻耶葉の将来は安泰といえた。だからこそ阿賀那は娘の将来のことも考えて、統星彦との縁談を受けたのである。
不安は、そんな阿賀那と娘の麻耶葉を他の妻たちや、妻たちについている女中らがどう思うかだ。間違いなく、いい気はしないだろう。阿賀那と麻耶葉は彼女らにとっては闖入者に違いない。将来的に阿賀那が統星彦の子を儲けるためにやってきたと聞けば、なおさら。
そしてそんな阿賀那の不安はさっそく的中したのであった。
「あら、なんて小汚い雌犬だこと」
上がり
麻耶葉の草履を脱がす手伝いをしていた阿賀那と、女中のテルは恐ろしく凍りついた声に釣られて、上がり框に立つ女を見た。
その声の主がだれかわかっていたのだろう女中のテルは、青い顔をして土間から女を見上げる。その顔があまりにも青白かったので、阿賀那はテルが今にも倒れてしまうのではないかと恐ろしくなった。
「
女中のテルが口にした名前を聞いて、阿賀那はようやっとこの冷え冷えとした美女の正体を悟った。
統星彦の第二夫人。かつては妓女していたが、妓館に通っていた統星彦に見初められて、第二夫人の座に収まったという。
「テル、そこの犬女の世話を任されたのね。ご愁傷様」
第二夫人である戯瑠子の歯に衣着せぬいいざまに、しかし阿賀那はにっこりと笑ってやった。
「私も戌年、娘も戌年。よくおわかりで」
的外れな返しをしてやれば、戯瑠子の柳眉が歪んだ。ついでに鮮烈な紅が引かれた、赤い唇も。
阿賀那は脇に立つテルが怯えきって、ハラハラとした視線をこちらへ寄越しているのをつぶさに感じながら、また第二夫人の戯瑠子に笑ってやった。
「初めまして、戯瑠子様。私、第三夫人の阿賀那と申します。こちらはひとり娘の麻耶葉。今日からこのお屋敷でお世話になりますので、娘ともどもどうかよろしくおねがいしますね」
そうして深々と頭を下げる。阿賀那の中にそうすることへのためらいのようなものは、なかった。
しばらくすると頭上でチッという品のない舌打ちが聞こえて、気がつけば第二夫人の戯瑠子はいなくなっていた。
あとに残されたのは不思議そうな顔で廊下の奥を覗き込む麻耶葉。第二夫人の戯瑠子が消えても、まだ顔を青くしたままの女中のテル。そして小さくため息を吐き出した阿賀那の三人。
「テルさん、戯瑠子様はもういなくなったわよ」
「……あのう。阿賀那様は……」
「あら、あんなのへいちゃらよ。口で言ってくるだけなら、かわいらしいもんよ」
「いえ、あのう……」
女中のテルが聞きたいのは、そういうことではないようだった。
しかし阿賀那がどういうことかと問う前に、やんちゃざかりの麻耶葉が興奮しきりでいつの間にやら上がり框を越えて、廊下でぴょんぴょんと跳ねている。それを見つけた阿賀那の頭からはテルの印象など吹き飛んで、たちまちのうちに目を三角にして「こらっ」と麻耶葉を叱りつけていた。
「すごいっ、床の下に鳥さんがいるの?」
「ここは鶯張りになっているんです」
「麻耶葉、大人しくしていなさいって言ったじゃないの。ごめんなさいね、テルさん」
「いえ、お嬢様の元気がよろしいのはいいことで……」
「元気が一番だけれど、麻耶葉はよすぎて困るわ」
阿賀那の言葉に困ったような顔で微笑む女中のテルからは、先ほどの怯えきった青白い印象などなかったかのようだ。
廊下の高い梁にはしゃぐ麻耶葉の声が届いている。それを耳ざとく聞きつけて、阿賀那はまた麻耶葉を叱った。けれども麻耶葉はへいちゃらのようで、早く屋敷の中を見たいと駄々をこねる始末だ。
頭の痛そうな顔をする阿賀那とは対照的に、この根っから明るい麻耶葉の様子は女中のテルからすると微笑ましいようである。その証拠とでもいうように、先ほどの第二夫人である戯瑠子を見たときの目からは程遠い顔をしている。
「ところで統星彦様は?」
「旦那様は外出中で……」
「あら、そうなの。それじゃあ顔合わせは明日以降ね。それじゃあ
さる高家の出身だという第一夫人の名を出せば、女中のテルは一瞬だけ困ったように眉根を寄せた。いや、これは泣きそうなところを我慢している顔だ。ころけたときの麻耶葉がそういう顔をするので、阿賀那はすぐにわかった。
しかしテルはすぐに気を取り直した様子で、第一夫人の結樋は臥せっていることが多く、今日も調子が悪いようなのだと申し訳なさそうに告げてきた。
「そうなの。残念だわ。戯瑠子様はあんな様子だし、わざわざこちらから出向いては怒られそうよね?」
「戯瑠子様は……。ええ、はい……。大丈夫だと思います……」
統星彦はいない、第一夫人は病臥して、第二夫人は「ああ」だ。となれば初日だというのに途端にすることがない。
外に出てはあれこれと拾ってくる麻耶葉に渡そうと思っていた、巾着の刺繍の続きでもしようかしら。阿賀那はそんなことを考えつつ、まだ興奮気味の麻耶葉の手を引いて鶯張りの廊下を渡る。
「この先の雲雀の障子の部屋が戯瑠子様のお部屋なんですよ」
「だそうよ、麻耶葉。静かにしましょうね」
「あのこわ~いおばちゃんの部屋? しーっね」
「おばちゃんじゃなくてお姉さんね」
麻耶葉は口元に手を当てて素直に黙り込む。しかし足元は小鳥のさえずりのような音が立つ。
不意に阿賀那は戯瑠子の足音を聞いていないことに気づいた。玄関から自室へと戻ったのなら、この鶯張りの廊下を戯瑠子は通ったはずである。それともどこか別の道を通って部屋に帰ったのだろうか? きっとそうだろう。でなければ女中のテルがわざわざ戯瑠子の部屋の前を通ると教えてくれることもないはずだ。
阿賀那は持ち前の直感で違和を看破したものの、しかし知り合ったばかりである女中のテルに問うのも気が引けた。
きっと己がなにかしら勘違いをしでかしているのだろう。阿賀那はそう思い込むことで違和感を封印した。
雲雀が描かれた障子の手前を通るとき、妙に足元がひんやりとしたが、阿賀那はやはりその違和も無視することにした。
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